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ラヴェル 「クープランの墓」

2013 AUG 27 17:17:23 pm by 東 賢太郎

この曲をピアノで弾きたいというのは僕の人生の夢である。

僕は他人から何かを習うということに生まれつき適性がない。独学というと聞こえはいいが、要は手足は不器用であり、知識は自分なりに腑に落ちないと覚えられないので仕方がない。だから学校の教室で何か習得した記憶があまりない。予習してわかればもう授業は不要だ。授業でわからないから復習という自習が必要だ。なら最初から自習だけでいい。すべては自習して初めて「ああそうか」となるから、人生万事自己流である。野球もゴルフも大事な部分は他人に教わったことはない。先輩にこうやれと命令されても、はい!とやるふりだけだ。そして、問題のピアノも、誰かに習ったことはない。

ピアノに触りだしたきっかけはこうだ。僕のラヴェル好きの起源はこの「クープランの墓」という曲にある。これを弾きたい。高校時代にそういう強い願望がむくむくと湧きおこり、ヤマハで楽譜を購入(けっこう高かった)。妹のピアノでいきなりチャレンジを開始した。バイエルとかチェルニーとか、そんなものはぜんぜん興味がないからやらない。この曲だけ弾ければいいんだからという妙な理屈があった。自習の末、ハノンだけは必要と悟ってさらったが、それだけ。四則計算だけ覚えて微分積分にとりかかるようなものだ。まさしくドン・キホーテである。

「クープランの墓」は1.プレリュード、2.フーガ、3.フォルレーヌ、4.リゴードン、5.メヌエット、6.トッカータの6曲からなる曲集だ。以来40年、恥ずかしながらいまだ6曲のうちひとつも弾けない。当たり前だ。最後の「トッカータ」はラヴェルの書いた最も難しい曲であり、作曲者が自分で弾けなかった。古今東西あまたあるピアノ曲のうち、スタジオでの録音にもかかわらず、この曲ほどミスタッチやら指のもつれやら記憶違い?がきざまれたままのCDが堂々と天下に流通している曲も珍しい。大先生方も、これ滅茶苦茶難しいし録音し直してもたぶんおんなじだからこれでいっちゃってくれる?ということだったかもしれない。

つまり天下の難曲なんだトッカータは。まあ譜面を見ただけで論外だが・・・。メカニックな運指と運動神経を問われる4曲目の「リゴードン」はあきらめる(くやしいなあ・・・・)。2曲目の「フーガ」は指がもつれて無理だし暗譜がむずかしい。そうすると残るのは1曲目の「プレリュード」、3曲目の「フォルレーヌ」、5曲目の「メヌエット」だ。そういうことが発覚した。そしてついにフォルレーヌだけはかなり危ないが一応なんとなくインチキ指使いで暗譜した。7-8年前のことだ。ところがだ。会社をかわったりしてピアノどころでなくなってしばしご無沙汰しているうちに、指がすっかり忘れてしまった。何ということか!これが独学の、つまり僕の人生の悲しさだなあと思った。

だがあきらめる気はない。プレリュードの和声変化は弾いていてめくるめく快感がある。メヌエットは本当にきれいだ。きれい。一応やさしいが装飾音符がくせもので後半が意外に覚えにくい。そしてやっぱりフォルレーヌだ。ワサビのきいた不協和音で始まるが次々と玄妙な和声が現れて自分ではっと息をのむ。ちなみにウチの家族はこの不協和音が嫌いだ。弾くといやがる。僕が下手なんじゃない。そう書いてあるんだ。これはもう感性の問題でラヴェルがだめな人もいるということを知る。一方僕にはラテン文明の香りがむんむんしてくる。フランスかスペインかイタリアかギリシャかは知らない。とにかくラテンであり地中海世界だ。それが僕は大好きであり、だから3回もローマへ行ったりしているし地中海やエーゲ海のクルーズも2回やっている。あのきらきら輝く紺碧の鏡のような海は僕にとってイタリアオペラでもローマ3部作でもなく、ラヴェルそのものである。

ラヴェルを聴くというのは、自分の中に秘められている得体のしれないラテン好き本能を呼び覚ます、いっぱしの儀式である。彼が感性で選んで書き取った音は、どこか奥深いところにジーンと共鳴してくる。理屈はない。日本人がお米を食べるとなぜかおなかが安心する。そんな感じだ。いや、そういう音楽はほかにもあるが、ラヴェルは「お米が立っている」感じがする。無性においしい。僕はフランスでいうとパリ近郊のバルビゾンが大好きだ。事情が許せば余生はあそこで送ったっていいぐらい。あの洗練。片田舎なのにしゃれていて、一幅の名画を切り取ったみたいな垢抜けた街の風情を「いいね」と思う感性と、ラヴェルを「いいね」と思う感性は、僕の中でほぼ合致している。こういうことはベートーベンやブラームスの音楽では考えにくい。

ラヴェルの譜面の楽典分析みたいなことは、やってみたい気はするが生産性はあまりないだろう。彼はドイツ流儀の形式ばった曲よりも自由な構成や和声によって、何らかの詩的なイメージを喚起する曲を作るのに長けていた人だ。それは先人の誰とも似ておらず、後世の誰も模倣ができない独自の個性だった。2度、7度、9度、11度、13度の入り混じった和声はラヴェル的な世界、不協和ではあるが不思議と苦みやテンションが多くはなくて地中海の空気みたいにアルカイックで乾いている世界を象徴する。モネが時々刻々と光彩が無限に変化していく様を描き出した方法を印象派と呼ぶなら、ドビッシーの交響詩「海」も印象派の音楽といえるだろう。しかしラヴェルは「ダフニスとクロエ」でそれが完璧にできる作曲技術のあることを証明はしているが、彼の音楽の本質は印象派的ではないように思う。

ストラヴィンスキーが「スイスの時計職人」と評した彼の絶妙な管弦楽法はなにか具体的なもの、それが景色であれ光彩の変化であれ、そういう具象を描くというよりももっと抽象的な音素材として機能しているだろう。質感とでも呼ぶか、たとえば海の表面が波立っているのか鏡面のようになだらかなのかを感じさせる素材としてだ。ドビッシーの「牧神の午後への前奏曲」はものうげなフルートソロで開始するが、あの旋律はフルートという楽器の音で発想されたものであることは、楽器の機能上鳴りにくいド#でわざと始めていることからもわかる。「海」の第2楽章でもそれを感じる。ドビッシーは自身のピアノ曲を管弦楽に編曲することはなかった。音楽の発想と楽器がおそらく密接に結びついていたからだろう。たとえば2つの前奏曲はまぎれもなくピアノという楽器音で発想された音楽であり、「亜麻色の髪の乙女」を管弦楽でやってみても砂糖菓子みたいなものにしかならない。ピアノでしか表現できないアウラであり、ピアノがスタインウエイかエラールかまでも問うほどにピアノ的に研ぎ澄まされた音楽なのだ。

一方のラヴェルは、自身のピアノ曲の管弦楽編曲は枚挙にいとまがない。彼の脳の中では音楽と音彩(色)は別個のものだったのだろうかとさえ見える。だから、オリジナルは6つのピアノ曲であるクープランの墓から4つを選んで管弦楽に編曲するにあたって彼がオーボエを重用したからといって、それが牧神の午後のように音楽そのものの発想段階で何かを表そうとした結果の楽器選択だったということはたぶんないだろう。たとえば、ラヴェルは同じくオリジナルがピアノ曲である「展覧会の絵」をトランペットで開始した。それは音楽そのものの発想との関係は絶対にない。なぜならムソルグスキーという他人の書いた音楽だからだ。ところがあのプロムナードの曲調にはトランペットがあまりにぴったりであって、ムソルグスキーがそれを望んだに違いないと誰もが疑わないほどだ。ラヴェルの管弦楽パレット使いの天才とは、そういう性質のものだ。

彼のピアノ曲を聴いたり解釈したりする場合に、ピアノにおいて彼がオーボエのような音彩をピアニストに求めていたこと、そういうイメージをもってプレリュードを弾いたら感知できるようなアウラを描きたかったのだということは言えるだろうが、それが絶対のものであるなら彼はクープランの墓を管弦楽曲として作曲していただろう。ここがドビッシーのピアノ曲と本質的に違うし、ピアノの音を絶対として作ったと思われる「夜のガスパール」とも違うのだ。クープランの墓というのは光の当て具合で色調の変化するダイヤモンドのような音楽であり、どこから見ても、何度見ても、その高貴な光に魅了されて幸福感を味わうことのできる逸品なのである。

この曲をピアノで弾きたい・・・・。

僕の人生の夢だ。甲子園で全国制覇して天下無敵だったころ、松坂大輔はこう言った。「夢ですか?ありません。夢というのはかなわないものですから」

それが夢だとわかる程度には、僕のピアノの自習は残念なことに進んでしまった。高嶺の花に惚れてしまった宿命だ。ずっときれいなままでいてもらいましょう。

以下、僕が好きなこの曲の演奏をいくつかご紹介する。

 

イヴォンヌ・ルフェビュール(ピアノ)

solsticefycd018ルフェビュール(1898-1986)はフランスの女流。9歳のときパリ音楽院の神童賞を受賞し、12歳でデビュー。コルトーの弟子でありディヌ・リパッティ、サンソン・フランソワの先生でもある。残っている録音は少ないがフルトヴェングラーの指揮で弾いたモーツァルトの20番の協奏曲が名高い。このクープランの墓、プレリュードの音の粒だった流れるような演奏からしていきなり彼女の世界に引き込まれる。微妙なテンポの揺らぎが各所にありフォルレーヌはトリルを長めにとるなど個性が際立った演奏だが、これぞラヴェルの音だ。高齢での録音故にトッカータで指が回っていないが安全運転に陥らず凛とした姿勢で弾きとおす。ぴんと背筋を伸ばして馬にまたがった貴婦人というイメージだ。なんら威圧的なものはないが、俗人が触れてはいけない高い知性と気品のようなものを感じる。

 

ジャンルイジ・ジェルメッティ / シュットゥガルト放送交響楽団

MI0001041233これぞ地中海のラヴェルである。えっ、ドイツのオーケストラじゃない?いかにも。でも出てくる音はまぎれもないあの青い海だ。ジェルメッティは94年にシュベツィンゲン音楽祭で ロッシーニのスターバト・マーテルを聴いていたく感心した。宗教臭さのないからっとした演奏だった。このクープランの墓の木管を聴いていただきたい。どうやってこんなにラテン感覚の音になるんだろう?音楽は前へ前へ流れる。しなやかな黒豹みたいに。かと思うとリゴードンの中間部は超スローになったりする。そうやってフレーズは歌いまくる。内声部まで歌っている!なんともセクシーなのである。ついでに「道化師の朝の歌」を聴いてみよう。これぞ最高のメリハリだ。なんて小気味よいリズムだろう。けだるいファゴットのソロ。酔っぱらいの千鳥足。もう漫画の一歩手前だがこういうあざとさがツボにはまって悪趣味にならない。ボレロは歌とリズムの饗宴だ。あのトロンボーンまで歌ってしまう。一方で合いの手のキザミまでスタッカート気味にして小太鼓の興奮に加わっていく。実にすばらしい。ジェルメッティさん、どこかイタメシ屋のおやじという風貌だがどうしてどうして、彼はあのチェリビダッケ、スワロフスキーの弟子というサラブレッドなのだ。地中海好きの僕にとって、一生座右に置くこと必須の希少な一枚である。

 

セシル・リカド(ピアノ)

517UUE8XwnL._SL500_AA280_また女流になるが、この演奏も好きだ。ピアノはパステル調の落ち着いた音色でいわば非ラヴェル的だ。湿気を帯びている。それがメヌエットをシューマンのトロイメライみたいに響かせている。リゴードンの中間部がやはりスローになるが、ジェルメッティが空気に湿り気がないのにたいして彼女のはウエットでロマンティックなのだ。ペダルも多い。そんなのはラヴェルでない?そうかもしれない。それでもプレリュードの絶妙なタッチとテンポのゆらぎはやはり陽光にきらめく地中海だ。海はあまり青くなくて僕には灰色がかっている。速めのフォルレーヌには舞曲を感じる。トッカータは破たんもあり得るテンポでリスクをとるが彼女はそういうことにたぶんあまり重きを置いていない。感じたままの勢いで音にしたい。そう聞こえる。だってこの曲好きなんだもん、という風に。好きは通じ合う。フィリピン系のリカドはホルショフスキーに学び、あのルドルフ・ゼルキンが唯一とった弟子だ。

 

タニスラフ・スクロヴァチェフスキ― / ミネソタ交響楽団

MI0000978066VOXからこのコンビの10枚組が出ていたが中古で見つけたら迷わず購入をお薦めする。このクープランの墓はi-tuneで買える。非常に微視的視点から人工的に磨き抜かれた非ラテン的、非地中海的ラヴェルであるが、この魅力には抗しがたい。これだけ見事なオーケストラの音はそう聴けるものではない。時差ボケで眠い中、この完璧なピッチを耳にして脳細胞が立ってしまい、一気に覚醒した。ブーレーズがCBSに残した旧盤(下記)もいいが、これの方がよりその路線で徹底している。これがライブであれば、普段は演奏中にプログラムをめくってごそごそやる人たちも身を固めて聞き入るしかないだろう。トランペットの音色がアメリカ風に安っぽいので浮いてしまうなどご愛嬌もあるが、ラヴェルのスコアがいかにすごいものかじっくり味わうにはこれしかない。一部だけ最近SACDフォーマットで出たが、全曲やるべし!

 

アビイ・サイモン(ピアノ)

61XrlrfeMjL._SL500_AA280_ これはホロヴィッツじゃないのか?いやもっと詩情があるぞ、ちがうだろう。ブラインドテストすればそういう声すら出そうだ。アビイ・サイモンがリサイタルをやると客席にはプロのピアニストが大勢押しかけたそうだ。そういえばロンドンのバービカンでミケランジェリを聴いた時、僕の目の前の席の禿げ頭はアルフレート・ブレンデルだったなあ。ロイヤル・フェスティバル・ホールのリヒテルの時は内田光子さんが聴いていたっけ。サイモンはそのクラスのピアニストだ。VOXという廉価版レーベルで出て日本では大きく勘違いされているが、他人の言うことは一切無視してよく聴いていただきたい。リゴードンの節回しなど癖は各所にあるが、それは余裕のなせる業だ。これはショパンなんじゃないかと思ってしまうほどピアノが簡単に、しかも深々とボディのある音で鳴りきっている。そしてトッカータ!弾くことに汲々とした凡百の演奏などとは別次元の世界を見せてくれる。バカテクだけの剛腕でもない。フォルレーヌの玄妙な和音のつくり方なんか、もうため息もののバランスの良さだ。彼のリサイタルのチケットを買ってしまったことを後悔したピアニストは一体何人いたのだろう。

 

エルネスト・ブール / 南西ドイツ放送SO

51yaNMesYOL__SS280上記ジェルメッティ盤は入手困難と思われるので挙げておく。こちらもドイツのオーケストラ(バーデンバーデンのオケだ)ながらフランスの香気がただよう。ブール(1913-2001)はストラスブール音楽 院で学び、シャルル・ミュンシュに師事しストラスブール・フィル、歌劇場を経て上記オケ首席指揮者に就任したフランスの指揮者だ。ラヴェルを知り尽くした職人が紡ぎだすアロマは古き良き味があり、その上質の演奏をヨーロッパ調の良い録音で楽しめるのは値打ちがあり、僕は時々取り出して聴いている。

 

ピエール・ブーレーズ /  ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

41NcsSvNUnL妖しい光沢と光彩を放つ木管がかぐわしく、金管もブラッシーでなくラヴェルにそぐわしい。それらがほのかな倍音をまじえて精妙に交差するブーレーズCBS時代の音は上品なステンドグラスを見るようで、時に聴きたくなる。ただ、美しいがフランスのアロマは希薄で、弦がメヌエットでポルタメントをかけるなどブーレーズっぽくない表情を呈しており、春の祭典や海とはスタンスの変化を感じる。前奏曲主部の後半、チェロやファゴットの横の線がくっきり出るのに最初は驚いた記憶がある。それでもこういう音のする録音は他に求め難いのだから、オンリーワンの価値は永遠なのだ。

 

アレクシス・ワイセンベルグ(pf)

755大学3年のときに展覧会の絵と組んだLPを買い、ずいぶん聴きこんだ演奏。いま聴きかえしたが独特な感性で包み込んだクープランだ。速めの前奏曲はしかしほのかな色香をたたえ音色のパレットが豊か。フーガをこんなにきれいにすいすい流れるように弾いた人はいない。フォルレーヌはテンポが即興的に動くが渋みある和声をこんなに感じてならした人もいない。リゴードンには青い色が見える。メヌエットはなんと自分で弾くテンポではないか。これが刷り込まれていたことを知って驚いた。美しい。トッカータはしずしずと始まるが低音の強い打鍵をまじえ徐々に音楽は熱していく。微細なミスはそのままにライブっぽい感じもある見事な演奏。これは一聴の価値ある名演だ。

 

サンソン・フランソワ(pf)

230評判の高い演奏だが、繰返しがなく奏者の愛情がそうあったとも感じない。前奏曲は平板なうえに速すぎる。これでは香気をぜんぜん感じない。フーガはモノトーンで黒っぽい。フォルレーヌは遊んでおり即興的だが、フレージングが奇矯だ。リゴードン主題でいきなりテンポを揺らすのはアビー・サイモンもそうだが好きでない。中間部にひとつ音の変更があるのが意味不明だ。メヌエットにもある。なんじゃこりゃ、不快極まりない。トッカータはいきなり快速だが弾き飛ばした観を禁じ得ない。コンチェルトであれほど感涙もののラヴェルをやっているフランソワをこき下ろすことになるとは不幸なことだが、そうなんだから仕方ない。

 

ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

MI0003008810誰もほめていないが、これは美しい。名演だ。75年のアナログ録音はいかにも典雅でオケのピッチとセンスの良さは最高級。中間色の微光を発する宝石のよう。フォルレーヌの付点音符の弾みなど品を損なわずに音楽に躍動を与えており、ハイティンクの趣味の良さを知る。メヌエットの中間部の盛り上げなどこなれていない部分もあるが、リゴードンの素晴らしいホールトーンとACOの名技を聴くと忘れてしまう。おすすめ。

 

アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団

837我が国オールドファンにとって、神格化され奥の院に祭り上げられた聖なる録音である。これを貶した人は寡聞にして知らない。しかし僕は聴いたまま正直に書く。冒頭のオーボエの切れぎれのフレージングは技術的なものかどうかともかくいただけない。ACOを聴いてしまうと管も弦も弱く今なら音大のオケのほうがよほどうまい。フォルレーヌのイングリッシュ・ホルンなど音程まで悪い。メヌエットは中間部の低い管のピッチがひどく、僕には耐えられないレベルである。リゴードンは縦線はほぼ無視。こういうファンダメンタル(基本)を欠いていて、フランスのエスプリだなんだといっても音楽というものは始まらない。高島屋、三越がヨーロッパだった時代の産物だ。

 

エルネスト・アンセルメ / スイス・ロマンド管弦楽団

595パリ音楽院Oを下手くそと言った評論家はいなかったが、こっちは言われた。同じようなものだが僕の趣味としてはこっちのほうが圧倒的に、いい。まずこの曲の主役といえるオーボエだが、この葦笛のような音色はいまや絶滅した貴種でありまさしく最高である。前奏曲の主題、フォルレーヌの中間部の高音、メヌエットの主題など聴いてほしい。ふるいつきたくなるほどセクシーで魅力的だ。そして冷静に進みながらもそっと香り立つ高貴なフレージング、管弦の音のブレンド、冷んやりした音色、和音の倍音の混合、安っぽいところが微塵もなく、こういうのを貴族的というのだ。クリュイタンス盤はもう聞けなくても何の悔いもないが、アンセルメ盤はブーレーズより上位にある座右の銘盤である。

 

ポール・パレー / デトロイト交響楽団

R-3906412-1362789938-7628_jpeg目隠しして聞かせたらこれが米国のオケと誰が見抜くだろう?今のフランスのオケなどこれよりずっとアメリカンだ。前奏曲のテンポは速いが、ギャビー・カサドシュ(ロベルトでない、奥さんの方だ)の録音が同じく速いのにオーセンティシティのオーラを放っているのと同じで、うーんこれだと唸るしかない。フォルレーヌも速くヴァイオリンがスタッカート気味だがこのテンポなのかもしれないなあ。中間部の色香はどうだ。メヌエットも速め。これは僕にはちょっと素っ気ないし管もいまひとつだ。リゴードンは超特急。元がピアノだと意識がある解釈だろう。後半が特に良いとは思わないが時代の空気を醸し出すパレーの棒に敬意を表したい。

 

シャルル・デュトワ / モントリオール交響楽団

51HCzI2fMML__SY450_録音のマジックではないかと疑われたほどオケがうまい。実物の幻想交響曲を聴いたが、本当にうまい。前奏曲はオーボエはもちろん木管がソリスト級の腕を問われる。金管も含めて管が「運動神経」を問われるのだ。そしてフォルレーヌでは弦が微細なピッチコントロールを問われる。指揮者はリズム感、音色感とそれらをまとめる耳を問われる。難曲だ。これはリゴードンの開始でファゴットが走るなど微細なものを除いて傷がなく総合点が高い。ただ、ジェルメッティ、アンセルメ、ブーレーズのような売りになる個性はなく特に聞かなくてはとも思わない。優等生的なのが欠点ともいえよう。

 

ゲオルグ・ショルティ / シカゴ交響楽団

zaP2_G5376041Wデュトワ盤をさらにしのぐ運動神経のオケだが前奏曲の弦などは完璧でもない(やり直すべきである)のが意外だ。フォルレーヌの中間部は和音の混合具合がどうもラヴェル的でない。誤解ないように書くが、僕はクリュイタンスを 讃美する人が「フランス的」とかエスプリというセンスにはまったく共感がない者だ。このショルティ盤は「フランス的」ではないが良い演奏である。ファンダメンタルが素晴らしく、音楽演奏にそれのほうがよほど重要というのは音楽鑑賞のファンダメンタルでもあろう。

 

ピエール・モントゥー / BBC交響楽団

753指揮者唯一のクープランの墓という意味で貴重な音源だから書いておく。フォルレーヌの弦はフレージングが甘くいい加減だ。メヌエットもオーボエを歌わせるし再現部の弦もロマンティックであり、モントゥーはこう読んでいたのかと意外な感じが残る。リゴードンも慎重な運びである。ライバルだったアンセルメよりはずっとおおらかであり、僕にとってはどこといって何も見るものはない。アンセルメの外科医のような眼のラヴェルが僕は好きなのだ。

 

モニク・アース(pf)

879テンポの揺れをおさえた古典的なフォルム。無用の装飾のない禁欲的なラヴェルが実に好ましい。フーガの2声、3声の見事な綾など彼女の大変に知的なセンスを見る。フォルレーヌの和声への感度も鋭敏。モニク・アース(1909-87)はマルグリット・ロンら作曲家同時代人の次世代だが正統派中の正統派だ。全曲、どこがどうのではなく傾聴するしかない。遊びがないといえばないが、それが無用なだけラヴェルが素晴らしい音符をかきこんでいるのだということがわかる。トッカータは彼女の技量が必要十分なこと(この曲においてそれは尋常なことではない)を明示する。最右翼であり歴史的価値のある名演として万人におすすめである。

 

ジャン=エフラム・バヴゼ(pf)

MI0001083445最近の人ではこれが印象に残る。ロン、アース以来のフランスの伝統に根ざしたピアノという感じがするからだ。前奏曲はほぼ文句なし。音色のパレットが多様だ。フォルレーヌがややタッチが生硬でデリカシーを欠いているのが残念だが和声への感性で許せる。リゴードンの技量の冴えも良し。メヌエットも砂糖菓子にならずルバートが控えめである。トッカータはやや速めだが破綻がほとんどない。スタジオ録音とはいえ見事だ。

 

ワルター・ギーゼキング(pf)

51B1qSroq5L徹底してギーゼキングの譜読みによるラヴェル。前奏曲はかなり遅め。イメージからは意外だ。フーガは陰影が巧みで最後はテンポがかなり落ちる。フォルレーヌは淡々。リゴードンも遅くミスタッチもありいまひとつだ。メヌエットは孤独で寂しげなのがユニークと言えばユニークだ。ゆっくりと一歩一歩踏みしめて歩くようなフレージングはあまり賛成できないが。トッカータでやっと普通のテンポになるが技術的に彼のクレジットになる出来とは程遠く、あんまり練習せずに録音したとしか思えない。なぜか昔からこれも世評が高いという不可思議な現象が我が国にはみられる。

 

アンジェラ・ヒューイット(pf)

974カナダ人でバッハが得意とくるとグールドの名が浮かぶがタイプがまったく違う。イタリアのファッツィオーリを使用、独特の光彩を放つ魅力的な録音になっている。前奏曲はバッハ演奏のキャリアが活きる。感心したのはフォルレーヌの和声だ。第19小節ppのfgheにバスがg-cと入るところ、それが下がってe♭fadにf-b♭と入るところ!こういう和音に「感じる」かどうかがラヴェル弾きの分かれ道だ。メヌエットの再現部のデリケートな味わいも美しい。ロマンティックだが品格を保つのが一流。難曲トッカータの粒立ちも満足で破たんは全く見られない。これはおすすめ。

 

まだまだたくさんある。ダイヤモンドの光輝はそんなに単純なものではない。また後日、折にふれて補遺していくことにする。

音を聴いていただきたいが、この曲はどういうわけかyoutubeのソースが限られている。オケ版はこれがなかなか美しかった。

 

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