Sonar Members Club No.36

月別: 2013年11月

埼玉水滸伝 (埼玉のウララちゃん)

2013 NOV 25 15:15:48 pm by 西 牟呂雄

 前回書いた埼玉事業所の話の続き。秩父の麓は交通の便はイマイチで、東京の吉祥寺から毎日電車通勤することはできない。車だと関越自動車道なのだが、毎日ともなれば通勤費がベラボウになってしまう。近くにアパートを借りている単身赴任者もいたが、僕の場合必ずしも毎日住むわけではないし(会議とか出張)、土日は家に戻るので、色々と安いところを工夫した。まず住んだのは、バブルホテルのような自称ビジネスホテルで、なかなか快適だった。なにしろガラガラでおまけに大浴場まで付いている。そこにほぼ毎日一人で入っていたのだが、しばらくして気付いた。面倒だからかコスト削減かは知らないが、滅多にお湯を代えないのだ。それが分かってからは、負けるものかとばかりに一人で十人分くらいのお湯を消費して循環に努めたものだった。まずいことにそこにはスナックが併設されていて、そこの従業員と仲良くなったもんだから連日カラオケを歌いまくって金がかかってしょうがない。しかしフィリピンや中国の研修生を何人も一月くらい泊めていたこともあって、僕は重要な顧客NO2だったらしい。何かの地方イベントがあって珍しく満室になった時は、一人で20畳敷の宴会場で寝かしてくれたりと便宜を図ってくれた。NO1は誰かと言うと謎のお婆さんだった。この人とは何度もすれ違ったが一度も挨拶はおろか目も合わせない。フロントのオネエチャンに聞いたら、月に一回だけ現金で30万持ってきて「これで今月もお願いします。」と言うだけだそうで、値切りも何もせず、昼間は隣のフアミレスに一日中いるらしい。ネット予約でその三分の一以下の支払いしかしない僕は恐れ入るしかなかったが、きっと大金持ちの未亡人で息子の嫁と折り合いが悪いから生きている間にできるだけ金を使ってやろうとしていたのじゃないだろうか。それなら僕に言ってくれればいくらでもお手伝いできたのだが、口も利かないのじゃどうにもならない。しかし周りに観光資源が何も無いのだからホテルの経営は苦しいに決まっていて、支配人はペットと泊まれるように中庭のスペースを改造したり、夏にはバーベキューの場所にしてみたり、と色々悪戦苦闘するのだが、武運拙く潰れてしまった。

 次に根城にしたのは近隣のゴルフ場のロッジ。これまたバブルの後遺症から抜け出せないような、ゴルフ客、併設するテニス・コートの客を当て込んだプチ・高原ホテルの体裁だが、やはり気の毒なくらい客がいない。もっとも客室も五部屋くらいしかなかった。テニスのコーチも兼ねている支配人はヒマそうにしていて、しまいには業務用の冷蔵庫も自由に使わせてくれたので、山のようにビールを持ち込んで一緒に飲んだりしていた。同時に先程の潰れたビジネスホテルの道路沿いに、こちらは工事の長期宿泊者等が泊まるアト・ホームなビジネス・ホテルも見つけた。そこはサウナが付いていて、汗を流すのに快適だった。かわるがわる泊まってみたり、週別に住み分けたりして暮らしていた。

ロッジの方はゴルフ場の中なので、街から反対側に10分程車で行く。その辺は水利が悪く田圃はできない。昔であればお蚕のための桑畑だったと思われる。現在では造園業・ゴルフ場に変わり、そして牧場があって肉牛乳牛を育てていた。これはやはり匂いがきついので、人家が無い所が絶対条件だが、隣にはなぜかヤマギシ会の農場が広がっていた。ヤマギシなんかまだあったのか。毎日通っているうちに牛舎の脇にポニーが繋がれているのに気がついた。オスのほうは良くいなないて暴れたりするが、メスの方はトボケた顔してジッとこっちを見るので、車を降りてしばらくにらめっこをしたりして遊ぶのが日課になった。そのメスはひたすら雑草を食べているか、ジーッと何かを見ているかのどちらかで、時間が止まっている風情。ある日農作業の帰りの牧場の人(家族経営らしく揃いのツナギを着ていた)が「あら良かったわね、遊んでもらってるの。」と言って通りすぎて行った。一瞬僕に向かって言ったのかと思い憮然としたが、考えて見ればあれはポニーに言ったのだ。ポニーのメスはウララちゃんという名前だと教えてくれた。

草を食むウララちゃん

草を食むウララちゃん

 全く手の掛からない家畜のようで、牧場周りの雑草刈りに、この辺で一週間、あっちの方で一週間、といったローテーションで繋がれているようだった。しかしこの子、生まれてから雑草しか食べていないらしく一度コンビニで買った人参をやったのだが、全く興味を示さない。翌朝見に行ったら蹴飛ばして遊んだようで、端っこで踏みつぶされていた。馬の目の前にニンジンをぶら下げて、という表現があるが、ニンジンが食べられるということを知らなければ何の役にも立たないことが分った。面白いことにすぐ側で暮らしていながら、大勢の乳牛・肉牛とウララちゃんはお互い全然干渉しない。まだ牛達の方は、僕なんかが歩いて寄っていくと珍しそうに興味を示すのだが、ウララちゃんはウンでもなければスンでもない。同じ馬でもサラブレッドに比べるとはるかに頭は悪いようだった。それでも毎日会っているうちに僕の顔ぐらいは覚えたらしい。「ウララちゃん。」と声を掛けると、パカポコと歩いて来るようになったので頭を撫でてやった。少しは嬉しいのか目を細めていた。時間の止まっているウララちゃんと夕日を眺めていると昼間の仕事上の会話がつくづくアホらしい。というのも僕が普段業務で使う言葉は、80%が相手に理解させることに費やされていて、20%ぐらいが自分が分らないことを質問しているのではなかろうか。前者が指示を出す時で後者が報告を受けている時だ。そこにはあまり楽しみとか喜びの入る余地はない。人間同士が仕事を通じてつきあう、ということはどうもそういうことで成り立っているようで、僕とウララちゃんの関係のように、お互いを理解し合う必要が全くないと会話は不要になる。これだけメールだスカイプだと通信手段が発達しているのに会議の数は減っていないではないか。人間同士の付き合いとは愚かでイヤなものだな、とウララちゃんにテレパシーで伝えてみたら、思った通り、そうそう、と返事をしてくれた。

ポニーの目に 何映るかと 我問えば

答えパカポコ 時は流れぬ

埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

ホンキー・トンク・ウィメン 歌詞取り 埼玉にて


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

Malta Island

2013 NOV 21 16:16:00 pm by 西 牟呂雄

Mr. Azuma wrote his blog  based on NHK TV Program “Malta as a  Cat’s Island”.

バレッタの要塞

Almost ten years ago, once I visited Malta. There I didn’t notice any cat.

But I enjoyed old castle in Valletta which was constructed Malta Knights.

Malta Knights were established as the Defenses VS Ottoman Turks.

 

But do you know it is still remaining, located in Roma ? Especially Malta Knights are recognized Observer of United Nations even now.  They are usually engage ambulance in Italy, known by White Cross on Red. I never see them, if somebody watches them, please let me know.

It was my surprising, I found The Memorial Monument of Japanese Naval Destroyer!During WWⅠ, Japanese Destroyer “SAKAKI” has been to The Mediterranean Sea under The Anglo-Japanese Alliance, and was hit by torpedo from German submarine.

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

2013 NOV 20 14:14:26 pm by 西 牟呂雄

多少前の話だが、僕は埼玉の北辺で半導体材料の製造所長をやっていたことがある。元々は関連会社が畳んだ工場を買い取って、新たに造り替えながら大きくしていったところだった。初めの頃は「なんじゃ、これは。」と驚くほどのオンボロ建屋で、不謹慎ながら一部はサテイアンとか馬小屋とか呼ばれる有様だったが、まあ時間を掛けてそこそこ体裁が整った頃赴任した。前は民家で左右後ろは田圃、関越自動車道が通るその向こうには秩父連山がはるかに見渡せた。このあたりは夏は日本で最も暑くなることで知られており、冬には希に(東京よりは頻繁と)雪が積もる。色々と重金属を使う工程も抱えており、周辺の環境には気を使った。もっとも今の日本ではどんな辺鄙な所でもタレ流しなぞ許されないから、別にここだから特別コストが上がるということではない。おかげで工場を囲むように流れる用水路は、オタマジャクシはウジャウジャいるし、ザリガニもいるし、甚だしきはヘビもいる。この蛇は年季の入った青大将か何かで度々工場周辺で目撃され、さすがに気味が悪かった。

あるときは工場の屋根から落ちてきたこともある。バサッとかいう音がして何かが落ちて来たのだが暫くすると、そのモノがウネウネと動くではないか。良く見れば蛇の塊ではないか。その塊はその内うねうねと並んでいる廃油用のドラム缶の間に逃げて行く。その先の工場はクラス1,000のクリーン度を保つ検査棟で、蛇なんかにニョロニョロされたら堪ったもんじゃない。僕は慌ててそこら辺の傘を掴んでドラム缶の上に飛び乗り、隙間に入った蛇を追い出そうと突いた。しかし「殺してやる」の気迫に欠けて、変幻自在の動きについていけない。その姿があまりにマヌケに見えたのだろう、構内を通りかかった社員が吹き出しながら寄ってきた。そして「所長は都会の人だね~。」と笑いながら暫く見ていたが、逃げ惑った蛇が一瞬ドラム缶のスキから頭を出したところを電光石火の早業でパッと掴むやコネコネコネっと団子のようにこね回し、両手でボールを持つように抱えた。そして「アッハッハ。」といいながら工場の端っこから田圃に投げた。バシャッと水を上げた後、蛇の奴はどこかに泳いで消えた。                     「あれは毒のない蛇なんで噛みつきませんよ~。手が臭くなっちゃいました。落ちてきたでしょう。」                                               と余裕綽々で言った。彼の説によると、落ちてきたのは屋上の鳩の巣で卵を飲み込み、その殻を割るためにわざと飛び降りたのだそうだが・・・。そんな学習能力が蛇にあるだろうか。

ところで、赴任当時には引き継いだ事業の製品在庫が山のようにあり、一部は工場とは名ばかりの貸倉庫のようになっていた。こちらの事業が拡大基調にあったので、少しづつ在庫を処分して行ったのだが、製品そのものは何とか捌けても付随していた副資材や使わなくなった設備はそう簡単に右から左という訳にはいかない。物を捨てる、という行為は結構なエネルギーがかかる上に、資産計上されていれば償却途中の場合大っぴらな除却損が立つ。先送りが蔓延する所以で有る。「いつかは使う。」「あれば便利。」といって誰もやろうとしないのだ。しばらく様子を見ていたが、我慢できなくなって自ら片っ端から捨てることに決めた。そうしたら次から次から表に出ないような物が驚くべき数量で明らかになった。仕様変更により役に立たなくなった金属材料は何トンもある、かつて実験で使ったビーカーがダンボールで山のように隠されている、備品、梱包資材(これも何トンもだ)、補強資材、更には鉄骨(これは切って業者に引き取らせた)。造っている製品はミクロン単位の、要するに微細なワイヤやパウダーなのだ。それが何トンものいらん物をため込んでいるとは、その無駄たるや読者の想像を遙かに超えている。しかも捨てるのもタダではない。しばらくの間、製造所長が先頭に立ってゴソゴソ物を捨てる、という異様な光景が続いた。しかし、これは「荷を軽くする」(僕の造語だが)といって、見えないところのコスト、固定費を下げるのに物凄く効果があり、実際そうだった。カンバン方式だろうがカイゼンだろうが、無駄をなくす環境を醸成すればいいわけだ。社員は僕のいないところでは除却大魔王と呼んでいたらしい。このとき僕の右腕として補佐してくれたのは、通称『げんじい』と呼ばれた(僕が呼んでいただけだが)嘱託の爺様で、庭木の手入れから屋根の補修から、メカにも電気にも強い大変なトボけた味の人だった。二人コンビでフオークリフトの運転を練習したり、バーベキューの焼き鳥屋をやったりしていた。

この製造所の印象はとにかく赤。秋口から冬にかけて、真っ赤な夕日が毎日秩父に落ちて行った。工場と事務棟の間に山茶花の木を植えていたがこれにも紅色とピンクの中間のアカいとしか言いようのない鮮やかな花を咲かせる。そしてこれがのどかなのだが、事務棟に植えてある柿が濃いオレンジ色の実をいっぱいつける。僕は毎日絢爛豪華な晩秋の秋を堪能した。調子に乗って年度末に屋上を赤く塗れと指示し、全員に反対され赤茶色で妥協したが。

赤々と 秩父を染めて 落ちる日を

山茶花ひとつ 添えて見送る

埼玉のウララちゃん

埼玉水滸伝 (埼玉の ホンキー・トンク・ウィメン Honky Tonk Women )


 
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

オリンピックへの道 (死闘10番勝負 その1から5)

2013 NOV 17 15:15:26 pm by 西 牟呂雄

  やはり、最も盛り上がるのは、宿敵同士が火花を散らす鍔迫り合いだろう。どの世界でも見応えのある勝負には胸が躍るが、必ず勝者と敗者に分かれる。手に汗握る攻防を制した者は賞賛に値するが、そこまで力を引き出した相手にも同様の拍手を送りたい。しかし、厳しい話ではあるが両者の間には決定的な差があり、また無ければそれ程までの名誉と誇りを賭ける勝負は生まれないだろう。それらの名場面は日々、色々なところで見ることができるが、オリンピックに絞っていくつかの死闘を拾ってみたい。

 陸上男子100m カール・ルイスVSベン・ジョンソン                    
 ロサンゼルスオリンピックに於いて、100m・200m・走り幅跳び・男子100m×4、の4冠に輝き、ミスター・オリンピックと言われたアメリカのカール・ルイスと、ジャマイカ生まれのカナダ移民ベン・ジョンソンの一騎打ち。オリンピック後も世界陸上等を次々に制覇し、スーパースターの名を欲しいままにしていたルイスに、前年に彗星の如く世界陸上100mでこれを退けて世界新記録を樹立したジョンソンが88年のソウル・オリンピックで挑んだ。
 この決勝レースをテレビで見ていたが、この頃からゴール側から走り込んでくる選手をズームする映像が流されるように成る。ついに追いつかない、となった時点でのカール・ルイスの「あー、コンチクショウ!」となった表情が非常に印象深い。
 この時の女子100mの金メダリスト、フローレンス・ジョイナーはゴール前に勝利を確信して笑いながらフィニッシュした映像が残されている。
 ベン・ジョンソンは上半身からしてまるでプロレスラーのような筋肉のマッチョ・マンだった。そしてレース後に発覚するドーピングでメダル剥奪。その後復帰したが、もう一度陽性反応が出て永久追放となってしまった。しかし、一方のルイスの方も選考会の時点では興奮剤か何かの陽性反応が出ていた。怪しいものだ。彼等の死闘が汚されてしまい、何となく後味の悪さが残った。ただ、敗れ去った後、ルイスはジョンソンに握手を求めに駆け寄っている。顔には悔しさが丸出しではあったが。

 柔道無差別級 ヘーシンクVS神永昭夫              

神永   言わずと知れた東京オリンピックの柔道無差別級決勝。東京からオリンピック種目になった柔道は「お家芸」の国民世論の元、ズラリと金メダルを並べた。そして「柔よく剛を制す」の柔の心の本家本元、無差別級の決勝に臨む神永昭夫のプレッシャーはいかばかりか。巨漢ヘーシンクの袈裟固めで敗れてしまったときは、筆者でさえも日本が負けたような気分を味わった。
 実は直前に膝の靱帯を断裂していた。今日であれば合理的に公表されて然るべき事態もこの時代は違った。自ら口外することすら卑劣と解釈されたであろうし、神永はひとことも言わずに試合に臨んだのだ。
 神永は当時某製鉄会社のサラリーマンとして勤めていたが、この人の凄いところは、負けて大騒ぎになった翌日も定時に出勤したらしい。やはり達人の域に近いのではないだろうか。筆者はその後、鉄鋼海洋事業部、N製鉄所等の幹部だった御本人を存じ上げているが、実に立派なお方だった。社会人野球の部長も(監督ではない)されて、敗色濃い試合でも抜群の存在感だったと聞いている。
 一方ヘーシンクは指導者として母国で過ごしていればいいものを、ナニを感違いしたのか(恐らく契約金に目が眩んで)ジャイアント馬場が率いる全日本プロレスのリングに上がる。実は私の専門はプロレスであり、本気のガチンコの実力を見抜くのには自信がある。ヘーシンクは強さについては充分なのだが、プロレス・エンターテイメントの作法になじめず晩節を汚した。プロレスなめんなよ。    

 ホッケー インドVSパキスタン                                  
  戦前からインドではホッケーが盛んで、オリンピックには英領インドとして参加し、1928年のアムステルダム大会から3連続金メダルの強豪だった。このうち1932年ロサンゼルス大会は、ホッケー競技の参加国がインド・アメリカ・日本の3カ国しかなく、わが日本は堂々銀メダルに輝いている(参加国が全てメダリストという珍しい記録)。戦後も1946年からインド共和国として3大会連続で金。ところがその間1947年にはパキスタンがイスラム共和国として袂を分かってインドのライバルとなってしまった。インドの3連勝の最後1956年のメルボルンではパキスタンが銀メダルを取っている。即ち決勝で当たっているのだ。
 以後80年代まで両国の死闘は続くことになる。古来より、国境を接する国同士が仲が良かったためしがなく(我国もアノ国との関係でよく思い当たる)宗教の対立まであるため武力闘争を何回も起こし、更には核の開発競争にまでエスカレートしている。今でも国境の町で、夕刻国旗を降ろしゲートを閉じる時の通称フラッグ・セレモニーなんぞは大変な盛り上がりである。毎日毎日やるのですぞ。
 そして56年から64年の東京大会までは両国がズバ抜けて強く、3大会連続で決勝で当たる。60年ローマはパキスタン、64年東京はインドが雪辱、68年メキシコはまたパキスタン(この時インドは銅)が金を取っている。
 両国の対決はオリンピックらしからぬ乱闘騒ぎまで起こしていた。その後もライバル関係は続くのだが、他のスポーツの振興もあり80年のインド、84年のパキスタンの金(共に相手はメダルに届かず)が最後となった。

 棒高跳び ハンセンVSラインハルト                             
 これは東京オリンピックで、筆者は最後のところだけテレビで見ている。これが死闘たる所以は延々昼過ぎから夜遅くまで試合が続いたところ。このオリンピックは10月に開催されたため日暮れが早い。それにしても(無論照明はつけられたが)月下の決戦で、確か競歩だったかトラックに選手が次々にゴールしていた中での場面を覚えている。
 記録的には5mを越えた当たりだったと思うが、両者一歩も譲らない。棒高跳びの経験は無いが昨今のスター達を見る限り、かなりの瞬発力、集中力が求められるのではないか。アメリカはこの大会までのオリンピック全て金メダルの14連勝中でハンセンは医学生だったと記憶する。バーを上げてのジャンプ前にフィールドに横たわっていた姿が映像にあったが、あんなことで精神が集中するものか、と思った。そして2-3度ポールのしなり具合を確かめた後に一発でクリアした。
 対するラインハルトはニコリともしないで黙々と挑んだが3回ともバーを落とした。国立競技場から「アーッ。」という歓声が上がった。このときラインハルトは駆け寄ってハンセンの勝利を称え、すぐに控え室に走っていった。僕は子供なりにゲルマンとはこういうものか、同じ白人でもアメリカとは違うな、と思った。記録によれば午後1時からはじまって9時間を越す正に死闘だった。

 男子バレーボール 日本VSブルガリア                             
 この頃から女子ばかりが人気だったバレーボールで男子も人気スポーツとなり、特にミュンヘ・ンオリンピックに向けてのアニメ放送とタイアップしてブームを呼んだ。実際には東京で銅、メキシコで銀、と一定の実力はあったのだが、東洋の魔女の名前の前に霞んでしまっていたのだ。市川崑監督のドキュメント映画には1シーンも登場しない。このアニメは松平監督自らがテレビに売り込んだ、という話がある。レギュラーにも個性的な選手がいて、大会前から人気が出てきていた。
 その頃は実業団リーグで製鉄会社のチームが強かった。その縁があって中村祐造選手の話を聞いたことがある。一番の天才的プレイヤーはセッターの猫田選手で、目が顔の横の方に位置しているからチョッと首を振るだけで真後ろの相手のコートが見えたという。
 名将松平監督に率いられたチームはA・B・Cクイック、時間差攻撃を駆使して勝ち上がって行く。ところが準決勝で東欧のブルガリアと当たり、1.2セットを連続して落とし絶体絶命のピンチに陥る。松平監督はここでベテランのキャプテン南を投入。怒涛の巻き返しで3セットを奪い勝利した。
 劣勢の中、突如日本の若い女性が2~3人「ニッポンチャッチャッチャッ」をやりだした。熱狂的なファンがやっているのだろう、と初めの内観客は「何だこれは」という反応だった。だが日本は第3セットに追い上げだすと、声援に応えて南はオーバー・アクションで走り回る。しまいには会場全体で(大半がドイツ人だろうに)ニッポンチャッチャッチャが始まった。ブルガリアの選手は呆気に取られたことだろう、多少気の毒ではあった。そしてこの勢いで決勝は東ドイツに圧勝して金メダルを取るのだ。

 ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

オリンピックへの道、死闘10番勝負、その6から10

死闘(ヴァーチャル)十番勝負 そのⅡ(1から5)

死闘(ヴァーチャル)十番勝負 そのⅡ(6から10)

吉例顔見世大歌舞伎 仮名手本忠臣蔵

2013 NOV 14 13:13:59 pm by 西 牟呂雄

 さて年末が近くなると、第九の合唱と共に日本人になじみの深い忠臣蔵が掛かるので、夜の部(五段目・六段目・七段目・十一段目)を見てきた。五段目六段目は音羽屋・菊五郎の独壇場といったいつもの感じ。ここで不破数右衛門の役で出てくる、高島屋・市川左團次という人がいるが、実は私、その人の隠れファンだ。ときどきテレビの時代劇にも出たりする器用な人で、卑劣極まりない女好きの権力者とか金亡者の悪代官とかをやらせると天下一品の芸達者。歌舞伎の舞台では何よりも声がいい、声が。見得の際に良く通って惚れぼれする。

 七段目(祗園一力茶屋)からは、播磨屋・吉右衛門の技が光りまくる。この人上手いですからねぇ。赤星由良之助が遊び呆ける大好きな場面で、時節柄の話題を取り込むいかにも歌舞伎っぽい場面が入る。今回は「見立て」遊びの所に若田さんのロケット打ち上げの話だった。『まずはアチキが見立てましょう。お腰を、ここに見せまして、紙を、ここに乗せまして、浅草名物カミナリオコシ。』とチャラチャラ演じた後にやって見せた。一遍でいいからこういう遊びがしてみたい(酔っ払ってそこら辺でやっているが、大勢の花魁の前で、だ)。前に韓流ドラマが流行った頃、冬のソナタのバリエーションをやっていたこともあった。こういうところが大衆芸術たる所以の面目躍如。

 そう言えば40年前の下町の者にとって、相撲や歌舞伎は気軽に見に行くものだった。僕の小さい頃に歌舞伎が芸術だと考えていた大人というのはいなかったのではないだろうか。確かに土俵際砂被りや枡席、歌舞伎の桟敷席や一階の席は高い。だが国技館も上の方とか歌舞伎座の3階なんかは当日行っても買えるもので、今現在においても歌舞伎座二階B席(後方)で2500円だったか。一幕だけ見る当日売りの幕見はもっと安いのでは。ただしすぐ売り切れるから一か八かになるが。国技館だっての2階奥が2000円(当日券)とかそれくらいのはずで、要するにそこら辺の近所の人が行くような娯楽なのだ。だから相撲も歌舞伎も「見物」と言っていた。今でも歌舞伎座だろうが明治座だろうが新橋演舞場でもそういう所に屯しているのは声掛けがうまい。歌舞伎の声掛けについては以前タイミングのことを書いた。見得を切ったときに間髪を入れずに屋号を呼ぶ。「音羽屋」とか「成駒屋」とか言うのだが、そのまま呼んではいけない。アクセントを極端に前にかけて短く、「音羽屋」ならば「ットワヤ!」と聞こえる感じが粋とされる。相撲の方はかけ声なんかはないが、昔は印象的な声援があった。荒勢という相撲取りがいて、こいつのファンなのだろう、いつ行っても同一人物と思われる声援が飛んだ。呼び出しが例によって何を言っているのかわからないような節回しで「こなた荒勢、荒勢」と言った途端甲高い女性の声で、「あーらーせーー!」と一回だけ声を張り上げておしまい。もう一つ覚えているのは北天佑(字が合っているのかわからない)の熱烈な贔屓で、恐らく粋筋の女性だった。呼び出しの段階から仕切りの間、ずーっと「ほくてんゆー、ほくてんゆー、がんばれがんばれほくてんゆー!」と叫び続ける。自然と皆の視線が集まるが何のその、視線の先にはキリッと着物を着こなした美人が正座して座っていた。負けでもすれば涙目になっていたのをが印象的だった。こういうのは土俵脇の一つの芸みたいなもので名物化して楽しまれていた。

 そして十一段目、討ち入りになるのだが、まぁ中身はご案内の通り。赤星力の役で、先日亡くなった富十郎の一子、天王寺屋・中村鷹之資が出ていた。確か富十郎69才の時の子供だ。今14~15才位か、オモテはなかなかの若武者なのだが、チョットデブ過ぎる。あれじゃあまるで桃太郎。キミ、少しダイエットしなさいダイエット。

荒事の華麗な芸 

九月花形歌舞伎

九月大歌舞伎 千穐楽

猿之助四十八撰


 
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

平成亜空間戦争

2013 NOV 10 17:17:42 pm by 西 牟呂雄

人間界はいざ知らず、このヤマトの亜空間に太古の昔より繰り広げられた戦争に暫く小康状態が続いている。地上ではニホンジンなるものが来る日も来る日も喜怒哀楽に努めているが、亜空間にあるのは怨念のみ。それも無念を抱いて死ぬ直前まで悶え苦しんだ者が次々に戦いを挑んで来る過酷な戦場なのだ。即ち普通に死んだ者などは亜空間を越えて天国か地獄に行ってしまう。死の直前に悟りを開いた者などは間違いなく天国行きだ。怨霊は地域依存性が高く、移動が得意ではないので亜空間の統一というのは難しい。絶えず恨み辛みの毒を吐き散らして一進一退の戦いを続けていた。その代りと言っては何だが戦うこと自体は怨霊達にとって無常の霊的快感であり、止めることなどありえない。いかなる酒池肉林にも代えがたい歓びの中で永遠に戦い続けることになる煉獄なのである。それも上位に勝ち上がればそれだけ快感が増し、一たび敗れればその配下としてコキ使われるので、新たな挑戦者が来るのを待たなければならない。武器なんぞは亜空間にはあり得ないし、怨霊は物理的質量は無いので、どちらが恨みが深いかをぶつけ合う霊力の勝負となる。しかしそれが可視化されれば、人間には正視に耐えない殺し合いに見えるだろう。冒頭の『小康状態』とは、各地方別のトーナメントに一応のカタがついてこのかた、100年程は勢力が均衡していることを指す。それでは各地の現チャンピョンとも言うべきスーパースター達を紹介しよう。

先ずは長らく日本の歴史の中心地であった近畿地方を見てみよう。ここは歴史も古く、陰険な政争に明け暮れていたため、この二千六百年間に多くの怨霊が参入してきた。しかしながらダントツで強力な霊力を発揮した後醍醐天皇が支配している。なにしろ口から炎を吐きながら喋り、配下の者を叱りつけるときは首を引きちぎる。ちなみに亜空間ではやられても安らかに死ぬなどという生易しいことにはならず、異形のまま軍門に留まる。このエリアでの過去最大の挑戦者は石川五右衛門と石田三成だったが、後醍醐天皇の前では赤子に等しかった。先ほども説明したが、いくら人間界でパワーを発揮しようが普通に死んだ者などここには来ない。豊臣秀吉なんぞは老衰で往生してしまったため地獄へ行ってしまった。又、生前は人間界で陰陽師だった安倍晴明も、安らかに死んでしまったので亜空間にはお呼びでない。西日本では拮抗しうる勢力はかすかに出雲の大国主命だ。さすがの後醍醐天皇も国ごと天孫族にかっぱらわれた恨みは潰しきれない。他に極めて小勢力であるが下関の安徳天皇と平家一門も相変わらず成仏せずに戦い続けている。

続いて九州。ここは北と南に大きく分かれており今尚統一されない。北は恨みにかけては後醍醐天皇と拮抗する菅原道真。どうやら菅原道真は京都にのみ執着し、途中の山陽道や南九州には目もくれないため、太宰府から動かない。150年に一度くらいの頻度で怨霊ビームを遠く京都に飛ばすが、ことごとく後醍醐天皇のバリヤーにはね返されている。南は長く熊襲武尊が支配していたが、桐野利明こと人斬り半次郎が強力な薩摩怨霊軍団を率いて亜空間入りした時点で覇権を奪った。本来大将は西郷隆盛だが、城山での死の直前には悟りに近い心境になっていたため天国に行ってしまったのだ。ただ、精強薩摩怨霊軍団は割とあっさりしたところも有り北進の動きはない模様である。

東に目を向けるとこれまた度し難い怨念をまき散らす平将門が君臨している。将門は亜空間では初めから首と胴が離れていて、首はご承知の通り京都から東京大手町まで飛ぶことができる飛翔能力があり、胴は脳も無いのに自分で動くことができるので体が二つあるも同然の戦闘能力である。このエリアは新規参入者が何故か少ない。戦国時代にわずかに太田道灌と武田勝頼が挑戦者として現れたが、その他は病死だったり酒の飲み過ぎで脳溢血だったりしたので無風だった。近いところでは維新の戦の近藤勇および2.26の野中大尉、磯部大尉、安藤大尉、更に下って大東亜戦争終戦時の阿南陸軍大将くらいだ。本来は戊申の役で江戸城を枕に総討ち死にでもすれば、亜空間に大挙して参入者があったはずだが、徳川慶喜の日和見と勝海舟のヘラヘラ談合で戦火を免れた上、当事者達は天寿を全うしたのでは奮わない。近藤程度の小物では将門に歯が立つわけがない。阿南大将の割腹は陛下の御聖断の前にはどうしても霞む上、直前には澄み切った心境になっていたらしく、素通りに近かった。2.26の連中は亜空間入りするためには政治的に純粋すぎ、結果的には挑戦するに至らずこれも地獄行き。もっと陰湿な裏切りを受ける、あるいは卑怯極まりない仕打ちによる悶死をしなければ煉獄には留まれないのだ。面白いことに西の覇者後醍醐天皇の嫡男、皇族にして唯一の征夷大将軍にもなった大塔宮護良親王が将門配下にあり(鎌倉で惨殺された)、西の後醍醐天皇をしきりに牽制している。この怨霊も首と胴体が離れている異形だ。ヤマトは厳しい世界戦争により多くの戦死者を出したが、本土決戦をしなかったため戦死者は遙か異郷で散華した。そして靖国神社にカミ様になって祀られたため、亜空間には殆どが参入しなかったのである。 注意しておかなければならないのは、遙か南の島嶼エリアに長らく君臨していた宇喜多秀家(長生きしすぎて最後狂い死にした)を配下にした栗林中将(戦死後大将)が、沖縄の牛島陸軍中将・太田海軍中将と密かに連携し、共に将門を追い落とそうとしているという噂があるが、怨霊の移動能力を考えると可能性は低いと考えられている。

北陸、越後にはあまり凄いのはいない。人間界では戦国無敗の天才、上杉謙信が酒の飲み過ぎだったので、亜空間入りしなかった。柴田勝家が格下の秀吉にやられて悶え死んだが、後醍醐天皇の霊力が強すぎてとても南下できず、かろうじて北上して居座った恰好にある。佐渡には順徳天皇がいる。焼け石を頭に乗せて死んだ、という伝承の通り侮れないが海を越える考えはないらしい。

さて東北はどうか。会津エリアにかなりの恨みを抱いた怨霊が存在し、平泉に源義経と身の丈2メートルの弁慶がいて配下に安倍頼時・貞任を従えている。しかし、会津の場合は幹部が多く生き残り天寿をまっとうしたため白虎隊と中野竹子だけではイマひとつ霊力に欠けるし、義経にはこれまた霊格(怨霊だから人格ではない)がない。長年挑戦者を退けて長期にわたって君臨するのは蝦夷の長アテルイである。好き勝手に狩猟生活をしていた平和な日々に坂上田村麻呂がやってきて頼みもしないのに「お前達も田んぼを耕して稲作をして税金を納めろ。」と襲いかかって来た。全く大きなお世話だったのだが聞く耳もあったればこそ、と踏みにじられ、これでは相当の恨みが残るのも当たり前だ。

最後に北海道だが、小競り合いはあったものの怨霊にまでなれる者はあまりいない。五稜郭で戦死した土方歳三が副官でいる他は、網走地区に看守に虐められて凍死したり獄死した連中で、こいつらは元が極悪人だから多少の霊力がある。それらを束ねるのは無謀とも言える反乱を起こしたアイヌの英雄シャクシャインであった。

ところで冒頭にあるように、ここ暫く大した挑戦者が出ないのは、まず国内では目立った戦闘そのものがないため、悲憤慷慨の後に悶え死ぬ、といった条件が揃わないのだ。陰険な政争と言っても特に戦後は民主主義が蔓延してしまったため、もの凄い怨念そのものが生まれにくいのである。例えば田中角栄。創世会の発足で頭に来たころは最も恨みを募らせていたのだが、脳溢血を患ったため思考が停止してしまい往生するころには心安らかになってしまって天国行きだ。不思議なことにこの派閥系統はみんなアメリカを怒らせた後おかしくなって病院送りの後天国に行く。橋本・小渕なんか一服盛られてるんじゃなかろうか。旧福田派はそこへ行くと安倍晋太郎が総理になりそこなって怨霊化しそうだったが何しろ人柄が良くてダメ。他はみんな極楽往生だ。森・小泉・塩爺なんか間違いなく亜空間入りしないだろう。

そういうことで、現在亜空間に名乗りを上げられる程の候補はたったの三人しかいない。親父の怨念を引き継いだつもりのバケモノじみたヒステリー田中真紀子。総理になるチャンスを逃しまくって頭に来た我儘政治家小沢一郎。無能をさらしても自分は悪くないと言い張れる厚顔無恥管直人。いずれも亜空間トーナメントに挑戦資格十分であるが、問題は寿命とくたばる場所だろう。下手に長生きして往生を遂げられてはダメであるし、東京で逝ってしまうと平将門に蹴散らされるのがオチだ。田中真紀子には是非新潟において柴田勝家との決戦に臨んで頂き、小沢一郎には選挙区である岩手で身罷って頂きアテルイと勝負してもらいたい。管直人は宇部出身なので下関の安徳天皇への戦いを挑まざるを得まい。

亜空間に挑戦者がいないのは必ずしも人間界の平安を意味するものではないのだが、怨霊化するほどの怨みを持たずに人々が往生するのは一定の調和の取れた社会が実現しているのであろう。尚、女性が勝ちあがれなかったのは何も女性に怨みが少ない訳ではない。色恋の恨みは亜空間の霊力にはそぐわないからだ。

怨霊達も歯ごたえのある挑戦者がそろそろ欲しくなってきている。

平成亜空間戦争 Ⅱ


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

春夏秋冬不思議譚 (終わらない電話)

2013 NOV 7 21:21:22 pm by 西 牟呂雄

 ある平日の昼下がり。関東地区の某駅でJRに乗った。折り返しの電車なので座席はスカスカ、一両に一人位しか乗って居らず、出発までは15分ほどあっただろうか。乗った車両もオレともう一人のおばさんが離れて座っているだけだった。何やら声が聞こえてくるので人もいないのに、と思ったらおばさんが携帯で喋っているのだった。離れているし特に気にもならなかったので本を読んでいた。2~3分経った頃、突然おばさんは激高して『普通しないでしょう!』とまくしたてた。どうも何かに怒っているようなのだ。それでもまァ人もいなけりゃ電車も動いてもいないのでホッタラかしにしていた。しかし声の大きくなった分耳に届いてくる。『私の個人情報が漏れたかもしれないんですよ!』そりゃ大変だろうな、と深く同情したが只ならぬ声色に変りつつあるのが気にはなって来た。まだ誰も乗ってこない。『ですからね、私の家に留守電で残ってたんですよ!』オイオイ、うーむ、発車まであと10分くらいかな。自然と目が行った。おばさんは俯きながら喋っているのだが、『ですけどね。』等と言う時に激しく身をよじる。その度にだんだん椅子からズリ落ちるように体が横を向いていくのだ。マズイ!目が合ってしまった。

 おばさんはその後電話を切られてしまったようで、暫く(30秒位)黙っていたが又すぐに話し出した。『失礼じゃ無いですか!』リダイアルしたようだ、これはヤバイかも。電車はまだ出ないし、隣の車両も誰もいない。うるさくなってきたので移動した。これは何かオレの方が損したようではあるが、怒鳴りつけたりケンカになったり(まさか)しては面倒なので隣の車両の端っこまで行って又ページを開いた。しかしこんなに空いていてはJRも元が取れないのでは、等と余計な心配をしているうちにやっとベルが鳴って動き出した。すると突如『何度も言ったじゃないですか!』の声が車両中に響き渡った。思わず見据えるとあのおばさんが憤怒の形相凄まじく携帯で話しながら車両を移動してこっちに向かって来るではないか、ウソだろう。しかも僕の前まで来て素通りするかと期待していたら、何故か斜め向かいくらいの所に座ってしまった。オレは心の底から引きつった。

 どうも相手が変わっているらしい。『だって留守電にまで残されたらよっぽど大事な用事だと普通思うでしょう!』それはそうなんでしょうが。又車両を移るのはもうアホらしく思え、更に目的地まで(後40分くらい)前に座っているのも我慢できそうもない、と一人焦った。よく聞いていると(聞きたくもないが)どうやら電話勧誘が留守電にあったらしくそれにバカ正直に名前を名乗って電話を返したことがアタマにきているようで、同じことを繰り返し怒っているのだった。さっきまでの相手はその勧誘者で、今はどうやら市民相談室とかその類の苦情窓口のようだ。

 以前にちょっと違うケースだが、女の子にやさしく『人が多いんだから携帯はやめなさい。』と注意して痴漢呼ばわりされたことがあった。危機一髪・一触即発だったのだが、その時は他にも人がいて『この人はズッとここから動いてなかったじゃないか。』と一喝してくれて助かった。今日はこの車両には僕とおばさんしかいないから、言わば絶体絶命のピンチだ。早く次ぎの駅についてくれ、と祈るような気持ちで本を読み続けた。いや読むフリをしていた。

 窒息でもするのじゃないか、という緊張感の頂点で電車は駅に滑り込んでくれた。助かった。さぁ、誰でもいいから乗ってきてくれ。と、ドアが開いた瞬間、おばさんは『もういいです!』と言い捨てて携帯を切ると電車から降りていってしまった。何だ、このオチは。その駅から数名の乗客が乗って来たのだが、その人達は唖然としたオレのバカ面を見たことだろう。車両が動き出してホームを歩いているおばさん見えた。その姿に心の中でそっと呟いた。

「おばさんご苦労さん。あんなに時間をかけて電話して、タダじゃないんでしょ。」

「今日電話した?」という新手の迷惑電話

雑感 話さない会話 突然思い出した事など


ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

相模湾航海

2013 NOV 4 16:16:57 pm by 西 牟呂雄

ホーム・ポートの油壺から真鶴までは、江ノ島を右に見ながら北西の290度あたりを狙って一直線で行ける。風にも因るのだが4時間というところか。この日はひどい西風が吹いていてセーリングには難儀した。おまけに台風によるうねりが残っていてずいぶん船が叩かれた。こんな荒れた時に出なくともよかったのだが、やらなきゃならない時もある。真鶴から乗り込んで、明日回航するクルーがいるのだ。相模湾は伊豆や離島とは違って返しの三角波は立たないのだが今日は風波の相性が悪い。うねりに乗り上げてドーンと落ちると甲板をザーッと海水が走り、キャビンにドドッと海水が流れ込む。気味は悪いがセーリングはこうでなくちゃ(たまには、だが)。揺れがひどいのでグラスなんか持てない。恒例の出港祝いの乾杯も焼酎のラッパ飲みだ(バーボンの人もいたが)。波・風と戦うこと3時間くらいで真鶴半島がうっすらと見えてくる。これを良く熱海沖の初島と間違えることがあって近づいて慌てることがある。実はヨット乗りとしてはそういう間違いは物凄く恥ずかしいことなのだが、僕たちは以前何回も似たようなチョンボをしでかした。伊豆の大島から帰ってくる時に、スキッパーが『ああ、見えた見えた。あそこが三浦半島だ。』と言い張って、着いてみたら房総半島の館山だったことがある。都内に帰れなくて困ったし、関係無い漁港に係留していると、漁師は遊びのヨットが大嫌いだから何をされるか分らない。もう1レグ航海するか、じゃんけんで負けたやつを残して帰るかで大モメにもめた。結局翌日に帰港することにして全員仕事をサボったのだが。

真鶴は港の入り口にヨット・クラブがあってそこに入るのだが、そのハーバーの港湾管理者は若干知的障害があるSさんで、僕たちはしょっちゅう怒られていた。何しろ職務に忠実で『ちゃんとアンカーを打たなきゃだめじゃないですか。』とか叱られる。それが面倒なので、湾の反対側に仮停泊し、夜中に夜陰にまぎれてこっそり横付けしようと考えた。まだ日が高いので夜まで時間を潰すために麻雀の場が立った。わざわざヨットでやってきて麻雀に興じている僕たちを、釣り人や観光客が「バカじゃないの?」という顔で見ている。

そう言えば昔、まだ三浦岬に遊覧船があった頃、遊覧船が油壺の先から城ヶ島を一周して三浦まで回航していた。あまり大きな船でもなく、人も大して乗っていなかったが、時々すれ違うとやっぱり手を振ったりしてくれたりしてくれる。ある時雨が降っていて、三崎港の中を通る時には波もないから全員ビニ傘をさしていた。その時遊覧船とすれ違ったのだが、乗客には僕たちが余程みすぼらしく見えたようだ。いつものように手を振っても誰も応えてくれない。あれは僕達がボート・ピープルかなんかに見えていたのだろう。中にはお子さんもいたので「ちゃんと勉強しないとああなっちゃうんだからね。」と説教していたのかも知れない。

それで真鶴では同じような嘲笑の視線を浴びつつ麻雀に興じていたら、突如「こんな所にいたらダメでしょっ!」と声がかかった。何と職務に忠実なSさんが反対側から目敏く僕たちを見つけて、わざわざ歩いて怒りに来たのだ。ごめんなさい、ごめんなさい、と謝ってハーバーに寄せたが、結局岸壁に横付けしてアンカーは打たなかった。

真鶴の港の近くに本当かどうか知らないが源頼朝が隠れ潜んだという洞窟がある。この人は弟と違って実戦は大したことなくて、挙兵した後にしょっちゅう負けている。挙句の果てに僕たちのやるように三浦から房総半島に逃げ延びてしまった。どうも幕府を開くような政治には手腕を発揮するのだが、個別戦闘では無能だったため、イマイチ国民的人気が出ない。伊豆にはアチコチにこじつけとしか思えないような頼朝関連の史跡があるが大して流行らない。

ところで、その後僕たちは上陸して近くの旅館でお風呂に入った後、結局勝負がつかなかった麻雀をズーっと打ち続けたのだった。一体何しに行ったのか。結果?聞いてくれるな。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

製造現場血風録ー復興

2013 NOV 1 10:10:44 am by 西 牟呂雄

7月13日(月)火災発生から3週間が過ぎたところで、嬉しい報告が入った。現地クリーン・ルーム内で暴露試験をした結果、設備自体は生きていることが確認できた。純水装置の加水洗浄も完了。今までは日本から全て製品で出荷していたが、途中仕上げの半製品で現地に送り、後工程の操業ができることになった。日本サイドは第一・第二工場ともまがりなりにもフル・シフトの稼働となり、何とかギリギリの綱渡りができたことになる。僕は通常機能が回復したと見て、緊急対策本部は解散し、元の指揮命令系統に戻すことに決めた。だが急ブレーキをかけてはスピンしてしまう。現地緊急派遣の連中が戻るタイミングで徐々に役割を消していった。そして原隊復帰する直属幕僚だった部下にはこう言い添えた。

「こういう仕事は見事に立ち上げれば立ち上げるだけ『何だ、大したことなかったのか。』と言われるのが常だ。そういう時は、はいはい左様で、と言って涼しい顔をしてるもんだぞ。」

そうは言ってもやることは山ほどある。損害の確定、原因と対策、新規設備の導入、数え上げればキリがない。だがこれらは業務を分担し、粛々とこなせば良いことで、今どうするのかという切った張ったではない。言うならば戦国乱世から抜け出して秩序ある藩幕体制になったようなものだ。僕の役割は終わった。

しかし振り返ってみれば反省することしきり。まず、指示・重要報告は必ず相対にて確認する必要があること。CCをやたらと付けて発信者は十分に連絡を果たしたつもりだろうが、緊急時に毎日100件200件とメールが飛び交っているときは、念のためにこの人にもとやるのは返って集団無責任体制を助長することになる。或いは保身のため、とも思えるようなCCメールも多く、僕はそんなもんは見るハナから削除した。まぁ善意を持って発信するのだろうが、レスポンスが欲しい相手には必ず確認を取らなければ危機の際に情報が埋もれる。なにしろ物凄い量なのだから。ところで今から考えてみるとやたらにCCを付けるるタイプと、「オレは聞いてない。」と開き直るタイプには一定の相関があるようだ。

また、周りが殺気立っているにも関わらずどこ吹く風の輩も居た。暫くしてから気がついたのだが、メチャクチャになっている間は目に入らなかったのである。「自分には権限がない。」「まだ情報が上がって来ない。」そして「聞いてない。」、このタイプこそ危機の状況下最も無用者で扱いに困った。実際は優秀なヤツ等なのだが。この問題の救いがたいことは教えてどうなるものでもないことだ。本人の人間性のいい悪いの話でもない。普段は役に立つのだから評価がどうこうとも言えない。あくまで例外的危機状況なのだから、そういった人材は無視しておくに限る。

総括するつもりではないが、事故は幾つかの不幸によって必然的に起こり、高いモラルと不断の粘りによって回復する。今回は一丸となって責任感を共有し対応に当たった実感が残った。特に直属幕僚だったK課長、H係長、H嬢、A嬢の驚異的ガンバリには感謝するばかり、君たちは素晴らしかった。又、現在も尚闘病中のH君の回復も祈って止まない。

後日、目処が付いた報告をヘッド・クオーターに報告に行った際、ダイレクターはこう言った。                                              「どうなることかと思ったが、大したことなくてすんだな。」                  僕は思わずニヤリとして答えた。                               「はい。お陰様で。」

 

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

製造現場血風録ー火災勃発

製造現場血風録ー補給・兵站

製造現場血風録ー全力疾走

製造現場血風録 (開発の蹉跌)

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊