Sonar Members Club No.36

月別: 2015年5月

あの頃の海 

2015 MAY 30 11:11:10 am by 西 牟呂雄

 かねてから白状しているが、子供のころのテリトリーが下町だったので神田川も隅田川も悪臭ただようドブ川で、その先に注ぎ込んでいる海はこげ茶色のイメージを持っていた。

幕張の潮干狩り

昭和30年代後半 幕張の潮干狩り

 学童前に今の幕張あたりに潮干狩りに行ったことを覚えているが、なんとなく汚らしい海岸で熊手でニチャニチャ砂を掘ってみたら貝が取れた。恥ずかしい話だが、翌日のおみおつけに貝が入っていて「きのう自分で採ったんだよ。」と言われびっくりした。お魚屋さんで真水で洗われたようなモノが砂から掘り出したのだとは思いもよらず、一瞬怯んだ。幕張の記憶は、帰りの電車がやたらと混んでいて、車窓に夕日が差し込んでいたのが鮮やかだったことの方が印象的だった。

 これも学童前だが、伊東の温泉に行って海岸を歩いた。写真が残っていて僕が祖母と映っている。ここの印象は『寒い』。子供だから温泉なんかタダの銭湯と同じで、毎日入っていたから珍しくもなんともなかった。海の印象はすこぶる悪く、暗い感じの記憶になっている。
 葉山の海岸にも行ったはずだが、当時の海水浴場の混雑振りは満員電車並みで『楽しかった』というような思い出になっていない。プールで十分といったところだろうか。
 小学校高学年に観音崎海岸に行ったことがあった。この時強烈に印象に残ったのは、ほぼ視界一杯の巨大さに圧倒された米原子力空母『エンタープライズ』の威容だった。とにかくデカい。迂闊にも『日本にもあんなのがあればなぁ。』と思ったものだった。子供の感想なんでお許しを。海岸に降りるのにゴジラのモニュメントがあって尾のところが滑り台になっていた。

 長じて海水浴場はおぞましいことに巨大なナンパ場となっていた。もっと昔もそうだっただろうが、子供は水遊びや砂遊びが忙しくて気が付かなかったのだ。高校時代の自分の行状を思い出すとゾッとする。所は三浦海岸が多かったが、後先考えない出たとこ勝負はほとんど迷惑行為だっただろう。聞いた限りでは新島なんかもっとひどいことになっていたらしい、おそろしや。その後あまりの後味の悪さと恥ずかしさでしばらく海とは無縁になる。

 古をたどると僕の爺様は夏中沼津に長逗留してヨットに乗ったそうだ。オヤジは大学ヨット部のエースだったから、後年海にのめり込むのもこれは遺伝的体質だったのだろうか。
 学生時代はやっていないが社会人5年目くらいからクルーザーのクルーになった。一世を風靡した岡崎造船のパイオニア10、これは早い船だった。楽しい船で、クルージングと酒・麻雀がセットになっていた。従って残念ながら女の子がビキニで遊びに来るなどは皆無だった。

パイオニア10

パイオニア10

 だから3日も乗っていると(港伝いだが)酒と博打漬けになりつくづく『遊び暮らすのも命懸けだな。』という実感があった。
 子供がうんと小さかったときに船に乗せる際、腕に小さな浮き袋を付けて即席のライフジャケットを作ってやったら、面白がって甲板や桟橋からわざと落ちて見せていた。後年、海水浴というのは海岸でやるもんだということを知らなかったと言っていたが、あれが癖になっていたら危なかっただろう。湾内でも潮の流れは速いのだ。

 さて、これから僕の海の楽しみ方はどうなっていくのだろう。水上バイクはチョット怖いし、サーフィンは年齢的に無理だ。以前熱過ぎる夏に干からびる恐怖に書いたようにだけはなりたくないのだが。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

古い記憶

狼少年ケン


 

 

 

われは海の子 と 琵琶湖周航歌 

2015 MAY 28 20:20:37 pm by 西 牟呂雄

 東兄のブログに「我は海の子」の記述があって思い出したことがある。標記の両歌、そのまま歌詞を入れ替えても歌えるのだ。いずれも七五調の文語体だから馴染みもいい。
 ヨットで相模湾をウロウロするときに勝手にパクりの歌詞をつけて歌っていた。両方の節で味わって下さい。

琵琶湖 夏

琵琶湖 夏

我は海の子 さすらいの
船出にあれば 荒波の
しぶきをあげて セール張る
伊豆の港よ いざさらば

嵐のような 猛き海も
鏡のような 凪の海も
満天星の  夜(よ)の海も
グラス片手に 舵を取る

波の間に間に 顔を出す
流人の伝えの 島々よ
夕日に染まる 相模湾
今日は三宅か 新島か

伊豆 夕日

伊豆 夕日

 キリがないから止めるが、この調子で田子(西伊豆)から下田から波浮(大島)・熱海まで波に揺られていると実に楽しかった。但し天気が良ければね。
 ズブ濡れになって物凄い向かい風を食ったときなんか海は怖い。こういうのを『真上り(まのぼり)』と言う。
 以前の船で伊東から帰港する航路で、濃霧とドシャ降りの真上りに心の底から恐怖した。しかもその時エンジンのピストン・ヘッドが飛ぶという前代未聞のトラブルに見舞われ、子供の頃に読んだ『15少年漂流記』の出だしの心細さを思い出してイヤ~な気持ちになった。そして霧の中に同じポートの僚船を見つけて『アッ港が近い。』となった時はホッとした。
 経験者に聞いたところでは、こういう時に海に落ちると目線が水平線の高さなのでアッと言う間に方向感覚が分からなくなり、とてもヨットを見つけられないそうだ。まして夜だったりすればイチコロ(幸いその人は助かったが)。ファーネスは欠かせない。
 特に伊豆の大島の辺りは流れも速くてヤバイ、海は流れるのだ。実は大島は伊豆半島突端の下田よりも北側にあるため、黒潮が複雑な支流を作って波も高い。二階から落ちてくるような感じだった。三角波に乗り上げてしまい、船が次の波にドーンと突っ込むとデッキの上をザーッと海水が走り結構な量がキャビンに流れ込む。それ汲み上げだ、帆を下げろと下っ端が忙しくなる。
 だが本当のヨット屋はこういう時こそ風や波と戦った気がするらしく、好んで出港するクルーも多い。ブルー・ウォーター・レースのような外洋航海の練習に行くのだ。
 えっ僕?聞く方がヤボです。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

今はもう秋 港で思ったこと

 

海のハンター 潜水艦 

2015 MAY 26 22:22:18 pm by 西 牟呂雄

 えー、くどいようですが私は平和主義者で戦争反対です。それはそうとして・・。

yjimage[10]

イ号潜水艦

 沈黙の艦隊という大ヒット漫画により多くのファンを獲得した潜水艦。
 古くは『眼下の敵』や『Uボート』『レッド・オクトーバーを追え』といった映画、あるいは漫画『サブマリン707』といった作品にも親しみました。又、有名ではないかもしれませんが『紺碧の艦隊』というノベルス本があってアニメ化もされてます。これは山本五十六がパラレル・ワールドに転生して高野五十六(山本家へ養子に入る前の名前)となり、照和(昭和ではない)の戦争を指導しナチスと戦うというシュミレーション小説です。ヒーロー前原少将率いる秘匿潜水艦隊が大活躍する作品で、アニメも全部見ました。

 忌むべき先の大戦でも実は潜水艦は大活躍していたのですがあまり語られませんね。
 開戦直後の翌年2月、作戦行動中だった日本海軍の潜水艦伊17はカリフォルニア・サンタバーバラ沖に現れエルウッド石油製油所へ14センチ砲を20発を撃ち込んでいます。実際には不発弾が多く大した被害にはならなかったのですが、アメリカ人への心理的圧迫は物凄かったらしい。日本軍の上陸の可能性が拭いきれず、万が一陸上部隊が進入してくれば、米陸軍はカリフォルニアを捨ててロッキー山脈で防衛する、という作戦があったそうです。これが日系人の強制収用の引き金を引きました。
 潜水艦部隊はその後も貨物船等を攻撃し、その年の9月には伊25から飛び立った零式小型水上偵察機による爆撃までしています。もっとも焼夷弾による森林火災を計画したものでオレゴン州の山がちょっと燃えただけですが。アメリカ本土への他国軍機による空襲は歴史上これが唯一です(9.11は民間機ハイジャック)。
 ただし空母艦載爆撃機による日本本土へのドーリットル空襲は4月であり、そっちのダメージに比べればカワイイものではありますが。

 一方で伊10・伊16・伊20は五月末にマダガスカル沖に浮上します。マレー沖海戦・セイロン沖海戦でインド洋の制海権を握った勢いで、一応ドイツ占領下の仏ヴィシー政権からの対英軍攻撃要請によるとはいえ何を考えていたのでしょう。地球一周するつもりだったのでしょうか。
 

引き上げられる特殊潜航艇

引き上げられる特殊潜航艇

 伊20から『甲標的』という特殊潜航艇(人間魚雷ではありません雷撃小型潜水艦)が発進、戦果を挙げたものの座礁し、乗員はマダカスカル島に上陸して戦死しています。甲標的は真珠湾やシドニー湾攻撃(オーストラリアまで行った!)にも使われたことでも知られていますが、これが後に人間魚雷・回天の悲劇になっていきます。私は回天の訓練基地だった山口県の大津島に行きましたが、参りましたね。
 ところでシドニー湾の攻撃は機動部隊も何も無く、この特殊潜航艇3隻の突入です。特殊潜航艇は一応母艦へ帰還する作戦でしたが、真珠湾でも全滅していたのだから乗員は覚悟の出陣だったと思われます。名前も『特別攻撃隊』となっていました。

117381526315531842[1]

日の丸で覆う海軍葬

 
 湾内奥深く入り込んでの攻撃に大いに慌てたものの、多勢に無勢で3隻とも沈没します。
 すると驚いたことにシドニー軍港司令官のムーアヘッド・グールド少将(英海軍から派遣)は、この無謀とも思える作戦行動に敬意を表し、引き上げられた2隻の乗組員の海軍葬をし遺骨も返還されているのです(3隻目は2006年に発見された)。
 さらに戦死した松尾中佐(海軍兵学校66期)のご母堂はオーストラリアに招待されて国賓並の待遇を受け、新聞に中佐の勇気を讃える記事が載った報道が残っています。戦後20年を過ぎた昭和43年のことでした。
 戦争の良し悪しは別として、こういう礼を尽くしてくれる国には礼を持って応えるのが国際社会のルールでしょうね。
  
 ともかく、いくら何でも北米沿岸からマダガスカルとは世界の2/3を戦闘海域にするなど荒唐無稽と言うか誇大妄想と言うか、無理がありますよ。海軍上層部は山本五十六が言ったようにチョロっと攻撃しただけで停戦に持ち込めると考えていたのでしょうか。

伊ー400の外観

伊ー400の外観

 その誇大妄想が乗り移ったかのような潜水空母という途方も無い代物が伊ー400型でしょう。事実2012年に至るまで史上最大の潜水艦でした。特殊攻撃機『晴嵐』を3機搭載し本当に地球1周可能な仕様になっていて、戦略的にはパナマ運河攻撃説とアメリカ東海岸攻撃説がありますが、実際の戦果は全く無し。敗戦までに3隻建造されたものの、米軍は敗戦までその存在すら知らなかったようです。ここまで来るともうギャグの世界です。

晴嵐の格納庫

晴嵐の格納庫

 しかしこの発想は冷戦時の核ミサイル搭載型原子力潜水艦につながり、武装解除に当たったアメリカ海軍はソ連への情報漏えいを警戒して技術を秘匿しました。しかしまぁ最初に見た時はビックリしたでしょうな。
 
 話は変わります。『伊号』とついているのは1000t以上の潜水艦で、そういうからには『呂号(500t以上)』も『波号(500t未満)』もあるにはあります。呂号は戦闘というよりは輸送船攻撃用の潜水艦、波号に至っては原型は大正時代の物で大戦当初には現役艦はありません。終戦間際の本土決戦の為に急遽作られました。
 文芸雑誌『群像』の名編集長、故大久保房男氏は慶応義塾から学徒出陣で海軍に行き、おそらく主計少尉としてこの波号潜水艦に乗っていて終戦を迎えたはずです。乗組員21人の小所帯で、最も苦労したのはトイレだったそうです。いくつかのレバーを操作して圧縮タンクに流し込むのが、失敗すると逆流して被ってしまうとか。
 もう一人。大蔵官僚から短期現役士官として海軍に行き、敗戦後復帰してから国税庁長官をした後に博報堂の社長・会長を務めた故近藤道生(みちたか)氏もペナンの第八潜水戦隊司令部副官でした。
 駆逐艦乗りも成績上位者が行くことが少ないのですが(若い大尉クラスは別)潜水艦乗りの方はまた一段と扱いが酷く、特に輸送船攻撃は戦果のカウントが低いので出世コースにはなりませんでした。私の母方の伯父は兵学校卒業後の進路が潜水艦と聞かされ『こりゃダメだ』と思っていたら終戦になった、と言っていたものです。
  
 それにしても戦艦武蔵・大和・伊四百と・・・・嗚呼

 絶対に戦争はやめましょうね。。集団的自衛権と安保法制整備は賛成ですが。

海のハンター 駆逐艦


「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

 

海のハンター 駆逐艦

2015 MAY 24 14:14:12 pm by 西 牟呂雄

300px-Japanese_destroyer_Yukikaze;h73052[1]

 駆逐艦、英語ではデストロイヤーと言う。ガンガン大砲を撃ち合う洋上艦隊決戦では脇役だが、初めに突っ込んで魚雷攻撃をしたり、敵潜水艦を燻り出す爆雷投下を主に受け持つ『海のハンター』である。
 現在はミサイル技術の発達により洋上での一発必中の雷撃主体は潜水艦に移り『水雷』搭載としての駆逐艦は存在しない。
 上の写真は駆逐艦雪風である。
 雪風はそのほとんどの戦力を失った帝国海軍にあって、先の大戦の最初から最後まで戦い抜いて沈まなかった駆逐艦として名高い。阿川弘之氏や半藤一利氏の著作でしばしば紹介されたのでご存知の向きも多いだろう。大和の沖縄水上特攻に僚艦として出撃し勇戦、撃沈した大和の多くの将兵を救った。
 呉の雪風、佐世保の時雨と言われた歴戦の駆逐艦だった(時雨は終戦間際に沈没)。運が良かったと言えばそれまでだが、生還した多くの人の証言によると士気の旺盛さ、各員の責任感、そして抜群のチームワークで幾多の海戦を生き抜いた。
 駆逐艦乗りは巨大戦艦や空母のような華ではないが、闘志溢れる船乗り根性の塊としてプロ中のプロと言えよう。但し艦長にトップ・クラスはあまり乗らない。トップとはハンモック・ナンバーの上位のことで海軍兵学校の卒業時の成績抜群エリートを指す。そのレヴェルは軍令部やそれこそ大和といった花形艦に乗る。駆逐艦は高速でもあるので、機動部隊の盾になったり輸送護衛をさせられたりもする割に合わない存在でもあった。しかし世界一の射程距離のロング・ランス(長槍)九三式魚雷、通称酸素魚雷を装備して意気軒昂たるものがあったそうである。
 この酸素魚雷は航跡が見えずに直進性に優れ、しばしば大戦果を上げている。技術交流でドイツに紹介されたがUボートには実践配備できなかった日本オリジナルの技術の粋だった。
 
 ガダルカナル島ルンガ岬の沖にてルンガ沖夜戦があった。このときは孤立したガダルカナルに輸送物資を届ける任務を負っていた8隻の駆逐艦がアメリカ艦隊と一戦交えた。
 食料を半分入れたドラム缶を投入するところを発見された田中少将は麾下部隊に対し「揚陸止め!全軍突撃せよ」との命令を下す。最前線にいた『高波』は短時間に50発以上被弾・炎上したが、後続の駆逐艦隊の果敢な雷撃により米巡洋艦部隊は壊滅的な打撃を受けた。アメリカ海軍の将校が「癪に障るほど優秀な連中だった。」と述懐したと言われている。
 しかしながら帝国海軍最後の勝利のこの海戦も、海軍上層部の評価は低かった。作戦の主目的である食糧輸送に関しては実績が挙がらなかった事と田中少将の戦線離脱が早過ぎたという理由による。
 戦後、半藤一利氏のインタヴューを受けた田中少将は『ワシは、全軍突撃せよ、と言っただけだよ。』と答えているが、本当だろう。ドラム缶を積む為に魚雷の搭載数が少なかったとは言え、確かに戦闘開始後の旗艦『長波』の離脱は早かった。

 その後、ご存知の通りの戦局をたどったのはご案内の通り。yjimage[3]
 

 現在ではかつての駆逐艦の役割は高度に電子化されたイージス艦へと変わったが、船乗り魂はすこぶる健在と聞いている。海上自衛隊の特徴を現す四文字熟語は『伝統墨守、唯我独尊』だそうだ。

ところで言うまでも無く戦争は良くない 集団的自衛権は賛成だが。

海のハンター 潜水艦 

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編 最終回)

2015 MAY 22 22:22:09 pm by 西 牟呂雄

 少し前から僕の講義に聴講生として昔の同級生が来るようになった。息子さんが別の学科の学生だったので僕の講座を知ったそうだ。旧姓出井さん、女性である。かつては大変な秀才だったが、卒業後すぐ結婚・出産して今は一段落ということで、勉学の虫が騒いだようだった。
 そして例のB・Bがメールの返事を寄越してきた。来月日本に帰ってくるのだそうだ。早速椎野と相談して歓迎会と称し会食することにした。
 実は出井さんは高校時代B・Bがあこがれていた人なのだ。もうあれから四半世紀も経っている。多少リスクはあるが、B・Bにはナイショで出井さんを招待してみると『アラッ懐かしいわね。』と参加してくれることになった。アイツどんな顔をするのだろう。さすがに椎野は『そんなことして大丈夫か?』と心配そうだったが・・。

 当日、皆忙しいらしく午後8時と遅めのスタートとなった。驚いたのは出井さんは和服でお出ましだった。
 ところがB・Bお店に来たのは30分も過ぎてからで、しかも既にデキアガっているようだ。
「よー、よー、よー、よー。グッデイ・フォア・オール。椎野マニラ以来。英(はなぶさ)もうスゲー暫く。アッ初めまして、どっちのカミさん?」
 どうも忙しくなかったらしく、どこかで引っかけて来たようだった。それにしてもコイツ、スーツを着た異形のサラリーマンだ。アジアで流行っているのか趣味なのか、襟足を長くタテガミみたいに伸ばしている。しかしこっちも人の事は言えないが。僕は長髪だし椎野もラフな格好で、出井さんは正装ではあるがどうしても浮く。昔懐かしいと気を利かせたつもりで70年代の曲ばかり有線で流しているカフェ・バーを選んでしまったのが悪かった。
「おい、こちら出井さん。同学年だっただろ。」
「あっそうですか。ヨロシクゥ。」
何の反応もないので拍子抜けした。出井さんはポーカーフェイス、僕と椎野は顔を見合わせた。

 それからお互いに先も見えずに流離らっていた頃の話を披露した。B・Bは僕たちの話を聞いて、
「何だ!卒業後すぐに上にへつらい下に媚びる就職をしたのはオレだけか。」と開き直り、サラリーマンがいかに大変かをしきりに自慢するのだが、僕たちはバカみたいなことに夢中になっていたあいつの高校時代の延長にしか聞こえなかった。
 繰り返し語ったのは、シンガポールやマニラでマガイモンの日本食を食べ飽きた、ホテルの朝飯にお茶漬けのふりかけを持ち込んで食べた、そういう時『日本に帰りたい』と強烈に思った、という情けない話だったが。
 そういえば昔一度見たことがあったが、B・Bは酒癖は悪かった。絡んだりケンカするわけじゃないのだが、物凄い早口になって何の話か分からなくなってしまう。だんだんそうなってきた。ちなみに椎野は酒はあまり飲まないが女癖は悪い。
 ずっと聞き役だった出井さんが口を開いた。
「ところで原部(ばらべ)君、相変わらず詩は書いてるの。」
「へっ、『し』って何。」
「昔詩集を造ったり雑誌みたいなのを書いて見せてくれたじゃない。」
「ん?何のこと。」
「おお、オレも覚えてるぞ。あれとってあるのか。」
「僕も読んだな。」
「オレそんなことやってたか?」
ポカンとしている、不思議な奴だ。
 するとBGMがキングストン・トリオの昔懐かしい『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』が聞こえてきた。これ、僕たちが組んでいたフォーク・グループのフジヤマ・マウンテン・ボーイズがレパートリーにしていた。一斉に『懐かしいな』などと言いつつ歌詞を口ずさんでいると、突然B・Bが叫んだ。
「あなたはイデイ・サトコさんなのか!」
 
 深夜2時過ぎのカウンター。出井さんはとっくに帰って僕たちは3人並んで飲んでいた。
 B・Bは酔い潰れていたが、最後に『初恋の人を忘れ、初恋をしたことまで忘れ、思い出すのはお前等とのバカ話ばかり。オレの青春はどこ行った。青春を返せ!』と喚き散らし、椎野に『返せったって誰に返してもらうんだバカ。』と怒鳴られて突っ伏した。
 椎野は言う。
「結局流れ者をやってても、オレやお前がアテもないのにウロウロするんじゃなくてサラリーマンの尻尾を引きずったままだとそれこそ倭寇じゃないけど日本が恋しくなってかえってきちゃうんだな。」
「ふーん。それじゃお前またどっかに流れるか。」
「うーん、流れ次第だな。当面食えるからねぇ。」
「僕はもう少ししたら今度はアメリカに行く予定があるよ。」
「へぇ、行ったら帰ってこないかも知れんな。」
「どうかな。また10年後にでも会うかな。」
 昔の仲間と会って、この四半世紀を振り返り感慨深いものがあるかと思ったが、全くない。むしろこれからはどうなるのか、不安の方が強い。今は結局個性というものは変化も進化もしないものだと良く分かっただけだった。
 潰れたB・Bは、もちろん捨てて帰った。

おしまい

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅰ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅱ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅲ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅲ)

2015 MAY 21 6:06:41 am by 西 牟呂雄

「よう、久しぶり。」
「うん、だけどびっくりしたなー。お前が中国に行ったりしてるのは知ってたけど。あいつがマニラでバンド屋になってるとはねー。いくらなんでも弾け過ぎだろ。」
「それがなぁ。B・Bも一応サラリーマンは続けてるんだそうだ。」
「しかし、歌ってたんだろ。」
「いや、メンバーじゃないんだ。オレがよく行く店にあいつも行ってたんだって。そこのバンドと仲良くなったみたいで時々遊んでたみたいだな。で、あいつが来るとバンドの方もサービスでレパートリを演奏すんだって。それってアレだぞ、ワイルド・チェリーの歌だぜ。」
「へぇ、フィリピン・バンドもよくそんなの知ってたな。サラリーマンってスーツ着てたの?」
「まさか。マルコス大統領みたいなシャツ着てた。まあ、一応正装なんだがな、現地では。あの手のバカはどこにでもいるってこった。ホラあいつの名詞。」
「おお、だけど何だこれ。住所も電話番号もないじゃないか。これ電子メールのアドレスだろ。」
「あいつの説明も良く分かんないんだよ。事務所はシンガポールなんだって。フィリピンにはどうも工場があるらしいんだ。でお客さんが台湾・マレーシア・シンガポールあたりで、そのあたりをウロウロしてるらしいよ。一か所に長くいることはないらしいから電話はあんまり意味がないんだって。」
「それで住んでるところはどこなんだ。」
「ホテルを転々としてるらしい。えらい安宿に泊まってた。」
「この会社知ってるけどそんなところで事業してるなんて聞いたことないな。なんで潜り込んだんだろう。」
「どうも今度こそ真面目にやろうとしたみたいだな。どうせバレるのは時間の問題だよ。」
「日本には帰ってこないのか。」
「だからきっと会社も持て余して鉄砲玉の島流しにしてるんだろ。出張で帰ってはいるそうだが。だけどなぁ、ベロベロに酔っぱらって『帰りたいよ。』なんて涙ぐんでたぜ。」
「あいつが?」
「そうなんだよ、びっくりした。変な話し方になってて日本語のうまいフィリピン人みたいだったな。」
「だけど帰ってくると何かいいことがあるのかよ。どうせ独身だろ。」
「それも焦りのウチさ。おれもお前も結婚してるって教えたらドッと酒が廻って話し言葉がひどくなって何言ってるか分かんなかった。シンガポールのいんちき訛をシングリッシュってんだが、それとアメちゃんの兵隊が使うガター・イングリッシュが日本語に混じりこんでるんだ。」
「僕はロンドンにいたときは一度もホームシックにならなかったがな。」
「オレも3年間は全然帰りたくなかった。」
「それが最も順応性があると思われるB・Bが泣いて帰りたいだって。椎野は何で日本に帰ってきたの。」
「家族のこともあるしね。だけどもうオレみたいのがやれる場所じゃないんだとも思った。」
「どういうこと。」
「バブル弾けてヤレ低賃金だ土地が安いだで中国詣でが盛んになっただろ。初めは上の方とパイプがある奴等が行くわけだ。外資の投資が欲しいから至れり尽くせりで大企業が工場造ったりさ。するとそれにつられて中小や怪しげなのがついてくる。そのドサクサにオレなんかが刺さりこめる所ができるんだよな。だれそれ知ってるとか金渡すとか。で、いいかげん時間が経っていい具合になるともうお呼びが掛からなくなる。もっともその後大体うまくいかなくなるけどね。」
「騙されるのか。」
「面従腹背だと思ってちょうどいいんじゃない。昔、倭寇っていたろ。あれ半分以上中国人なんだってさ。実態は武装商人でうまくいかなくなると暴れたんだな。それで街を占領したこともあったんだけど、漢人の方は倭寇がいる間はヘコヘコしてたんだって。『倭人はしばらくすると国が恋しくなって勝手に帰って行く。』と伝わってたらしいよ。」
「B・Bもそろそろってことか。だけどちゃらんぽらんの天才だったからな。あんな真似は僕達だってできなかった。」
「それにしても、『帰りたい』とは意外だよな。あんなゴキブリみたいなヤツがねぇ。どうせ飽きたんだろうけど。あいつ飽きっぽかったよ、そういえば。」
「そうだよ。詩人になったりシンガー・ソング・ライターになったりしてたよ。」
「哲学者だって言い出した時もあった。確かその後ロックンローラだろ。あと時々発狂してた。」
「それでもクビになってないんだから会社の役には立ってるのかね。とにかくいっぺん3人で会おうぜ。オレも電子メールのアドレス作ったからパソコンで連絡してみる。」
「会社に勤めたことないからあいつが役に立つかどうか知らんけど、僕だってそんなに世の中の役には立ってないと思うけど・・。」
「ウッ・・それはだな、オレは・・・社会の迷惑かもしれない。」
「もう30代になって久しいからな。」
「・・・・そうだったな。」

つづく (最終回へ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅰ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅱ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編 最終回)

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

橋下市長 敗れたり

2015 MAY 18 22:22:52 pm by 西 牟呂雄

 橋下市長敗れたり。
 棄権1/3賛成1/3反対1/3。絶妙の票の出方で結果は否決。大阪都構想は頓挫した。この結果をどう見るのか。
 二重行政のムダは無いほうがいいに決まってる。
 橋下氏は強烈な個性を持った人。言説は保守的。
 最後ちゃぶ台返しの必殺技を多用する。攻撃的で守りには弱い。
 こうしてあげつらっていくと色々な問題点が浮かび上がってくる。
 今回の論点は基本的には大阪市民が決めることなので結果を論評する立場にないが、上記1/3づつのおおざっぱな民意は、棄権=どっちでもいい、反対=市にぶらさがって既得権益を享受している、賛成=橋下さんのキャラが好き、くらいの分け方が妥当なのではないか。なにしろ自民党・民主党・共産党から公明党までが一斉に反対するのは返って気持ち悪い。
 ただ、気になったのは橋下氏は比較的数字に弱い。ブレーンが作ったと思われる効果計算はどうもあやしい。もう一つ、ケンカは強いが作法が悪すぎる。藤井京大教授に売ったケンカは頂けなかった。何も京大当局に『クビにしろ』まがいの文書を送りつけたのでは悪質なストーカと変わらないではないか。
 もう一つ、維新の会の江田代表が責任とって辞任というのも変な話だ。大阪の問題にいくらのめりこんでいても、国政を司る公党の党首が責任を取るとはどういう理屈なのか。先般の選挙で沖縄が全敗だったといって安部自民党総裁が辞めることにはなってない。
 更に素人考えで恐縮だが、今回争点は大阪市の解体についてのみ大阪市民の住民投票にかけたのは無理筋だったのでは。お前等解散しろ、となったらことの良し悪しは別にしても既存の組織の大抵抗に遇うのは当然。旨みがあるのは大阪市以外の大阪府民だろうに、ケンカの仕方を間違えたか。
 で、自分は市長を勤め上げて引退するのだろうが、これも『潔い』という印象を受けなかった。ニコニコ嬉しそうに引退すると言われても。煽られて国会議員にまでなってしまった大阪系の連中、府会議員、市会議員はどうするのだろう。大儀がなくなりゃ次の選挙で根絶やしになるのは目に見えている。オマケにこの前除名になった『ナニワのエリカ様』みたいなのを送り込んでおいてどうしてくれる。
 ブレーンとして側近のような存在だった人が次々と袂を分かつのも何かを暗示していないか。石原慎太郎をイチコロにして懐に入ったのだからジジイ殺しは上手いのだろう、でも続かない。

 さて、本人それからどうするのか。僕には確信がある。橋下大阪市長きょうやめちゃった‎”でも書いたが、この人間違いなくテレビ・タレントになるだろう。そして、公人でなくなったのを幸いにワイドショーに出まくって毒を撒き散らすに違いない。要するにマスコミ中毒になってしまったのだ。
 テレビ・カメラに追いかけられなくなると淋しくなって、地味な弁護士にはもう戻れないだろう。テレビは数字が取れれば何でもいいのだから顰蹙も何も知ったこっちゃない、とばかりに出演を依頼する。

 最悪はお笑いひな壇タレントをやってほとぼりが冷めた頃、今度は国政選挙に出てきて大阪のお笑い百万票で当選し、改憲賛成をエサに安部総理に擦り寄って次世代の党にもぐりこみ『野党再編』とかで大騒ぎする。

 あんまり見たくない!外れますように。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅱ)

2015 MAY 17 21:21:31 pm by 西 牟呂雄

 うっかりして、香港行の最終が出港してしまった。リスボア・ホテルのカジノでこのまま朝までいるしかない。バカラでこの時間から負けが込んだらえらいことになるので、しょうがないルーレットでもチビチビやるか。
 席についてまずは色に張る、素人っぽく4枚・8枚・16枚と掛けて当たればまた4枚から張る。ディーラーが一番いやがるかけ方だ。どうせ勝たなくてもいいんだから、などと気を抜くと全部やられるから一応盤面からは目が離せない、酒のガブ飲みなんぞ以ての外だ。ポツポツとチップが溜まり出す。
 するとやっぱり寄って来た、ヤバそうな若い女だ。やたらと露出の多いチャイナ・ドレスを纏ったのが隣が空いた途端に滑り込むように座った。
『ハイ、ニッポンジン?』
 顔を見た途端にギョッとした。目の焦点が合ってない、こいつはさっき一本キメてきてラリったかハイになった典型的なジャンキーだろう。
『エニィシング トゥ ドリンク?』
 うるさいな。オッと体を摺り寄せてきた。
『シャチョサン、ルームナンバー、100ドルオーケー。』
 冗談じゃねぇ。無視プラス白目を剥いてやったらヘンッという顔をしてどこかに行った。

 オレ(椎野 茂)は日本を離れて3年8ヶ月。巨額の借金を半ば強引に踏み倒して来た。もっとも金利は十分に払ったつもりだし、相手はまともな銀行だから融資担当の方も消えられるのが一番困るから適当な整理機構に移された時に自己破産してケツをまくった。いわゆるバブルの崩壊というやつだ。活動拠点は上海・香港・マニラでそれぞれ別の仕事をしている(ことになっている)。女房と娘にはいくばくかの金を送りつつ、まぁテキトーにしのいでいる。
 上海ではレストラン、香港では雑誌の発行、マニラでは日本人専門の不動産をさばく(ことになっている)。あんまり羽振りが良くなるとこれらの場所では危ないから目立たないように稼いでいた。もうそろそろほとぼりも冷めた頃だろう、日本に帰りたいのだが。

 今日はマニラに泊まる、久しぶりにマニラ湾沿いにあるいかがわしさ十分の飲み屋に来た。まさかいきなり女を買うわけじゃないが、飲み食いの時に一緒に座る女の子を選ぶシステムだ。食事は吹き抜けになっている2階部分で取り、一階はバンドが入って女の子と踊ったり、最近はカラオケもできる。日本人観光客はヤバすぎて滅多に来ないがそれでも駐在員のような多少スレた連中は来ることがある。
 特徴のあるギター・イントロが聞こえてきた。ワイルド・チェリーの『Play that Funky Music』ではないか。身を乗り出して見入ってみるとヴォーカルはどうも日本人のようだ。『ヘーイ・ドゥ・イ!』の出だしがミョーにカタカナっぽい。こんな所で変なやつがいるなと思ったのだが、良く見ると見覚えのある顔なのだ。目が合った。
あいつ・・・B・Bだ。
 奴は一曲だけ歌い終わると二階のオレの席まで来た。
「ユー、椎野だろ。」
「お前原部(バラベ)か、B・Bなのか。」
「ロング・タイム・ミス・ユー。15年ぶり?」
「こんなところで何歌ってんだよ。」
「おまえこそ、よくこんな店に来れたな。ここデンジャラスよ。」
「前にも来てたんだ。」
「ウワーオ。」
 話していると馴染みなんだろうか、店のオネーチャンが『ハーイ、B・B』等とあいさつしてくる。
「マニラに住んでるのか?」
「ノー、ノー。出張だよ。あしたはタイペイだし。ユーは遊び来たの。」
「いや、仕事だ。月に一回は来てるよ。次連絡するよ。」
「うん、僕もしょっちゅういるから。ゴルフしようよ、チープよ。でもね、もう日本帰りたい。」
「オレも3年以上帰ってないな。そろそろ帰ろうかと思ってる。」
「そうなの。もう泣きくらい帰りたいよ。結婚した?」
「そりゃしてるよ。娘もいるしな。お前は。」
「こんな暮らししてたらとてもとても。いいなあ、帰りたい。」
 いったい何をしているんだ、こいつは。

つづく

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅰ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅲ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編 最終回)


 

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅰ)

2015 MAY 16 10:10:27 am by 西 牟呂雄

 僕(英・はなぶさ・元彦)は学生時代にアメリカではなくヨーロッパを放浪した。なぜヨーロッパかというとまずイギリス、ビートルズの誕生したリバプールを見たかったからだが。僕達の世代はフラワー・チルドレンから少し遅れてきているのでヒッピー趣味はあまりない。それにどちらかというとガンガン鳴るハード・ロックよりもキンクスとかホリーズといった趣味だったこともあってロンドンを中心に動いたのだ。
 ヤバい奴らは沢山いたがヨーロッパはどちらかというとヒッチ・ハイクの事故なんかは少なく、日本人自体がまだ珍しがられたせいもあって結構親切にもされた。僕が小柄だったことも相手に危険を感じさせなかったのだろう。
 しかし冬場は寒かったのでとても移動する気になれず、アルバイトに精を出した。定住してみるとロンドンは安定感も感じる。何というか基本的な都市インフラは世界大戦前に終わっており(それも19世紀中に)古い物を長く手入れを重ねて使うこと自体が美徳だと思っているかの様だった。
 僕は彼の地で行きがかり上(専門は英文学)ジョージ・オーウェルに凝った。
 そして言うまでもないが、全く色恋沙汰には縁がなかった。

 適当に見切りを付けるはずが1年半も滞在してホームシックも関係なく帰国することにした。日本の情報というか様子は、たまにめぐり合うバック・パッカーのような怪しい日本人から仕入れていたのでロクな話は入ってこなかったが、遂に金融・商社の駐在員といったエリートとは付き合うことはなかった。そういう人達には家族もいるだろうし、政治・経済関係に疎かったのでその辺のいきさつを長々と説明されるのが面倒だったのだ。流れ者は直ぐにどこかへ行ってしまいその後も付き合うことは無かったからその点気楽だ。すっかりそういう人間関係に慣れてしまい、滞在中はズッとそうしていたかった。日本に帰りたいとはあまり思わなかった。 
 それは英語の語感というか使い回しというか、日本語より遥かに硬質な表現に浸かっていたので、たまに日本人と話しているとピリオドの無いようなズーッと繋がっている会話・文章との際立った違いにうんざりさせられたりしていたこともある。

 カズオ・イシグロは世界的に評価が高いベストセラー作家だ。彼は家庭内では日本語で両親と話しているそうだが、作品は完璧な英語である。これを翻訳するとわずかにニュアンスがズレる。
 ハッと気が付いた。これは英語で身を立てられそうだ、と。
 イシグロは偶然だが1954年生まれで僕と同い年でもある。
 日本に帰ってから復学して大学院に進み、翻訳と教師をやりながら、僕は自分の道を見つけられたようだった。

 ある日長年音信の途絶えていた高校時代の友人、椎野茂から電話をもらった。暫く東南アジアだか中国だかに行っていたことまでは知っていたが、こちらからは連絡できなかったのだ。
 会話はのっけから衝撃的だった。
「オレな、マニラでB・Bと会っちゃった。」
「エッB・Bってあの原部(ばらべ)?」
「そうなんだよ。ビックリしたなー。」
「マニラでなにやってたんだ。」
「それがなぁ。フィリピン・バンドでヴォーカルやってた。」
「なにー!あいつ確かマトモに就職したんじゃなかったか。」

つづく

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅱ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編Ⅲ)

サンフランシスコ・ベイ・ブルースが聞こえる(1998流浪望郷編 最終回)

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな 

2015 MAY 14 19:19:00 pm by 西 牟呂雄

 古代史のヒロイン額田王(ぬかだのおおきみ)の力強い歌である。
 
 
熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

yjimage[1]

 一条の光に導かれ
 友よ力込めたまえ
 まだ波静けくあるうちに
 
 我が目指すところ
 遥かなる 海原の
 風まだ猛くならぬうち

 友よ さあ 力込め
 櫂しならせて漕げ 
 外海で 帆をはらむまで
 

 夜間帆走というのは荒天で灯台も見えないような外洋の場合、大変に難しい。風とコンパスだけで心細い航海が続く。しかし月も星も見えないで何時間も舵を取っていると必ず恐怖感が麻痺してしまい、返って緊張感がなくなる方がヤバいそうである。4人で太平洋を横断した人が言っていた。外洋の懐の深さ、大きさ、そしてその恐さを語って余りある。その人達は33日でサンフランシスコに入港したが、日本を出た途端に低気圧を喰らって帰港しようかと随分悩んだそうである。
 もっとも近海でも注意しないと内航貨物船は夜中航海しているから危険だ。
 影のできるほどの月夜で天の川が目測できるような満天の星に気を取られ、千トンクラスの貨物船が接近しているのに気付かずヒヤリとしたことはある。航海灯に気が付いた貨物船の航海士が汽笛を鳴らしてくれたのだった。
 そして未明の薄明かりの時は、実はもっとあぶない。障害物(船舶等)が海の色に溶け込んでしまって良く見えなくなってしまう。
 結局航海は常に危険に囲まれているのだ。

 ところで冒頭の歌の熟田津は愛媛県のあたりらしく、百済からの援軍要請を受けた倭の軍が出港する時の歌だ。あの時代の航海術では風の悪い時期の玄界灘なぞ、行くのも命がけだっただろう。

 かの人は天皇兄弟の三角関係から壬申の乱の遠因になったという説もある。
yjimage[1]

あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る
 これは天智天皇行幸の際に歌ったのだが、それに対し大海皇子が
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
 と返歌したので、前述の三角関係説の傍証とされている。確かにはじめは大海皇子のツレだった。
 このやり取りの故池田弥三郎氏の解釈がメチャクチャ面白い。僕は40年以上前に聞いた語り口を未だに覚えている。池田先生は江戸っ子なので話し言葉のニュアンスを思い出してちょっと再現して見よう。
「あれは宴が始まって酔っ払った大海皇子が下手な踊りでも踊ってるんじゃないんですか、ラジオ体操みたいな。額田王は前のオトコだった皇子に向かって『コレコレ』ってな具合で注意を促してるんですよ。周りみんな、今は天智天皇の彼女ってこと分かってんだから、何にも言えない。それを大海皇子の方も『いまだに惚れてますよ。』ってな按配で返してる。この歌の時点でどう考えても40台後半ですからあの時代では大年増どころじゃない、『恋ひめやも』も何もないですよ。それぐらい大らかだ、と思ってないと古代のウタゲってもんはわからないでしょう。」
 いやはや、さばけてますな。

 またテーマと関係ない話になってしまった。

「ソナー・メンバーズ・クラブのHPは ソナー・メンバーズ・クラブ
をクリックして下さい。」

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊