私が選ぶ「ウィーンフィルの名盤」あれこれ
2013 MAY 12 6:06:01 am by
前回投稿させていただきました「ベスト3」の続編です。
私なりの4分類にて挙げさせていただきます。
1:指揮者と楽曲が相性抜群の演奏
ワインガルトナー指揮 ベートーヴェン交響曲第8番
「典雅で小粋」な演奏で、この曲が元来持つ特性が物の見事に表現されていると思います。
シューリヒト指揮 ブルックナー交響曲第9番、第8番
テンポの設定等、指揮者の私意はかなり入っていますが、流れが自然で安心して聴けるのに、大変深みのある定番的な名演です。
クナッパーツブッシュ指揮 ワーグナー楽劇ワレキューレ第1幕
上記の曲に限らず、「ジークフリートのラインへの旅」など、正にクナッパーツブッシュとウィーンフィルのコンビによる「十八番」。
フルトヴェングラー指揮 ベートーヴェン交響曲第7番
私見ですが、フルトヴェングラーとウィーンフィルのコンビによるベートーヴェン、他には有名な「ウラニアのエロイカ」が思い浮かぶくらいで、相性抜群に分類される名盤は意外に少ないようです。
ボスコフスキー指揮のウィンナワルツ
長年ウィーンフィルのコンサートマスターを務めたボスコフスキーによる自然体なのに、やはり本家本元という表現がピッタリの演奏。
2:楽曲との相性は悪いのに、何故か感動してしまう演奏
フルトヴェングラー指揮 ベートーヴェン交響曲第6番「田園」(1952年録音)
以前も挙げさせていただきました、これほど「田園らしからぬ」極めて異様な演奏ですが、感動の度合いは深いものがあります。
クナッパーツブッシュ指揮の「小品集」(チャイコフスキー組曲「くるみわり人形」、シューベルト「軍隊行進曲」、ウェーバー「舞踏への勧誘」)
録音プロデューサーによると、正真正銘の「ぶっつけ本番の演奏」。なのに完成度が高く、何回聴いても飽きが来ないのは驚異的です。ワーグナーやブルックナーを「十八番」とした怪物クナパーツブッシュの芸風からは想像もつかないような選曲ですので、分類2に入れてみました。
3:相性云々を超えて「徹底的に突き抜けた」名演奏(楽曲との相性等 お構いなしに正面突破を強行し成し遂げた名演奏)
カルロス・クライバー指揮 ベートーヴェン交響曲第7番
若武者クライバーの熱意にウィーンフィルも本気で応え、両者の間に火花が散るような演奏。第5番「運命」は未聴ですが、恐らく同様の名演であろうと想像します。
シルヴェストリ指揮 ショスタコーヴィチ交響曲第5番
バーンスタインに代表されるドラマティックな名演奏の対極を行く「抑制的禁欲的」な演奏なのに、感動の度合いも深いものがある不思議な演奏です。伸び伸びとした演奏が多いウィーンフィルが、指揮者シルヴェストリの指示に従い、これほどピリピリした緊張感に満ちた演奏をするのは(ネコ型ウィーンフィルらしからぬ演奏は)、とても珍しいと思います。
4:敢えて指揮者が強烈に自己主張せずとも、曲自体に大いに語らせる 「自然な流れの名演奏」
カール・ベーム指揮 ブルックナー交響曲第4番、7番、8番
ウィーンフィルの楽員の自発性を最大限尊重し、楽員もそれに応え、伸びやかで、それでいて深みのある演奏です。安心して曲本来の魅力を味わうことが出来ます。
ルドルフ・ケンペ指揮 小品集(ウィンナワルツ、シューベルト「ロザムンデ序曲」、メンデルスゾーン「序曲フィンガルの洞窟」など)
指揮者ケンペは正に黒子に徹し、ウィーンフィルに最大限、歌わせ、語らせ、流麗にして典雅、音色も明るく美しく、聴く者に幸福感を与える佳演の数々と思います。
花崎 洋
Categories:未分類
東 賢太郎
5/13/2013 | 10:03 AM Permalink
花崎さん、まさにウィーン・フィル名演集ですね。分類のご主旨もよりよくわかるようになりました。シューリヒトのブルックナーはSACDが出ましたが音も素晴らしいです。これぞウィーンフィルです。クナはこのワルキューレを契機に全曲いくはずだったのが録音嫌いで降りてしまい、ショルティにお鉢が回ったのです。これを聴くたびにつくづく惜しいと思います。ベームの晩年の一連のDG録音はムジークフェラインの最上の音がするという意味でも大変貴重です(特にこの4番のホルンなど比べるものがありません)。ベームのテンポ、ダイナミズムはこの音響と黄金比のごとく密接な関係があることを学びました。そこがこのオケのホームなのですからオケも納得。確信をこめて弾いていますね。しかしエンジニアが変わったのか、以後のVPO録音にはどうもそれを感じません。ライブの方が演奏がいいといわれ、確かにそういうケースもありますが、実は経費節減の目的でそうなっていることも多いと思われます。音はムジークフェラインもコンセルトヘボウも空のホールの方が当然いいのです。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/14/2013 | 5:52 AM Permalink
東さん、詳しいコメントを有り難うございます。リングの全曲録音、クナの方で降りたのですね。「クナの演奏のスケールの大きさは到底、録音には入り入れない」と釈明してプロデューサー側が没にしてしまったとの説を、聞いておりましたが、、、。ベームのブルックナー、私も特に4番が気に入っております。ホールの響き、空の方が残響が美しく、やはり良いですね。
なお、上記分類の3、自分流を頑固に貫き、「徹底的に突き抜け正面突破強行の演奏」は、クレンペラーにこそ、当てはまる例が多いと考えられますが、ウィーンフィルとのコンビの演奏を未聴ですので、今回、挙げることが出来ませんでした。
東 賢太郎
5/16/2013 | 3:17 PM Permalink
本を読み返しましたが正確には「降りた」とは書いてないですね。フラグスタートがワルキューレ1幕はジークリンデと3幕はブリュンヒルデを歌いたいとわがままを言い出し、1幕がクナ、3幕がショルティになったようです。「1幕はクナ」と通告された時のことはショルティは後世語り草にするほどショックだったようで、カルーショーが目をつけていたショルティを怒らせないようにと言う配慮も感じられます。できたてのLP・ステレオというデッカ自慢の新技術を駆使したラインの黄金が予想外に売れたこともショルティにやらせる決定打となったようです。ただショルティの本当の目当てはウィーンフィルによるベートーベン交響曲全集だったようで、それにデッカ経営陣は反対で、ワーグナーと同時進行で3,5,7番だけ録音して評判を見て決めようという決着になりました。結局評判は芳しくなく(特にオケから)その3曲で打ち止めとなったという経緯です。彼のリングは演奏、録音、売上げとも20世紀のレコード史に残るものですが、シュトラッサーのウィーンフィル史にリング録音のコメントはなくショルティは数行しか出てきません。ビジネスとしての音楽と演奏現場とは大きなかい離がありますね。あのシューリヒトの未完成も「11種類の違うテンポのテークを録音させられた」と現場があきれる低評価だったそうでそれが最後の録音になったそうです。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/17/2013 | 8:08 AM Permalink
東さん、お忙しい中、調べていただき有り難うございました。色々と深く、考えさせられるお話です。レコード発売の舞台裏には色々な思惑が隠れているものだと痛感いたしました。レコード会社は営利企業ですから、勿論、最大限売れるものを出したい、しかし、それには楽団の全面的な協力も不可欠、その上、このリングにはソプラノ歌手の我が儘も重なったのですね。
ウィーンフィルとショルティが音楽的に合うはずはないのに、リングが沢山売り上げるのも何とも不思議ですし、音楽的には相性の良いはずのシューリヒトが未完成で楽団から不評となった話、初耳で驚きました。 花崎洋
東 賢太郎
5/17/2013 | 12:00 PM Permalink
そうですね。たとえば料理の場合でも、日本人は「料理人のまごころ」や「美しい盛り付け」のような制作現場の魂(たましい)というか精根のこもり方、ハート的な部分まで味の一部と取る傾向がありますが、こういう民族は世界中で日本人だけです。欧米人はぜんぜん関係ないですね。できた料理が食えるかどうか、ヴォリュームが十分かどうかだけです。マックやドーバーソウルやシュニッツェルにハートを求める人はいません。フルトヴェングラーもクナもシューリヒトも別に日本の料理人のような魂やハートがあったわけではなく、日本人の目にはたまたまそう映るような個性のシェフだったということでしょう。コックたちは残業なしで早く家に帰りたいので、手際が良くて客受けも悪くないクナみたいなシェフが大好きだったということです。このことは僕自身ドイツ現法80人のシェフの立場になってみて実感しました。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/17/2013 | 2:59 PM Permalink
料理の例えで、たいへん分かりやすく有り難うございます。
日本人と欧米人との違い、根底には「仕事観の違い」も有りそうな気がいたします。出来れば定年後も働きたい人が多い日本人と、early retirementを誇らしく語る欧米人との違いに象徴される「仕事観」の違いです。
花崎 洋
東 賢太郎
5/17/2013 | 4:18 PM Permalink
そうだと思います。労働を「搾取される」という視点で見なければ資本論も書かれなかったでしょう。たいていのオーケストラは組合を持った労働者集団です。オケの方がシューリヒトさんの指揮は感動的なので練習時間を延長しましょうなんてことは絶対に起きないのですね。一秒でも早く仕事を終えて帰宅したがることに関してドイツ人は世界でもトップを争う国民です。見事に皆が17時ぴったりに退社するので僕は「あれで時計を合わせてる」とジョークを言っていたぐらいです。
僕自身歴代の野村ドイツのシェフとしてドイツ人社員たちに人気があったかどうかは知りませんが、たくさん働かせるので陰で猛烈に悪口を言われていたのは知っています。でも会社として大きな利益は出したので誰も表だって文句は言いませんでした。ウィーンでのショルティもそんな感じだったのでしょうか。でも彼らに好かれても業績不振で社長を首になったら意味ないですから評判など気にもしていなかったですね。それでも、僕が400億円のドイツにしては例のない巨大な引受案件を持ってきたときには17時帰宅の悪口連中が夜を徹して獅子奮迅の活躍をしてくれたという経験もあります。こういうのがオーケストラだと「名演」として残るんでしょうね。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/18/2013 | 7:48 AM Permalink
17時定刻帰宅の社員が、徹夜で獅子奮迅とは、たいへん感動的なお話ですね。「ビジネスライク」という言葉を思い出します。割り切れれば、必要な努力は行なう。400億円という例のない巨大なビジネスを前にして、少なくとも東さんの業績に尊敬の念を強く抱いていたことは間違いなく、それが彼らから「名演」を引き出したことと思います。ウィーンフィルの楽員の言葉に「良く勉強している指揮者には全面協力しますよ」というような意味の発言があったように記憶しています。それにしても、東さんは、中身の濃い人生を送って来られたことと感心しております。
東 賢太郎
5/19/2013 | 4:23 PM Permalink
いえ感動的でもないんですよ(映画だったらそうなるんでしょうが)。現実は年末のボーナス交渉が俄然厳しくなったという味気ない結末です。こんなディール1本ぐらいでロンドンなみのお金がもらえると思うこと自体がマイナーリーガーの烙印になるのですがそうとも気づかず勘違い交渉をしてくる人がたくさん出るのです。当時僕は38、9の若造、ドイツ人幹部連中は10歳も上でナメられていたと思いますが頑として押し返したので逆にまともなドイツ人に認められました。まともな人はどこの国でもまともです。そういう人だけを中核に組閣し直してから経営は地に足がついた感じとなり、業績もさらに良くなりました。白髪の本数は倍になりましたが若葉マーク経営者時代の良い思い出です。中身の濃い人生といいますか、これは当時の野村證券が人を育てることに熱心だったことに尽きるように思います。そこに乗せていただいただけです。すべて僕あるのはノムラという会社のおかげです。
花崎 洋 / 花崎 朋子
5/20/2013 | 8:28 AM Permalink
同じ「ビジネスライク」という言葉ですが、まともな「ビジネスライク」の人ならば、より良い仕事を追求→顧客満足度のUP→会社の業績向上→社員の収入のUPという具合に好循環の波に乗れますが、そうでない上辺だけの、まともでない「ビジネスライク」の社員は、ただ単に自分の収入の事しか考えないというわけですね。経営者の仕事は、単に収入だけで計ると、本当に割の合わない仕事と思います。花崎洋