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カテゴリー: ______海外出張記

唐の都、長安を旅して考えたこと

2023 JUL 29 7:07:53 am by 東 賢太郎

唐の都、長安。いい響きだ。いまは陝西省西安市になっているが、中国の京都、奈良であろう。司馬遼太郎の『空海の風景』は貪るように読んだが、いよいよ旅が長安までくると、街のこまごまを描写する司馬の筆のリアリティが少し鈍ってもどかしかった。何事も百聞は一見に如かずだ。やはりそこに立ってみて自分の五感で感じ取るしかない。あれは1998年のこと、香港からの出張で初めて西安に降り立った。三蔵法師ゆかりの大慈恩寺で大雁塔の前に立つと、遣唐使として派遣された阿倍仲麻呂や空海もここに立ってこの眩しい姿を仰ぎ見たに相違ないと思えてくる。自分にとってはペンシルベニア大学の校舎群がまばゆく、よし思いっきり勉強するぞと奮い立った若き日の青雲の志に重なる。しかしながらその一方で、なにやら見慣れぬ曲線を描く大雁塔の外縁の輪郭には異国を強く感じており、いとも不思議な感覚に迷いこんだことを覚えている。

西安の北東にある始皇帝の兵馬俑は圧巻である。写真の総勢は約6000人(桶狭間の信長軍勢の倍ぐらいだ)。2200年前の兵士ひとりひとりの顔が写実されているリアリズムには驚嘆しかない。そこまでさせた権力にも、しようと執着した執念にもだ。漢の時代に土中に埋もれて発見されたのは1974年。空海はこれを知らないが、彼が入唐した時点で1000年前の遺跡であった。東を向いているのは秦が当時の中国の最西端で敵は東だからとされる。不老不死の薬を求めて徐福を日本へ派遣し、子孫は秦氏になったという説は虚構とする否定派が多いが、来てないという証拠もない。証明されてないからなかったことに、という説は非科学的でしかない。

私見を述べる。現在シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の交易路網は西洋人のセンスで脚色されたコンセプトにすぎない側面もある。交流、交易は紀元前2世紀、つまり秦王朝の時代からあったのであり、人間も文物も混じり合っており、はるばるローマやペルシャから中国まで来る体力、気力、資産、技術、理由のあった異人と接していた秦国の人間が朝鮮半島、九州に足を延ばすことを躊躇したとも思えない。兵馬俑の人面も物語る。こんな微細な箇所まで強烈な執念で覆いつくす皇帝に薬を探してこいと命じられた徐福に逃げ道はなく、見つからなければ殺されるから戻ってこなかったのは納得でしかない。といって日本各地の徐福伝説を支持できるわけではない(そのどれかが正しかった可能性はある)、一行は来日してそのまま日本に土着し混血していったと思料する。

西安で食事を済ませて隣町の宝鶏市に向かった(下の地図)。当時は国道しかなく車を飛ばして2時間はかかったと思う(今は高速がある)。道はあっけらかんと一直線である。大学時代に、あまりに一直線で居眠りしかけて危なかったアリゾナ砂漠の道路を思い出していた。行けども行けども、道の両側は地平線の果てまでトウモロコシ畑である。うたた寝して目が覚めたらまだトウモロコシだ。「中国人はこんなに食うの?中華料理で見たことないけど」と運ちゃんに聞くと「豚のエサです」(笑)。宝鶏に着くと仕事だ。味の素みたいなグルタミン酸の調味料を作っている会社に増資を勧める。社長に工場を案内してもらった。ベルトコンベアが続々と白いものを流している。目を凝らすと首を絞めた鶏だった。

宝鶏は日本ではあんまり有名でないが、周王朝、秦王朝の発祥の地である。「岐山」がある(信長はここから「岐阜」の名をつけた)。古くは青銅器の発祥地であり、諸葛孔明が陣中に没した「五丈原の戦い」の舞台でもあり、太公望が釣りをしていた釣魚台もこのへんだ。三国志の頃に漢方薬(本草学)のバイブル『神農本草経』が書かれた地でもあった。戦国武将は中国史を学んでいたが、信長は安土城の天守の装飾絵を中国の故事にならったほどで、始皇帝を理想にしたかどうかはともかく両者は似たものを感じる。西安にあったはずの安房宮は完成せず、安土城は完成したが主は死んだ。歴史好きの方は西安とセットで訪問する価値のある処だ。

宝鶏から西は僕は未踏だが、甘粛省蘭州まで行くとイスラム系の回族が多い。始皇帝は目が青かったともいわれるが、これを知るとそうかなと思わないでもない。何をいまさらではあるが、西安(長安)はシルクロードの終点であり、中央アジア、ペルシャ、トルコを経てローマにつながっている。トウモロコシ畑の宝鶏~西安はマラソンならラストスパートの200キロだったのだ。中国の主要都市はだいたい訪問しているが、西安はもとより行きたかった場所であり強く心に残っている。たぶん春節の前だったのだろう、縁起物であるのと感動をとどめたいのとで、この丸っこいのを2個買った。

灯籠だ。でっかい。直径30センチはあってみな「本気ですか」と驚いたが本気に決まってる。家ではもっと驚かれたが、玄関に飾ってもらって満足だった。

西安、宝鶏を旅してみて、自分はなぜこんなにローマ好きで地中海好きでもあり、誰に教わったわけでもないのに狂信的西洋音楽マニアなんだろうと考えるようになっている。未踏のトルコ、中央アジアは文化も食べ物も興味津々で女性も綺麗に見え、料理はというといま熱烈にガチ中華にハマってる。幼時に鉄の匂いが好きだった趣味はレアだろう(線路と車輪に魅かれて小田急の線路に侵入していたが、鉄オタの息子によると僕は鉄オタとは呼べないらしい)。鉄といえばシルクでなくアイアンロードというのもあった。ヒッタイト発スキタイ(タタール)経由であり、技術を持った異人集団が出雲に来ると「たたら製鉄」と呼ばれた(タタラ場として「もののけ姫」にも登場)。出雲は何度か旅して惚れこんでしまい、コロナで頓挫したが映画の舞台にしようとタタラ場だった絲原家にお邪魔もした。なぜか磁石みたいに鉄に惹かれるのだ。地球上に存在する金やウランなど鉄より重い元素は中性子星合体によってつくられたものである可能性が高い(理化学研究所と京都大学)。鉄を通して僕の関心は宇宙へと広がっている。

結論として思う。こういうものはまぎれもなく本能だ。生まれてから後付けで覚えたわけでは全くない。DNAに書いてないと絶対にこうはならないと自信をもって言えるレベルに僕はある。両親はそんなことないから隔世遺伝ということになる。アズマはアズミでもあり海洋族安曇氏の説がある。神話時代から人種の坩堝(るつぼ)だった北九州から海流で出雲に土着し、さらに海流で能登にぶつかり安曇野、諏訪にも下った。父方は輪島だから可能性はある。性格は農耕型でも定着型でもなく、海洋族であって何の違和感もない。

いまはささやかに北池袋の「ガチ中華街」でもめぐっておれとDNAが命じている。そこで火焔山蘭州拉麺に行った。前述したイスラム系の回族が多い蘭州のラーメンだ。一番上の地図を見ると甘南蔵族(チベット)自治州、臨夏回族自治州(回族、チベット族、バオアン族、ドンシャン族、サラール族他の少数民族が居住)が蘭州の近郊で、そこだけでも人種の坩堝。父系遺伝子ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本とチベットおよびアンダマン諸島のみという興味深いデータがある。

 

西安では何種類か麺を食べた。名前は忘れたがゴムみたいに伸びるビャンビャン麺やら刀削麺だった。火焔山のラーメンも味の坩堝だ。イスラムは豚は食べないので牛肉麺であまり辛くはなく、パクチや香草(漢方と書いてあったと思う)が効いていてエキゾチックなスープだ。たかがラーメン1杯だが歴史と地理を知れば何倍も味わい深い。東京~西安の3倍ほど行けばシルクロードは走破できそうだがまあ池袋でやっとこう。

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宇宙人の数学的帰納法

2020 APR 26 21:21:45 pm by 東 賢太郎

CS放送で「古代の宇宙人」(Ancient Aliens)という米国のシリーズ物を見てます。高校の頃、エーリッヒ・フォン・デニケンの『未来の記憶』を穴のあくほど熟読した者としてこの番組は垂涎です。地球外生命体の存在を確信しているしSETIプロジェクトは多大な関心をもってフォローしているのです。ただ、この話をすると、ほとんどの人に、えっ、まじめにそんなの信じてるんですか?という目で見られます。興味ぐらいはある人も怖いもの見たさです。SETIまでは科学と認める人もデニケンの古代宇宙飛行士説まで行くとオカルト扱いです。西洋でも疑似科学とされていてまともな学者がとりあうものではないとされているように思います。

影響を受けた本はもうひとつあって、中学か高校か忘れましたが、神話のトロイの遺跡は実在すると信じて掘り当てたシュリーマンの伝記です。彼は商才はあったが家柄も学問もなく、ほら吹きだ遺跡を台無しにしたと後世のエスタブリッシュメントからの毀誉褒貶もあります。でも、たしか雑貨屋だかの見習い店員だったころ、よっぱらいのおっさんが高吟していたホメロスの詩を聞いてトロイに興味を持った。それが世紀の大発見となったなんて素敵じゃないですか。彼は幕末の慶応元年に世界旅行で日本まで来て旅行記を書いています(右)。とても好奇心のある人だったのでしょう。

アレキサンダー大王、ガイウス・ユリウス・カエサル、マルコ・ポーロ、ヴァスコ・ダ・ガマ、クリストファー・コロンブス、みんな好奇心旺盛な男ですが人をたくさん殺したり略奪してますからワルですね、でも魅力あるんですね、なぜなら、やってみないとわからない未知なことにまったく怯んでないからです。みな仮説・検証型の人間だったのでしょう、演繹でなく帰納型で、自説に自信があって突き進んで自分で検証して見せて、どうだ見たかというタイプでしょう。想像力がたくましく政治家、軍人、冒険家でなくても、現代ならビジネスマンで大成功するタイプです。シュリーマンもそのタイプで、目的はカネだ功名心だなんて揶揄されますが、そんな批判は成果からすれば吹けば飛ぶほどのものです。

どうして日本人がいないかと不思議ですが、仮説・検証型、帰納型が少ないと思うのです。与えられたもので「うまくやる」人は多いのです。でも革命的創造、原理的発明、解析モデル構築、地球的ディファクト作りみたいなものは弱いですね、圧倒的に。信長がそれに近いですが彼も鉄砲作りの真似で成功してから中国、キリシタンのアイデアに「開明的」であっただけで、それすらしない者ばかりなので目立ったということです。仮説・検証型、帰納型の反対が既存モデル適用型、演繹型です。モデルは自分で一切作らず、成り行きをじっと見て事例が出そろうまで待ち、モデルと矛盾がないことを確認し、間違いないとなって満を持して結論を出す。調査、研究には向きますがビジネス、投資には最も失敗する方法で、世にいうエリート、役所、大企業病の会社の得意技であり、まさにそれを政府、厚労省は新型コロナでやって初動が大変に遅れたわけです。

デニケンは上掲書に旧約聖書エゼキエル伝の一節は古代宇宙飛行士に遭遇した筆記者エゼキエルによる目撃譚だと書いています。これをユダヤ教徒、キリスト教徒が真面目に請け合うとは考えられません。しかしデニケンにおける聖書はシュリーマンにおけるホメロスの『イーリアス』だと考えることにはむしろ異教徒の日本人の方が思考に自由度があるでしょう。100%否定できないものは否定も肯定もしないというのが科学的態度であります。僕は科学者ではないですが受験生のころ数学にハマって何でも解けるという全能感に近い所まで行って、まったくの勘違いでしたがそれでも自分の限界の淵は見ました。そこで、科学は神聖という犯し難い天界のルールみたいなものがあるかなと感じました。そこからは、論文の捏造とかガセネタとか似非科学には天罰を求めたい欲求すら懐くようになっています。

デニケンを読んだ時はガキだったし、今は彼の説を一刀両断しておかしくないのです。ところが、そうならないのは、ある決定的な経験をしたからです。僕が帰納法型人間であるのは「知は力なり」の英国経験論者フランシス・ベーコンの影響ですが、す。ということは、経験から仮説を作って生きてるわけですからどうしようもありません。その経験とはなにかというと、1990年にメキシコシティーに出張ついでにテオティワカン遺跡に行ったときの度肝を抜かれる「不思議感」がそれなのです。CSの番組でも取り上げてますが、巨大なピラミッドが3つと小型が複数あり、西暦紀元前後にできたのですが、誰が作ったかも用途も不明です。そもそもギザのピラミッド同様、これだけの巨石を積み上げるのは現代のクレーンでも困難のようです。

演繹的な思考だと、こういう従来のモデルで説明できない遺物は(日本の古墳の土偶、埴輪もそうですが)「祭祀用」ということになってしまう。なぜなら、未開人は科学を知らず呪術や祭祀を尊んでいた、という思考のルール(モデル、正統とされる学説)があって、テオティワカンは未開人の造ったものである、したがって祭祀用であるという三段論法で結論する。典型的な演繹法です。真面目で高い教育を受けた人ほどこの思考の鋳型にはまりがちです。ルールに従った処理だから何の祭祀か、神は誰かという余分な論考は無視します。要はわからんものは「その他」に入れて蓋をしてしまい、その事例がルールを覆すものかもしれないとは考えないし、考える者は異端として排除したりするのです。ところがテオティワカンでそれをすると99%が「その他」でしたとなって、ルールの意味すらなくなってしまいます。

僕は一切のルールは間違ってるかもしれないと考える疑り深い人間なので、初めて遭遇する物事を演繹法で考えることはほとんどないです。テオティワカンでも太陽と月のピラミッドは、上掲写真の目線までけっこう急な石段を登るのですが、高所恐怖症だから本当に怖く、それでも、あまりの不思議感と好奇心でみっともなかったですが這いつくばって必死に登ったのを覚えてます。番組はこれを、高度な文明を持つ地球外生命体が飛来して建築した宇宙船のエネルギーチャージャーとして、水銀を用いた超電導空中浮遊装置だろうと比定していましたね。確かにUFOは空を飛ぶのです。というと、空中浮遊?どっかの新興宗教か、アホかと大概の人はなるでしょう。

でも現にリニアは空中浮遊してます。テオティワカンのピラミッドの最近の発掘調査で土中から超伝導体の水銀が検出されたそうだから、否定しづらい仮説であろうと思います。ここの大ピラミッドも、エジプトのクフ王のピラミッドも、どちらも三つあり、空中から見るとオリオン座の三ツ星の形に並んでいるというのも、二つの遠隔地で偶然そうなる確率はかなり低いと思います。よって、僕の中ではデニケン説を否定する科学的姿勢は取りづらく、ヒストリーチャンネルの「古代の宇宙人」をまじめに見るという行動が合理的という結論になっているのです。

最後に一つだけ。「宇宙人」は低レベルの訳ですね。英語もスペースマン、エイリアンとは言いますが漫画っぽい、オトナはエクストラテレストリアル・インテリジェンス(地球外生命体、extraterrestrial intelligence)というんです。映画ETもThe Extra-Terrestrialの頭文字です。その存在は正統派の天文学者、物理学者が認める帰納的推論だから米国でSETI(地球外知的生命体探査、Search for extraterrestrial intelligence)が行われている。ただ、空から宇宙人の電波が来るのを待つなんてアホだ無駄だという批判は世論としても哲学者からもあり予算はついたり打ち切りになったりしています。僕は税金も払っていない米国がそれをしてくれることに謝意と敬意を表明したいし、それは「西へ西へ」という金採掘者のアメリカンドリーム(シュリーマンも参加した)が「上へ上へ」になったものと理解します。

さらに言うなら、そのムーヴメントは、アレキサンダー大王からシュリーマンまで僕の思いついた6人の「仮説・検証型人間」、「帰納法的人間」、つまり、思うに日本は言うに及ばず、ひょっとしてコロナ禍で人類がより現実的、現世肯定的になって世界中で減っていくかもしれないタイプの人種に元気になってもらうプロジェクトでもあると考えるのです。日本はもっとダメになるんだろうか心配です。そもそも日本語で宇宙人と呼んでいること自体が思考停止ですね、お化けみたいなもんです、いるはずないけどいたら怖い、だからお化け屋敷行ってみようよという、この番組を見てる人たちは科学的思考とは無縁であり、TV会社もそういう客が入れば当りとならなければいいが。

ちなみに、GAFAのCEOは異口同音に「これからビジネスで必須な勉強は?」という質問に「数学と哲学」と答えています。

 

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宇宙人のいる星の画像(NASA)

米国人医師に救われた我が家の命脈

2020 JAN 18 0:00:22 am by 東 賢太郎

オーストラリアのポート・ダグラスで船に乗った。甲板に出てぼんやり海を眺めていたら、そこそこ大きい亀が泳いでいるのを見つけた。しかもよく見ると親亀・子亀である。シャッターチャンスと思って撮影したつもりが、画面を見るとよく写ってない。不器用というか、こういうことが本当に下手くそであり、うまくいったためしがない。

甲板で隣にいた白人女性のほうは何度もワ~オとシャッターをきりながら話しかけてきた。年齢は50前後という所だろうか。「どちらから?」「東京です、あなたは?」「フィラデルフィアです」。それは奇遇である。亀は忘れて職業を尋ねると、ペンシルバニア大学病院の医師ですと答えた。それはそれは。ちょっと話が漫画みたいに出来すぎかなとは思ったが、何となく予感がしたので「何科ですか?」ときいてみた。「ガイネコロジー(婦人科)です」。耳を疑った。

あれは28才になる直前の1983年1月24日の出来事だった。フィラデルフィアの冬は零下10度を超える。僕は翌日に会計学の中間試験をひかえアパートの自室で勉強に没頭していた。すると午後になって家内が腹痛を訴え、救急車で大学病院に搬送となるほど苦しみだした。パニックになった。すぐに婦人科で検査が行われ、主治医が所見を説明してくれたが医学用語はさっぱりだ。どうやら普段から症状のあった子宮筋腫が悪化したようで緊急オペになる。「ウォートンの学生だね、OK、では学生保険で明日までに支払い手続きをするように」と言われ、手術費用が3万ドル(当時は700万円)と知る。「いえ、保険は、その、申請手続きが終わってなくて・・・」と言い訳したが、要は入ってなかったわけだ。目の前が真っ暗になった。ビッグマックも買えなかった我々夫婦に、もちろんそんな大金はない。

ペンシルバニア大学病院の入院説明書

「ちょっと待ってろ」。困り果てた僕を見て、主治医らしき医師はそう言い残して別室に消えた。所見はよくわからなかったが金額から察した。そんなに難しい手術なのか・・・入金日は明日だ、すぐ東京の親父に電話しなくちゃ、公衆電話はどこにあるんだ、でもいま夜中じゃないか。頭は錯綜してごちゃごちゃであった。途方に暮れたまま待つ時間というのは長いものだ。先生が「ノー・プロブレム!」とドアを勢いよく開けて戻ってきた時には僕はすでにどっぷりと疲れていた。数枚の書類が机に並んであれこれ手続き的な説明がある。「これに全部サインしろ」と軍隊みたいに有無を言わさぬ指令が飛んだ。署名欄を見ると、東賢太郎は1月24日付で正規の保険加入者になっていた。

一難去ってまた一難だった。別の書類1枚が、今度は静かにおごそかにテーブルに置かれた。事の重大さがわかった。「コブシ大の筋腫が子宮内壁にある」「放置してもすぐに致命的ではないが15%の確率で癌化する」「筋腫摘出のために子宮全摘の可能性がある」「以上を理解して手術に同意にする」と書かれていた。我々に子供はなかった。「ちょっと待ってよ、これって、妻の命を取るか子供を取るか決めろってことだよね?」心の準備がなかった。動転してくらくらしており、ふと気がつくといつの間にか医師が3,4人僕をぐるりと囲んでいた。彼らにいくつか意味のない質問を投げたように思うが、ここでぷっつりと記憶はとぎれている。朧げに覚えてるのは小声で「摘出してください」とお願いし、ふるえる手で署名をしたことだけだ。

手術はたっぷり6時間はかかった。情報は何もない。ナースに聞いても何が起きているのかまったく要領を得ない。仮に子宮を摘出しても命の危険はないはずじゃないか、それとも、なにか不測のとんでもない事が起こってしまったんだろうか・・??翌日の中間試験は準備不足でまったく自信がなく、病室でまんじりともせず必死に教科書を読んでいたつもりだが、その実は勉強どころか意識が朦朧としてしまっていたように思う。そこに、先生の「Hey! Mr. Azuma! She can have a baby!」という声が聞こえた気がした。廊下の遠くの方からだ。コカ・コーラのストローをくわえ、思いっきり手を振って陽気に歩いてくる勇姿が見えた時、家内の生命が助かったこと、子宮も助かったことを知って涙が出た。この瞬間ほど医師が神々しく見え、その仕事が崇高なものだと思ったことはない。日本ではどこの病院も「子宮ごと全摘やむなし」という診断であり、とりあえずは命に関わらないのでとそのままにしていた。ぺン大のチームはきっと、憔悴して落ち込んでしまった僕を見て「子宮を残すぞ」と6時間もかけてチャレンジしてくれたのだ。この発作が日本でおきていたら、もしここに留学してなかったら・・・

「ぺン大の婦人科は全米1位の評価だったんですね、その時は知らなかったんです」。船上の女医さんは偉大だったそのチームの後輩であり、黙って37年前の一部始終をききとめ、「それで彼女がいるのね(That’s why she is here.)」とそこにいた娘に目をやってウインクした。「ええ、もう二人いましてね(Well, I have two more.)」と笑うと「すごいじゃない(Wow、that’s great!)」とさらなる破顔一笑をくださった。とっさに、「女神に見えますんで、失敬」と本当に両手を合わせて観音様みたいに彼女を拝んでしまった。

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バート・バカラック「サン・ホセへの道」

2018 MAR 14 19:19:38 pm by 東 賢太郎

シリコンバレーというのは地名でも谷の名前でも行政区画の名称でもない。もとはスタンフォード大学周縁の半導体産業(シリコンが象徴する)に端を発したハイテク企業基地の総称で、サンフランシスコの南東地域を指している。そこからソフトウエア、インターネット関連のITベンチャー企業基地へと派生・発展し、さらに地域名称というよりはそこにある企業の自由な発想と経営風土、集まる人種(超高学歴の知的労働者)、ポップな職場環境までを包含した「イメージコンセプト」になったといえよう。証券・投資銀行業務を「ウォール・ストリート」、映画産業を「ハリウッド」と地名でなんとなく呼ぶのと同じだ。

おおまかには下の地図あたりを指すが、テスラの工場があるFremont(フリーモント)がシリコンバレーでないとは誰も言わないから地理的にはおおよそアバウトなものである。ベンチャー企業経営者が「うちはシリコンバレーだ」といえばそれなりにブランドっぽく聞こえるという意味においては、女性タレント界における AKB48 みたいなもんだと言えなくもない。

テスラのフリーモント工場

バート・バカラックが作曲しディオンヌ・ワーウィックの歌でヒットした「サン・ホセへの道」は地図・右下方の「San Jose」のことである。これにうかれてた中学時代、そこがシリコンバレーど真ん中になって自分が仕事しようなど夢にも思わなかった。

ドゥ~ユ~ノ~ザ~ウエ~トゥサンホセ~しかわからなくて適当に歌っていたが、いまになってよく聞いてみると面白い。

サン・ホセへの道を知ってる?
私って 長いことご無沙汰だったから 道に迷っちゃうかもね
サン・ホセへの道を知ってる?

道を知ってるかだって?そんなの標識ぐらい出てるだろ。えっ、それもない?そんなド田舎なの?

そう思ってしまう。

これはなんと、サン・ホセ生まれの女の子がハリウッドのある大都会ロサンゼルスに夢を求めて出て行ったが疲れてしまい、あきらめて田舎に帰ってくる歌。千昌夫の「北国の春」みたいなもんだったのだ。

1週間 2週間で あなたもスターになれるかもよ
でも数週間と思ったら数年が過ぎてるわ なんてこと!

不屈の意志を持ったゴールドマイナーたちが「国造り」したこの地で、いまどきの女の子は数年の苦労ぐらいで音を上げちゃうんだというのが妙に新鮮だったのかもしれない。時はベトナム戦争の真っ最中だった。

ここのところがハ長調からホ短調にふっと悲しげにかわる。いい曲だ。夢は塵のように飛び去って独りぼっち・・・

富と名声は磁石のようなもの
どれだけ遠くにいても 人は引きつけらていくわ
夢を追っている時は 孤独なんて感じない
でも 夢が塵のように飛んでいけば
友人は無く独りぼっち
そして 車に荷物を詰め込んで去っていく

でもでも、

サン・ホセではゆっくり羽を伸ばせるの
広い土地があるから 私が休むことができる場所も見つかるはず
私の生まれ育った故郷 サン・ホセ
私は心を落ち着けるために サン・ホセに帰るところよ

そうだったのか。

でもキミの田舎は半世紀の時が流れたいま、Capital of Silicon Valley(シリコンバレーの首都)である。土地は広いがゆっくり休めるかどうかはわからないよ、なんたってロサンゼルスの子があこがれて出てくるところだからね。サン・ホセへの道はみんな知っている。

 

米スタートアップに出資、南都銀 ノーベル賞中村氏の太陽光LED

 

 

 

 

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日本人はなんのために生きてるのか?

2018 MAR 12 2:02:15 am by 東 賢太郎

アメリカ西海岸、ウエストコーストっていうのはゴールドラッシュで一攫千金を夢見た人たちが東からなだれをうってやって来た所だ。大学なんてなくって、息子が早逝した富豪が西のハーバードにすると作ったのがスタンフォード大学だ。ハーバードの門には「Enter To Grow in Wisdom」と校訓が彫ってあって、あそこで見た瞬間に電気が走ったように気に入った。ところがスタンフォードの校訓が「Die Luft der Freiheit weht(独:自由の風が吹く)」であって、これまたいいのである。だからここにシリコンバレーができたんだと納得だ。

ゴールドマイナーたちは幌馬車で来たとはいえ東海岸から飛行機で4時間もかかる距離だ。ギャングに襲われるわ砂漠で餓死するわ、女房子供を連れて命がけだった。運よく無事に着いたって金鉱が見つかる保証なんてあるわけない。みんなリスクテーカーなんだ。その一攫千金の精神が、いまやシリコンバレーの世界最先端技術開発にDNAとして受け継がれていると僕は思う。テスラのイーロン・マスクCEOはペンシルバニア大学ウォートンスクール卒だからトランプの後輩だが、テスラ Roadsterを乗せたロケット上段のエンジン点火が正常に成功しバン・アレン帯を抜けるまで5時間ほど飛行したのち、火星に向け最後の軌道修正を行うとツイートした。自動車屋でこんなことを考えるのは彼が通った(中退した)スタンフォードの「Luft der Freiheit」そのものだ。

昨日までそのウエストコーストにいた。自分の身は自分で守らんといかんよね、日本国もそうしないとねなんてディナーでゴールドマイナーの話をしながら「銃持ってる?」ってきいたら、周囲にいた5人に2人がイエスだった。30丁持ってるぜなんて奴もいた。その割に彼はあっけなく道でホールドアップされて新聞に載った。持ってれば安全っていうこともない。「銃なんて18から買えるよ。親が持ってりゃ16から撃てるぜ。」「店行きゃ誰でも実弾射撃オーケー、女子高生が気晴らしにキャーキャー撃ってたりね」「でも民家があると1キロ以内じゃ撃てないし規制はあるよ、犬猫は法律で禁止だよ、撃っちゃいけない、人はいいんだけどね(爆笑)」

「学校で銃乱射?日本じゃあり得ないよ、18を21才にすりゃいいってもんじゃないだろ?」「そうさ、だから先生に銃もたせろってな」「トランプね、あれ正気なの?」「だって全員が所持禁止にならないと危ないだろ、持ってる人は放棄なんかするわけないさ」「そりゃアメリカじゃ無理だぜ」「だからしょうがないよ」「でもアメリカの先生の給料って安いんだよ、5万ドルぐらいだ」「だから学校で持てっていうことだろう」「日本なら警察は何してるって大さわぎだ」「そこが違うね、警察なんか頼れない、何人お巡りさん増やしても気違いは必ず出てくるっていう発想なんだ」

「今朝CNN見てたらリトル・ロケットマンとの会談をトランプが受けたってな、全米でトップニュースになってたね」「核搭載ICBMがアメリカに届くかどうかって、そりゃ議会で大問題だ、選挙あるしな」「あいつは賢いよ、持つ物持てば勝ちって割り切りがね」「平昌で時間稼いでゴールに行った可能性ないか」「余裕の強気?」「かもしれない、頭を越されてしまったとすると日本は極めてやばい。半島にアメリカが認めた大朝鮮国ができるかもしれない。経済力は日本の8割の核保有国だ。」

「国難だな。日本では大騒ぎだろ」「いや、ネット見るとどうも大騒ぎはモリトモだ」「なんだそれは?」「どうもそれで人が亡くなったらしい」「ギャングに撃たれたか?」「銃を持ってなかったのか?」「自殺?」「なんでだ?責任ってなんの責任だ?」「というと彼はザイムショーのトップか?」「違う?なんで下が死ぬんだ?」「スパイだったのか?」「日本もロシアみたいに国が消すのか?」「えっ、違う?ソンタク?」「なんだそれは?」「新種の毒ガスか?」(そんな英語は存在しないので説明に苦慮)「なんだそんなもん」「国難だろ、そんなことやってる場合なのか?」

アメリカで物欲、金銭欲を否定したら変人だ。そうじゃなきゃキミは何のために生きているのか?と問われることになる。いい生活をしていい人生を送りたい。人として生まれて当たり前だろ。それには物もカネもいる。困ったら政府がお金くれるの?あるわけないさ、それが自由主義の世の中だろ。襲われるなら先に撃て。生きるために当然だろ。襲う人のいない世の中にしましょうよ?そんなの町内会で言ってもアホ扱いだ。いつからキミは世界政府の頭領になったんだって。

アメリカへ来ると僕は必ずハンバーガーだ。留学のとき月給が400ドルしかなくって家内とひもじい思いをした。あれが染みついてる。二人で5ドルぐらいかかるマックなんか高根の花で、勇気出して店に入ってもいつも一番安いプレーンの肉だけのハンバーガーだった。隣にビッグマック注文してる奴がいるとくやしくて、いつかあれを毎日食うぞと心に誓った。物欲って、こういうものだ。シンプルに人間の向上心と関わってるから悪いもんじゃない。だから僕はいまも500gのヒレステーキなんか興味なくって、昨日もお昼はショッピングモールの12ドルのハンバーガーだ。相棒が教えてくれた。「京セラの稲森さんもそうだ、昼はそれで吉野家なんだ。さすがに店が恐縮して秘書に金のどんぶりを持たしてくれたらしいけどな」。

アメリカってなんてわかりやすいんだろう。私は物作りだけで満足です、お金はいりませんなんて嘘つかなくっていいし、ソンタクもないし、誰だってプレーンよりビッグマック食いたいわけだ。そういう当たり前のことを隠したりあきらめたりして生きる人生って何だろう。物作りに人生かけて邁進したら会社は台湾人に食われましたって洒落にもならない。そんなに長いものに巻かれたいですか、長いものとともに滅びたいですか?英語に刻苦勉励、臥薪嘗胆、精進、邁進なんて単語はないが、説明したら「悪いけど奴隷を作るためのいいスローガンだね」と言われた。冒頭からの稚気あふれる会話の相手は米国人経営者たち、みんなPhD(博士号)、MBA(経営学修士)の皆さんである。日本人の若い皆さん、もうアメリカに学ぶことはないなんてバブル親父の大嘘だよ、どんどんアメリカに行って学びなさい、刺激を受けなさい。

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いい子にしてるのよ

2017 JUL 3 0:00:53 am by 東 賢太郎

小さいころ、妹とふたり私学の成城学園だったものだから生計が厳しかったのだろう、母は皮手芸を教えて僕らの食費の足しにしていたようだ。休みの日も「じゃあ行ってくるからね、いい子にしてるのよ」と僕らを家に残して、教室のある二子玉川に車で出かけていった。

お金がないんだとは子供なりに気づいていたが、待っているのはやっぱり寂しかった。待ちぼうけのお仲間だった黒猫のチコは、壁越しに響いてる母の愛車のエンジン音を覚えてしまった。夕方になってそろそろ帰ってくるかなというころ、その音を真っ先に聞きつけたチコが「アオ〜」と鳴くと、あっ、ママだと喜び勇んで妹と玄関に飛んでいったものだ。

母が亡くなった朝、僕は病室の長椅子に丸まって仮眠していた。その日が9泊目だった。看護師さんたちの慌ただしい声と血圧計のジーという音で目が覚めるや、すぐにご家族を呼んでくださいと指示が飛んだ。母はそこから3時間がんばってくれ、みなに看取られて静かに逝った。目の前がぐるぐる回って、気がつくと母の胸に突っ伏してぼろぼろ涙がこぼれていた。

あれからちょうど一カ月となる6月29日午前10時25分をアメリカで迎えることになるとは夢にも思わなかった。そして、今も僕はサンフランシスコのホテルにいてこれを書いている。あのまま看病が続いていたら、この仕事はどんなに有望で大事だろうと断わっていたからここにはいなかった。

意識するなといっても無理だ。それは当地では6月28日の午後6時25分ということになる。あわただしいスケジュールの中で、シリコンバレーにあるフレミングというステーキハウスでの会食中にそれはやってくる運びになった。仕方ない、ひとり黙祷をしたいので同僚に事情をことわろうと口を開いたその矢先だ。

何ということか、声が出ないではないか。ちょっと風邪ぎみではあったがこれには動転してしまった。座っている席が大きなテーブルの真ん中で一番奥だったものだから閉所恐怖症によるパニックのおそれも感じてしまう。とっさに席を替わってもらい、Y君に「おいこりゃ明日だめだ、プレゼン、代わり頼んだぞ」とかすれ声を絞り出した。しかしデレゲーションのヘッドがしゃべれないなんて洒落にもならない。すっかり弱気になってしまった。

いつ寝たのか、恐れていた翌朝がやってきた。目覚めるとやけに体が軽い。時差ボケはあるが快調だ。こわごわ声を出してみると、普段の声だ。よかった。9時からの会議は予定通り僕が真ん中でやってうまく運び、3人の仲間に感謝だ。Y君は野村で苦楽を共にした後輩。営業で僕が出来ないことをできる唯一の男だ。S君は株式運用・分析の達人で頼みの綱。M君は3年で司法試験合格という東大法学部で年1人出るかどうかという俊英の若手弁護士でスタンフォードのMBAでもある。全員が米国留学、業務の経験あり。手前味噌ながら最強のカルテットと自負してどこからも異論は出ないであろう。

今回はノーベル物理学賞のN教授の事業資金調達をソナー・アドバイザーズがお手伝いするための準備だ。シリコンバレーはFacebook、テスラー、Google、Appleなどがひしめく米国のベンチャーの聖地だが、そこにラボを構える教授の会社も社員70人中20人がPh.D.(博士)だ。朝9時から6時間ぶっ通しで、教授を筆頭とする幹部の皆さんと喧喧諤諤やったらすっかりウォートンスクールMBAの20代の自分に戻った。声のことなんか忘れていたからきっと出ていたのだろう。

思えばあれは母が亡くなったその日の午後のことだった。斎場の霊安室から家に戻ってきて、なお茫然自失だった。急に朝からそういうことになった自分がよくのみこめていない。すると「いいお天気よ、外で陽にあたって少し休みなさい。お母さんと交信できるわよ」と家内が椅子と毛布をテラスに用意してくれた。交信という言葉が心に響き、やおら陽だまりに出て空を見上げてみると、一面見渡す限りのブルーにいちどもみたことのない不思議な形の雲がかかっていた。

それは富士山の方から空の半分も覆わんほどのスケールで左右に悠然と広がっていた。見えるか見えないかぐらいの早さでこっちに向かってきているみたいで、巨大なエイかマンタが後方に美しい幾筋もの尾ひれをひいてゆったりと北に泳いでいくような様であった。しばし唖然と見とれていると、それは徐々に形が朧となってきて、僕の頭上を通り越したあたりからやがていつもの変哲のないちぢれ雲に戻っていった。

写真を撮ろうと思ったが、やめた方がいいという気がしてきて、そのまま椅子に横たわって一部始終をじっと眺めていたわけだ。するとエイの右下あたりに月がうっすらとあったのに気がついた。下弦の月かな、随分と細い三日月のようで、これは昔から僕の主観の中では攻撃のシンボルであるのだった。

母は教室に出かけていくみたいに、じゃあ行くからね、いい子にしてるのよと言い残してあちらに行ったように思う。何が母のいい子なのかはつかめなかったが、どんな悪戯をしでかしても叱らなかったのだからあれでよかったのだろうし、今だってきっとこれでいいのだ。いつも困るとそう信じて乗り越えて、僕は知らないうちにここまで来た。そんなに信じられる安堵というものを、ほかのどこでいただけるだろう。

どこまで行くのか知らないが、それはその時だ。これで自分の中で何かが大きく変わってしまった気がする。やがて父もいなくなったら日本にいる必要もないかなと思うが、そうなった時のことは結局自らが決めたということではなく、なるべくしてなってしまったということになるだろう。ただ、ひとつだけすでに心のなかで確認したことがあって、それはあちらの世に行くのがちっとも恐くなくなってしまったということだ。

よき一日

(ご参考)

今回の資金調達について

シリコンバレーの栄枯盛衰

至福のナパ・バレー

信じがたいものを見てしまった7月7日

 

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リオの鮮烈な思い出

2016 AUG 7 0:00:48 am by 東 賢太郎

リオ五輪の開会式の入場行進を見ていて、206の参加国のひとつに「難民」というのがあるのが時代だなあと思いました。世界が貧富のディバイドという難題に見舞われており、それが政治、宗教、国境問題、軍事対立そしてテロという形で表面化しています。そのどれもが個別独立の原因に発した別個の問題に見えますが、そうではなく、その根っこに横たわるのは貧困、飢餓というひとつの、しかし最も深刻な問題です。式典の前半はそれに周到に配慮したものと見ました。

華やかな会場を一歩出るとバリケードのような柵が囲っていて機関銃で武装したポリスが大勢張り込んでいる様子が画面に映しだされます。バッハ大会委員長の誇らしげなスピーチが人類の平和を謳い、聖火台の点火と見事なアトラクションに酔って放映が終わると、正午すぐに始まったニュースが今日8月6日は広島の原爆投下から71年となった日であることを伝える。黙とうの要請を広島市が送ったがそれは見送られたようですね。実に複雑な気持ちになったものでした。

3年前にこのブログを書きました

津坂さんの蛙鳴蝉噪(幸福度)を読んで

このブラジル出張がリオ・デ・ジャネイロでありました。1991年の2月初旬、まだ36才です。成田からバンクーバー経由で24時間かかりましたが、このとき搭乗したヴァリグ・ブラジル航空は実に快適で、ビジネスクラスなのに食事はファースト並みで立派なフィレステーキまで用意されてよく覚えてます。サービス良すぎたんでしょうね、2005年に倒産してしまいました。

リオには午後到着して、ホテルはたしかシーザー・パレスでした。フライト疲れと時差でふらふらでしたが、なんだかときめくものを感じて外を歩きました。2月(真夏)。カーニバル1週間前のざわざわ。まぶしい太陽。イパネマ・ビーチを歩くと渋谷の駅前みたいに若い女のコばっかりわんさかいる。それがみんな堂々たるトップレスで頭がくらくら。仕事柄40以上の国を訪問してますが、リオの衝撃をしのぐ経験は今もってありません。

インフレ率が300%と聞いており、まさかねと半信半疑でした。ところが同行の後輩が「ほんとですよ!」と大声をあげます。ホテルのショップでネクタイの値段をじっと見ながら「ほら昨日の値段から1%上がってるでしょ?」ほんとうだ。さすが証券マンは相場に目ざといとそっちも関心しましたが。しかしネクタイのプライスタグのお値段が株価みたいに上げ下げするなんて・・・定価販売に慣れた僕らは目が点でした。

財務省の高級官僚さんの2億ドルの借款返済への大物スタンス(要はケセラセラ)には2度目の衝撃をくらいます。役人が1200万人もいて民間より多く、今のギリシャみたいなもんでした。前年に620億米ドルと人類史上最大のデフォルト(要は国家破産)をした国の財務省です。馬鹿なことを聞くなと思ったんでしょうが、当時はこっちはあんまり事の深刻さがわかってなかったですね。

飲み屋で英語の通じるおっさんに「大インフレと不景気のわりにホームレスがいないね」と尋ねると、「あったかいからね、寝れればどこでもOKさ、食いもんはバナナもヤシの実もそこらじゅうに落ちてるよ」。なるほど今になってみればミクロネシアとおんなじだったんだ。国はぼろぼろで借金漬け、国民は衣食住足りてサッカーで幸せ。これはサンパウロ、ブラジリアへ行っても同じでした。

このあとアルゼンチン(ブエノスアイレス)、チリ(サンティアゴ)の財務省、企業も訪問して大旅行だった出張を終えました。この数奇な体験で僕の「国家観」は根本的に修正が加わることになりました。インフレを肌でイメージしましたし、国債なんていかにはかないモノかも痛感しました。数字だけで頭で理解してる人にはこの感じはわからないだろう。

当時は梅田支店、ロンドンと株を売る野蛮な営業の経験しかなく、スマートな国際金融業務などド素人もいいところ。そんなのが課長で赴任した国際金融部の皆さんは大変だったろうと申しわけない限りですが、その2年間で引受業務のイロハを習ったのはその後の人生で大きなプラスでした。この出張も経験して来いという部長の計らいだったと思います。野村證券はほんとうに懐の深い会社。ここに入らなければ今は絶対にありません。

 

(こちらもどうぞ)http://sonaradvisers.co.jp/2016/08/07/776/

 

 

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陛下の生前退位報道とミクロネシア

2016 JUL 15 1:01:29 am by 東 賢太郎

ミクロネシア連邦(Federated States of Micronesia 略称:FSM)の首都パリキールに行っておりました。昨日帰国して北緯7度の同国より東京が暑いのには閉口しましたが、涼しげなそうめんを食すとやっぱり日本はいいなと思ったりするのです。

僕のビジネスは多国籍で、証券の発行体まで含めるとすでに6か国に関わっております。自分が駐在した香港、ドイツ、スイスはそこに入っておらないので可能性があり、これからは西アジアの国も候補になってくるという塩梅です。ICONtvにいたっては視聴者は全世界ですから、自分は日本にいますがそれは両親がいて日本食があって温泉があってプロ野球が観られるという以外には積極的な理由はないのかもという気もしてきます。16年も海外で暮らすとそういう感覚になります。愛国心とは別のことです。

今回の出張はこういうものでした。

ミクロネシア連邦のジョージ副大統領と会談

このほか、堀江良一特命全権大使にもお時間をいただきました。同国への僕の関心は日本国の歴史への関心と畏敬であり、教科書や日教組がまじめに教えない太平洋戦史であり、10数年前に鹿児島の知覧を訪問して以来深く心に残った何ものかです。海外生活を通して外国の良いところもたくさん知ることになりましたが、その何十倍も「俺は日本人だ」というアイデンティティーと誇りを深めて帰ってきたのは行く前からは想像できないことでした。

今日報道された陛下の生前退位ですが、驚き、感慨を覚えるとともに、昨年4月の悲願であられたパラオご訪問を成し遂げられたこともあるかと愚考する次第です。出発にあたって東京国際空港で述べられたお言葉にこうありました。

終戦の前年には,これらの地域で激しい戦闘が行われ,幾つもの島で日本軍が玉砕しました。この度訪れるペリリュー島もその一つで,この戦いにおいて日本軍は約1万人,米軍は約1,700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で,このような悲しい歴史があったことを,私どもは決して忘れてはならないと思います。

ペリリュー島はパラオ中心部から南に50キロも離れており、大人数が乗れる飛行機が離着陸できる空港がなく、船で行き来するには片道1時間以上かかるため海上保安庁の巡視船「あきつしま」に両陛下お二人が宿泊し、船に搭載されたヘリコプターでペリリュー島に向かうルートで訪問が実現したそうです。ご病身で貴賓室も何もない熱帯の船上でご宿泊とは異例なことで、これがいかに覚悟がいることかは南洋の島に行けばわかります。

これがその時のニュースです。

150409-16daitouryounadoその時の晩餐会の写真で、左のお二人がミクロネシア連邦モリ大統領夫妻です。パラオに招かれてミクロネシア連邦にも同様のお言葉とお気持ちが述べられたということです。同国でもパラオと同様の激戦があったことはこれまで何度も書かせていただきました。

 

この大戦が無謀であったことは論を待たないし二度と過ちを犯してはならないことは誰の目にも明白ですが、だからといって犠牲になった方々を忘れてよいわけではありません。ミクロネシアには沈船をはじめ戦跡が多数あり、巻き添えになったにもかかわらず島民の方々が日本を嫌うことも批判することもなく今も親日的です。陛下のパラオ訪問にはミクロネシア三国のそうした事情へのお気持ちもあったと察するものです。

今回もそうですが、ミクロネシア連邦の政府閣僚にそういう話題を投げると、わからない人もいるが呼応する人もいます。全員が親日などというバラ色の話ではないが、アジア周辺でそうではない国が多い中で僕は台湾と同じく大切にしたいものを感じるのです。ここに残ったものはナショナル・トレジャリーとして大事にするのが英霊への礼であり、ご赴任して1か月の堀江全権大使閣下には、放置されて荒れている山本五十六邸のことも申し上げておきました。

海外事業を中心にすえるので実務としてワークしさえすれば投資の本拠はどこでもよいのですが、いまさらニューヨーク、ロンドンというのも粋でなくコストも高い。ならば大事に思ったミクロネシア連邦の首都パリキールにおいて幾ばくか税金も落としてあげ、それで我が国のナショナル・トレジャリーを保全などしてもらいたいという強い気持ちです。管理、保全するのは同国だからですが、しかし民間でできるのはそこまでで、大使を通じて国ができることも多々あろうかと思います。現に中国はカネをばらまいて政府の心をつかんでいる様子が大いに感じられ、レストランには去年は聞こえなかった中国語が飛び交っていました。陛下のパラオご訪問は、そういう流れへの危惧のご表明でもあったのではないでしょうか。

今回はジョージ副大統領とローレンス財務大臣にお会いし、そういう気持ちで同国に投資をしている会社として政府の動きに不満があることを僕流にストレートにお伝えすることになりました。朝の役人との会議で僕が「場合によってはカネをひき上げる」と言ったもので緊迫しましたが、最後には国会対応も含めてしっかりやるという副大統領のお約束があったのでとりあえず安心はしました。

最後に、これから同国にての活動を社員としてお手伝いいただきたいということをSMCにお入りになった市原さんにお願いしたところ即ご快諾いただきました。23年の滞在経験は大変心強く思いますし、初めてお会いしたばかりですがすぐそういう関係ができたご縁というものを強く感じます。

 

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ソウルに日帰り

2015 DEC 24 0:00:19 am by 東 賢太郎

今日はソウルに日帰りしてきました。羽田を8:20に発って重要なミーティングを3つやり、金浦19:00発でとんぼ帰り。まるで殺人犯人のアリバイ作りみたいです。

どうしても来いと抜き差しならなくなったのが昨日の夕方6時です。急遽フライトを手配してもらい、しかし24日の朝に2つこれも非常に重要な仕事があって仕方なくこうなりました。何をしたかは一切書けませんが。

行った目的はなんとか果たしたのですが、元部下の強力な尽力のおかげです。この「目的を果たす」というのこそ要諦で、僕は「スナイパー能力」と名づけている。007ですな、頑張りましたではなく(そんなことはどうでもいい)、やりましたです。

某現地証券のK君はそれを発揮してくれ、一緒に昼飯を食べながら「キミいいな。証券で成功できるぞ」と申し上げた。お世辞でなく。31才。その若さでスナイパーを感じる奴はそうはいない。「こうしろよ」と、お礼に僕の憲法5か条をお教えして別れました。彼を見つけてきた元部下の能力でもあるのだが。

もうひとり、ある事業を立ち上げている若手経営者。日本語堪能。その事業に必要な能力要件を満たしている。韓国の有能な若手のアンビションは実にいい。僕は国籍などまったく関係ない人間なので、いい才能は支援したくなる。投資を考えます。

 

(追記、3月22日)

人間の運命はわからないもので、最後に書いた部分の支援、投資が、散々剪定して最後に残った2つの事業に入った。奇跡のような奇遇。この時、時間が余って彼に会ってなければ、いや、そもそも緊急の困った事態が日本で起きなければソウルに行ってもいなかったのだ。そうしたら、こんなことは100%おきてもいなかった。

これは情報を発信する事業だ。投資はそれを受け取って分析するビジネスだが、情報というものは双方向であってこそ確度が増す。このSMCはささやかながら発信のメディアだが、それを何千倍もの規模でしたい。それも国境なしの若者文化、ジャンルを問わずだ。「若者に教えたいこと」はSMCでの僕の重要なテーマだった。

世界は操作されたウソの情報に満ちている。騙されれば権力の餌食となり、投資でプロの餌食となる。僕が香港で知り合った華僑の大物はみなそういった。政治家ではないので社会を守る力はないが、家族、子孫をそうならないよう教育する義務が僕にはあるだろう。仲間、友人、お客様も。ソナーはそのための会社だ。

この事業は社会を変えないかもしれないが、若者を元気にし、正しいと我々が信じる情報を発信し、日本国を世界に発信できるかもしれない。5年後、10年後に何がおきるかはお楽しみだ。

 
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ゴルフへの情熱について(ハノイにて)

2015 NOV 28 23:23:22 pm by 東 賢太郎

ゴルフは予定になくて、何の用意もしていきませんでしたが、ベトナムでもののはずみでやるぞ!ということになってしまいました。先発組が我々第2陣の着く前にやっていて豪雨で途中で断念。僕は香港で2年半毎週末やりながら中断はあっても一度も雨天中止なしという晴れ男で、今回も見事に3日間だけハノイは晴れました。

Tr001004201505282209262Van Tri Golf Club  は空港から途中に位置するハイクラスのコースでおすすめです。芝もグリーンも日本の名門コースに遜色ありません。しかし、ハノイは漢字で「河内」と書くだけあって川、池、水郷、湿地だらけの土地ですからここもウォーターハザードが無数にあり、曲げだすとボールが足りないかも(まあワンペナだからOBよりましという前向き思考がいいですね)。

月曜の午前中は開けないそうですが特別だったようで貸切状態でした。用意がないのでもちろん貸クラブ、貸靴ですが、ゴルフというのはやる気次第でなんとかできてしまうのです。僕は去年の始めに五十肩をやって以来この遊びは足を洗っていて、というのは昔の自分といえども負けるのは嫌であり、べスグロは43才だったから60のジジイがかなうはずもなくて、要はプライドを維持するにはやらないのが一番なのです。

まずは飛距離のなさ、方向性のあまりのひどさに、ああ早く終わりたいとなる。この日も1番のパー4でいきなり曲げて8をたたきました。しかし、やるうちにひとりにひとり付いてくれている若くてかわいいキャディーさんが一生懸命してくれて申しわけない。なにせ距離計測用レーザーまで持っていて、「ピンまで29ヤードです」なんていちいち教えてくれるのです。寄せですよ、29ですよ、そんなの普通は測らない。

半端な数字を言われるとかえって体のセンサーが働きだしてうまく寄ったりします。それでだんだんスイッチが入って3連続パー。やっとゴルフらしくなってきたところで18ホールお終い。昔ならここでよしもう1ラウンド!だったんですがその体力、情熱はなく、マッサージに行って満足。なるほどこれからは宗旨替えしてこれを目ざせばいいか・・・。

30,40代はなぜあんなにのめりこんでゴルフやってたんだろう?たぶん好敵手に負けたからです。人一倍負けず嫌いだから。でもそれがなくなってしまった。今では信じられないグロス75を出して達成感ができてしまったし、回数も半端じゃなくて一生分は優にやってしまった感じがあるのです。今回も終わってみればあのやる気のなさは何だったんだというほど楽しんだのですが、少々の刺激じゃあ反応しなくなったのも事実です。ゴルフだけの話ではないですが・・・。

今は仕事が大きな山場で忙しいなんてもんじゃなく、一切それ以外には気がいかない状態。何をやっても上の空だから仕方ないです。ドライバーを振っても五十肩のダメージは意外になかったので、また遊び心が復活すれば情熱が戻るかもしれないという手ごたえを感じました。ひっぱってきてくれた仲間に感謝です。

 

左肩痛とゴルフ

 

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