Sonar Members Club No.36

月別: 2015年6月

ドキュメンタリー ギリシャがやっちゃった

2015 JUN 29 21:21:37 pm by 西 牟呂雄

 このようなギリギリの調整というのは最後の一晩で決着がつくものだとは考えるのだが、銀行閉鎖とは。

 ユーロ不安から円が高くなった分だけ日本の株価は下がるが、あまり慌てるほどではないだろう。2万円台ならば問題無い。為替というのは不思議なもので、経験則上では急激な変動の危機感が持続するのは3カ月程度なのだ。無論その後の調整には1年くらいはかかるのではあるが。円建て外債はダメだろうが900億だったか。

 しかしどうだろう。EUの盟主になっているドイツは2月時点でこれを読んでいた気配がある。保有国債が紙屑になってしまうことを覚悟して人質のように他のEU諸国を揺さぶったのではないか。何しろ貿易黒字の多くをEU域内で稼ぎ出して、言って見れば食い散らかしているわけだ。
 しかしユーロ圏南欧諸国の債務危機があった2012年に比べると、市場は動揺していない。100年前だったら戦争でも始まって植民地にされるところだったろうが、今更そうはならない。
 デフォルトはするのだろうが、そのこと自体の影響は限定的。ヤバかった南欧諸国も2012年時点よりはマシになっている。予想されたデフォルトは急に起こるものではないから、あの程度の国が破綻したところで恐慌などにはならない。
 問題は時間稼ぎのつもりでやる国民投票の結果、ユーロから(ギリシャ国民もEUも望まないにも関わらず)離脱する道筋がついてしまう場合だ。そもそも国民投票なんかに掛けるような問題ではないと思うが。EU(ドイツ)は弱い国をしゃぶって見捨てるという評価になってしまいう、そうなりゃ信用縮小だ。
 英国もEU離脱に舵を切る。自国内でスコットランドの独立問題を抱え続けて大陸のイザコザに巻き込まれている余裕なんかない。
 フランスはギリシャ国債もドイツよりも保有していてダメージは格段に大きいが、それでもドイツに擦り寄るしかあるまい。 

 しかし思いもよらない所に問題が発生するきっかけになるかもしれない。
 例えば中国。株価の下落が始まっている上に、外交も上手く行っているとは言い難い。ヨーロッパは大きな輸出先だ。おまけに国境を接している北朝鮮は経済制裁を受けていて、全ての外貨決済はユーロなのだ。下落が起こってしまうとタダでさえ破綻している北がグシャグシャになってしまう。その場合38度線より中朝国境の方がヤバい。38度線では簡単に跳ね返されてしまうからだ。いや、何も戦争という意味だけではなく難民流出や治安崩壊ということも含めて。
 当然韓国経済は中国のダウンの影響大、さすがに日本も無傷では済まなくなるか。

 そう思ってヨーロッパのマーケットの開いた夜のニュースをチェックしたが、株価は2~3%の下落と円高後の東京マーケットの下落程度でしかない。そして思ったよりニュースの扱いが小さい。

 少し他の地域に目を向けると、これまたなかなか難しい。
 全く手が付けられないIS問題はアメリカが本気にならなければ絶対に無くならない。
 テロも所構わずだから始末に悪い。
 ウクライナも、実質ロシア軍がウクライナ軍に勝てていない。ロシアは、中国はギリシャにちょっかいを出すだろうか。
 
 どうも日本のプレゼンスが上がる気がする。
 このブログはフォローします。ドキドキするけど・・。

 
 

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本能寺の変 以後

2015 JUN 28 14:14:27 pm by 西 牟呂雄

 前回まで  本能寺の変 以前

 毛利の前線をヒタ押しに押して膠着した羽柴軍の帷幄に一人の間諜が密かにやって来た。
「官兵衛殿にお目通りを。符牒は『藤の花落ちた』と。」
 守りを固めていた雑兵はすぐさま馬廻りに伝え、侍大将に伝える。すると間髪を入れず黒田勢のいる所に召しだされた。間諜は密書を持っていた。
 黒田官兵衛孝高は人を払って目を通すと息子の長政と後に黒田八虎と呼ばれるようになる井上之房、栗山利安、黒田一成、黒田利高、黒田利則、黒田直之、後藤基次、母里友信を招き入れた。この時すでに竹中半兵衛は亡い。
 官兵衛は一同に無言で花押を見せた。それはまごうことなく明智光秀のものだった。
「やはり。」
「シッ。」
 全員に目配せをすると夜を待った。

 備中高松城、名将清水宗治は容易に落ちなず謀略にも応じない。ジリジリしているのはむしろ秀吉の方で、門前村から蛙ヶ鼻までの東南約4キロメートルにわたる堅固な長堤を造り、足守川の水を堰きとめ水攻めを始めたところだった。
 ところが突如羽柴軍の官兵衛から安国寺恵瓊を通じ和睦の提案がなされた。
 毛利は訝った。が、官兵衛の低姿勢に理由も良く分からないまま双方痛み分けで和睦し、堰きを放置したまま羽柴軍は撤退した。俗に言う『中国大返し』である。妙な事に千成瓢箪の馬印は見られなかった。

 同じ頃、堺にいた徳川家康は『光秀謀反。信長討たれる』の報に接し、決死の伊賀越えを決断。急ぎ出立した。供廻は酒井忠次、本多忠勝、井伊直政、榊原康政の徳川四天王に服部半蔵以下の僅かの手勢である。
 四條畷を抜け宇治田原、近江国甲賀を経由し伊賀の険しい加太峠を喘ぎながら通過しようとした時。
 突如天地も裂けるような轟音とともに多数の火縄が発射された。家康と服部半蔵の二人を残して共廻りの者達は一発で頭部を打ち砕かれ即死した。
 硝煙が流れていくと、抜刀して構える家康主従を火縄を構えた人数が囲んでいる。忍び装束だった。一同の銃は長い銃身の先に銃剣を装着している見たことも無い武装である。
「曲者!何奴じゃ。」
 一人の男が前に進むとくぐもった声で答える。
「鉄砲名人、筧十蔵と根来三十三人衆。故あって御覚悟召されよ。」
 家康はもはやこれまでと悟り腹を切ることにした。
「いずれの手のものか。真田か明智か。」
「冥途の土産に聞かせよう。黒田の旗下。」
「ムッそれは・・。筑前守の調略か。」
「さにあらず。羽柴殿も既にこの世にあらず。」

  中国大返しで驚くべき機動力を発揮し羽柴軍が上京した.二条新御所(後の二条城)で明智光秀と対面したのは黒田官兵衛・長政親子と黒田八虎。光秀の左右には長曾我部・斎藤・明智左馬之助といった諸将が控える。官兵衛が口を開いた。
「まずはおめでとうございます。」
「恐れ入ります。官兵衛殿も首尾よく。」
「夜半に急をつげ、秀吉様と二人きりになった折に。」
「石田三成はいかに。」
「母里太兵衛の槍の錆と。」
「さすがは官兵衛殿。これで戦はもう終いじゃ。」
「あいや待たれよ。まだ織田の諸将がおりまする。」
「兵を握っているのは柴田殿か。」
「御明察。前田、丹羽はあえて弓は弾きますまい。滝川は手数無し。信雄(のぶかつ・次男)殿、三七信孝(のぶたか・三男)殿はお味方ならざれば捻り潰すのみ。かねての申し合わせにもう一芝居、すべて任されよ。」
「かたじけない。皆の者、再び戦支度じゃ。出陣じゃ。」
 明智軍が慌ただしく北上して行くと、奇怪なことに今度は高々と千成瓢箪の馬印が翻っている。町方では『羽柴筑前が明智と手を結んだ。』と噂した。だが馬上の羽柴秀吉は無論影武者だったのだ。
 
 明智勢が去った後の京では、御所の各門に黒装束に長鉄砲を持ちしかもその銃先に銃剣をを装着している異様な風袋の大軍勢が守りを固めているのである。黒田勢なのは明らかだが、どの兵も町方とは一言もことばを交わさないのだ。
 と同時に約100家族と言われる藤原四家の流れを汲む堂上公家が次々に粛清されていく。京の街には『信長公の祟り』という噂が流れた。何者かの手の者が町に潜み、或いは商人に化けて触れ回っていたからだ。

 ところが、明智軍は主君仇討の怒りをみなぎらせた柴田勝家と近江国伊香郡賤ヶ岳で激突し激戦の末たったの一日で敗れてしまう。信長の妹、お市の方は勝家に嫁しているのだ。
 しかしながら迎え撃つ柴田軍は大将自ら猛烈な突撃を繰り返し、柴田勝家は討ち死にする。敗走する明智光秀と羽柴秀吉もこの戦で討ち死にと伝えられた。
 全国にこれらの話が広がる最中、何と黒田父子と八虎は姿を消してしまった。天に消えたか地に潜ったか。御所にも二条城にもその姿は無い。実は討ち死にしたはずの光秀・秀吉であるが首も発見されない。

 奇妙な平和が流れた。戦乱が無くなってしまったのだ。羽柴も徳川も明智も柴田もいなくなり黒田は消えた。足利幕府も京都にない。それどころか官位の授けられた公家もいない。この世から権力が無くなってしまったのだ。
 前田・毛利・島津・伊達・上杉・北条といった大大名は唯一の権威である帝への上奏を嘆願しようとするのだが、帝へ上奏しようにも誰も御所に入ることもできない。第一上奏に至る手続きさえ知る者がいないのだ。それでいて御所の周りの守りは元黒田勢の黒装束部隊が固めている。やっと辿り着いた柴田残党が勢いを駆って京入りしようとし、猛烈な一斉射撃の前に全滅していた。

 半年を経た頃に突如正親町天皇の勅令が出た。南光坊天海なる怪僧が現れ各大名に発令されたのだ。
「天下布武あまねく至れり。これを以って戦慎み、武装解くべし。もののふこぞりて朕がもとに参れ。金銀とらす。」
 御首が伝えられた「大八島 みな同朋(はらから)と 思う世に など波風は うみを越えなん」
 ここに戦国時代は終わりを告げたようであった。
 
 各戦国大名は武装解除され、日本は天皇の下に国軍を擁する平和な歴史を歩むこととなる。天皇の信頼が厚い南光坊天海の正体は、第五皇子の誠仁親王とも黒田長政とも噂されたが一切は不明のままだった。

 翌年。巨大なガレオン船サン・ファン・バウティスタ号が帆をはらませて太平洋を行く。イエズス会のヴァリニャーノ神父が囁いた。
「わがエスパニアのアメリカ領(メキシコ)の北にある広大なる無主の地こそ切り取り次第。雨少なく乾いた地。蛮族群れなすも御一同なればたやすき事。」
 かたわらの官兵衛は満足そうに頷き、後ろに控える黒田八虎は鬨の声を上げた。

 もう一艘、こちらはフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが案内を務めて南に進む。官兵衛と計らい戦国の世を終わらせた明智光秀とその一統はこの後、高砂・呂宋を根拠地とした一大倭寇船団を率いることになる。
 海洋大国日本の夜明けであり、その後の歴史は読者の良く知るところである。

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映画 『花戦さ』

オジサンの持ち物 お土産編

2015 JUN 26 23:23:34 pm by 西 牟呂雄

 旅先で買ったお土産が手許に残っていないことに気が付いた。無論飲んだり食べたりするものは残らないから身に付けたり飾ったりする物のことだ。

 メキシコで皮のジャンパーを買った。プレスリーの衣装のようなヒラヒラがついているあのカウボーイ・ジャンパーだが、意気揚々と帰国した途端に捨てられた、哀れ40年前の事。
 しかし考えようによってはその方が良かっただろう。そんな物を纏ってウロウロしていたら頭がおかしいと思われたに違いない。
 もっと酷いのはギリシャで買ったオーソドックス(正教会)の牧師のユニフォームで、一度も着なかった(着る機会もあるわけない)上に処分にも困った。街中で売っていたので思わず買ったが、ああいうものを僕以外にも買う人がいたということか。衝動買いだった。引越しを繰り返しているうちにどこかで消えた。
 イタリアには三ヶ月居たことがあるがきれいさっぱり何も買わなかった。この国はどこもかしこも遺跡だらけで観光ガイドにでも案内してもらわないと目に入る物がみんなローマ時代の建造物に見えてしまい、チョっとした物なんか買う気にもなれなかった。そういえば写真すら一枚も残っていない。これが女性だったらグッチだ何だと買えただろうに。グッチの本店には行っているのだ。

 ロシアのコサック帽を買って被ったままウチに帰ると、久しぶりに会った家族が舌打ちをしながら『やると思ったよ。』とぬかしやがってアタマに来たことがあったな。その頃モスクワの市内では旧ソ連軍の放出品の軍帽や軍服が叩き売られていたのを、さすがにマズイと思って止めて帽子にしたのに何だ。これは今もあって冬場に重宝している。
 ロシアのお土産はゲンが悪くて、ハチミツのビンが荷物の中で割れてスーツが一着ダメになったこともあった。

 アメリカではファンだったフットボールのダラス・カウボーイズの大きな一つ星(ローン・スター)付きグッズを随分買った。このチーム何故か『アメリカズチーム』と言われていてデカい空港では大抵買えた。そのTシャツやらバンダナも手許に無い。
 一方、日本の基地に勤務していた米兵が帰国にあたり迷彩服だの何だのを売り払っていく『ジャンク屋』というのがあって、僕は福生でヘルメットや水筒を買っていた。こういうのは逆お土産とでも言うのだろうか。ヘルメットは地震災害対策で今でも車の中にある。

 マニラの国際ターミナルの免税店のお土産は世界一貧弱なのに、木片を組み立てる船のオモチャが気に入って何種類か買った。これらも跡形も無い。子供が遊んだのかどうか。確かにチャチだったな。
 一般に東南アジアの免税店には絶対にロクな物は無く、ブランドものかタバコくらいが無難なところでキンキラ・チャイナ物は絶対に製造原価の100倍で売っている偽者と思われる。いやタバコでさえ北朝鮮のニセ・メヴィウスかもしれない。あんなもの街中でもっと安くいくらでも手に入るだろうに、性懲りも無く売っている。中国なんかもっとひどい。
 さて、人から貰ってうれしいのは一体何だろう。女性ならばアレコレあるのだろうが、オジサンはどうか考えて見ると、これがない。ロシアの連中がくれたロゴが入ったTシャツは気に入って着ている。心がこもった気がするのだ。

 思うに、オジサンはひねくれている上にツベコベうん蓄をかたむけるから、渡す方も困るのじゃなかろうか。昔は万年筆なんかは随分重宝したのだが、今は使う人もあまり見かけない。
 時計ねぇ、腕には巻いているけれど。ネクタイくらいか、それもね。
 

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アグリカルチャー・デヴュー Ⅲ

2015 JUN 25 21:21:55 pm by 西 牟呂雄

ジャガイモの花

ジャガイモの花

 梅雨の雨をたっぷりあびて、我がネイチャー・ファームのジャガイモがスクスク育って花を付けた。
 スクスクというよりモジャモジャか。
 それにしても肥料も何もやらなくても育つだけは育つ。親は無くとも子は育つ、という具合だ。
 アングルが悪いのであまりきれいに見えないのが残念だが、かわいい花が咲いている。
 ウチのベランダで毎日たっぷり水をもらって言う甘やかされている観葉植物に比べて何といじらしいことだろう。これに一株いくつものジャガイモが採れれば向こう1年はジャガイモは買わずに済むのではないか。
 ひょっとしたら売り物に・・・・ならないな。
 
 きゅうりが全滅したのは返す返すも無念なのだが、一方でナスは膝の高さにまで延びたし、ピーマンに至ってはついに初収穫があった。何故か一つだけなのだが。

初収穫 グリーン・ハート・ピーマン

初収穫 グリーン・ハート・ピーマン

 たった一つでもチョコンともぎ取って早速試食する。塩とドレッシングが効きすぎておいしいのか不味いのかわからなかった。
 こうなれば『紫の宝石ナス』への期待がいやが上にも盛り上がるのである。

 後継者に悩む農家も多いと聞く。企業の参入などはいいことと思う。耕作放棄地とは言い換えれば『農業をしなくても食える』ことの表れで、ワーキング・プアや格差の話とは次元が違う。農地はそれなりに耕作されてこそ調和がとれるのだ。
 我がナチュラル・ファームは雑草を抜くくらいだが、以前 埼玉のウララちゃん や 埼玉の木枯らし で書いたあたりは農地の所有者が入り組んでいて、一画が(時に水路に面した所など)放棄されるとジャングルのようになってしまいバランスがくずれる。雲雀の巣ができてはいたが。 
 近所のオッチャンは『ワシ等程度の生産じゃ米でも野菜でも買った方が安い。』と言っていた。確かに小規模では競争力何か無い。
 帰農とまでは言えないが、それでも自分で造った物を食べるといったことはある種のトレンドとして社会に根付くのではないだろうか。
 喜寿庵の飛び地なんかで小規模農業をやる人はいませんかね、無償で貸与しますが。

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アグリカルチャー・デヴュー

アグリカルチャー・デヴュー Ⅱ

アグリカルチャー・デヴュー Ⅳ

名古屋だぎゃ (ゼロ戦と秋水)

2015 JUN 23 12:12:37 pm by 西 牟呂雄

 映画『風立ちぬ』でゼロ戦を牛に引かせたシーンがあった。あれは実話で、その場所は名古屋なのだ。そのつもりで何か見るものはないか、と探すとあるわあるわ。そう、ここはゼロ戦発祥の地。正式名称『A6M 零式艦上戦闘機』米軍からは『ZEKE(ジーク)』『ゼロ・ファイター』とも呼ばれた。
 単発単座戦闘機で常識外れの航続距離と空力特性・旋回能力を持つ、日本海軍の技術の粋。将に荒鷲の称号にふさわしい戦闘機だった。
 以下は某社の史料館と現地を訪ねて見た写真である。

通称 時計台

通称 時計台

 例の映画で若き堀越二郎が心血を注いで設計していた場所がこの時計台だ。当時の日本のエンジンはどうしても千馬力程度にしかならず、そのために軽量化のため肉抜き、空気抵抗を減らす沈頭鋲など恐ろしく手の込んだ造りになったのがゼロ戦である。言い尽くされたことであるが、防御の面での問題等は全てここから来ているのだ。更にこの凝ったつくりが工程を増やし能率を上げられない。
 ある意味では奇跡的にゼロ戦が出来てしまったからあの悲劇につながったとも言えなくもない。
 それはともかく、映画にも出てきたこの建物を見て思わず一枚撮った。無論観光客も誰もいない。現役の工場でもあるわけだ。
 ここから牛に引かせて滑走路に運んだ。

 そして、この場所からは10km程北上したところにこの会社の史料室があり、予約をすれば入ることができる。ワクワクしながら手続きをし体育館のようなところに行くと、あった。ゼロ戦52型だ。靖国神社で邂逅し、鹿児島鹿屋海自基地の展示以来、久しぶりのご対面となった。

ゼロ戦52型

ゼロ戦52型

 悲しい話であるが前線撤退の際には機密保持のために爆破せざるを得ず、また敗戦時は武装解除で全てスクラップとなったのだが、わずかに復元されたものもある。ここの展示は南方ヤップ島で破壊されていたものを引き取り、技術者が苦労して復元したものだ。以前はコクピットも覗けたそうだが、心無い大バカが部品を盗ってしまうのでダメになった、残念。
 丁寧に説明して頂いて色々と航空技術の先進性が分かる。
 にもかかわらず、僕の感想は『何といじらしい!』だった。何とか工夫をして弱点を補う技術者魂が、だ。機体の丸い優美な姿に見とれてしまった。

 さらにもう一つ。驚くべき展示もあった。IMG_0084

 右のムクドリのような機体をご存知か。ロケット推進局地迎撃機『秋水』なのだ。ドイツで先に実機化されたが、それは結局日本には持ち込まれず手探り状態で苦労に苦労を重ねて製作されたらしい。
 高度1万メートルから焼夷弾をバラ撒くB-29に止めを刺すべく、まるでロケットのような高角度で上昇、到達まで約3~4分。燃料の制約でわずか数分の戦闘だが必殺の30mm砲でこれを撃破、そこで燃料を使い果たす。驚くなかれ片道燃料なのだ。そしてその後は急降下してスピードを確保すると滑空して着陸。何と帰りはグライダーである。
 その時解説してくれた方はパイロット経験者なのだろうか、まるで神業だと驚く僕に『いや、技術的にはそんなに難しい操縦ではありませんよ。』等と言う。
 更に、翼下に車輪がつけられないため離陸の際には両翼を支えた整備兵が浮力がつくまで全力疾走で押したのだとか、鳥人間コンテストじゃあるまいし。
 しかもこの機の翼は軽量化と省資源のために木製である。説明者が叩くとポクポクと音がした。
 この美しいボディを見ていて、兵器というものは悲しい使命を持って生み出された代物だが、やはり文明の一つの結晶ではあると思う。先の『いじらしい』という感想にも通じるが技術の最先端であり、いい悪いは別として必死の気迫が伝わってくる。結局実戦には間に合わなかったのだ。

 頭が下がるとともに不戦の誓いを噛み締めた。
 もうやらないんだからツベコベ突っかかってくるなよ!

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名古屋だぎゃ (お城と神宮)

2015 JUN 21 18:18:22 pm by 西 牟呂雄

 

天守閣

天守閣

 
 なかなか観光で来ることはない名古屋。仕事で来ていたときも、東京に近すぎるのでちょっと見て歩くようなことをしたことがない。縁があって尾張名古屋にやってきた。他にも観光地はあるのだろうが名古屋シロウトとしては出だし名古屋城に行く。米軍の爆撃を食って炎上したため、天守閣も光り輝く金の鯱(しゃちほこ)も残念ながらレプリカだ。焼失したものは鱗が全て高純度の金で、しばしば盗難にあったことも知られている。しかし正門をくぐって入る時の堀の深さや入場してからの天守閣への経路のディフェンスなど実に考え抜かれており、広さから推定できる収容人員の規模も大きい。戦いには強い名城と思えた。特に天守閣の石垣の高さと傾斜は、名人加藤清正の作品らしく見事なものだった。
 思えば鳥羽伏見の後、東海道を上ってくる官軍に対し守りを固めたこの名城で食い止めた場合は激闘があったかもしれない。ところが尾張藩は初祖義直の頃から朝廷との縁が深く、逆に王政復古後の混乱期は東海道諸藩の触頭に任命され、佐幕色の強かった譜代大名を勤皇側へ動かす方へ回る。
 元々将軍家と同格意識があり、異才の藩主七代徳川宗春などは将軍吉宗とことごとく対立して見せた。こういった気風を残した開明派の徳川慶勝が巧みに時代の流れを読んだということだろう。

  熱田神宮にもお参りに、鳥居が直立不動といったシンプルな感じ。
 ここは草薙の剣が御神体。話は古く素戔嗚尊が切り刻んだヤマタノオロチの尾から出た剣だ。それを日本武尊が東征の折りに携行して危機を脱出。ところが伊吹山で身罷ってしまったため、残された宮簀媛命 (みやすひめのみこと)がここに祭った、という複雑な経緯をたどっている。
 
 

 

 従って創建された景行天皇の時代には剣もあったのだろうが、現在は諸説あってよくわからない。どうも御神体の櫃の中に何かはあるようだが見た人はいない。平家が壇ノ浦で滅亡した際に平時子が安徳天皇を抱いて入水した際に腰に差して水没して見つからなかったという記述があるものの、それも本物だったかどうか。
 戯れにガイドの方に『本当はどうなんですか』と聞いてみると『それは気にしなくていい事なんです。我々も見ることはできませんし、宝剣は人の目に晒されただけでもケガれてしまいますから。』と実に明快に不明瞭な説明をされた。

 織田信長は例の桶狭間に行く際はわずか5騎のみを連れ飛び出し、ここ熱田で軍勢が集まるのを待って戦勝祈願した。

信長塀

信長塀

 首尾よく勝利した後寄進した「信長塀」が残っている。現存しているのは120メートル。
 信長と言えば、叡山焼き討ち、長島一向宗殲滅、石山合戦と仏の方は抵抗すると徹底的に弾圧したが、神様は何にも難しいことは言わないから平気で拝んだのだろうか。
 一説には『勝つなら表、負けるなら裏を』と賽銭10枚をバラ撒いたところ全て表が出た、と言う。手の込んだことに表を貼り合わせた細工だったとか。多分嘘だろう。
 しばし、たったの5騎で兵を待っていた織田信長の心境に想いを馳せたが、どうもヤケッパチになったのが実態だったのではないかなァ。もうこれしかない!と頭に血が上るまで戦術を練りながらこの境内にいたのだろう。

 近くに名物『ひつまぶし』の本店があって、午前中に予約を聞いたら午後二時からと言われた。そういうものなのだそうで、その間にお参りをしていた。
 それでその『ひつまぶし』なのだが旨い上にコッテリ感がすごく、二日酔いの胃にはキツかったが確かに旨い!
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 ところで東海道五十三次の四十一番目『宮宿』とはここ熱田のことで、当時の東海道はここから海路桑名宿へ行ってしまい名古屋は通らない。そっちは美濃街道になるのだ。
 そのルートが示すとおり、広い境内の足元まで海になっていたようだ。
 そういえば新幹線も当初は東海道線の方ではなく、四日市ルートで計画されたようだが怪物政治家、大野伴睦の辣腕で岐阜ルートになってしまった。そりゃ票になったでしょうね。

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訃報 ダスティー・ローデス アメリカン・ドリーム

2015 JUN 20 11:11:58 am by 西 牟呂雄

yjimage[4] 脳天にパンチを浴びると逆にグッと立ち上がってくる。
 相手をコーナーに追い詰めてヒップ・ダンス。130kgの巨体で暴れ廻りクネクネ踊る。
 入場のコスチュームは派手というよりもグロ、ピンクの水玉ガウンと同じデザインの帽子だ。
 アメリカ人はこういうのが大好きで大人気のスーパースターだった。決め台詞は『オレは配管工の息子から成り上がったんだ。』別に配管工が悪いと思えないが、なぜか観客は沸きに沸く。このキンキラ・クネクネぶりが当時の日本では今一つ人気が出なかった理由かもしれない。
 かの天才レスラー、故ディック・マードックと組んだタッグチーム、その名も『テキサス・アウトローズ(後のジ・アウトローズ)』で大暴れして頭角を現すと、メキメキ実力・人気が出てスーパースターとなった。ディック・マードックはキレのいい天才的なレスラーで無骨な感じなのだが、どうも日本ではこういう人の方が好まれる。ブレーン・バスターの効き目なんか他のレスラーと全く違うのがよくわかった。

 ローデスはウェスト・テキサス大学出身だがこの大学、名門なのに不思議なほどプロレスラーが出ている。それもドリー・テリーのファンクス、同期にブルーザー・ブロディ、ボビー・ダンカン、3年下がスタン・ハンセン、更に(ミリオン・ダラー・マン)テッド・デビアスと続く。プロレス学科でもあったのかと思う程だ。場所がテキサスのアマリロというファンク一家のフランチャイズにあるからだろうか。若き日の鶴田もアマリロで修行していた。
  
 そのダスティ・ローデスが69才で死んでしまった。葬儀にはドリー・ファンクJr、ジェリー・ブリスコ、パット・パターソンといったビッグ・スターが駆けつけた。

yjimage[9]

 右の写真はそのローデスと二人の息子で、二人ともやはりプロレスラーのゴールダストとスターダスト。どうです、このオヤジも凌ぐエグさは。よほどオイシイ商売なのか閉鎖的業界なのか。親子兄弟のレスラーというのは日本の世襲議員並の比率で、メキシコなんかは何人もいる兄弟に従兄弟まで全部というケースもある。

 ところでアメリカのプロレスはゲテモノ化を進めれば進めるほどウケる。アメリカ人の中にはより単純な方を好むゾーンがあって、それならそれと徹底してやるのがいいようだ。
 WWEはWCWやECWといったメジャー団体を買収して急成長し、全米のマット界をビッグ・ビジネスに育て上げたビンス・マクマホンの経営手腕はMBA課程の会社分析のテキストにもなっているそうだ。たかがプロレスなんだけど本当かな・・・。
 どうでもいいが、スティーブ・オースチンはガラガラ蛇といわれたヒールだったくせに何とアクション・スターになりスティーヴン・セザールと共演した。ザ・ロックも主役で映画に出ている。やはりプロレスは奥が深い。

 先日はビル・ロビンソンの訃報を聞いた。
 是非リック・フレアーやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンといった連中に長生きしてもらい、伝説を甦らせてもらいたいものだ。

10.21横浜文化体育館

スポーツを科学の目で見る (プロレスその1)

スポーツを科学の目で見る (プロレスその2)

心に残るプロレスの名言 全日本編

リングネーム・中継の傑作

心優しい主夫 スタン・ハンセン

昭和プロレスの残像 (祝 馳浩文科大臣)

ドリー・ファンク・ジュニアが出たぁ

ジミー・スヌーカの訃報


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同級生が・・

2015 JUN 18 21:21:04 pm by 西 牟呂雄

 突然のメール。同級生が亡くなった、と。小学校の机は当時二人一組で、隣同士だったこともある彼。真ん中に線を引いては「あっ、こっちにはみ出してる。」「そっちこそ肘がぶつかる。」というやり取りをしていました。
 とても太っていて座っているだけで少しこちらにはみ出しがちではあったのですが、駆けっこがビリだったり遠足でへたばったりとそれなりに大変だったようです。
 しかしガキというものは残酷で、そういうことをからかうのは日常茶万事でした。
 彼を苛めた記憶はありませんが囃し立てたことはあります。不愉快だったでしょうがニコニコとやりすごしていましたね。怒ったりしなかったのは、気の小さい彼の処世術だったのでしょう。
 中学からエスカレーター式の大学まで続いている学校に進学して、一度だけ同窓会で会いました。『太り過ぎを直すんで(ダイエットなんて言い方はありませんでした)中学でラグビー部に入ったら医者に辞めさせられたよ。』と笑っていたものです。
 それっきり彼の噂も聞かずに今日に至ります。
 詳しくは知りません。ご家族の問題があったのか事業で失敗したのか。最後は体を壊し病院で、独身で半身不随、天涯孤独となって息を引き取った、と。こういう場合、最小行政単位が火葬と略式の葬儀をしてくれるそうですが(ご家族の入っている墓所への)納骨はタダというわけには行かないらしく、カンパをすることになりました、さっそく一口振り込んできます。
 内臓疾患とのことで最後は緩和ケアで痛みと闘っていた、等と聞くと何とも言えません。次々と降りかかってくる様々な困難に、さぞ心細かっただろうに。そしてそれに耐えてきた。
 しかし同時にその時に彼の話を聞いていたとしても、一体私は彼のために何ができたでしょうか。

 長年消息を知らなかった彼の死を聞いてそれなりに驚きガックリするものの、この年になればこういうことはこれから毎年どころかもっと頻度を上げて起こります。いや、私の知らないところで今現在も起こっています。
 宗教家や厚い信仰でもあれば別です。が、いかなる主義・主張・思想をもってしても、一度でも隣同士で会話した知り合いの訃報に対して納得感を醸成できません。どうやら苦労を重ねたことを悼む以外なすことはなく、癒されることも無い。
 
 彼は亡くなり私は生き残りました。
 
 誤解を恐れずに言えばその亡骸に声をかけるとしても、人に迷惑をかけずにやります、慎ましくやります、面白おかしく暮らします、少しでも真面目にやります、程度の言葉しか口に出せないものじゃないでしょうか。

 同時代に同じ空間を共有した、大窪よ。
 お疲れ様、安らかに眠れ

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狼少年ケン

変節・寝返り列伝 日本史編

2015 JUN 16 23:23:32 pm by 西 牟呂雄

 この世は欺瞞に満ちている。世間は嘘つきばかりでオレオレ詐欺が減った話は聞いたことがない。そのくせ裏切り者には世論は厳しい。そこからして既に怪しいと思わなければならない。我々はなんという難しい時代を生きているのだろう。
 と思ったが、歴史を振り返ると昔から『それはないだろう。』という寝返りには事欠かない。本当ですよ。

 まずは源頼朝。この人は偉大な行政官だったが戦争はあまり強くなくスタートからコケてばかり。平家をコテンコテンにやったのは従兄弟の木曽義仲や弟の義経だった。その義経が京の怪物、後白河法皇にチヤホヤされているのが気に入らない。義経の方も『これは兄貴が怒るだろうな。』くらい配慮すりゃいいものを、頭が悪いというか考えないというか。
 結局頼朝は武功のあった弟を追放し、ついでに対抗勢力の奥州藤原も攻め滅ぼしてしまった。判官びいきという言葉の元になったくらいだから当時からも恨みは買ったことだろう。まさかの裏切りである。

 時代が下って太平記の登場人物達。魔人後醍醐天皇を中心に足利尊氏・直義兄弟や高師直(これにも師泰というタチの悪い弟がいる)バサラ大名佐々木道誉といった奇人・怪人の濃いキャラが目白押し。彼らが自分の都合だけで嘘を塗り固め離合集散する様子は凄まじい。佐々木道誉に至っては、一体何がやりたかったのかさっぱりわからない。大河ドラマが何度か作品化したが、あまりのメチャクチャぶりにストーリー立てが難しくて、あまり数字が取れなかったらしい。評価は何とも言えないが、後醍醐天皇からすれば足利尊氏は大変な裏切り者だろう。要するに全員自分のことしか考えない人々の織り成すタケシの極道映画みたいなもん。楠正成だけマジメ。

 そして戦国時代ともなれば下剋上。日本中で親子兄弟が争い主君殺しも横行する。寝返り・裏切り当たり前。武田信玄は父親追放、織田信長は弟や叔父達を皆殺し、上杉謙信は兄をやり、徳川家康は(信長に言われて)長男殺し。どいつもこいつも似たようなところ。
 北条早雲・陶晴賢・斉藤道三みんなそう。司馬遼太郎氏の作品で皆ヒーローになったのだが。
 しかし際立って見事な裏切り者を一人挙げるとすれば松永久秀ではないか。親分筋の三好一族に取り入り、その後離反してその合戦の際に東大寺を焼き、しまいには将軍足利義輝を殺し(ただ直接手を下したのは息子の久道)織田信長にヘイコラしてからも仇敵三好党と組んで反乱して負ける。なぜか死罪にもされず石山本願寺攻めに加わっていたが、これも離脱して信長に叛旗を翻えして最後爆死。それも茶器『平ぐも』を道連れにするために、だ。
 寝返りもこうしょっちゅうでは目まぐるしくて良く分からない。何かに導かれるように裏切り続けるとは悪魔に魅入られたか。最後に死ぬときに西の空にほうき星が怪しく現れたというが、ハレー彗星でも来たのだろうか。
 ところで、三好一統は剣豪将軍足利義輝を葬り去る前にも京都から追放したりして、エリアとしては畿内だけだろうがそれなりの政権を樹立していたのではなかろうか。時の正親町天皇にも接近したりして擬似幕府体制だったかもしれない、と仮説を立てている(僕が)。

 外せないのは明智光秀。寝返り業界のスーパースターだが、あまりにも有名なので論評しない。

 同じく関が原をぶち壊しにした小早川秀秋。一体何を吹き込まれていたのだろうか。一人だけじゃない。この時は他にも脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保。これらも小早川とともに一斉に寝返っている。

 面白いが、この日本での戦国時代に対応して西欧でルネッサンス運動が起こっている。西欧ではキリスト教の宗教的権威の低下、日本では足利幕府の世俗的権威の喪失が、時期的にもそう違わずに起きたことを比較研究したのが故会田雄次氏の考察だったと記憶する。
 その後の平和な江戸期になって、朱子学も採用され葉隠れ的な武士道というものが醸成されたのだが、それ以前の武士だろうが公家だろうが果たして寝返りがそんな悪徳だとはゼーンゼン思わなかったかもしれない。その代わり祟りや怨霊におびえただろうが。

 ファンが多いので取り上げると怒られてしまうかもしれないが、維新の原動力となった薩摩藩も変節はしている。八月十八日の政変では会津藩と同盟し長州を追っ払った。孝明天皇の信任厚い会津中将松平容保と島津斉彬公の公武合体体制だった時点では、尊王攘夷一辺倒の長州とは一線を引いてむしろ対立。しかし、藩主が替わり藩論はグチャグチャに迷走してしまい西郷は遠島だ。尊皇攘夷自体は当の幕府だって口走る当時の常識だが、勝海舟の怪しげな動きや連動する坂本龍馬の斡旋により、遂に会津藩に一言の申し入れもなく薩長同盟が結ばれる。気の毒に対薩摩藩のリエゾン・オフィサーだった会津藩士秋月悌次郎は表舞台から消える。
 この人は後年第五高等学校で漢文の教官をやっていた。
 鹿児島で驚いたのだが、地元では薩英戦争はイギリス艦隊を追っ払った薩摩の勝ちなのだそうだ。いっそこうでなければ革命なんかできないということだろうか。
 そしてその革命もしまいに気に入らなくなってちゃぶ台返しの西南戦争である。

 その流れでいくと名前を挙げざるを得ないのが徳川慶喜。幕府歩兵隊を中心に会津藩・桑名藩・新撰組と1万5千人の兵力を持ちながら、しょっぱなにコケると1/3でしかない官軍にビビッて夜中に船で江戸に逃げだす。寝返りとは言えないかもしれないが、おかげで二本松・会津・長岡・米沢と散々な目に会ったのだからタチが悪い。大参謀西郷隆盛が勝海舟に丸め込まれて振り上げた拳の持って行き先が無くなったものだから、恭順しようが降伏しようがとにかく戦争に持ってかざるを得なかった。

 話は変わって例の大戦の引き金になった3国同盟をやるのやらないのと議論がなされた時。海軍内部で検討された歴史的事例研究で国際条約を一方的に破った事例をカウントしてみると、1位がドイツで2位はロシア(旧ソ連含む)だったそうである、どうやって数えたか知らないが。もっともドイツに統一される前は神聖ローマ帝国内にナントカ公国が乱立していたから数字的に多くなったのかも知れない。そのドイツがソ連に雪崩れ込み、ソ連は原爆が落とされてから日本に・・・。
 こうなってはスケールが大き過ぎて裏切りというか寝返りというか。北方領土は返して欲しい。

 もう少し現代では小沢一郎かな。懐刀と言われた側近が、ある日突然連絡できなくなり携帯にも出なくなる。しばらくすると『もうアレはダメ。』とか言っているという噂が聞こえてきてパァ。すると突然思いも寄らない所と手を組んで現れ、そっちで初めだけ『一兵卒になって云々。』と言う。
 創生会・新進党・自由党・合同した民主党・未来の党・生活の党、もう順番が分からない、今じゃ『山本太郎となかまたち』寝返りにもならなくなった。

 S氏!古い友人である。
 今から半世紀前のこと。都内某所でかわいらしい小学生がモノポリーに興じていた。何れにせよ基本サイコロの目が大きく左右するのだが、某小学校のルールは違った。談合が始まるのだ。
 得点の高いボードウォークを制したものが圧倒的に有利。そこでボードウォークを握った者にスリ寄るかそれ以外の者でスクラムを組むか、ガキは必死に戦略を練った。しかも恐怖のカード『ボードウォークへ行け』があるので読みが難しい。次々と脱落する中で不死身のS氏はしぶとくも生き残る。そして詰めの段階で恐怖の『寝返り』が出るのだ。普通の小学生なら大ゲンカなのだがS氏は平然と『公文書がない。』と言い放った。不思議なものでその場にいたバカ小学生達は、その後『公文書』なるものを作ることに熱中した。

 やはり寝返られるのは楽しくはない!

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この演説を聞け

2015 JUN 14 14:14:24 pm by 西 牟呂雄

 「これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。」
 yjimage[3]スノーデン海兵隊退役中将(硫黄島上陸作戦参加)と新藤義孝衆議院議員(硫黄島で指揮を執った栗林中将のお孫さん)がガッチリ握手をした後に発せられた我等が安部総理の米議会演説の一節である。米議員はスタンディング・オベーションで応えた。スノーデンと言ってもアメリカNSAの機密情報バラして香港からロシアに逃げたエドワードじゃない。大尉として硫黄島に上陸したローレンス・スノーデン退役中将である。硫黄島の慰霊祭に参加され日米双方に哀悼の意を示しておられる。
 この日これ以外にも合計14回もスタンディング・オベーションがあったそうだ。
 この抜群の演出の直前、スノーデン退役中将は体調を崩し入院。なにせ御歳90翁である。心配する日本側に対し『これは人生最期の戦いだ。必ず行くから心配しないでくれ。』と伝えたと言われている。これ感動モノでしょう。
 通り一遍の『反省』とか『謝罪』などひとことも入っていなかったようだが、これだけの誠意が通じるのだから誠に結構。確かマイク・ホンダが演説後にマイク(駄洒落じゃない)を向けられてツベコベ言った報道があったが、中韓のロビー・マネーが効いているのだろう、無視無視。

 聞く限りでは畏れ多くも総理の英語力は私程度かと思われる。あの訥々感がまたいいのだ。議員たちはペーパーに目を落としているから内容はともかく、総理が力を込めようとした時の表情を見ているのだ。
 いい例が国連で温室効果ガス20%を主張したアノ総理。誰の記憶にも残らなかった。英語ペラペラでも『トラスト・ミー』一発で日米関係を木端微塵にしてくれた。スタンフォードを出ようが博士論文を英語で書こうが議会で人を唸らせることはできない。そういえば所信表明演説の出だしは『命を救いたい。』とやってスベッていたっけ。yjvideo[1]

 大昔、かのマーチン・ルーサー・キング牧師の『I have a dream』を全部暗記しようとして挫折した。I have a dream この抑揚はなかなかできるもんじゃない。やはり背後に人種差別と戦う、といった重いテーマがあったればこその魂を揺さぶるスピーチなのだろう。
 フィリピンの工場でクリスマス・パーティーの出だしでスピーチしたことがあったが、概要『将来この工場の方が日本より大きくなって、ともに手を携えることを夢見ている(I have a dream)。』とやってみたけれど、すぐネタバレしたようで大して受けなかった。
 関係ないが、キング牧師には女性関係の問題があって、暗殺された日も浮気をしていたともされる。FBIが猛烈な妨害工作をやっていて、それでバレたようだ。

 翻って安部総理は最近ヤジかなんかで謝罪したりしているが、ありゃ聞けば聞くほど質問側の浅薄で空疎な揚げ足取りの内容が浮かび上がるだけだから、ここはカッとしないで軽くいなして下さいよ。岡〇とか〇元なんか元閣僚・政務副大臣のくせに恥ずかしくないのかね。
 安部総理は我々と同世代、〇田克也は一つ上。おそらく学業成績は〇田氏のほうが上かもしれないが、志が違っているのだろう。
 僕は特定勢力をケナしている訳ではない。橋下大阪市長や小泉元総理のキレのいいスピーチにも違和感があった。今となっては前者は誰かの悪口、後者は『私が自民党をぶっ潰す。』しか印象に残っていない。まァ、スピーチではないがセントルイスのグレースランドでのプレスリーのモノマネは良く覚えてますけど。

 G7でも堂々と見栄えがいい。がんばれ安部総理
 くどいようですが、日本は戦争なんかやりませんからね。

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『リーマン・ショック直前並み』雑感

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