モーツァルト交響曲第40番ト短調 K.550
2014 JUN 1 18:18:17 pm by 東 賢太郎
交響曲第40番の冒頭のテーマは、モーツァルトの作品の中でも最も有名なものの一つでしょう。まずいきなり、この曲の録音のうちでも非常に有名なブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏を聴いていただきます。
このインパクトの強い曲が「ト短調(G moll、♭が2つ)」で書かれたせいかどうか、その後の音楽史でこの調の有名曲というのは意外に少ないのです。当のモーツァルトも交響曲第25番、弦楽五重奏曲第4番、ピアノ四重奏曲第1番ぐらいです。以下、思いつくものを挙げてみると、
ハイドン
交響曲39番、83番、弦楽四重奏曲33、74番
ベートーベン
ヴァイオリンソナタ2番、ピアノソナタ19番
シューベルト
弦楽四重奏9番、ソナチネ3番
メンデルスゾーン
ピアノ協奏曲1番
シューマン
ピアノソナタ2番
ブルッフ
ヴァイオリン協奏曲第1番
ショパン
バラード1番、ポロネーズ11番、夜想曲11番、チェロソナタ
ブラームス
ハンガリー舞曲1,5番、ピアノ四重奏曲第1番、ラプソディ2番
チャイコフスキー
交響曲第1番
ドヴォルザーク
ピアノ協奏曲、ピアノ三重奏曲2番
サンサーンス
ピアノ協奏曲2番
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲4番、チェロソナタ、ピアノ三重奏曲1番
ドビッシー
弦楽四重奏曲 、ヴァイオリンソナタ
プロコフィエフ
ヴァイオリン協奏曲2番
フォーレ
ピアノ四重奏曲2番、チェロソナタ2番
グリーグ
弦楽四重奏曲
ショスタコーヴィチ
交響曲11、14番、ピアノ五重奏曲、チェロ協奏曲2番
ニールセン
交響曲1番
大体こんなものでしょう。ト短調といえばまず誰もがモーツァルトと来るのは他が少ないせいもあるかもしれませんね。
しかしここに挙げたどの曲よりも、やはり「モーツァルトの40番の魔力」は群を抜いているように思います。それがどこからくるか。楽譜の引用だらけになってしまうのは避けたいと思っていたら、レナード・バーンスタインがピアノを弾いて解説しているビデオを見つけました。英語もとてもわかりやすいですのでお聞き下さい。
説明もピアノもうまいですね。ただちょっと専門用語がわかりにくいので補足しましょう。chromaticism(クロマティシズム)と彼が言っているのは半音階的な作曲技法のことです。普通我々が巷で耳にする音楽は一部のジャズを除くとほぼすべて全音階的(diatonic)に書かれています。大雑把にいえばピアノの白鍵だけでほぼ弾ける音楽ということで、半音階的(chromatic)というのは黒鍵もたくさん使わないと弾けない音楽ということです。
バーンスタインはこの曲をa work of utmost passion uttely controled and free chromoticism elegantly containedと形容していますが、これは見事に40番の美質を言い当てています。「(情熱はただでさえ制御しにくいものなのに)とてつもない情熱がここでは完全に制御されており、自由な半音階的作曲技法がエレガントに用いられている」という意味です。
第1楽章の第2主題は主音(トニック)のgからc→f→b♭と5度圏(circle of fifth)を下がって変ロ長調です。そこからです。彼が左手で弾いている5度圏のドミナント→トニックのバスはモーツァルトの発明ではなく音楽の本質(理論、神様の発明)であり全音階的です。そこに右手でモーツァルトの発明である半音階的なメロディーが乗っかってd、g、c、f、b♭、e♭と下ります。すると、彼はこういいます。「何だこれは?全く新しい(ト短調にも変ロ長調にも全然関係のない)変イ長調になっちゃうぞ(What’s this? Whole new key of A♭major!)」。この「神様の全音階のルールに乗って規則的に進むと、あらぬ景色に至ってしまう」という転調の一例が、僕が41番のブログで楽譜を載せた信じられないほど美しい第2楽章のあの部分でもあるのです。
ト短調の曲なのに第1楽章展開部が半音下の嬰へ短調(F#m)で始まる部分をバーンスタインはimpossible(あり得ない)!と驚いています。いや、展開部だから何があってもいい、しかし、それを自然にオリジナル・キーのト短調に戻さなくてはいけない。それをモーツァルトがどうやったか?全音階的神様ルールにいわば数学的に従ってドミナント→トニック→それをドミナントに読み替え→新しいトニック・・・と旅を続けます。f#、b、e、a、dと来て故郷のgに無事に帰還します。バーンスタインはビデオでこれをbeauty and ambiguityと呼んでいます。神のルールは全音階的で盤石なbeauty(美)であり、モーツァルトのメロディーは半音階的でambiguous(多義的、曖昧模糊)ということです。
モーツァルトの音楽の美の本質がこの説明に見て取れます。人間+神。弱さ+強さ。どこか人間的な迷いや憂いを含んだ「曖昧さ」が絶対無比で盤石な「美の摂理」に乗っている。弱い人間である我々聴衆はその曖昧さに魅きよせられ、しかし実は根底でそれを裏打ちしている本質と宇宙の原理という絶対的な美によって有無を言わせず感動させられる。だからモーツァルトの音楽は200年余にわたって世界中の人々のハートをぐっとつかんでしまったのです。
しかし、この驚くべき40番では、バーンスタインが感極まって2度もピアノを弾いているあの部分、終楽章の展開部の入りのユニゾンですが、そこに至ってモーツァルトはそのbeauty and ambiguityの掟を自ら破っています。五度圏ルール(神)は消えて人間の情熱(passion)というambiguityが勝ってしまっているのです。これは字義通りロマン派音楽の領域に見えますが、どうしてどうして「基音のg以外のオクターヴのすべての音 (11音)」が使われるという別の「ルール」がその部分だけは支配しています。そのルールが五度圏ルールのように本質的な神のルールかどうか。12音技法音楽はそれを試行したものだと考えることもできるでしょう。
本稿をお読みの皆様は間違いなく音楽を心から愛し、音楽をもっと良く、深く知りたいという関心をお持ちの方でしょう。僕もその一人にすぎません。僕自身がそういう本やブログを読みたいと願っている者ですが、それが探してもなかなかないのです。だから自分なりに勉強するしかなく、そこで発見したこと(そういうことはネット検索しても絶対に出てこない)をこうして書きとめています。他の誰より自分が読みたいようなブログを自分で書いているということです。
その僕にとって、このレナード・バーンスタインの講義は福音のようです。こういうことをブログで皆さんと共有したいのです。彼は音楽学校の生徒をイメージして話していると思いますが、「fresh phonological earsで音楽を聴くように」というメッセージを繰り返していることにご注目ください。phonologyとは「ある言語の音の体系およびその音の音素の分析と分類の研究」のことです。我々としては、英語を学ぶときの文法(グラマー)と思えばいいでしょう。そんなの知らなくてもアメリカの子は英語を話すじゃないか?それは母国語だからです。文法は非母国語民にこそ必要なのです。文法をちゃんとやった人とそうでない人で英語の読解力に大差があるのはどうしようもないことですし、もっといえば、日本語だって文法(知識ではなく規則性に対する感覚)へのリスペクトなくしてきちっとした読み書きはできないと思います。
音楽の文法も同じことで、音楽を母国語(専門)としない人こそ知るべきだと僕は思っています。音大の指揮科や作曲科の人にはいわずもがなのことですが、多くの素晴らしい音楽を彼らの占有物にしておく必要はありません。だからバーンスタインの言葉そのままをお借りします。ちょっとした努力をしてfresh phonological earsを作ることで世界が、音楽人生が変わります。それにはどうしたらいいか?簡単です。彼がビデオで解説しているようなポイント(音楽の文法的なこと)に日ごろから関心を払うことです。この曲にはどういう文法があてはまるのかなと自分の頭で考えるわけです。音楽の文法とは旋律、和声、リズム、形式など。そういう基礎知識はwikiや本にいくらでも書いてあります。
考えるというのは左脳の仕事です。右脳で聞いている音楽を、ちょっと左脳も使って聴いてみる。別に難しいことではありません。考えるためには言葉が必要ですが、ある音楽を聴いたイメージという目に見えないものを言葉にしてみるだけで左脳は活躍してくれます。そういえばワインのソムリエにうかがうと、ワインの個性は「感じ」では覚えられないので「言葉」で覚えるそうです。それも「味」というのは4種類しかなくラベルとしては足りないので、微妙にたくさんを分類できる「香り」でいくそうです。「ライムのような香り」「チョコレートのビターな香り」「猫のおしっこ(!)」などなるべく具体的に。音楽の文法も、ドミナント→トニックは「朝礼のお辞儀」、トニック→サブドミナントは「デートの朝」なんてのはいかがでしょう。
左脳が文法を覚えるとどういうことが起きるか?例えばさきほど、バーンスタインがimpossible(あり得ない)!と驚いているF#mのことを書きました。phonological earsとは、これが「あり得ない!」と聞こえるような耳のことです。僕もこれはそう聴こえます。イ短調のトルコ行進曲の中間部がF#mになるのも「あり得ない!」と思って聴いています。そういう風にきこえるようになります。freshという形容詞をつけているのは「君たちはおそらく漫然と聞いていてそうは聞こえていないと思う。だから新しい耳が必要なんだよ」という啓示です。謙虚にききたいです。モーツァルトはその耳の持ち主に向けて40番を書いています。そうすると彼の神がかった音楽が、もっともっと味わえるようになるのです。クラシックだけではありません。ビートルズがどう聴こえるかを書いたのがブログ Abbey Road (アビイ・ロードB面の解題)でした。
新しい耳を作ってください。お薦めするだけでは無責任なので僕が非常に勉強になった参考書(あんちょこ)をご紹介します。バーンスタインが若い頃のTV番組 Young People’s Concerts のDVD(右)です。効果は非常にあります。amazonで13,108円で売ってます。 子供向けですからわかりやすく、しかし内容は本質的、本格的で子供レベルに落とさないところがアメリカ的です。欧州人のカラヤンやショルティがこういうことをやったという話は聞いたことがなく、貴重な知識を惜しげもなく無料で開放するのもアメリカの美質であり実に良い。実際にお会いしたバーンスタインさんの精神を愛し、爪の垢ぐらいでいいから煎じて飲みたいと思っております。
さて最後にCDですが、40番の演奏を選ぶというと僕はとても迷います。何回きいたか想像もつきませんし楽譜もじっくり眺めて良く知っています。しかし、39,41番には定見といいますか、演奏はかくあるべしという自分なりの趣味ができているのが、40番にはまだそれがありません。どうしてかはわかりませんが、まずオケの編成を見ますと35番「ハフナー」以降の交響曲でトラペット、ティンパニの入っていないのは40番だけです。だからどこか室内楽的なのですが、改訂版ではクラリネットが2本入る。そうすると音色に「魔笛」的性格が出るのですが、魔笛というオペラのどこにも、他のオペラにも、40番のような音楽は出てこないのです。
僕にはJ.S.バッハの音楽に対する時も似た傾向があって、マタイ受難曲はやっぱり誰々の指揮がいいとかオーケストラはどこがいいとか、そんな上っ面な事よりも音楽そのものを味わえるかどうかの方が何倍も大事だと考えております。キリスト教徒でない自分が純音楽的にどう理解できるかという勝負を聴くたびに挑んでいるということです。そこで落っこちてしまったら演奏の良し悪し程度で救われるものでもありません。バッハがそういう音楽だから僕はグレン・グールドの演奏が許容できるのだと思います。モーツァルトのト短調交響曲はなぜか僕にそういう挑みかけをしてくるモーツァルトの作品の中でも稀有な音楽であり、正直のところまだそれを乗り越えたという実感がないのです。
ブルーノ・ワルター / コロンビア交響楽団
冒頭でお聴きのとおりこのテンポ、第1楽章はmolto allegro(とっても速く)だから遅すぎます。楽譜を見ているといろいろな点で「どうも・・・」となりながらも最後は感動している、そういう演奏です。最晩年のワルター、老境の達人の語り口を刻み込もうと入念なリハーサルが行われたのは管弦の細かいフレージングの合い方を聴けばわかります。ちょっとした間や強弱まで完璧にやっている。それを奏者が納得して決然と弾き、だからインパクトの強い演奏になっているのですが、ワルターの解釈自体に非常に説得力があるため耳には不自然さが微塵もありません。結局モーツァルトはこう望んでいたんだろうなと思わせてくれる。ワルターの40番というとウィーン・フィルを振った有名なライブ盤もありますが、弦のポルタメントが過剰で感傷に走った解釈であり、僕はあれが非常に苦手です。ところがこのコロンビア盤は、例えば第3楽章に他の演奏で感じたことのない堅固な造形美があるなど女々しさ、感傷、軟弱とは無縁なのです。演奏終楽章展開部の各パートの立体感など神技の域で、一度テンポを緩めてから突入するコーダの見事さは他の演奏の比ではありません。トータルに見て言い切るほどの自信はありませんが、まずはこの演奏で聴き覚えておけばよろしいのではないかと思う次第です。
(補遺、24 Aug 17)
イシュトヴァン・ケルテス / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ワルターの暗さ、情念、独特の語り口が嫌な方もおられると思う。VPOは40番をバーンスタインやレヴァインとDGに録音していて、音はそちらがいいし演奏はどちらもそれなりのレヴェルである。しかし僕はこのハンガリーの若人がうるさいオケを乗せて納得させたこのDeccaによるケルテス盤の一聴をお薦めしたい。40番がこれほどすいすいと流麗に柔和に流れていいのかと思っていたが、ロマン主義の洗礼がないモーツァルトの現代オケ版は案外これでいいのかなと最近考えるようになった。それでも第2楽章のVPOでなければ出ないヴァイオリンの魅力やトゥッティでのオケのボディと丸みのある質量感は美しいとしかいいようがない。両端楽章のテンポ、モルト・アレグロとアレグロ・アッサイはまぎれもなくこれであろう。
(こちらもどうぞ)
モーツァルト交響曲第39番変ホ長調 K.543
モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551
ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君)
Categories:______グリーグ, ______モーツァルト, クラシック音楽
中島 龍之
6/2/2014 | 3:28 PM Permalink
モーツァルトの40番は私にはもう少し後がいいかと思ってましたが。バーンスタインの解説ビデオと東さんの解説で興味深く聴けそうです。バーンスタインの、トニック→ドミナント→トニックの進行、半音階的技法のピアノを弾きながらの解説で音の感じが、わかりやすかったです。「fresh phonological ear」で聴くというのはすぐには実感できませんが、そう心がけたいです。「感じ」を「言葉」で覚えるというのは興味深いです。感じを何かに置き換えないと表現できないですよね。
東 賢太郎
6/2/2014 | 4:03 PM Permalink
前回のお好きなクラシック音楽のご投稿で中島さんの耳が「phonological ear」にどんどん進化されているのがわかります。やはり楽器を弾かれるのが強いですね。バーンスタインの言っていることをわかりやすく解説させていただいたと思いますので、それは大作曲家の言っていることですので、それを頭に入れて40番を何度も(できればスコアを見て)聴いてみてください。「聞く」のはだめです、「聴く」です。それでしばらくしてきっと違った景色をご覧になることと確信いたします。
中島 龍之
6/4/2014 | 10:42 AM Permalink
40番、解説を頭に置いて聴いてみます。
三ッ石潤司
10/20/2014 | 1:08 PM Permalink
最近貴サイトに通りかかり、自身音楽が専門ですので、他の音楽に関する記事も含め、大変興味深く拝読させていただいております。
私は学部時代は作曲を専門にしていましたので、理論を巡る話はとても面白いと思っておりまして、ここにあげておられるバーンスタイン(そもそも総合的音楽家として素晴らしい人物と思います)のビデオもたびたび視聴していました。
一つ、記事の中で、モーツァルトのいわゆるトルコ行進曲のfis-mollの部分についてもあり得ない!と感じられると書いておられることが大変気になりました。
g-mollの曲中、平行調のB-durになったあとにその調環境におけるfis-mollと、A-durの曲中で、副次的な部分においてfis-mollになるということとは本質的に全く違うことと私は理解しますし、そのように聴取します。つまり、トルコ行進曲のfis-mollはimpossibleでもなんでもなく、ごく普通の曲調の変化と聴き取ります。
私の考えでは、この二つの例は全く違うコンテクストによるものですし、fis-molという調が、古典的に比較的気むずかしく暗い調であるのが事実であるとしても、バーンスタインの意図である、遠隔調に突然行くことで音楽が異次元に飛んでいったような感覚のことを指すimpossibleとは明らかに違うと思うのですが、如何お考えでしょう。
東 賢太郎
10/20/2014 | 4:00 PM Permalink
三ッ石様、初めまして。先生のような作曲家からは一笑に付されて仕方ない拙文に貴重なコメントを頂戴し誠に有難く存じます。芸大の作曲科というのは僕が一番入りたかったところでネットで拝見しますと弟子入りさせていただきたいほどです。素人考えとはいえ公にしている上はという意味合いもあると存じます。間違いは多々あると覚悟しておりますのでこれからもよろしくお願い申し上げます。
さてトルコ行進曲ですがA-durからfis-mollはimpossibleでもなんでもないのですが、ABCBA(+B’&Coda)としますとAがa-mollなのが気になっていてこう書かせていいただきました。AのなかでC-dur、a-moll、E-durが出てきてa-mollが強調され形式的にもロンド形式と思っているので主調はa-mollと聴いております(Aが回帰しませんから厳密にはロンド形式ではないかもしれませんが)。ですからfis-mollは短時間のうちにずいぶん遠くに来たなという感覚がございます(耳というよりも弾いてみてですが)。ただ、それでも遠隔調ではないからバーンスタインの意図とは違うというご指摘は納得です。その通りと思います。
この曲の場合むしろFの7が闖入して和声感が一瞬宙に浮いてからa-mollがA-durに曲想ごとこともなげに飛んでしまうことの方が事件かもしれません。トルコ行進曲とはそのBの部分でしょうし、そのインパクトがあまりに強いのでマイナーキーであるA、Cが従者であると聴こえ、従者間の関係は頭から消えて「普通の曲調変化」に聞こえるような気がいたします。
モーツァルトのソナタは、このK331はソナタ形式がありませんし332の第1楽章も前後に何の脈絡もない曲想が突然割り込んできて、即興的と言ってしまえばそれまでなのですが、ベートーベンやブラームスとはあまりに異なる天才の頭脳構造に驚嘆するばかりです。三ッ石様のプロの目でご覧になってどうなのか、大変に関心のあるところです。
三ッ石潤司
10/20/2014 | 8:56 PM Permalink
早速のご返事、大変うれしく楽しく拝読させていただきました。
我々(というか私のような)音楽しか能のない専門バカとは違い、本当に伝統的な意味で教養としての音楽を理解される方々には、私は大いに敬意と、同時に羨望を持つものです。それだけに、負け惜しみと申しましょうか(笑)専門家として何か言いたくなってしまうというのが悲しい性なのです。
ところで、モーツァルトは、長く住みましたウィーンゆかりの作曲家ということもあるのですが、本当の本物の天才です。バーンスタインの説明を俟つまでもなく、そのあらゆる意味における(音楽上のあらゆる面での形式、様式の)闊達さには何度その音楽を目で追い耳で確かめても新しい驚きを見いだせると思います。さらに素晴らしいのは、演奏者をないがしろにしない、というか演奏する歓びをすべての声部に与えるということですね。同じような意味で素晴らしいのはやはり大バッハですが。
F7とおっしゃっているのは正確に言うとF-A-Dis-Cの和声のことだと思うのですが、これは、確かに当時としては一番強い性格を持つ和声とは位置づけられるものとは言え、これもいわゆる属調の属和音、いわゆるDoppeldominanteの五度音の下降変位の第二転回形、というややこしいヤツで、我々にとってはさほどの驚きはない和音です。
ただし、これは音楽的緊張感から言えば確かに最も強い効果を持っている、Subdominanteと言えると思いますので、おっしゃっている浮遊感は理解出来るものです。
問題は、今回の記事における聴感覚の洗練というテーマからすれば、本当の重要性は、それを音楽上の文脈から、あるいは文法から、結局はどのように聴くのかということであり、理論的な説明は、説明に過ぎないということは言うまでもありません。しちめんどくさいことを言ってある和音を百万言を尽くして説明したところで、音楽として聴いて、そのままを理解し、それを感動を持って受容するのでなければ、説明そのものは無意味です。そして、音楽理論家がやっていることの大部分はそれです。
そうした意味からも、東様の書いておられることは意義あることと感じますし、それだからこそ真面目に対話したい気持ちになるのです。
こういう議論は本当に楽しいし、いろいろと考える種になるので、勉強にもなります。
東 賢太郎
10/21/2014 | 5:47 PM Permalink
音楽に能があるかたに羨望を抱いてきた者として、お言葉は身に余る光栄に存じます。専門家から真面目に対話したいといっていただけるなど想像もしておりませんでした。とてもうれしく思います。
F-A-Dis-Cの和声については勉強させていただき有難うございます。このようなことを考えるのは時を忘れます。本当に楽しいですね。自分の聴感上そういうマジカルなものを感じる曲はたくさんありますし、音楽とか教養とかという以上に宇宙の調和の一部のようで、遠い恒星を眺めながらあれこれ考えるに似ています。それはまたブログにしますのでいろいろ教えてください。
三ッ石潤司
10/21/2014 | 9:30 PM Permalink
是非またこのような対話が出来ることを願っています。
今後ともどうぞよろしく。
三ッ石潤司
10/21/2014 | 9:38 PM Permalink
PS
f-a-dis-cの和音の理論的用語で一つ抜けていました。
根音省略、というのが加わります。
勿論この和音の解釈は、この一通りに限るものではなく、他の見方もあると思われますが、一応我々が頻繁に聞く解釈方法です。
つまり、原型をh-des-fis-a-cisという属調の属9の和音と見なし、それを同主短調から借りてきてh-dis-fis-a-cに代え、その根音から数えて五度上のfisをfに下降変位させ、第二展開形にし、根音を省略するとf-a-c-disとなるという、かなりひねくれたものの考え方です(笑。
三ッ石潤司
10/21/2014 | 9:40 PM Permalink
訂正
間違えました、a-mollの属調は既に短調なので同主短調から借りてきて、という考え方は不必要でした。
訂正します。
東 賢太郎
10/22/2014 | 11:42 PM Permalink
なかなか素人には難しいですね。h-dis-fis-a-cに代え、その根音から数えて五度上のfisをfに下降変位させ、というところ、シェラザードや火の鳥に出てくるh-dis-f-hの音を連想しますが(シェラザード第1楽章第1主題の2つ目の和音です、e-gis-b-eですが)。
三ッ石潤司
10/23/2014 | 10:29 AM Permalink
こんにちは。西洋音楽における機能和声論は、微妙な問題を含んでいると思います。
つまり、理論的整合性か感覚的整合性か、という…。
そもそも機能和声という考え方そのものが、自然ではなくて理論的思考の結果なわけですし、そう言ってしまうと和声も本来自然だとは決して言えない部分が多く含まれていると考えられます。
西洋音楽の面白いところは、理論と実践のすりあわせを長く行う結果、理論が次第に第二の自然のように受け取られるようになるというところではないかというのが私論です。
そもそも平均律というものは、自然を理論で組み伏せたもので、人工的なものですし、バロックの音楽上のレトリックなども受容とともにロマン派やひいては現代においてすら一種のコードというか言語として機能しています。
当該和音について、De la Motte教授がどのように言っているか一度確認しようかと思います。De la Motte氏の和声に関する著作は面白いので、一読の余地はあると思います。
翻訳されていて
ディーター デラモッテ著『大作曲家の和声』
というタイトルのはずです。
東 賢太郎
10/24/2014 | 12:41 AM Permalink
ありがとうございます。理論が次第に第二の自然のように受け取られるようになるというのは納得できます。音階や和音は空気の物理的な振動数の変化や合成ですから動物にも聞こえるはずです。それを人間だけが美しいと感じているなら、それは人間の脳の固有の特性に由来するものです。音は耳で聴いているのでなく耳は空気振動から電気信号への変換機ですから脳が信号を受容し、それがある一定のルールに適合していると快感物質を分泌するのだと思います。その一定のルールがだんだん変化していくことが、おっしゃるところの第二の自然になっていくことだと思います。
別なロジックで考えれば、音階や和音は自然界に存在するものではない人工物なので、その受容は脳が進化の過程でdevelopしたものに相違ありません。ということは現在進行中のdevelopmentがあってしかるべきです。それが聴き手の聴感覚の進化だと思いますし僕はその進化論信奉者です。四分音で書いた旋律を未来のお母さんが子守唄で歌うかどうか、それはわかりませんし楽曲がここまで複雑化すると進化はもうマージナルな段階かもしれません。
進化を促進したのは楽曲です。その進化が聴き手の脳の進化より先走っているとするなら作曲家、演奏家と同様に聴き手(受容家)も教育されなくてはならない時代ではないでしょうか。
それから本の紹介ありがとうございます。ディーター デラモッテ著『大作曲家の和声』は91年に買ってドイツに持っていって一度読みましたがよく理解できませんでした。あの譜例をいちいち弾きながら読まないと我々には体系的にわからないです。よろしくお願いします。
三ッ石潤司
10/24/2014 | 10:59 AM Permalink
デラモッテ氏の著作を既にお持ちとは、さすがです! デラモッテ氏は実はウィーンで一時音楽理論科で教鞭を執られていた頃にほんの2ゼメスターほどですが指導を受けました。ユニークなお人柄で、レッスンにいつもチョコレートを持ってこられ、学生皆で食べながらレッスンを受けていました(笑。
原著Harmonielehreも訳書も持っているんですが、なかなかゆっくり読めないでいます。
かなりユニークなのは、SubdominanteとDominanteの機能の両方を併せ持つような和声というものを想定しているところです。また引き続き見てみます。
音楽においても、西洋は「発展」とか「進化」とかの概念が好きなんですが、それが美的な意味で真に「発展」とか「進化」であるのか、あるいはそういうものが存在するのかというのは、また別の章になるという気もしていて、難しいところです。
すくなくとも西洋と東洋において「発展」または「伝統」という考え方が大いに違うのは間違いないことではないかと思っています。
東 賢太郎
10/24/2014 | 3:56 PM Permalink
デラモッテというお名前はイタリア系でしょうか。ウィーンは大好きで何度も行きました。一時モーツァルトのレクイエムにはまっていたときに自筆譜ファクシミリが突然欲しくなって、翌週の飛行機を取ってドブリンガーまで一人で買いに行ったことがあります。ブルックナーが住んでいたホテル・ドゥ・フランスに泊まりモーツァルト、ベートーベン、シューベルトの住居を片っ端方から回り至福の時でした。あの街で音楽を勉強されたとは羨ましい限りです。余談ですがその週は、全くの偶然ですが、スヴィーテンがいた国立図書館でレクイエム自筆譜の公開(ご開帳)という特別な週だったことをその場で知りました。本物まで拝むことができましたが本当にびっくりしました。
ご参考までに、音楽に進化論の概念が持ち込まれたのはダーウィンの同時代人ブラームスからだという興味深い論考が伊東乾氏の「なぜ猫は鏡を見ないか?」(NHK出版)にございます。西洋と東洋の発展に対する視座の相違についてはまた別稿にしようと思います。
三ッ石潤司
10/24/2014 | 7:59 PM Permalink
De la Motteはイタリア後ならDellaとなるはずなので、フランス系かも知れませんね。
それはさておき、私は東様とは全く違う境遇で、ウィーンで学び、現地採用で教職についたので、仕事は20年しましたが…。
進化という言葉について私は特に検証した訳ではないのですが、そのような概念を離れても、理論→実践→新たな理論→新たな実践という流れは確かにあったと感じています。
そのことについてもまたお話しがうかがえることを楽しみにしています。
三ッ石潤司
10/25/2014 | 1:33 AM Permalink
そういえば、例えばルネサンスからバロック、バロックから古典派、という変遷を見たとき、それは現在の我々から見て、「進化」という風には到底とらえられないですね。
明らかに「退化」と見える部分さえあるとも考えられます。
当然相当用語を吟味しないといけない話になります。