Sonar Members Club No.36

月別: 2013年12月

ヴェトナムに行ってきた

2013 DEC 28 22:22:28 pm by 西 牟呂雄

年末の最中、ヴェトナムを訪問して来ました。とある外資が投資しているプラントに一口乗ろうという魂胆でかなり辺鄙な所にまで足を伸したのですが。どれくらい辺鄙かというとハノイに飛んで国内便で1時間のりつぎ、そこから車で2~3時間の海に近いところです。年末ではありますが台湾より南、フイリピンの横の熱帯かと思いきや、冬場は雨季だそうで寒かった。雨は着いた日から3日間ずっと降っていて、気温は18度くらいでした。新興国と言われだしていますが車で2~3時間の陸路は凄いものでした。私は昭和30年代の日本の道路事情を記憶していますが、あのデコボコぶりによく似ている。所々穴のあいた舗装、雨の為にビチャビチャになった道路わき、マナー無視の運転とかすかに既視感が。それがまた荒っぽいの何の、行きは私の乗った車が危うくバイクの二人乗りを引っ掛けかけたし、帰りはトラックがこれまたバイクをペシャンコにした直後の現場を見ました。どいつもこいつもクラクションを鳴らしながらチキン・レースのようにアクセルを踏み合う。風景は右も左も水田で、今年はもう刈り取られていましたが、時々鍬を担いで例の三角麦藁帽を被った農夫が歩いていたりします。そして群れを成して闊歩する牛。バカなのか堂々と道を横切ったりして車を止める。のどかと言えばのどかだがあれは家畜なのでしょうが、どうやって管理しているのか。そして極めつけは日本では全く見なくなった牛に引かせての農作業もあります。盛んに撮られたヴェトナムものの映画で見た農民の姿そのものでした。

ときおり集落があって、正にアジアの町並みなのですが、特徴的なのは他の国のこういう街には必ず派手な漢字看板の華僑の店があるのが、全く見なかった。フランス統治時代にその手先となっていた華僑(これはスペイン時代のフイリピンも同じ)はヴェトナム戦争後の混乱でかなり駆逐されてしまったようです。怒った中国が戦争をしかけたものの、実戦経験に勝るヴェトナム軍に一蹴されています。

そうしてやっとたどり着いたハ・ティンの街はこれがまた何も無い。夜は真っ暗に近い。ホテルはそれなりの体裁だが、メシはまずかった。プラントを建設しているのは台湾資本ですが、どうやらそこで建設に携わっていそうなフイリピン系の人がヘルメットを被ったまま食事をしている。部屋は寒く暖房が必要でした。この緯度で暖房!そういえばフロントでも実に英語は通じなかった。戦争映画の刷り込みで英語が通じるかと思いきや、この地は当時は北ヴェトナムだったのでアメリカ兵なんか居なかったのだから全然だめでした。

ヴェトナムという国は長らく公文書は漢文でした。それに加えて独自の漢字というかヴェトナム語に対応した象形文字「チェノム」(これは恐ろしく画数が多い)が併用されていましたが、現在ではアルフアベットになっています。フランス時代があったため、フランス語の綴りによく似たクオック・グーが使われています。クオック・グーとは驚いた事に『國語』即ちコクゴと表記されていました。

さて、肝心のプラントの方はと言うと、本件一時はマスコミでヴェトナムの経済躍進の象徴的に報道されたこともあるものですが、実は遅れに遅れています。台湾資本側の若干のリセッションで投入できる資源が限られ、当初計画は大幅に縮小しそうなのです。行ってみると広大な敷地にポツリポツリと建屋が建設されていましたが、他は雨期のせいもあり例の赤土に水溜まりが広がるばかりです。この某業界は中国の膨大な供給過剰によって短期的にはギャップが埋まらないとされているので、正直竣工後の採算は苦しいのでは、と心配にはなりました。台湾スタッフも一部は縮小されるようですし、日本勢も進出を検討した形跡がありましたが、実は結ばなかった。

事務棟のすみっこでタバコを吸っていると(こんなところでも室内禁煙!)「コンニチハ。」と日本語で話しかけられました。振り返ると若いヴェトナム青年がニコニコしていて「ニホンジンデスカ。」と聞くではないですか。こんなところにはまだ日本人など来たことはないと思っていたので面食らいました。何故日本語を喋れるのか聞くとの大学時代に勉強したとのこと。そして目を輝かせて言いました。

「ワタシノユメハ、ニホンデハタラクコトデス。」

このエリアの出身かどうかは知らないが、一生懸命勉強したのでしょう。私も彼の夢がかなうことを祈らずにはいられませんでしたが、同時にずいぶん先の話にはなるだろうと思いましたね。この事業が発展し彼も十分な給料をもらい、キャリアアップしてから次のチャンスを探す。少なくとも10年はかかるでしょう。

「それではいつか日本で会いましょう。」

と言って握手をし、別れ際にお互いのタバコを取り替えっこしたのですが、物凄くきつい味でした。

出資元の台湾勢は数百人が滞在していて、寮を建設してそこに居住しています。全員単身赴任のオッサンばかりで、日常は全て中国語(ときどきマンダリンではなくミンナン語が混じる)で過ごしているようで、その光景はさながら東インド会社の英国人を思わせました。ただヴェトナム社会主義共和国ですから外資の土地所有は認められていません。佐藤優氏のいう新帝国主義の時代がどのような形を取るのか、金融業界のようなグローバル化が基幹産業でも起こるのか、そのあたりは嘗てアジアで工場建設を手掛けてきた者としては、第二ラウンドを迎えたような気がします。

帰りのフライトに乗り遅れては一大事とばかりに、早めに空港に行ったのですが、3時間前に着いてみると、何と誰もいない。人っ子一人いないのです。客待ちタクシーの運転手が昼寝をしているだけ。売店も航空会社スタッフも、警備員さえ影も形もないのです。これは・・・っと思っていると1時間後くらいからワラワラと集まり出して結局は満席の飛行機で帰りました。この国での仕事、当面の事業者の経営はキツイでしょうが悪くはない。あのヴェトナム青年と日本で会えるのはいつになるでしょうか。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

フィリピン侵攻作戦 上 

フィリピン侵攻作戦 下 

通り過ぎた国 

えらいこっちゃ

2013 DEC 26 15:15:05 pm by 西 牟呂雄

82才になる母親が転倒して腕を折った。上腕骨頭下部粉砕骨折と診断され、元々足が弱っていたこともあり立ち上がれなくなった。地元の整形外科では手に負えなくなり、結果は某大学病院への入院となったが、3日間実家で介護をした。骨折が金曜日でその日行けるのが私だけだったため、とりあえず駆けつけ車椅子に乗せてレントゲンを撮りに行ったが、骨密度が極端に低いこともあり立派な骨折。腕はダランと下がり動かせば痛い。こちらも素人だから、起こす際には前から支えるように動く右手でしがみつかせて引っ張るのだが、折った方の肘が当たったりすると痛がる。体重40kg以下の老婆なのに無理な体制でやるものだからこちらも無駄な力が入って物凄く重く感じた。入院させてから分ったが、あれは後ろから支えるのが正しいようだ。夜に父親が帰ってきたので引き継いで家で寝たのだが、こちらも85になる翁である。一晩で腰を痛めた。翌日から月曜の入院までまる3日つきあう事になった訳だ。痛いのは本人だし、思い通りにならないもどかしさから、勢い口を突いて出る台詞は激しいものとなる。明け方起こされたときはこちらも辛く、さすがに売り言葉に買い言葉にはならなかったものの、何と言えばいいのか『カッ』となったのは事実だ。

この『カッ』となった感情というもの、表現する言葉がない。双方悪意がないことは勿論、申し訳ないとさえ思っているのは間違いないのだが、行き所の無いドロドロとした感情のマグマが噴出する寸前の気分なのか。この気持ちは入院させる時にも湧いた。大学病院も稼働率が高いため病床のやり繰りがつかず(本人がどうしても個室、と言い張ったため)特別病室に入ることになり、その料金が一泊◎万円だった。それを聞いた時に、そうも言ってられないと思いつつ又『カッ』となった。大体この年でもう元に戻ることは無いのに・・・・。今では最後の贅沢か、と折り合いをつけてはいるが。

母は戦前のお嬢さん育ちで大変マジメな質なのだが、気象の激しい人。フランス文学にかぶれて日常会話くらいはこなして見せた。躾は厳しかったがずいぶんと無駄になっているのは、できあがったのが私と愚妹なので御案内の通り。昭和ヒトケタのど真ん中で時代と共に軍国少女→疎開→敗戦→大挫折→没落→左傾→高度成長の道をたどった。標準的な昭和ヒトケタ世代と括るのは簡単だがその響きは限りなく深い。恐らく百人百色・千人千色の人生があり、様々な事象の上に今日があるであろう。小さくなってしまった母親を抱えた時の以外な重さがこれなのではなかろうか(実際には中腰なのと痛がるので無理な姿勢をとったに過ぎないだろうが)。

骨折程度の怪我は現代医学ではカスリ傷程度、とばかりに最新の手術でめでたくチタンのバーを入れてもらい、病院はそれ以上治療することはない。後はリハビリなのだが、2週間ベットにいたので我儘も手伝い一向にやろうともしない。その顔を見て3度目になる『カッ』が又来た。ガンでもエイズでもないくせに、死にそうな声をだしやがって、といったところか。どうにか歩けるようになってもらわなけりゃ帰って来られても暮らせない。85才になるオヤジは元気だが、放っておいたら二次災害になってしまう。

そうこうしている内にあまりに痛がるので腰から足のレントゲンと精密検査をしたところ、当初かすかなヒビがあったのが骨の弱さも相まって亀裂が生じ、再手術となってしまった。さすがに病院側もあわてて発見後翌日には執刀される予定だったのだが。本人のストレスは物凄く、腑抜けたようになってしまいこちらも見ていて辛い。そして当日麻酔をかけた段階で異変が起こった。その場にいた訳ではないが一時心臓が止まった。手術は中断しICUに担ぎ込まれ口から鼻からチュ~ヴを突っ込まれてしまった。家族は呼ばれ夕方ベッドの横に行ったのだが、その段階ではチュ~ヴは抜かれていたが錯乱したのだろう、怒り狂っていた。『何でこんな所にいるのか。』『誰がこんなことを承諾した。』と目つきも凄まじく、鬼気迫る形相に驚いた。更に点滴を引き抜こうとするので腕を拘束されている。本人も大変なのだろうが僕はむしろにこやかに対応している先生方や看護師さん達に心底同情し感謝した。この日実際には夜も少しおかしくなり、駅周辺で飲んでいた僕達はもう一度ICUに行くことになった。例の『カッ』となることはなかった。それよりも何故か若い頃に読んで読後感が不気味だった深沢七郎の『楢山節考』の一説が思い出されたり、戦場で散った若い特攻隊員の命に比べればずいぶんコストがかかる、医学が発達し過ぎてこうまでしなけりゃ死ねないのか、等という不謹慎なことを考えたりした。なにしろ心臓が弱っているため、血流が滞るのを防ぐように足に空気マットでマッサージをし続ける機器までついているのだ。

今から考えると、表現が難しいのだがこの心臓停止時点で逝くのも、本人にとっては楽だったのかと思う。翌日執刀医がわざわざ詫びに見えた時、言葉を選びつつ本人も家族も無理な延命は望まないと伝えたが。

こういう時西洋人や中東では宗教に行くのだろうが、『神様の・・・』という概念は露ほども浮かばなかった。菩提寺は浄土真宗だし、母の実家は神道なので、思し召しもなにも無い。耄碌も進むだろうと覚悟を決めつつあるとき、実家のかたずけに行った妹がベッドの脇から大量のメモを発見した。それは何と消えつつある記憶を必死に残そうとしたのか、自分が好きだったものを書き綴っていたのだ。クラシック音楽(フルトヴェングラーにつぃての記述、マリア・カラスの印象、カラヤンの悪口)、文学(フランス文学の泰斗故辰野隆博士の記憶、ヴェリエ・ド・リラダン、アルチュール・ランボウ)、華やかだった少女時代の印象の記述があった。妹は「さすがに切ない。」と表現したが、その内いくつかは子供のころから聞かされていた話で、SMCの趣旨に則りそのうちに記録として残してやりたい衝動にかられる。

意識が戻った段階で、ICUでの記憶は、むしろ幸いなことに全て飛んでいた。そしてまともな話ができるくらいには回復したのだが、この先歩くのは難しいだろう。こういうことを書くのは勇気がいるが、日本中どこでも誰でも経験することであり、また遅かれ早かれ通る道でもある。耄碌が進んでしまえば何億年もかけて進化してきた『人間』とは違った道に行ってしまうのだ。その時も安らかであることを心から願う。そしてそれでも生きようとする命というものに改めて敬意を表する。最後に全力を尽くしてくれた某大学病院のスタッフに深く感謝したい。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

えらいこっちゃⅡ

えらいこっちゃ Ⅲ

えらいこっちゃ Ⅳ

菩提寺のニワトリ

タイム・イズ・オン・マイ・サイド 歌詞取り

2013 DEC 22 23:23:40 pm by 西 牟呂雄

文芸春秋の新年号をパラパラ読んでいて心底驚いた。村上春樹が書き下ろしの小説を書いていて、そのモチーフに魂消たのだ。登場する人物がビートルズのイエスタデイを大阪弁の翻訳で歌うのである。その人は大阪弁が好きで、東京から大阪にわざわざホーム・ステイまでして覚え、イエスタデイを大阪の歌にした。小説の中身はひとまず読んでいただくとして僕がギョッとしたのは「何だ、オレのパクリじゃないか。」と思ったからだ。拙文『埼玉水滸伝(埼玉のHonky Tonk Women)』を読まれた読者はご存知だが、作中でローリング・ストーンズのホンキィトンク・ウイメンに出鱈目な歌詞をつけている。そのテをビートルズにしやがってアイデア料よこせ、となった次第。しかし考えて見れば天下のノーベル文学賞の候補に挙がる大作家が相手をしてくれるはずも無く、むしろ僕の方がそれを読んでビートルズをストーンズに変えて受けを狙ったと思われる心配をしなければならないのではないか、という恐怖感にかられた。読者諸兄諸姉にはそのところ宜しくご理解を頂きたい。僕が『本気のネェちゃん』をほぼアドリブで歌ったのは今から5年近く前のことだ。それにしても大作家とチンピラブロガーが似たようなタイミングで同じようなモチーフを書いたということは何たる偶然にしても事象の不可思議な同時進行には何か法則はないのか。

関係ない話だが、村上春樹は英語でも小説を書くが、そのときザッと目を通したりアドバイスする某大学文学部のS教授は高校時代にバンドを組んだり麻雀に狂ったりした遊び仲間だった。今でも時々会って飲んだりしているが、村上春樹とは『翻訳夜話』なる対談本なんかも出してる翻訳業界では大物で、万が一ブログにイチャモンがついたら何とか丸め込んでもらおう。もう一人、本年夏に東大準教授が業者にタカリ問題になった事件の際、記者会見でペコペコしていたコンプライアンス担当のY副学長もその一派だった。お盆の期間中連日検察に呼び出された彼は、実際のタカリの額があまりにチャチな金額だったことにしきりに気にしていて、励ます会の席上で『オレが取調べを受けるには、あまりに小額だ。』と怒っていたものだ。こいつにはあのテレビでも映されたペコペコする方法を教わろう。同級生もいろんなことをやらかしてくれて僕はうれしい。

パクリではない、とご理解が進んだのであれば、自信満々でもう一つ。初期のローリング・ストーンズの名曲に『Time is on my side』というのがあるがそれをひねり回してみた。曲はバラードで「た~~いむ イズ オン マイ サイド」と始まり、途中にミックのセリフが長く入る曲だ。これをですな、アンコール用・メンバー紹介用に使う。

と~き~は カネなり~  Yes  it is

と~き~は カネなり~  Yes it is

過ぎし日々よ  恋し人よ

か~せ~げない か~せ~げない  か~せ~げない ろーくーにー

(これを二回やって、ミックの長セリフのところは メンバー紹介でも)

と・き・は・かねなりー  と・き・は・かねなりー

で盛り上げて終わり。僕の数少ない読者の皆様、この手の本歌取りは僕のオリジナルですぞ。ご記憶を!

春夏秋冬不思議譚 (もう一人いた)

春夏秋冬不思議譚 (月曜日の夜)

 
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

『職業としての小説家』 読後感

中国はどこへ行くか (日本からの目 )

2013 DEC 19 17:17:33 pm by 西 牟呂雄

些か重いテーマであるが、東 大兄のブログに刺激されてのものである。ここでは目下の『航空識別圏』『尖閣列島』といった問題とは別の視点から考えてみたい。無論国家主権を引っ込めるつもりは全く無いが、それでは話が終わってしまう。実際少し前のブログ『オリンピックへの道』の中で、2020年に中国分裂と書いたところが、ブログの冗談にせよ中国サーバーからのヒットが激減した。それはそれで構わないが、だからどうだとなるとSMCの趣旨に鑑みテーマには上げられなくなってしまう。

中国という言い方そのものが実は非常に新しく、国民党が中華民国を名乗る前は清であり支那だった。一方中華という呼称は北宗時代からの歴史だが、思想としての『中華』はそれこそ四千年前からと考えられる。即ちチャイナは存在そのものが宇宙であり文明でありという訳で、我等倭人は”にんべん”が付いているからまだいいが、”にんげん”だと思っていたかどうか。漢字に代表されるチャイナ・カルチャーは半島経由で輸入されたというが、私は海路入ったルートも見逃せないとい考えている。呉音読みが入ったルートのことである。国語学者の大野晋の説は、日本語の起源は従来のウラルーアルタイ語系統ではなく南インドのタミル語だと主張している。それはともかく、海のシルク・ロードがあるとすれば、上海と九州なんかは誤差の範囲であろうから、両者の交流は古代と雖も十分考えられる。

一方自身宇宙である、と思っているチャイナと我国は上記半島ルート・海路ルートを通じ交流が当然あった訳だが、その時々の政治情勢によって様々に形を変えてきた歴史がある。魏志倭人伝でやっと登場し、その後半島経由でこちらから行ったのが数回(但し長城の内側には一度も及ばず)、向こうから来たのが元寇。他は専ら海路で交流した。その動きはさながらグローバル化と鎖国が交互に現れるように距離を取ってきた様に思える。一端切れるのが遣唐使の終了。それから二度に渡る元寇をはさんで暫くは交流は細り、我国は独自の文化を育む。足利義満が高らかに「日本国王」と称して明国と大っぴらに貿易し、終いには豊臣秀吉が明国に攻め入るという妄想を抱くまでに至る。この間、こちらの方の中央の統制が緩かったことも含め、盛んに倭寇が出没した時期と重なっていて、特に後期倭寇ともなるとチャイナ南岸が活動の場となっていく。大陸の方で清が代わって出てくると物凄い人口移動が起きて、一般に東南アジアに行ったチャイニーズは華僑として現地に溶け込まず独自文化を保っているが日本にも大勢来た。九州は言うに及ばず関西圏にまで流入は及んでおり、土地を持たない人口の流入は当時のGDPを考えると食い扶持が危ない状況にまでなり、それやこれやで徳川の鎖国になり200年程続く。キリシタン禁教などは鎖国の理屈の一つにしか過ぎないと考える。明治以降はこちらから出張っていって結果はご承知の通り。この繰り返しを考えると、あと何年かで又つきあわなくなるかもしれないが、グローバル時代の鎖国とはさすがにイメージが湧かない。ひょっとして現在の安倍政権のスタンスからして、半島・大陸とは既に鎖国モードに入っているとは言えないか。個人的には相互不干渉の原則で首脳会談など暫くなくても困るのは出番を失って出世しない外務官僚くらいかも知れないと思っているが。

我国からはそうした距離感があるのだが、一方中国自体はというと、これが未来永劫チャイナでは有り続けるだろう。異民族が来ようが官僚が腐敗しようがお構いなしで存在し続けるだろう。異民族でもマルクス・レーニン主義でも底なし沼のように飲み込んで、中央集権・汚職・腐敗を繰り返す。チャイナという概念の普遍性はここにあるのでは。遠く離れたシンガポールでも、人民行動党のほぼ一党独裁は変らない。もっとも小豆島くらいの大きさだから政治的効率と言う面では理想に近いのか。因みにシンガポール島の土地は2/3が私有地で、オーナーはタイガー・バームで有名なタン一族である(陳を広東読みにしてタン)。もう一つ加えるならば、考え方として個人主義・拝金主義が抜きがたくあり、その部分は日本とは極端に違っていてむしろアメリカに近い。アメリカにはかなり力を持ったチャイナ・ロビィもあり両者は意外とウマが合う。もっとも戦前の両者の付き合いは日本を挟んでとは言え、国民党への大幅な持ち出しだったと言えなくもないが(我国ほどではないにせよ)。

大体選挙システムは全くチャイナには似合わず、仮にやったとすれば買収の温床が生み出されて機能しないと思われる。だがあれだけ大々的に選挙をやったアメリカの大統領と、熾烈な権力闘争を勝ち抜いたチャイナの主席は結果として同程度の人材と考えても差し支えないのではないか。洗練された選挙のはずが我国のしばしばバカみたいな当選者の顔をみれば大したことはない。アメリカだって民主党の下院議員クラスになれば相当なタマもいる。ネット時代に、いくら統制の効く一党独裁情報と言えどもどうしても民意の圧力は感じざるを得ないので結果は同じだ。筆者は12億人の国家が一つに納まることは相当のコストになり結果として分裂する、という仮説を立てたが、それもチャイナ風のアッと驚くような形態が出現するのではないだろうか。一国二制度という離れ業をやったくらいだ。そしてその鍵は人民解放軍の動きだろうと思っている。この辺の考察は次回に続ける。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

ホンキー・トンク・ウィメン 歌詞取り 埼玉にて

2013 DEC 11 15:15:33 pm by 西 牟呂雄

埼玉北辺の工場の周りは人口密度は極めて低く、みんな広い庭のある家に住んでいる。どこでも犬を飼っており、ダン、ミルク、シナモン、ライガ、ジョンといった立派な名前が付いていて犬地図ができるくらいだった。しかし、あまりに犬が多いので依怙贔屓するわけにもいかず、普段は犬派の僕だがその頃は住処にしていたプチ高原ホテルにウロついていたノラ猫をかわいがっていた。ウララちゃんの牧場の先だ。黒ブチに白い口元のブサイクな猫だったが、勝手に「シナシナ」と名前を付けていた。恐らくどこかの飼い猫だったのだろう、人には慣れているようで、時々酒のつまみのチーズをやったりしていたが、暫くしていなくなってしまった。

社員には近所の大地主の息子とか、歩いて通ってくる奥さんとかいう人がいた。近所といっても名字が同じ家が何軒もあったりして、伝統的な集落が形成されていたことが分る。そして何故かこういう田舎の家には物が物凄く散らかしてあるのだ。機械だったり、部品だったり、何かの壊れた家具も積んである。捨てるのも面倒だからかも知れないが、ちょっと油断するとゴミ屋敷に成りかねない。田舎の人はモノを捨てないのだろうか。近所づきあいではないが、会社の悪口を言い触らされてはかなわないので、挨拶をしたりして何人かとは仲良くするようになった。タクシー屋のおっさんとその弟とは地域の相談をしたりするので、メシを食いましょうや、となったのだが。この兄弟ガタイも恰幅よく、ガラは悪く、なかなか楽しかった。食事をした後フラフラと街(といっても暗い田舎町)をうろついていると、車がスーッと寄ってきて中から「なんとかチャーン。」と声が掛かり、見るとオバハンがこっちを見ている。要するに兄貴の方の知り合いの飲み屋のオバハンで、これから開けるから店に来い、という成り行きになったようだ。それから3人で行ったのだが、しかし飲み屋に出勤するのに車って・・・。そして着いたところは人の家のような所で、ガラガラガラっと玄関を開け電気を付けたらゴキヅリがガサガサ逃げるのが見えた。コッチは十分酒が入っている、ガラも悪い(僕も)。それからの会話は「オイ、ババア焼酎よこせ。」「ババアとは何よ。そこにまだあるだろー。」「バカヤロー、そっちの奴にしろってんだ。」という会話がズーッと飛び交う地獄のような飲み会になっていった。途中地元の常連らしいカップルが来たが、直ぐ帰ってしまった。少し後からヘルプというかバイトというかもう一人化け物みたいなネエちゃんがカウンターに入る。カラオケを振られたので、ヤケになってローリング・ストーンズの替え歌をやったら受けた。あのドラム・イントロのホンキー・トンク・ウィメンだが、妙に覚えている。

I met a gin soaked, bar-room queen in Memphis

ここは埼玉 秩父の麓
She tried to take me upstairs for a ride

田圃の中の 工場勤め
I had to heave her right across to my shoulder

流~れ着いて 半年 経った
I could not seem to drink you off my mind

しけ~たホテルが オイラの寝ぐらさ

It’s the honky tonk, honky tonk women

ほ~~ん気の ネェちゃん
Gimme, gimme, gimme the honky tonk blues

くれ~ くれ~ くれ~焼酎オン・ザ・ロック

Strollin’ on the boulevards of Paris

夜に なれば 怪しい 店が開く
As naked as the day that I will die

バケモン みてえな ババアが はべる
The sailors they’re so charming there in Paris

下手に 構えば 地獄に 一直線
But they just don’t seem to sail you off my mind
こわーいもんだよ ババアの深情け
It’s the honky tonk, honky tonk women

ほ~~ん気の ネェちゃん
Gimme, gimme, gimme the honky tonk blues
くれ~ くれ~ くれ~焼酎オン・ザ・ロック

 画像はレアなハンブル・パイ。聞きながらどうぞ。

恥ずかしい話だがもう一曲、以前ブログで書いたが、工場に蛇が出たことに掛けてディープパープルの名曲スモーク・オン・ザ・ウオーターの替え歌、スネーク・イン・ザ・フアクトリーもやったのだが、あまりにバカらしくてここに記すことはできない。

それはさておき、この製造所の運営は今日の縮図のようなところがあり、『製造現場血風録 (火災勃発)』以降は同様の製造設備を東南アジア某国に設置し直しており、又、需要家も既に大半がそちらの方への移転が済んでいた。即ち日常的に国際競争に晒されているため、常にプロセスの開発、新品種の開発を続けざるを得ない。僕が所長として年柄年中モノを除却し無駄な仕掛かりを捨てていたのも、イザというときにスペースを確保したいからだった。更に、何かあったらまた使おう、という構えでいると急の場合に除却損が大きく出ることも避けたかったからだ。円が安くなって少しは楽になっているといいが。

一方、従業員も社員以外にパート・タイマー(タイム・スタッフと言うそうだが)派遣社員、シニアのおじいちゃんと多彩であった。新しいプロセスに移行する際には、時には職場を変ってもらう、もっとあからさまには辞めて頂かなければ廻らない。『また忙しくなったら来てもらうから。』と言い、実際事情が変った時には優先的な声掛けもしたのだが、実は当時のリピート率はあまり高くなかった、特に若い女性はダメだった。増産のための休日出勤から低稼働による生産休止まで、ドタバタしながら新米製造所長は二年で風と共に去って行った。

僕は仕事が変った後は前職に一切関わらないのを信条にしている。一つは後輩達に迷惑をかけたくないから。もう一つは『昔はこうだった。』といった感想が自分の中に沸き上がるのがいやだからだ。まだまだ老け込んでたまるか。でも懐かしいなぁ。

空っ風 一望駆ける武蔵野の

巻き上げる 埃 てのひらに当たる

埼玉水滸伝 (埼玉の木枯らし)

埼玉水滸伝 (埼玉のウララちゃん)

春夏秋冬不思議譚 (同時進行の不可思議)

一人ぼっちの世界とライク・ア・ローリング・ストーン 


 
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

春夏秋冬不思議譚 (どうしても思い出せない)

2013 DEC 5 9:09:56 am by 西 牟呂雄

 この40年以上(計算しないで欲しい)直近を除いてほぼ毎日酒を飲み、毎朝二日酔いになる。直近を除くのは、ついに色々な数値が管理限界を越えてしまい、命の危険を感じたからだ。何を大げさなと言うなかれ。還暦近くなると医者の脅かし方も尋常でなくなるのだ。4年程前に医者がキレて「どうしても酒が止められないのならもうウチでみることはできません。勝手に死なれて医療の問題とか言われても責任持てませんから。」と宣言された。勿論上辺では「お願いですから薬を処方して下さい。」とペコペコした。大体そうでなくても命がけなんだから、こっちは。独身時代に六本木の路地裏で電柱に頭突きをしていたところも目撃されているし、荻窪駅の路上で転がっているのを家族が助けに来たこともある。カンが働いたのか、駅前の交番に恐る恐る「あのー、この界隈で・・・・。」と家族が聞きに行き、その最中に偶然警察無線が入り「現在北口に行き倒れがいる模様。」となったのだそうだ。結果はご想像の通りでお巡りさんとカミさんに連行された。見知らぬ駅で目覚めたことは数知れず、悪運強く生き延びたと思う。タクシーで「吉祥寺!」とだけ叫んで寝込み、吉祥寺らしいところで下ろされて(その前散々手こずらせた運転手さん、ごめんなさい)、全く分らなくなりこっそりと息子に携帯して車で迎えにこさせたこともあった。この時はガードレールに眉間を打ち付けて血まみれになり這っているところを確保されて病院送りされた。後日息子が言うには、「あー面白かった。『一度死んだことにしてカアさんには黙っててくれ。』とか言い出すし、医者に連れてったら先生に『裏口じゃないでしょうね。』とか聞くし。」だそうである。あの、酔っ払って足がもつれる時の感覚というのは、突然グルリと世の中が回転し地面がダーッと突進してくるという誠に恐ろしいものだ。しかし、ここまで書いてきたことはかすかに記憶があるだけまだマシと言える。全く覚えていない時間が存在する。「存在と時間」等と言えば哲学のように聞こえるがそれどころではない。

 見たことも無い飲み屋で知らない人達がこっちを見ている。僕は何かを喋っているのだが、どうも江戸時代のことを講義していて、時々聞いている人達が一斉に笑うのだ。僕はこのことを悪い夢だと思っていた。それがですな、多額の請求書がある日送られて来て全く覚えが無い。放っておいたら怪しげなメールが来る。ということは名詞をバラまいたに違いない。仕方なく払ったのだが、一体どこなのか全然覚えていない。覚えていないから再訪して言い訳することもできない。

 以前東南アジアをウロついていた頃、ある朝シンガポールのホテルの廊下に寝転がっていて目が覚めて、一瞬どこにいるのか分らなくて途方に暮れた。前日はマニラにいて・・・・、そうかフライト中に飲み過ぎたのだ。手に部屋の鍵があったのでチェックインしたことは確かなのだが運良く部屋があったもんだ。どうやって(どうせタクシーに乗ったのだろうが)たどり着いたのか全く記憶にない。それでも治安のいいシンガポールで良かった。これがマニラだったら危なかった。東京で言えば大手町のようなマカティでもホールド・アップが起こる所だ。

 又、ある時は社内の飲み会で他部門の連中とガバガバ飲んで二軒目に行き、更にでまたしこたま泡盛をやり、機嫌良く電車に乗った。次に目覚めたのは何と山梨県の某駅、あまりの寒さに目が覚めた。どうやって行ったのか。改札に行けばそこは無人駅なので誰もいない。タクシーなんぞ影も形もない。あまりに寒いので駅員室に入ろうとしたらガッチリ鍵がかかっていてどうにもならない。震えながらジーッと電車を待って、来た電車に飛び乗った。暫くして気が付くとその電車は反対方向に進行しているではないか。翌日何とか出勤すれば、前の晩一緒に飲んだ奴等は顔に大怪我をしていたり手首に傷を負っていたり千葉で目覚めたりしていた。全員記憶を失っていた。会社に申し訳ない。

 またあるときは・・・もうやめた。しかし二日酔いも年と共にひどくなる一方で、翌日一回もメシが喉を通らないこともある。不思議なことに酔い方はひどくなったような気もするが(正確に言えば昔から酒癖は悪かった)、飲む量は一向に減らない。それどころか最近は焼酎もウイスキィもオン・ザ・ロックで、益々強いものを好むようになってきている。時間さえかければボトル一本も軽い。実は若い頃に急性膵臓炎をやって、20代の臨床例が少なかったらしく、毎日偉い先生が回診に来て医者の卵達に解説していた。聞いていると「こんなに胃が持つものなんでしょうか。」とか「肝臓は人一倍丈夫ですか。」といった会話が飛び交っていた。そのころは丈夫でも今となっては冒頭書いた通りの体たらく。そろそろビール一杯くらいで十分酔えないものか。

 しかし何となくフラフラ寄って行きたい店というのは誰でもあるだろう。僕のフランチャイズはギロッポン六本木のピアノ・バーに昔から通っている。静かで一人で行ってもカウンターでジャズ・ボーカルを聞いたりして過ごすことができるのがいい。が、しかしである。以前のブログで書いた、李鴻章の曾孫やら怪しい外人が出入りしていてこれがかなり危ない。経営者はミッキーという奴で六本木の寄生虫みたいな存在。これの兄貴分にマイクというのがいて、これも近くで店をやっているが二人で最強のナンパ・ブラザーズを気取っていた(但し四半世紀前)。こういう輩は情報通で、エビゾーさんの事件の話とか、『今どこそこの界隈はヤバイらしいですよ。』といった話を教えてくれてありがたい。マイクは少し年上で、元横浜界隈のチンピラだったらしい。今では貫禄十分のワルオヤジだが、話を聞いていると結構な修羅場をくぐっている。なにやら地元の暴力団に米軍放出品のインチキな武器を(無論使い物にならない)捌いて大変なことになり、長いことハワイに逃げていたそうだ。知り合った頃はもうそんなヤクザなことはしていなかったが、バブル真っ最中のバブルまみれの店でVIP席に屯して、全く金を払わなかったのを目撃した(一緒に居た)。こういう人はしぶといくもクタバラずに健在なのがあの街のしゃれたところなのだろうか。

 でもってそろそろ酒も覚めてきたから今日も一杯行きますかね。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊