賛否両論、その2、フルトヴェングラー(後半)
2013 MAR 10 4:04:37 am by
昨日書かせていただきました、指揮者フルトヴェングラーの続編です。「否」の側面に入る前に、「賛」の補足をいたします。フルトヴェングラーらしさが充分に発揮された演奏の具体例を2つ挙げておきます。
例1:ブラームス交響曲第1番の第一楽章
長い長い序奏が終わり、呈示部入りを告げる合図でもある、あの「ティンパニーの一撃」、フルトヴェングラーほど、明確に、わかりやすく、ティンパニーの音を浮かび上がらせ際立たせた例は少ないように思います。誰の指揮とは言いませんが、少し前に、あるライブ演奏で聴いた同曲では、あの大切なティンパニーの音が他の楽器の音の中に埋没し、全く目立っていないケースも耳にしました。
ベートーヴェンを超える交響曲をぜひとも書きたいとのブラームスの思い、ある意味、ベートーヴェンに対して挑戦状を叩き付けるかの如き、ブラームスの高揚感が良く出ているように思います。
例2:シューベルト交響曲第9番「ザ・グレート」第1楽章
展開部の最後の部分、そこでは徐々にリタルランドが掛かり、テンポが大変遅くなり、自分が見た夢に対する未練のような情緒が描かれます。その部分が終了して再現部に入り、第1主題が再現されると、当然テンポは呈示部の速いテンポに戻りますし、楽譜にもそのように書かれているはずです。ところが、フルトヴェングラーだけは、展開部最後の部分の遅いテンポを、そのままにして、再現部が始まったことが信じられないというような風情で、ためらいがちに遅いテンポのまま第1主題の再現を行ないます。この部分、否定意見が多く出そうですが、私個人としては、感覚的にものすごくシックリ来ます。
「否」の側面について
これだけ個性的で「やりたい放題」の指揮者ですから、当然、非難や否定意見は沢山出て来ます。
名前は失念してしまい申し訳ございませんが、フルトヴェングラーについての著作があるイギリス人の音楽評論家によれば、イギリスでは、フルトヴェングラーは「山師のように、いたく嫌われて」いるそうです。イギリスでは、トスカニーニやクレンペラーが信奉され、この2人の指揮者には「まるで、ベートーヴェンが指揮台に立ったような」という形容がされるほどだそうです。私が仕事で2年半ほど滞在したアメリカ合衆国でもフルトヴェングラーの人気は、それほどでもなかったようです。
さて、ここからは、あくまで私個人の意見ですが、フルトヴェングラーの「否」の側面が最も如実に出ているのは、ワーグナーとブルックナーだと思います。彼のテンポを大胆に変える手法がワーグナーとブルックナーの音楽では、著しくマイナスに作用し、その結果、ワーグナーの「毒とも言える音楽の色気」やブルックナーの宇宙を思わせるようなスケールの大きさが全く表現されていません。
その例として、ワーグナーでは「ジークフリートの葬送行進曲」、ブルックナーでは「交響曲5番や9番」が挙げられると思います。
ワーグナーやブルックナーでは、例えば、ハンス・クナッパーツブッシュ(この人も極めて個性的で色々なエピソードにこと欠かない人ではあるが)のように、テンポをあまり動かさずに、細部をコツコツと積み重ねて行く手法の方が合っているように思います。
それから、ベートーヴェンの交響曲でも第9や第5の終結部分の異常な速さには付いていけませんし、4番や8番の演奏では、曲との相性もいかにも悪い。
フルトヴェングラーを聞き慣れていない内は、その強烈な個性溢れる解釈に新鮮みを覚えますが、聞き慣れてくると、「この曲の、この部分で、きっとテンポが遅くなるぞ、あるいは速くなるぞ」などと、彼の「手口」が読めてしまうのも、「否」の側面でしょう。
私も、学生時代など若かった頃は、フルトヴェングラーの音楽を大変楽しめましたが、中年期をとっくに過ぎ去ってしまった今では、ついていけないと言うか、逆に曲の良さを損なってしまっているように感じることも多いのも正直なところです。
そうは言っても、やはり、フルトヴェングラーは凄い指揮者(本人は「指揮も出来る作曲家」と言われたいと強く願っていたそうですが)であることは間違いないと思います。
失礼いたしました。花崎洋
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東 賢太郎
3/10/2013 | 11:01 AM Permalink
花崎さんが彼をお好きなポイントがよくわかります。曲は何でしたか、チェリビダッケが適切なテンポのアドヴァイスを求めたら「演奏会場による」という答えだったそうで驚きました。彼がフィラデルフィアで振ったらきっと速かったんでしょう。これはもう演奏哲学の違いです。演奏が毎回違うのもライブで燃えるのも道理です。しかしそうなると作曲家のメトロノーム指示は意味なしということになりますから彼は演奏家というより再現芸術家とでも呼ぶべきかもしれません。自分が介在して感動を与えたい人ですから介在する場がある曲でないと個性倒れになります。ブラームスだと3番がそうです。そういう人はすべてを支配できる作曲家に憧れるようですね。クレンペラーもワルターもバーンスタインもそうでした。そうではなかったのがトスカニーニですが彼の場合スコアの読みこみ方に(巷で言われる以上に)「自分」が入っていて自己顕示欲では甲乙つけがたいと思います。そもそもそれがない人は指揮者にはならないのでしょうが・・・。トスカニーニはフルトヴェングラーが大嫌いでしたがワルターとは肝胆相照らす仲だったというのが面白いですね。
花崎 洋 / 花崎 朋子
3/10/2013 | 12:33 PM Permalink
再現芸術家ですね。非常に言い得て妙であります。フルトヴェングラーのブラームス3番、東さんのご見解に完全に賛同します。特に最終楽章では、テンポが滅茶苦茶になり、空中分解を起こしていますね。トスカニーニが一部の人が言うように「インテンポ」の指揮者ではないと私も思います。細かいテンポのゆらぎが非常に多いですね。ワルターの娘さんが夫によって殺害されるという大変な悲劇が起きた時、ショックで呆然自失のワルターに変わり、急遽、演奏会場に駆けつけ、確か、リハーサル無しで本番の棒を振ったのが、親友のトスカニーニであったという話も聞いております。花崎洋
東 賢太郎
3/10/2013 | 6:25 PM Permalink
トスカニーニはオケに対しては暴君でしたが作曲家に対しては自分はしもべと考えていたようです。新進作曲家の新作交響曲のリハーサルで、立ち会った作曲家が横からトスカニーニにあれこれ口出しするので周囲はいつ爆発するかとハラハラしたそうです。しかし彼は指示に黙々と従い、終了後に友人にどうして平静だったのかと問われると「この曲を彼以上に誰が知っているというんだい?」と答えたそうです(文献では曲名が伏せられているのですがこれは多分スエーデン人アッテルべリの交響曲第6番でのことだったと推察します。私見ですが、つまらない曲です)。しかしオケに対しては逆で、ある日のスカラ座のボエームの舞台で、そこまでは二度とないぐらいうまくいっていたのが、ミミの死のホルンが「彼とそのホルン奏者以外誰にもわからないぐらい少しだけ棒より早く出た」ことに激怒し、奏者を部屋に呼びつけて「君は僕の人生を台無しにした」と怒りをぶつけ、その晩はディナーもキャンセルとなって奥さん、子供も空腹でベッドに入ったそうです。すごい人です。このぐらいでないとあのベートーベン演奏はできないとしみじみ思います。
花崎 洋 / 花崎 朋子
3/11/2013 | 7:12 AM Permalink
そのスカラ座でのボエーム、完璧主義者ならではの、とてもトスカニーニらしいエピソード、たいへん有り難うございます。演奏の完成度の高さに人生そのものを懸ける姿勢に、私のような凡人は、ただただ頭を垂れるのみです。アッテルベリのつまらない作品に奉仕するトスカニーニの謙虚さにもたいへん驚きました。