Sonar Members Club No.36

月別: 2013年9月

春夏秋冬不思議譚 (秋の日に慌てた少年)

2013 SEP 28 12:12:38 pm by 西 牟呂雄

 学校から帰ってくる道を歩いていたら、夏の頃はもっと高かった夕日がちょうど商店街の道のズーッと向こうに落ちていくところが見えた。きょうはウチには帰りたくない。

 僕は小学五年生だが本当に憂鬱(最近覚えた、書けないけど)というのはこういう気持ちなんだろう、勉強になった。実はあしたは秋の遠足ということで高尾山に登ることになっていて、今日『父兄同意書』という紙にハンコをもらって出さなきゃならなかったのだけれど、すっかり忘れてしまった。担任の山田先生(通称ヤマダン)は怒った。まずいことにクラスで持ってこなかったのは僕だけだった。ヤマダンは大声で言った。

「お前はもう来なくていいー!」

 遠足に行けないのは仕方が無い。来週みんなが遠足の時の話で盛り上がってたりしたら寂しいけど、それはしょうがない。ヤマダンが怒るのも当然だ。問題はウチに帰ってからだ。かあさんに何と言ったらいいのだろう。こういう時に怒り狂ったかあさんは決まって「みんながみんなできることが、アンタだけなんでできないの!」だ。僕だけ忘れ物をするのは自分でも困ってるんだから、なんで一人だけそうなるのか教えて欲しいのはこっちだ。そして「まったくお前だけだなんて、恥ずかしいったらありゃしない。」あー、うるさいな、皆の前で立たされてかあさんの何倍も恥ずかしい思いをしてきたのは僕なんだよ、僕!それで黙ーっているとまるで死ぬまで怒り続けるんじゃないかってくらい、寝て次の日に行くまで怒るだろう。いや、まてよ、僕はあした連れて行ってもらえないんだ。遠足に行く振りをしてウチを出るのはどうだろう。だけど教室に行ったって5年生は誰もいないから目立ってしまうだろうし、六年生や四年生に混じり込むのもなー。いっそ一日公園かどっかでお弁当を食べてごまかしちゃおうか。ダメだ。普通の日に小学生が一人で一日公園にいる、なんてことはお巡りさんに見つかる。こまったな~。ますます家が近づいて来る。公園のベンチに座って考えてみよう。だけど夕焼けって言うのもこうして見ているときれいなもんだ。いっそこのまま明日の夕方になってくれれば助かるんだがなぁ。

「キミキミ、ほら、ボク。」

ワッと思った。見上げると知らないおじさんが立って僕を覗き込んでいる。あービックリした。ちゃんとスーツを着てネクタイをしている優しそうな顔をして、ニコニコしていた。

「キミ、ウチに帰りたくないんだろ?」

何で分ったんだ、ボクは目を丸くしたらしい。

「はっっはっは、おじさんもそうだったことがあるんだ。よくわかるよ。あのねえ、ついておいで。お腹が空いたろ。」 

そう言えばペコペコだった。何も考えずにおじさんの後についていった。どこかで見た顔なんだが思い出せない。今来た道をおじさんについてトボトボと歩いた。すると通いなれた道なのだが、あまり気が付かなかった角をフイッと曲がった。どこだここは。路地を通ると見たことも無い空き地があって、そこにはテントが張ってある。商店街から一歩裏に入るとこんなところがあったのか。テントはウチのとうさんが使っている奴と同じ物だが覗いてみると絨毯が敷いてあって、結構広い。おじさんは着替えていた。それから、ご飯を食べに行こう、となって駅の方に歩き出した。町並みは見慣れているはずなのだけれど、どうもいつも良く見ていないようなところを歩き、駅を越えてどこか人の家のような所に勝手に入っていく。中に入るとなぜかファミレスだった。そして一緒にスパゲティを食べた。はっきりいってまずい。

 僕はそれから家に帰ることもできず、おじさんと一緒に暮らすことになった。おじさんは何故かスーツを何着も持っていて、毎日違う色を着ている。それで会社にも行かずに全然働かない。そしてどこからか拾ってくるのか良く本を読んでいた。そしてお酒も毎日飲んでいる。パソコンで映画を見ていたりもする。しかしどこかで見たような感じなのだが思い出せない。

 僕はますます帰れないどころか学校にも行けず同級生やとうさん、かあさん、妹にみつかりゃしないかビクビクしながら暮らさなければならなくなってしまった。コンビニのお弁当もずいぶん食べたんだが、ちっとも満腹にならない。なんだか寒い。おじさんがこっちを見ている。 

「もうそろそろ帰りたいんじゃないかい。」

なんでわかったんだろう。 

「こんな暮らしをしているとおじさんみたいになっちゃうよ。」 

それもなんだかいやだな。

「うちまで連れて行ってあげようか。」

「こんな公園で寝てないで早く帰りなさい!山田先生から電話があったわよ!あした遠足だそうじゃない!何で言わなかったの!全く恥ずかしい!」 

「アッかあさん、いやぼっぼっ僕はそのう・・・・。」 
もしかしたらおじさんは未来の僕じゃないだろうな。

ウッ目が覚めた。いやな夢を見たがあれはオレの子供時代のことみたいだな・・・。 

春夏秋冬不思議譚(春の桜に愕然とした日)

 

春夏秋冬不思議譚(熱すぎる夏に干からびる恐怖)

春夏秋冬不思議譚(ゲレンデに砕けたスキー靴)


                                 

                     

 
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ロシア残照 Ⅱ

2013 SEP 25 7:07:47 am by 西 牟呂雄

以前、真冬のロシアに行った際の話。モスクワから200キロ程東にある製鉄所に行った。そこは年間400万トンクラスの中堅電炉メーカーで、コンペティターのヨーロッパ勢の牙城であり、そこに鋳造設備を売り込むというミッションだった。片道3時間くらいで雪こそ降りはしなかったがガリガリに凍った道路である、生きた心地がしなかった。帰りには少し慣れたが、特に大型トラックが猛スピードで抜いていく時など怖いのなんの。おまけにモスクワで雇った運転手はかの地は初めてで、雪原に行き先表示も無く、あっさり道を間違えてみせた。

さて商談もそこそこ進み、試験評価ぐらいはやってもらえそうになってホッとしていると、突然向こうの偉い人がこっちを向いて何か言った。無論通訳を通じてロシア語で言ったのだが、

「私の娘が日本語を勉強しているが、ナマの日本語を聞いたことが無いので、電話で話してやってもらえないか。」

だそうである。こちらも民間外交は望むところなので快諾すると、自宅に電話しどうぞ、という感じでマイクオープンにした。女の子の声が聞こえてきた。

「あたしのなまえはアリョーナです。」                               はっきりした綺麗な日本語である。~~~~ました、といっためちゃくちゃな日本語かと思っていたボクは度肝を抜かれた。                              「あのー(マヌケな返事だ)、ずいぶん日本語が上手なんですね。」            「・・・・。」(どうやら ジョウズ が解らないようだ)                  「どうやって勉強しているのですか。」                              「英語のインターネットで勉強しています。」                          「?????????。どうして日本語を勉強しているのですか。」                  「日本のアニメの主題歌を歌いたいからです。」                       「・・・・。勉強して日本に来て下さい。」

こちらでも日本のアニメは人気があるので放送されていて、セリフは全部吹き替えなのだが、主題歌のところは日本語で流れて日本語の字幕がそのまま使われているそうだ。アリョーナという(15才といったか)少女はその主題歌を覚えたくて字幕を読めるように苦労して勉強していた。こんな田舎では日本語学校があるはずもなく、ロシア語の教材もないので、インターネットの英語版の日本語教室を見ながらセッセと覚えたらしい。たかがアニメと言うなかれ、ソフト・パワーはこういう底上げには多大な貢献をしているではないか。うっかり名前も告げていなかったが、いつか日本で会うことがあったら、それは微笑ましいヒトコマになるだろう。

ヘトヘトになってモスクワで投宿したが、メール・チェックをしようとしたら繋がらない。ビジネスセンターに聞くとWi-Hiの電波は部屋ではとれず、ロビーに降りないとダメ、と言われた。仕方が無いので夜の12時にノコノコとパソコンを手に降りて行くとこれが大勢の人々。それも若い女性ばかりなのだ。これは・・・・。みんな東洋人が珍しいのかこっちを見ている。よくみればどれもとびきりの美人だ。「コンバンハ」エッ日本語じゃないか。昼間のアリョーナの日本語はかわいらしかったが、こっちは邪悪な妖艶さが声にまで出ている。ハハーン、この寒いのに(外はマイナス30度。ロビーは暑いが)やたらとスカートも短い。するとロシアのこんな所にまで来て怪しからんコトに及んだ先達がいたのか!ボクはロビーのソファーにズラリと女性がたむろして「カモがいる。」と言わんばかりの視線を浴びる片隅でそそくさとパソコンをいじっては部屋に帰った。まさか民間人の僕にハニー・トラップもないんだろうが、さすがにモスクワだ。

あのアリョーナが日本語がうまくなってもこんなところでは使わないで欲しい、と思わずにいられなかった。

ロシア残照

ロシア残照 Ⅲ


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東京湾横断航海

2013 SEP 23 17:17:52 pm by 西 牟呂雄

秋は海の険しい季節。台風も多いのだが、夏とは風が変わってヨット屋には腕が鳴るシーズン到来だ。しかしまぁロング・レグの航海も面倒だ、とホーム・ポートの油壺から城ヶ島をかわして東京湾を一跨ぎ、千葉の保田まで行ってきた。三浦岬を越えたあたりからフタコブラクダのような鋸山を狙うとほぼ東に一直線で2~3時間の距離。いい感じのナラエの風(北西の風)に乗ってセールを目いっぱいあげると、船がグーッとかしいで6~7ノットに安定した。波は思ったより高いが飛沫を被るほどじゃない。快適なセーリング日よりとなった。

但しこの浦賀水道は日本有数の船舶航行過密地域で、注意していないと巨大な貨物船、タンカーが行き来する。基本的にはそういう船舶は避けながら行くのだがあっちは早い。大型船は海面にへばりついているようなこっちから見ると,ブリッジなどは10階建てのビルくらいに見えるし、巨大な船体とバケモノスクリューがかきあげるウェーキ(航跡波)にも翻弄される。まさに木の葉のように、だ。ポツっと見えた船は見る見るでかくなって小山のようになるから要注意。ずいぶん前に自衛隊の潜水艦『なだしお』が遊覧船に衝突した事故があったが、実は『なだしお』は衝突直前に前を横切ったヨットを避けてあの事故につながった、とヨット乗りの間で噂になった。帆走船舶をかわさねばならないからだ。ヨットの名前も伝わってきたが。

東京湾は徳利を逆さまにしたような閉鎖水系で、僕達はその口のところを航海している。こういう潮目には結構珍しい光景が見られ、目を楽しませてくれる。以前はイルカの大群が延々と30分位続くのを眺めたこともある。今回は特にハイライトは無く無事保田に入港した。ここには番屋という観光コースにも入っているお土産食堂(お風呂付き)があり、東京方面から来るクルーザーも多いのでヨットバースが充実しているのだ。浦安ハーバーからは6時間くらいかかる。たくさん係留している中に特徴のあるなじみの船を見つけた。横須賀のミスター・ネイビーの愛艇だ。ミスター・ネイビーは元米海軍の士官で、横須賀勤務が長く奥さんも日本人(ちょっと見にはサモア人に見えるが)。退官後も横須賀に住み、しょっちゅう保田に来ていた。バース(浮き桟橋)のすぐ側に海の家に毛が生えた程度のスナックがあって、そこで一緒に飲んだりして仲良くなった。テキサス生まれで海などロクに見たこともなかったらしいが、それで海軍を志望したと言っていたが本当か。年の頃は少し上だからどうやら実際のドンパチはやっていないらしいが、その手の話には恐ろしく口が堅い。正にサイレント・ネイビーを地で行っていて、何に乗り組んだのかも言わない。第七艦隊の守備範囲は極東から中近東までなので、クウェートやイラクの時には現地まで行ったのでは。

ところで、海軍は一般的に海軍同士になるとやたらと親愛の情を示すと言われているが、これは本当だった。小倉記で一度書いたが、僕の親父は旧海軍をかすっていて、それで一気に打ち解けてくれた。今回はお風呂の後、食堂でビールに焼酎をジャンジャンやってキャビンで潰れたので、スナックで盛り上がるまでには至らなかったが、翌日油壺に帰港するためにモヤイを解くと、ミスター・ネイビー夫妻がデッキに座っていた。

「グッバイ、ミスター・ネイビー。」

と敬礼すると、笑いながらピッと立ち上がり「グッドラック!」と実に様になる敬礼を返してくれた。夕べから一気に涼しくなっていた。

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九月花形歌舞伎

2013 SEP 18 12:12:48 pm by 西 牟呂雄

 陰陽師、を見てきた。染五郎・海老蔵・愛之助・松録それに勘九郎・七之助と人気どころが出ていて、評判もよろしい。そして新歌舞伎座。昔を懐かしむ人も多かろうが、私はなかなか古きを尊んでいると感じた。舞台は奥行きも幅も少し拡がったようで、その分書き割り、照明、音響に新機軸を取り入れ、伝統芸能が時代に沿った進化をとげつつあるのを頼もしくも思った。スモークが使われ、舞台に火炎の上がる仕組みも取り入れられた。

 陰陽師は夢枕獏の原作で、例の安倍晴明が平将門の怨霊と戦うのが軸になっている。歌舞伎のあらすじなんぞ、どれも荒唐無稽な話だからこれはどうでもよろしい。その将門を海老蔵がやっていた。この人は私も予て六本木界隈での酒癖の悪さは聞いているが、芸はホンモノ。華があって決めるところはキメるんですな。ただこの家系は声に難があって、特にくぐもる台詞はイケナイ。もっと張り上げたり見得を切っていればいいものを、とは感じた。しかし、台詞回しは新作らしく現代口語で分るし、宙乗り、大百足、さらに蘆屋道満まで出てくるテンコ盛り、楽しめることは楽しめるのだが。こう言っちゃなんだが大百足の振り付けなんかもう少し手の揃えを稽古しないと学芸会の一歩手前になってしまわないか。

 伝統歌舞伎の味わいに江戸言葉が染みこんでいる。よく分らない人達にはイアホンのサービスもついていて、今でも口をついて出る台詞もいくつもある。それが現代歌舞伎の泣き所なのだが、一発決めるキメ台詞に欠ける。下手にやると宝塚みたいになってしまう恐れ有り。脚本が苦労して中身を造ろうとしているのは分るのだが『ひとは何のためにこの世に出づるのか。』『おまえはオレの本当の友か。』といった言葉を現代語でしゃべられると、映画じゃあるまいしたかが歌舞伎だろうが、といった気分になる。作家の浅田次郎氏がどこかに書いていたが、歌舞伎の台詞は別に上品でも何でもなく、下町の言葉。私は浅田氏の生家の近く、神田淡路町の生まれなのでほぼ分る。歌舞伎は本来大衆芸能なのだ。

 それであるが故に、磨かれた芸や言い回しが光るもののみ後に残っていくのではないだろうか。そして鑑賞する側にもそれなりの研鑽とまでは言わないが、作法がある。見得の時に大向うから掛かるかけ声なんかはその典型だ。タイミングを外したり、屋号を間違えてしまえばその場はドン引きとなる。東 大兄が連載中の「ベートーベン聞き込み千本ノック」が読者を得ているのはそこだ。しかしながら、伝統芸も冒頭に書いたように仕掛け・小道具を含め変らなければならぬ事は自明の理。陰陽師は実験的舞台として高く評価される。それにしても海老蔵さん、あなたテレビは止した方がいいと思うんだけど・・・。

荒事の華麗な芸

九月大歌舞伎 千穐楽

猿之助四十八撰


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ロシア残照

2013 SEP 16 16:16:44 pm by 西 牟呂雄

 長きに渡りタフな交渉を続けてきたロシア側の相手、アレクサンドル・ボリシビッチが来日した折の話である。土日を挟む滞在のため一日アテンドすることになった。年の頃は50過ぎで真面目なエンジニア上がりのため、ティズニーランドとかスカイツリーにつれていくのは憚られた。少し考えて富士山麓にある我が山荘に招待することとした。かの地は我々一族のルーツのようなところで、僕から数えてニ代前の爺様が普請狂いした際に丹精込めて造り、喜寿庵と名付けていた。日本家屋を建て庭に芝生を張り、石を置き、樹木を植えて笹を巡らした。庭から先の渓流にいたる向こう側の崖の景観が気に入らず、わざわざそこの持ち主に掛け合って大枚はたいて植林したとされる杉林も残されている。また、冬至の日にちょうど夕日が山間(山あい)におちる場所に惚れ込んで土地を手配した、との伝説も残っている。

 ロシアは冬半年がほとんど夜のような状態なので、夏を楽しむのに様々な工夫をこらす。都市部の郊外には、なぜか彩色された大小のかわいらしい家があちこちに見られるエリアがあって、家庭菜園のような庭がついている。これはダーチャと言って、夏の間土いじりをしながら白夜を過ごす別荘のようなものだ。考えて見ると都市部のアパート形式の住居は旧ソ連時代の思想の賜物に見えるが、むしろあの寒さの中で暮らすにはくっついていないと暖房効率が悪すぎるのでああなっているのでは。だから旧体制時代からダーチャの私有は認められていた。無論冬の間は雪に埋もれてほったらかしだ。誘うときに『私のダーチャに来ないか』と言ったので、喜んで来たのだ。

 車で1時間少し、アレクサンドルは初めてみる日本の郊外に見とれていた。アレクサンドル・ボリシビッチは本名コテルニコフという名字で、通称は『ボリスの息子のアレクサンドル』というロシア風の言い方。イワノビッチとかいう言い方はイワンの息子だ。喜寿庵に着くと、お土産に持ってきたウオッカをうやうやしく差し出す礼儀正しいオヤジだ。早速芝生の上で寝転びながら乾杯した。無論ボクはロシア語は出来ないし、彼の英語もかなりヤバい。練達のロシア通、オカダさんという関係者がつきあってくれたのだ。

 彼がまず感心したのは渓流のせせらぎだった。ロシアのウラル山脈の麓から来た人間にとってザワザワという流れの音が珍しいらしい。何しろ古い地層なので、浸食が進み、彼等にとっての川というのは大地をノッタリと進むもっと広い流れを指す言葉なのだそうだ。喜び過ぎて崖から降りてみたいと言い出したのには参った。次に林の奥にわずかな畑があって、親父がジャガイモやトマトを造っているのに興味を示した。ここがロシア人なのだろう、土を手に取って指でつまんでみたりしながら『この土の色は素晴らしい』とはしゃいでみせ、『まだ収穫の時期ではないのか?』としきりに訪ねる。掘り出したいと顔に書いてあったが、まだ早い。

 飲みながら話ははずんだ。一般に市民レベルは親日が多いのに驚く。特にウラル地方ともなると遠すぎて日本に憧れのような気持ちを持つらしい。一方中国・モンゴルには反感というか恐怖感に近いモノ言いがある。モンゴル系にはアッチラ大王やらチンギスハンに散々やられた刷り込みがあるようだし、中国については13億人の人口に(ほとんどが国境から遠くに住んでいるが)対しての潜在的な圧力と捕らえがちだ。何しろ1億4千万人しかいない。彼はボクの先祖についてしきりに聞きたがった。庭の片隅に記念の碑が立ってい、てボクから三代前の先祖のレリーフがあったからだ。ひとしきり話を聞いていた彼は、なぜか自分のニ代前のおじいさんのことを語り出した。

 それは壮絶な内容だった。まずいことにかの独ソ戦に関わることだったのだ。SMCの中村兄の研究によると、近代最悪の消耗戦だったそうで、当時の日本はドイツの同盟国である(ただし日ソ不可侵条約もあったが)。 おじいさんは斥候に出ていたらしい。ドイツ機甲師団の猛烈な突進に小隊は鎧袖一触で蹴散らされて逃げ回った。ところが機甲師団の進撃スピードが速すぎて斥候小隊なんかには目もくれずに前進するため、おじいさん達は原隊に復帰するためにドイツ軍の後をついていく羽目になった。しかし向こうは電撃のスピードだから遥か先に行ってしまって追いつけない。彼はこの時はまだ笑ってみせていたが、その後は皮肉っぽい表情を浮かべるだけだった。何しろ途中の村は略奪されつくして食べ物もなく・・・・、と悲惨な話が続く。何ヶ月も歩いていたそうだが結局原隊復帰はできなかったらしい。次に独軍を見たのはボロボロになって敗走するところだった。戦後もコテルニコフ一家の苦労は続いた。

 僕は深く同情するとともに、一瞬、8月15日以降の満州でのソ連軍の乱入や9月まで続いた北方領土への不法な攻撃を思っていたのだが、やはり口には出さなかった。目の前の彼は善良なエンジニアだし、一家の悲惨な話を聞いたばかりなのだ。そうこうしている内に、親父が学生を大勢連れて帰ってきた。かの地の大学の生徒達で、これからバーベキューをするとか。いいタイミングだった。それから、珍しいロシア人と地方の大学生は微笑ましく交流した。『エカテリンブルグはどこにあるのか知っているか?』『エーッそんな遠く、ウッソー。』のノリだ。女子学生が多いので機嫌が良くなったのか、アレクサンドルは『エカテリンブルグで働きたい人は無条件で採用する。』と言い出し、学生が本気になりゃしないかと親父を慌てさせた(実は親父はその大学の理事長をやってる)。さらに酔いが手伝ったか(こっちも酔っ払ったのだが)北方領土問題に言及し、これは困ったなと身構える我々日本人を尻目に、

「そんな小さい島でもめるくらいならスベルドロフスク州の空いている倍の面積をタダでやるから仲良くやらないか。」

あのねえ、あんたはそれでいいだろうけどプーチンに言ってくれよ。大国は押しなべて個人の意思や善良さが国家のレベルになると突然変異するように引っ込みがつかなくなるようだ、アメリカだって。最近の研究では、かの旅順203高地の銃撃戦の際でも、赤十字の斡旋で遺体の引き取りのため、一定時間両砲撃を中止する停戦があり、その時間になると両軍の塹壕から酒を持ち寄っては言葉もわからないのに飲み交わしたらしい。時間が来ると、もう一丁やろう、と分かれてドンパチやったと言うが。

 爺様の自慢の夕日が冬至の時の場所からずれたところに落ちていった。彼を呼んで二人で眺めながら、つくづくタフな交渉を途中で打ち切らなくてよかった、と思った。

ロシア残照 Ⅱ

ロシア残照 Ⅲ


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失われた20年とは何だったのか (序説のオマケ)

2013 SEP 13 15:15:42 pm by 西 牟呂雄

 東 大兄のシリーズにて、この期間の証券三国志的な迫力あふれる記述がなされました。大いに知的好奇心が触発されたところです。多くの示唆がありました。

 まず、’97年分岐説。我々世代は40代前半で序説に書いた通り一向に減らない不良債権の影におびえつつもそれなりの勝負を掛けていた頃です(今手抜きをしているという意味ではありませんが)。当時は中堅ということで、実際のプレイヤーとしてもジタバタしつつ、同時に後進の育成にも当たっていた訳です。この頃確かにオヤッと思ったことが幾つか思い当たります。一言で言えば権威の喪失、とでも言うのでしょうか。従来型の『親方日の丸』的なものに、特に若い人達が全く魅力を感じなくなってきた実感がありました。当時の就職希望学生と話をしていて、学生などはどんなに勉強していても産業構造の実態について論破されるはずもなく、むしろツベコベ言うような輩に「ホウ、それで?」というスタイルで接していましたが、優秀そうな連中程「あんたらの言ってるとおりにゃならねーだろ。」といった寒々しい反応が返ってきたのがこの頃でした。官僚よりは外資、既存企業よりはベンチャーといった流れができて、それは今日に至っているようです。二つの流れが始まりました。

 2001年は9.11という、アメリカがひっくり返るおぞましいテロが起きています。私の同期同窓の金融マンが二人犠牲になりました。アメリカはビックリし、怯え、その後底力を奮い立たせます。余談ですがこの時に思い出したくもありませんが『中にはいい気味だと思う人もいるのでは』的なツウィートをした恐ろしく低レベルの社民党女議員がいました。ここまで低俗な発言を政治家たるものがうかつにも外に向けて発信するのか、と気が遠くなったものです。

 2003年から2007年は製造業は高レベルの稼働です。そしてこの間がほとんど小泉内閣でした。SMCは政治談義は御法度ですので、そちらはさておき経済面だけで言えば、そこそこの成果があったかに見えます。不良債権はこの間金融機関の国有化を経て縮小し、更に再編が進み何か改革が進んだ高揚感が無きにしもあらず。しかし、内閣総理大臣が陣頭指揮をしたとも思えません。密かに噂されていたのは、総理の経済オンチをいいことに竹中氏が丸投げされたと言い触らし、中身を木村剛氏にこれまたブン投げた、あれはいくら何でも、というものでしたが。そう言えば木村氏も日銀出身でした。その後振興銀行はあっさり失敗しています。

 さて次の東 大兄の指摘、経済のスケールの伸び縮みという観点のデフレ解釈。小泉内閣期を通じてジワジワと燻っていましたが、この時から『格差』という言い方が始まったのです。東理論でいくとスケールの伸びによるデフレ感は低所得者、年金生活者の方に相対的に重いことになります。全くその通りです。ですが、私はその前に感じた次世代への違和感が我が世代の逼塞感と共鳴し全体的に拡がり、もう少し違った上記二つの流れが顕在化したように捕らえました。不幸にして小泉後、第一次安部内閣の無残な結果から大混乱が続きます。政治は翻弄され続けて、リーマンショック(5年前)3.11震災(2年前)と試練の連続です。その間に民主党政権を挟んでいます。災害については、現在も苦しんでいる被災者に同情を禁じ得ません。

 二つの流れ、というといかにも上、と下、に聞こえるかも知れませんが、意味するところは違います。むしろ右、と左くらいの感じです。格差という言葉には違和感があり、固定された階級などこの日本に全く存在していないと考えています。一般に非正社員、失業者、広くはニート、引き籠もりが格差の被害者ということでしょうか。確かにジニ係数等にはその傾向が見られますが、例えば被災者の方々より苦しんでいる非正規社員とはどういう人なのでしょうか。以前書いたように、私のパラメーターではニート・引き籠もりの類いは生活満足度は上位にランクされます。二つの流れとはうまく表現できないのですが『耽溺型』と『傍観型』位にしか表記できません。このあたりの論考は又別途検証したいと思いますが、確かな感覚として少し上の団塊世代はこの二つには分類できないのです。実際にはフーテンとか古い言い方ですが全共闘世代といった呼称は色々ありますが、それなりの理論武装をしたつもりの、何かに反発する形でのエネルギーを放出したがるタイプしかいません。反論大歓迎ですのでご教示頂きたいと思います。 

 東 大兄は『失われた』の部分をアングロ・サクソンに一泡吹かせた後の虚脱感と喝破したように読み取りました。卓見です。我々の世代はデフレ期間とされる昨今(というには長いのですが)を苦戦しつつも辛くもしのぎ、今後に上記二つの流れを示唆したのではないでしょうか。しかしどちらがどうとは言えませんし、これからも不況も危機もあるでしょう。それはそれとして。

 まさかのオリンピックがあと7年。 実は個人的に帰京以後環境の変化があり、私自身は現在『成仏派』を自称しております。オリンピック等のスポーツイベントや行事は今までTV観戦しかしませんでしたが、是非ナマで観戦し、参加したいと思います。その頃60代半ば、果たしてどうなっていることやら。楽しみが増えた気がしています。

 

 
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小倉記外伝 友よ何処に

2013 SEP 11 9:09:33 am by 西 牟呂雄

 この夏の終わりに、身辺整理(女の問題や借金ではない)に小倉に行った。そして工場を訪ねてみると何か様子がおかしい。強い日差しの中、工場裏の堤防に上ってみたが相変わらずの流れで潮が引いていた。打ち合わせをかたずけて、さぁ飲みに行くかとなったので、広い敷地を歩いてみたが画龍点晴を欠く感のまま、駅前の立ち飲み屋に流れた。九州は東京標準と比べると日暮れが小1時間遅れるから、昼からだらしなく酔っ払っているオヤジ風情と変らない。

 北九州は鉄の街。街自体が鉄鋼カレンダーで動く。今は車通勤が普通になったので大分廃れたのだが、通勤帰りに駅前の酒屋とか焼き鳥屋で立ったまま一杯引っかけるのが習慣としてある、朝からだ。即ち製鉄業は24時間3交代で土日も動くから、夜勤(丙番という、炭坑だと三番方)明けの帰りにビールとか焼酎・日本酒をガッとやって帰って寝る。これを『角打ち(かくうち)』と称する。焼酎を升にいっぱい入れて角から啜るところから来たらしい。だから小倉、戸畑、八幡の駅のそばにはツウならばすぐそれとわかる店があって、立ち飲みする光景に違和感は全くない。それでこの場合は健全に夕方だが4~5人のおやじが焼き鳥でジョッキを傾けることになる。行きつけの某駅前飲み屋は荒っぽいところで、ビールに飽きて焼酎ロックに変えると、そのジョッキに氷を口まで入れてガバッと焼酎で満たしてくれる。2~3杯飲めばタチの悪い酔っ払いの出来上がりだ。

 ところで、夜勤勤めというのもシロウトがやるとかなり堪える。特に夏場は暑くて昼間にうまく寝られず、職場に行ってもボケーッとしてしまうのだ。学生時代に連日徹夜で麻雀をして鍛えたつもりになっている奴がまずバテる。寝損なって晩飯にビールを飲んで使い物にならない、なんてことになりかねない。コツは午前中だけ寝て、午後6~8時頃にもう一度ウトウトしてから丙番に入ることだ。だから夜勤番の時はあまり遊んだりしないで過ごすのがプロ。

 新入社員時に転炉という精錬工程で交代勤務をしていた。小学校の教室くらいある炉に300Tの溶けた銑鉄を入れ、純酸素を吹き付けてカーボンを飛ばす、熱く重く巨大な設備だった。とある夜勤の明け方にちょっとしたトラブルがあった。この交代勤務は自然と各番のライバル意識が芽生えるもので、トラブルを処理できずに次の番にハンドル交代することは恥の中の恥とされた。腕が悪いと言わせてなるものか、の気迫が満ちていて現場は実際火の粉の飛び交う戦場のようになった。無論役立たずの僕は少し離れてオロオロするばかりだったが、朝日の中を後番の棒芯(番方の大親分)がノッシノッシと歩いてきた。そして鬼の様な形相になって指揮を取る僕の番の棒芯ににっこり笑いながら大音声で呼びかけた。

「なぁーもあわとっこつなか!(何も慌てること無い。なか は か↑と上がる)前番ははよー帰えりんしゃい。」

この一言で我に帰ったか手じまいを始め、やっとハンドル交代ができたのだ。後番の棒芯、駆け出したいような喧噪の中のあのノッシノッシはわざとやったに違いないと僕は睨んでいる。現場魂を見せつけられ、なかなかの人物がいるもんだと感心したものだ。

 さて酔いも廻った頃合いにハッと気がついた。チビがいなかった。あいつどうしたの、と聞くとギトギトの酔っ払い達の表情が曇った。盆明けに来てみたら姿が消えていたそうだ。犬というものは死期を悟ると屍をさらさずにどこかに死に場所を求める、という話を聞いたことがある。以前の小倉記に「犬には死ぬという概念が無いんじゃなかろうか」などと書いた僕は密かに自分を恥じた。

 仲良くなってから、しゃがみ込んでチビに良く話しかけていた。「オレも一人でこっちに来てるんだよ。」とか言うと、チビは「それがどうした。」といった感じでそっぽを向くので気が楽になった覚えがある。その仕草にずいぶんと慰められたものだった。ただ、オッサンと犬の会話というのは全く絵にならない。一度女子社員がその光景を見て、吹き出しながら走り去ったことがある。

 最悪のシナリオはうっかりヨタヨタと工場から外に出て、車かなんかに跳ねられ、市役所が死骸を処理してしまった、という哀れなケース。どうやら年を取りすぎて目も悪く耳も遠かったらしいので、テリトリーを出るとヤバかったらしい。普段は陽気な同僚も『最悪』だけは勘弁して欲しいと言って、しんみりしてしまった。

「まぁあいつのことだから、又どこかの工場で番犬代わりに元気でやってるだろう。今頃は別の名前になってたりして、ヨボとか。カラオケ行こうぜ。!」

 チビよ、僕は君を忘れない。ありがとう。

 

小倉記 秋・古代編


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失われた20年とは何だったのか(ポスト・バブル序説)

2013 SEP 7 10:10:36 am by 西 牟呂雄

 9月のテーマが上げられました。他にも同じような言い方で「15年」「バブル以後のデフレ」というのもあります。いずれも同義で、株価が日経平均で3万円を割って以降日本の相対的ポジションが下がりデフレが続いている状態を指しています。

 実はこれ、多くのSMCメンバーの現役時代とまる被りなのです。私の例を引きます。入社したメーカーはその時点で既に合理化計画を発表していて、ヒラ社員の間じゅう圧延ミルの休止、それに伴う同一品種のミル配分調整、半製品輸送の交錯輸送対応といった仕事でさんざんコキ使われました。そして言うところのバブルの崩壊、これでは持続的発展など覚束ない、多角化だ、と管理職になるタイミングで新材料部門に配転、以後ズーッと・・となるのです。それこそ個人的にはサラリーマンの全部を「失われた」につきあったことになります。

 とりあえず20年にしておいて、1993年中心にどうだったかというと、株価は大雑把にいって1万4千円、レートが1ドル=108円という昨今見たことのあるような数字。野茂がアメリカに渡ったのが20年前。私の息子は23才ですから、少年時代を全て「失われ」てしまった訳です。無論その間色々あったのですが、私が実感したキーワードは① 橋本内閣消費税アップ ② アジア通貨危機 ③ 米国ITバブル崩壊④ リーマンショック ⑤ 超円高 そして二度の政権交代でしょうか。2005年頃、ぼんやりと日本国が安定するのは2010年ぐらいかな、とある勉強会で預言しました。2010年には民主党への政権交代がおこり、このときは(政権交代可能な体制の緊張感で)預言通り政治的成熟期になった、と自慢してました。その後の評価はひとまず置きます。

 当時は半導体材料を手掛けていたので上記事象(二度の政権交代を除き)はいちいち大変なことになりました。しかしながら、2003年から2007年まで製造業は好況感があり、ラインはフル操業をしていたのです。しかしその時期も含めてなお『失われた』期間に入れられています。そしてグルっと廻って今日(2013年9月6日)日経平均1万4千円、為替=100円となっています。日本企業の国際的な収益力の評価は紆余曲折を経て元に戻った、或いはなんのイノベーションも起こらなかったのか。

 バブル期、当時大蔵大臣だった橋本龍太郎は国際会議において金融政策を質問され『土地の値段を下げることが、当面の第一課題である我国は・・』と回答したことを強烈に覚えています。それ程土地は狂い咲きのように上がり、銀座はまる源ビルだらけになり、六本木のビルもオーナーはしょっちゅう変っていました。バブルの定義は一般的には『投機』と考えられていますが、私の理解は少し違っています。普段はあまり表に出て来ない魑魅魍魎(アングラ・マネーとも企業舎弟とも括れる闇の金の流れ)が時流に乗ってゾロゾロと這い出してくる、その隠れ蓑に様々な形を変えた各種機関が入り交じり(例えば商工中金)制御不能になることがバブルではないかと仮説を立てています。最終的に誰かが(この辺わからないので専門の方に教えて頂きたいのですが)カラ売りに転じた途端に市場が崩壊していくと考えています。

 あれからすでに20年は経っているのですが、そのころ実際の不良債権なるものが本当はいくらだったのか試算できた人・及び機関はなかったのではないでしょうか。10年を経てその残高総額は増えていました。何をやってもジワジワ増えていく恐怖感は金融関係のみならず身の回りの中堅企業をも痛めつけていました。当時のゼミOB会で(伝統的に私の出身ゼミは金融が多かった)後輩達に『お前等!本当はいくらなのか正直に上にあげろ!』と言ったものでした。その後輩達も再編再編となって今では似たような冠の名詞を持っています。

 故吉川元忠神奈川大学教授の『国富消塵』には、日本のバブル崩壊からアジア通貨危機まで、米国に資金が環流されるシステムがいかに緻密にできていて、インペリアル・マネー・サイクル(これは私の造語です)とも言うべきハンドリングが成されていたかを分析しています。

 その後続く円高基調でメーカーはグローバル展開、海外進出の大合唱です。90年代にはそれはマレーシア・タイあたりに工場進出することを意味し、2000年代では中国に行くことを指していました。しかしブームにのってマレーにいった半導体の組み立て工場でオリジナル・シングル・ネームの操業を続けているところはほとんどありません。中国は中小に限って言えば、7割近くが聞くも涙語るも涙の惨憺たることになって撤退しているのが実態です。私はそのころ、台湾で提携をし、フィリピンに工場を建て、中国にサテライト・ユニットを出しました。顧客はアジア中に散らばっており(韓国も含みます)一部本社機能はアメリカにありました。8泊10日で地球を一周する出張もしたことがあります。西回りでいって死ぬ思いをしたので、東回りでもう一度です。

 そしてリーマンショック。前の年の夏、サブ・プライム・ローンが破綻。とうとうやったか、が第一印象でした。年が明けてベア・スターン、ファニーメイと続きます。流石にこれでは済まないと考えました。不思議なことにいずれも奇数月に起きたものですから9月は身構えたのですが平穏に過ぎる、と思った月末に突然来ました。その後は諸兄ご存知の通り。

 しかしながら、アメリカは全然懲りていません。オバマ大統領にしても、ウォール街の代弁者といって差し支えないのではありませんか。むしろ次の(例えば中国の混乱?)チャンスにしこたま儲けてやろうと牙を研ぎ澄ませているとしか思えません。アメリカだけではありません。評論家佐藤優氏は、再び帝國の時代になる、と言い切っています。アングロサクソンの御本家U.Kは明確なアジア戦略を練っていそうです。国家の意思なのでしょうか、香港を失ったリベンジを考えていないはずはない。このあたり、陰謀史観論者などは面白く見立てていて、いかにも、な話が流布されています。

 日本は大雑把に括られた20年でも15年でも良いのですが、少なくとも国家戦略としての強い意志はありませんでした。いや、二つだけありました。財務省と日銀のローカルな意思というのはありました。財務省のプライマリー・バランス回復のための消費税増税と日銀のマネー緩和へのためらいです。識者の意見などというものは、中身なんかありません。誰かの意思を伝えているだけです。第一学者の言うことなど当たった例しがない。

 私の周りには来年の消費税増税に異を唱える人はあまりいません。上げるべきですがタイミングがよろしくない。もっと前から1%づつやれば良かったのです。(筆者注 その後2020年の東京オリンピック開催という後押しがあった。恐らく問題なく既定路線の3党合意のまま可決されると思われる)各論はさておき財務省のスゴ腕達は、政治的バックグラウンドの強い大臣の時は比較的おとなしくし、素人同然の管直人、野田毅彦の時に猛烈にチャージをかけて手玉にとり陥落させました。見上げたものです。私はこちらのほうは評価するのですが、一方の日銀はどうでしょう。政治からの独立を盾に何もしていません。無論彼等の内部資料にはあれもやったこれもやったと書いてありますが、そうでしょうか。

 国内でのみ消化される日本国債の暴落ー金利上昇はどのモデルをみてもありません。日銀券の増刷は数少ないすぐにやれる政策(議会の承認もいらない、コストもかからない)のはずです。20年というものは我々の現役とほぼ被ると言いました。即ち現日銀幹部も我々と同じ蹉跌を噛み締めて来ているはずです。しかし大量のマネー投入というどこの国でもやっていることを全くやろうとしませんでした。恐らく日銀伝統のアンチ・インフレ・イデオロギーに触れれば飛ばされるなり流されるなりして、議論の俎上にも上がらなかったのでしょう。

 そうこうしているうちに、これだけ通信機器が発達しグローバル化も進み、瞬時に世界が同時に反応できるようになっても、日本企業の生産性なりイノベーション・スピードなりが優位を保てなかったのが、冒頭の株価・為替一巡を指していると思います。それらは日本以外で起こってしまい(例えば中国で)私達の可処分所得は目減りし続けているのではないでしょうか。

 私は7月のテーマだったアベノミクスに強い期待を持つ者です。この20年間力強く育ってきたインダストリーは無いのです。不幸な災害により、エネルギー産業という穴場が今後勃興する可能性は否定しませんが。ソフトバンクも楽天も若い天才的経営者が優れた業績を造り上げましたが、あれはビジネスモデルなのです。ライブ・ドアや村上ファンドは惜しいことをしたと思います。この辺やはりメーカー育ちなので、他のSMCメンバーとは違うかも知れません。投資減税、法人税減税(大体払ってない輩が多すぎるが)、経済特区、などを次々に繰り出すことを望みます。三本でも一本でもいいですから元気にやれる(私はそろそろチンタラしますが)ように、まずやれそうでやれなかったことを何でもやる、でいいじゃないですか。

 しかし、20年を総括することは、書き出してみると中々手強い。SMCの手練れの金融出身諸兄殿、これらのタワゴトが数値化・モデル化できますでしょうか、お知恵を拝借、御意見拝領。何しろ『序説』ですから。

 これからのことは又、別のテーマで。

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小倉記 さらば小倉・さらばエカテリンブルグ編

2013 SEP 3 18:18:25 pm by 西 牟呂雄

一年と少し小倉に住んだが仕事も一段落、流れ者としてはケジメをつける意味で都に帰ることにした。感慨は特にない。心残りは日本初の工場犬チビとの別れだが、アイツの残り少ない犬生を見届けられないのは残念だ。死んだ後、工場の一角にでも埋めてやろうなどと考えるのは守衛のおじさんと僕くらいだから、どこかでゴミにされたりしたら浮かばれない。

もう一つ、小倉の軍歌バー『予科練』も寂しがってくれるだろう。実に怪しげな店だった。例によって酔っ払って帰る時に旭日旗の看板に気付き思わず入ってしまったが、水兵服のジイサマとモンペ姿のバアサマがいて、ガンガン軍歌をかけていた。付け出しは乾パンと金平糖。因みに僕の親父(2013年時点85才)は旧海軍兵学校の出身で同期会の会長をやっている。本人は「世が世であれば聯合艦隊司令長官。」と大はしゃぎしていたが、一般に旧海軍はクラス会が盛んで、関係各種学校の同期会は今でも集まっては「貴様元気だったか。」と軍歌演習に励む。それで知らず知らずの内に僕や僕の息子にまで伝染し、息子に至っては子供の頃から大のゼロ戦ファンになってしまった。その手の話をその『予科練』でひけらかしていたら、『提督』などと呼ばれて調子に乗っていた。後日その話を親父にしたところ「お前のようなシロートが提督とは怪しからん。オレが行って本物を見せてやる。」と烈火のごとく怒り狂った。不思議なことにいつ行っても他に客がいたことがなく、そのせいか勘定はバカ高かった。

ところでアベノミクスもいいのだが、製造業の現場までは半年・1年もタイムラグがあるから、年度変りになっていよいよ工場を臨時休止せざるを得なくなった。実体経済はやはり設備投資と物流だからまだまだ耐える期間ということでしかない。工場を止めると月に2回程3連休になってしまうのだが、それは悲惨な暮らしだった。何しろ単身赴任だから、掃除・洗濯をやり尽くし、朝から酒を飲んだりしては昼夜逆転になってしまう。テレビはBSの洋画がつけっぱなしで、誰とも会話しないから英語ばかり聞いていると3日目には今どこにいるのか分らないような錯覚症状を起こす。その間食事なんかカップ麺かコンビニおにぎりが1日に2回程度だから体に悪いなんてもんじゃない。ヘトヘトになって連休を乗り切り月曜日に出勤するという本末転倒の極みになってしまった。それやこれやで都(みやこ)に舞い戻ることを決心したのだが。

ところがその都たるや、チョットいなかっただけで東横線の渋谷駅は地下にもぐり、吉祥寺駅は工事中、赤プリは影も形も無くなった。小倉が疲弊しているというのにこれは何だ。東京駅周辺に至っては再開発だらけで壊すわ建てるわ、政権交代ねじれ解消で破れかぶれになった都が発狂したようだ。オリンピックもまだ先なのに、もはや僕の時代は過ぎ去って早くも引退モードに入れ、という例の天の声が聞こえそうだ。

さらばついでに、直近に訪問したロシアの旅を紹介しよう。前回は二月に行って零下30度と冬将軍に痛めつけられたので夏場にしてもらった。すると今度は白夜。夜の八時なんかはカンカン照りだった。

訪ねたのはエカテリンブルグという百万都市。何しろあの国土に一億四千万人しかいないからスベルドロフスク州では抜きん出た都会となる。この前隕石が落ちた所から約百キロ、モスクワからは千七百キロ(飛行機で2時間、時差も2時間)、この街から東をシベリア、西をヨーロッパ、即ちヨーロッパの最東端に当たる。ちゃんとそれを表示したオベリスクが立っていて、まぁ田舎なんですな。このヨーロッパという概念はどうも白人・キリスト教徒には大変な重みがあるようで、ロシア全体を何とかそちらの方にくっつけていたい、と思わせるアイデンティティーになっているようだ。余談だが革命時に最後のロマノフ、ニコライ二世と一家が皆殺しになったのもこの街で、惨殺現場に教会をたてたのがエリツイン。

ここら辺のロシア人の感覚は百キロ二百キロはちょっと隣町のノリで、レセプションのある隣町の工場が二百キロ離れていた。道路は良く整備されたフリーウエイのような幹線道路が、時に地平線までまっすぐに続く。とにかく人なんか住んでないのだから地形を縫うようにサッと線を引けば計画ができる、という感じ。但し冬の間もスパイクを履いた重量トラックが猛スピードで走るから傷みはひどい。

このエリアでの事業は日系の例があまりなく、レセプションには地元政府の要人(州副知事)、製鉄会社社長、に加え恐れ多くも日本大使館から公使閣下・審議官殿・三等書記官様のご一行の臨席も賜った。時間も有ったので市内見学と称して古い製鉄所の跡地を見学したが、驚いたのなんの。高炉モニュメントは18世紀、前世紀の遺物とも言うべき反射炉(通訳の人は平炉と訳したが構造から見て、鹿児島や韮山にある反射炉)に至っては19世紀からつい40年前まで使われていたそうだ。よほど原料の純度が高いのでこんな設備でもそれなりの歩留りがとれたのか、或いは旧社会主義体制には償却の概念が無かったそうだから、使い物にならなくなるまでやめられないシステムだったのか。

だが一番大きな理由は、タダ同然の土地がいくらでもあるので、壊すにも金が掛かるからほったらかしにしてハイお次、とばかりにサッサと別の所に造っちまえとなったのではないだろうか。これは中国なんかでもそうで、新規高層建築の隣で経営者が夜逃げした草ボウボウの立派な工場なんかザラにある。僕が以前やっていた工場の隣のビルは農民工の寮になっていたっけ。

レセプションの後、エカテリンブルグまで戻り保養所のような所に泊まった。ところが白夜なものだから夜8時位までサッカーをして遊んだりするのだ。これもロシア流の歓迎と喜びの証、とつきあったがそれだけじゃない。10時頃からはウオッカをやりながらサウナに入り水風呂に飛び込むといった難行苦行が続く。ただ、感じたのは彼等タフネゴの時とは別人のようなしみ通るような笑顔でもてなす。ひょっとすると義理人情の世界が透けて見える気がするのだが。

翌日はエカテリンブルグ市内でさる展示会の打ち上げの市長主催のパーティーにも招待された。かなりの大規模な立食ガーデン・パーティー形式で、バンドが入り大賑わいだった。圧倒的に目を引いたのは案内役のプロポーション抜群のホステス達で、棒高跳びのイシンバエアやテニスのシャラポア並みの美人がゾロリと立っている。いやはや街中にウジャウジャいたデブのオバさんとは別の民族なんだろう、きっと。又、会場をヒラヒラ歩いている人形のようなメイクの妖精コスチュームの女性にも驚いた。何というのかピッタリした素材に等高線のような縞模様のデザインで、小柄ながらこれまた均整のとれたボディラインを、新体操のような振り付けでヒラリヒラリと歩いている。一言も発しないので何か食べているときに隣に来られるとビックリという嗜好だ。もう一つ、大きなエアドームがあって、なぜかアフリカ館になっていた。中には各国のブースがズラリ。英語・フランス語・現地語が飛び交ってワンワンとうるさい位だった。そこで何を商談しているのかは展示も無くさっぱり分らない。一回りしてハッツとしたのだが、これはロビー活動なのではないか。

実はエカテリンブルグは2018年サッカー・ワールドカップと2020年万国博覧会に名乗りを挙げていて街中にはポスターがたくさん貼ってあった。誘致をする際にはかなり荒っぽいことが行われていることが知られているが、まとめてご招待ならば腑に落ちる。その裏では更にそのぅ・・・・。これは大変だ・・、PM10時過ぎにやっと暮れゆくユーラシアの真ん中で、僕は新たな躍動感に包まれたような気がした、密かに力こぶを造ってみた。

と言う訳で小倉記はこれを持って終わります。次のシリーズで又、ダスビダーニャ!

 

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あいや御同輩、いやさお若えの

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