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ドラえもんはいるの?(安保問題のベーシックな解題)

2015 JUL 28 12:12:15 pm by 東 賢太郎

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いまや世界を席巻する米国の人気歌手であるテイラー・スイフトは子どものころいじめにあっていて、

「いじめという逆境に負けず頑張れたし、試練にもなった。私が世界に負けないよう強くなれたのも彼女達のおかげだと思う」

とコメントしているそうです。これはいじめに耐えている子供に力となるかもしれないメッセージであると同時に、この問題が万国共通なものであり、日本人だけでなく人間の悲しい本性に根差したものかもしれないと考えさせられてしまうコメントでもあります。

ところで僕はアニメ・ドラえもんが好きなのですが、ドラえもんの人気といじめは深い関係があると思っています。なるほどと思える夢の道具の楽しさ、そこが人気の「表」の部分とするならば「裏」にあたるのは「子供社会のヒエラルキーの力学」であって、いじめられっ子である「のび太」が窮地に陥った緊張の一瞬に現れる小道具だからこそ「すばらしい!」と思わせるのです。

これは古くはおとぎ話から西部劇やスーパーマンに至る「窮地の救世主物語」と見ることができましょう。救世主が求められるのは万国共通なのです。ドラえもんがポケットから取り出してきてジャイアンをやっつける道具がピストルや凶器ではなく、ほほえましいが未来を予見もしていて、大人の僕らは「表」のほうについ気をとられるのですが、世界37か国で放映され人気になったのは大人ではなく子どもが「ドラえもん欲しい!」と共感した、つまり「子供社会のヒエラルキーの力学」のほうもグローバルだという根っこがあるからではないでしょうか。

それはとりもなおさず、いじめは世界中にあるということです。テイラー・スイフトみたいに3代にわたる銀行総裁の家系のお嬢さんでも(あるいはそれゆえに)、それに鍛えられて強くなってしまうほどいじめられた。そこに法律もパワハラも出番はないし、大人や先生は必ずしも気がつかないし、腕力で闘う力がないいじめられっ子は自衛し、自力救済するしかないのです。ドラえもんはキティちゃんのようなかわいいキャラクターとしてではなく、実在感と願望をもって愛されているのだと思います。

さらに日本人について見れば、精神構造のなかに「憎まれっ子世にはばかる」はある程度しかたないという刷りこみだってあるのかもしれません。だから大人が先生が、あるときは警察ですらが子供の悲痛なサインを見逃がしてしまう。大津や川崎の事件もそういうことがあったようだし最近も岩手で中2のお子さんの自殺という傷ましい事件が起きましたが、サインは出ていたとのことです。学校や先生に抑止力はなかったのか、仕方ないという意識が少しでもなかったか、大変やるせなく思います。

さて、このことをさらに国のレベルで敷衍して考えるべきなのが安保法案ではないかと僕は思念しているところです。残念ながら最後の大戦で敗戦国となり、完膚なきまでに打ちのめされて非武装化されてしまった我が国が「のび太」であることは認めざるを得ません。

では日本国にドラえもんはいるのだろうか?

この質問に答えるには歴史をふりかえらないといけません。1945年2月、日本が無条件降伏をする半年も前に戦後の戦利品のぶんどり合いの素案が米英ソによる密談で合意されました。その場所が今を時めくクリミア半島のヤルタ近郊であったのもきな臭いのですが、この通称「ヤルタ会談」によってソ連は対日参戦を秘密裏に決め、日ソ中立条約を一方的に破棄して満州を攻撃、千島列島等を占領して今に至るのです。宣戦布告は日本大使館から本土に向けての電話回線が全て切断されていたため、完全な奇襲攻撃となったのであります。

1951年のサンフランシスコ講和条約とは本質的に戦勝国である連合国の戦利品ぶんどり合いの最終取り決めであって、日本国はそれによって主権復活を認められはしたわけですが連合国と対等の立場で調印したわけではぜんぜんなく、日本語版すらない契約書に「これでいいな」とめくら判を押させられたのが実態にすぎません。戦利品に交渉権などあるはずがないのであり、それが戦争というものであり、日本はこうなる予定であったのです。

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ドイツはもちろんこうなったし、戦利品ではなかった朝鮮半島やベトナムすらこうなった。しかし本命の日本はならなかった。元寇のカミカゼ以上の僥倖があったと考えざるを得ません。理由は諸説ありますが、ヤルタ会談が撒いたもう一つの種である東西冷戦の米国から見た防波堤として、たまたま日本列島が地理的に重要な位置にあったというのが幸運だったということでしょう。講和条約で日本を完全非武装化した米国が有事のドラえもん役を買ってくれた。同じく51年に調印された日米安保条約をシンプルに理解するならそういうことです。

非武装化は日本国に主権を復活させることとあたかも見返りのようになされましたが、独立主権国家でありながら他国軍に武力を依存し内地で基地を提供する国など世界史上ひとつもありません。古代ローマに属州というものがあり、第1次ポエニ戦争の戦利品だったシチリアがそうですが、被支配地として税をむしりとられますが兵役義務はなくローマ市民兵が守ってくれた。軍備と外交が剥奪された自作農に限りなく近い奴隷であり、帝国主義時代の植民地もこれに近い。日本は米国の属州であり、軍備に関する限り敗戦国フォーメーションを引きずったままであり、第2次ポエニ戦争で負けたカルタゴの状態に非常に近い。

ローマ帝国が地中海に平和を提供し、貢献すればローマ市民権をもらえるインセンティブも用意する。それがパックス・ロマーナという体制ですが、20世紀後半の西側世界はパックス・アメリカーナであったわけです。ローマの世界統治がゲルマンなど辺境のまつろわない民族の台頭で崩れたのと同様、パックス・アメリカーナは米国システム化できる国がもうなくなり、金融という収奪システムが変調をきたし、中国が最大のまつろわない辺境となったという3つの理由で崩れ始めています。

安倍政権はその米国の意向で誕生し、その意向通りに進もうとしています。それは普天間だけではなくTPPだけでもなく、もっと大きな意向でありましょう。僕がミクロネシアで見てきた米国のスタンス(それはそのブログに書きました)はかなり日本列島にも当てはまるのであって、もうドラえもんはいなくなるよ、属州なんだからもっと貢献しろということでしょう。税の収奪(経済貢献)もなく平和が70年も与えられたのは、これは僕の想像ですが、米国に何らかの原罪意識があったかもしれない。例えばソ連は批判されなかった奇襲攻撃(真珠湾)を口実とした民間人の大量虐殺(東京大空襲、広島、長崎、沖縄)に対してです。広島にベースボールの球団ができたのも何らかのそういう配慮があったかもしれない。

つまり、パックス・アメリカーナは310万の英霊の命の重みとして何の引き換えもなく享受できてきたものであって、日米安保条約という「国際法の法的担保力」によって保持されてきたのではないかもしれません。そもそもソ連の日ソ中立条約の一方的破棄に国際司法にもとづいた何の制裁もないという前例があるわけです。ソ連はけしからん、だから北方領土は不法占拠であると叫んだところで救済はないのが戦後生まれの我々の見てきた現実です。世界統治のルールは大国が決めるのであり、国際法は大国同士が相手を縛るものであり、いじめられっ子を守ってあげるためにあるのではないと考えるしかないのです。

二国間条約に恒久平和への担保力があると信じるのは日本の未来にとって危険だと僕は思います。「近隣の国に攻められても勝手に戦争はするな。ローマ軍が守ってやる。」という実質的な非武装条約を飲まされたカルタゴが隣のヌミディアの国境侵害に反攻したところ、ローマの承諾のない軍事行動は条約違反だとして当のローマ軍に滅ぼされてしまった(第3次ポエニ戦争)。パックス・ロマーナの支配者側の精神構造はこうであったわけで、それが2千年の時を経たパックス・アメリカーナではもっとオトナになってるだろうと期待するのはコドモだけです。

非武装化、共産化阻止という事態に即して起草された日本国憲法は重要でしたが、朝鮮動乱の有事において自衛隊という制限つきの武装が行われることに米国はむしろ協力的であったし、現在の米国議会にはおそらく「薬が効きすぎた」という見解があって、日本に国連憲章の敵国条項を突き付けておける限り「普通の国」に近づけることへの危機感はもはや希薄でありましょう。

残念ながら、そうであるならば我が国はマッカーサーの当初の目論見以上に見事に「のび太」化してしまったのであり、のび太はのび太なりの幸せがあるのであって、それだけ求めて生きていきましょう、非武装のままおんぶにだっこで引っ張りましょうというのは戦略としての選択肢ではありましょう。しかし、コストを担って下さっている英霊に参拝もしないような輩がそれを主張するのは非常に違和感がある。それは日本人としての僕がそう感じるというよりも、16年外国人の中で暮らした経験から、自国を当たり前のように愛する世界の全ての国の国民にとってそれは異様なことであり、いずれ理解されなくなるリスクが高いと直感しているからです。

米国に引きずられて戦争に巻き込まれるかもしれないのはNATO諸国もカナダ、メキシコ、オーストラリア、韓国も同じです。そうするかどうかは自分で決められるのが主権国家なのであり、いやそうではあっても米国は信用できない、安保という特別な条約がある、大国の論理で日本を巻きこんで犠牲を強いるかもしれないというならまったくそのとおりでありましょうが、そんなに信用できない米国さんにドラえもんとして永遠に頑張ってもらいましょうというのは論理破綻でしかない。

憲法が政治権力を縛るために存在するのは自明ですが、憲法を改正できるのは国民なのであり、政治権力の行使者を選択できるのも国民なのであり、それを明記している法律こそが憲法なのです。憲法学者が反対したらいいとかだめだとか次元の低いマスコミ裁定をするのではなく、ギリシャだってしている、主権国家ですらないスコットランドやカタロニアですらしているように、満を持して憲法というプロセスにのっとって国民投票による民意を問えばいいのであって、それが主権国家としてするべき唯一のデュー・プロセスだと僕は思う。

それができないのは政治権力に国民の信頼がない、それでも国民は行政を誰かに付託するしかないという民主主義の機能不全があるからであって、国政選挙の定数不均衡に一方の国家権力の最終判定である最高裁違憲判決が出ても強制執行できない、すなわち三権分立の健全な機能の実態にすら国民は不信感を抱かざるを得ないという現実があるからです。安倍政権はやるべきことを強行したから失格するのではなく、国家的重大問題に対するデュー・プロセス・オブ・ロー(法に基づく適正手続の保障)の執行力欠如によって賢者の信を失うリスクの方が大きいことを肝に銘じた方がいい。

昭和のころは当たり前のようにあった「水はタダ」という概念がいつのまにか消えたように、平和もそうなるでしょう。キリスト教とイスラム教の戦いが中東だけで起きる時代ではなくテロはますます国際化し日本列島が無縁のままいられることはまずないでしょう。憲法9条があるから日本人を殺してはいけないなどという国際法も条約も抑止力も、そんなものは世界のどこにも無い。世界を支配するのは人間の悲しい本性以外の何ものでもないのです。

ケンカは弱いが金持ちの子で勉強はできる。それでほんとうにいじめられないか?親は心配して空手を習えという。

いや小学校の先生はケンカはいけないっていったから空手はやらないよ、今はもう大人だけどね。それにうちにはドラえもんがいるんだもん。

しかし、ドラえもんはのび太を無視してジャイアンと遊んだりしている。

 

 

(これをご覧ください)

チューク島にて(その3) 

 

 

 

 

 

 

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