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第1次大戦を考える その4-ドイツ軍の戦術的失敗

2015 FEB 4 15:15:14 pm by 中村 順一

さて、既に見たように、ドイツはオーストリアに引きずられて大戦に突入してしまった。ドイツが総動員令を出したのは、8月1日の午後4時で欧州大陸のどの国よりも遅かった。ところがシュリーフェンプランしかないドイツ軍はベルギーへの進路を開かざるを得ない立場にあり、結局宣戦布告者にならざるを得なかった。

ドイツはこの戦争を通して、よく戦った。お粗末な、オーストリア軍とトルコ軍くらいしか、味方がおらず、ほとんど全世界を敵に回して、4年以上も戦ったのである。そして1914年の東部戦線を除けば、敵兵を一歩もドイツ国内には踏み入れさせなかった。第2次大戦とは全く違う。しかし、ついに敗れた。

筆者も、長い間いろいろな資料で研究してきたが、ドイツ軍は下記に述べる、3つの致命的な戦術ミスを犯していると思う。

 

ドイツ軍失敗、その1、 1914年の西部戦線攻勢失敗 ー 不徹底だったシュリーフェンプラン

小モルトケはシュリーフェンプランの本質を理解できていなかった。このプランの本質はリデル・ハートが詳細に分析しているが、フランス軍がアルザス・ロレーヌに侵入してドイツ軍の左翼を攻撃し、手薄なドイツ軍左翼が後退すれば、そのフランスの攻勢自体がドイツ軍にとっての利点となり、あたかも”回転ドア”のように、フランス軍の左翼への重圧が、ベルギーから大迂回して背後をつく、ドイツ軍主力にとって益々有利になる、という点にあった。

しかし、彼にもそれに代わる代替案があった訳ではなく、結局実行したのはシュリーフェンプランの改悪版だった。シュリーフェンプランは東部戦線は当面犠牲にし(ロシア軍の動員が遅いことが前提)、左翼(アルザス・ロレーヌ)は一切攻勢に出ず、ひたすら強力な右翼をもって一気にパリを占領した後、フランスを殲滅するという徹底したものだったが、小モルトケは確信が持てず、アルザス・ロレーヌの防御にかなりの兵力を割いた。それでも右翼のドイツ軍は当初好調に進撃し、第一線の司令官は8月末にはパリ陥落も間違いない、と確信を持ちつつあった。

ところが、その時ロシア軍が予想より早く、東プロイセンに侵入してきた。2個軍40万人以上の兵力である。ロシアも鉄道網が整備されてきており、シュリーフェン伯爵がシュリーフェンプランを作った10年前のロシアではなく、動員は比較的短期間で実行できたのである。東プロイセンを守る第8軍は15万の兵力しかない。東プロイセンを失う訳にはいかない。小モルトケはあわてて右翼から2個軍を引き抜き東部戦線へ配置転換した。皮肉にも、この時、ヒンデンブルクとルーデンドルフが指揮した、タンネンベルクの戦いでは、ドイツ軍は2倍以上の兵力のロシア軍に圧勝し、西部戦線から駆け付けた2個軍が到着した時には、タンネンベルクの戦いは終わっていた。

右翼の兵力が足りなくなった。9月のマルヌの会戦ではフランス軍が反撃、ドイツ軍の進撃は阻止された。シュリーフェンが狙った西部戦線での短期決戦は不可能になり、泥沼の消耗戦へともつれこんでいくことになる。

果たして、もしシュリーフェンプランが当初の意図通りに実行されていたら、どうだったか?という論点は世界の軍事専門家の間で、その後長く議論されている。「ドイツ参謀本部(中公新書)」で渡部昇一は、「成功した、何故なら改悪版の小モルトケの作戦でも、ドイツ軍はパリ郊外50キロ迄到達したではないか」と述べている。

いずれにしても開戦当初の1914年がドイツ軍にとって最大のチャンスだったことは間違いない。タンネンベルクでは圧勝したが、ドイツは東部ではなく、西部戦線での戦略的勝利が必要だったのである。

ドイツ陸軍参謀本部の参謀総長は、1883年以降、皇帝に直接意見を上奏する上奏権を認められており、直接皇帝に統率されていた。ドイツ陸軍は、当時国家の中の国家であり、参謀総長小モルトケの権力は絶大だった。しかし、小モルトケは病身で神経質であり、大ドイツ陸軍を統率する任務に耐えなかった。彼はマルヌの会戦の失敗で、辞任を余儀なくされた。代わってファルケンハインが参謀総長に就任したが、彼も指導力は十分でなく、1916年6月のヴェルダン要塞攻撃に失敗して解任された。

この難局になって起用されたのが、タンネンベルク戦の勝利により、国民的英雄になっていた、ヒンデンブルクとルーデンドルフのコンビであった。ヒンデンブルクが参謀総長、ルーデンドルフが参謀次長(第一幕僚長)になった。ヒンデンブルクはルーデンドルフに絶対の信任を寄せていたので、この新設ポストはルーデンドルフに思う存分腕を振るわせるためのものであった。ルーデンドルフは知力も実力も傑出した人物であり、大戦後半のドイツはルーデンドルフの独裁と言ってもいい状況になっていく。ルーデンドルフが「戦争遂行上自信が持てない」と言うだけで、大臣の首などたちまち飛ぶほどの事態となり、ヴィルヘルム2世とベートマン・ホルベーク首相の影は全く薄くなった。以降の戦争は、ドイツにとって”ルーデンドルフの戦争”となった。

ルーデンドルフは傑出した戦争指導者であった。独裁者になっても、ヒトラーのように狂ったわけでは全くない。当時のドイツには、彼ほどの有能で断固たる命令を下せる人間がいなかった、ということが彼に権力が集中していった理由だろう。

しかし、ルーデンドルフは2つの致命的なミスを犯してしまう。

 

ドイツ軍失敗、その2,   無制限潜水艦作戦の遂行 ー アメリカの参戦

ルーデンドルフの最大の失敗は、アメリカを参戦させる原因となった、無制限潜水艦作戦の遂行である。 無制限潜水艦作戦とは、戦争状態において、潜水艦が敵国に関係すると考えられる船舶に対し、無警告で攻撃する作戦である。

第1次大戦でのドイツ海軍の最初の実施は1915年2月で、英国海軍の北海機雷封鎖によるドイツに対する事実上の無差別攻撃への不満から、英国の海上封鎖と周辺海域での無警告攻撃を宣言していた。1915 年5月には英国船籍ルシタニアが南アイルランド沖でドイツ潜水艦の雷撃を受け、乗客1198名が犠牲となった。アメリカは当時孤立主義で中立国の立場だったが、犠牲者の中に128名ものアメリカ人が含まれていたことから、アメリカ国内ではドイツに対する世論が急速に悪化した。そこで一旦はドイツもこの作戦を中止した。

しかし、その後、戦争が長期化するとドイツは再び無制限潜水艦戦を決意した。ヴィルヘルム2世とベートマン・ホルベーク首相はアメリカの参戦を招く、として反対だったが、海軍の要請もあり、ルーデンドルフが強力に賛成し、1917年2月に再び実施の宣言をした。当時のアメリカはヨーロッパの戦争に介入することに極めて消極的で、ドイツの無制限潜水艦作戦さえなければ、参戦の可能性は少なかった。ルーデンドルフがアメリカは戦争準備ができていない、として過小評価したのである。これがアメリカの潜在能力の過小評価だったのは、その後明らかになった。西部戦線最後の攻防戦でアメリカ軍は決定的な役割を果たした。

 

ドイツ軍失敗、 その3  ー  1918 年に100万の軍隊を東部で浪費

1917年にロシア軍は崩壊、1918年3月にはドイツ軍に極めて有利なブレスト・リトフスク条約によってドイツとソビエト連邦は単独講和した。ルーデンドルフにとっての最大の失敗は、これをドイツに有利な講和に結びつけられなかったことである。東部戦線で不要になった100万のドイツ兵を外交の武器にして連合軍に講和を迫れば、ドイツにとって、有利な和平を達成できた筈、とチャーチルもロイド・ジョージも言っている。

1918年3月21日には、ドイツ軍は東部戦線にいた兵士を西部戦線に合流させ、乾坤一擲の攻勢に出た「作戦名、皇帝の戦い(カイザー・シュラハト)」。実際ドイツ軍は快進撃を続け、パリの120キロ圏内へ進撃し、パリ砲(ドイツの有名な列車砲。射程100キロ以上の長距離砲撃が可能。)がパリに向けて200発弱の砲弾を撃ち込み、パリは完全にパニックになったという。実際、ヴィルヘルム2世は3月24日を国民の祝日にすることを宣言。多くのドイツ国民が勝利を確信した程だった。本当にもう一息だったのである。

だが、この時のドイツに既に余裕は無く、ルーデンドルフにとって、勝利とはパリ郊外への接近ではなく、パリを陥落させ、英国軍とアメリカ軍をドーバー海峡まで押し返すほどのものである必要があった。 後の調査のドイツ議会の「調査委員会報告」では、ルーデンドルフはこの時、ドイツの東方勢力圏をフィンランドとコーカサスを結ぶ線まで拡大するため、ウクライナとバルト海沿岸の占領という、結果的には全く無駄な作戦のため、大量のドイツ軍を東部に留めていた。貴重な兵力を東部で浪費したのである。ドイツにとっては痛恨であろう。

7月以降は連合軍が反撃に転じ、8月8日にはドイツ軍の敗走が始まって、「ドイツ陸軍最悪の日」になった。

その後、同盟軍は総崩れになり、9月30日にブルガリア、11月11日にオーストリアが降伏し、11月11日にはドイツも降伏した。

第1次大戦は終わった。以下、次号では、その最悪の戦後処理について述べる。

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