そこにいた男 Ⅰ
2020 MAY 19 23:23:06 pm by 西 牟呂雄
原部(ばらべ)穣(ゆずる)36歳、妻と二人で東京のマンション暮らしである。商社勤務のサラリーマンで、仕事はそこそこできるだが、酒が好きで酒乱のケがある。原部の運命の歯車は狂うべくしてある日狂った。
週明けの月曜日、酒にしたたかに酔いフラフラとタクシーを降りた途端に酔い過ぎて一瞬どこにいるのか迷って道端に佇んだ。もう道を歩く人もいない。向かいのマンションが原部の自宅があることに気が付いて、渡って帰ろうとすると、突然男が飛び出してこっちに向かって来る。他に人はいない。とっさに酔った足取りで逃げようと踵を返した。
「待てコノヤロウ!」
追ってくる男が叫ぶと車道を横切って走る。そして二車線の車道を渡る寸前に原部が派手に転んでしまった。すると折って来た方の男はそれに躓くように足を取られそのままつんのめってボクッという音を立ててガード・レールに頭から突っ込んだ。
重い打撃音とともに「ガッ」とか「グッ」とかいううめき声が聞こえた。
原部は車道でひどく顔を擦りむいて血まみれの凄まじい形相になっておきあがる。男の方は道端で頭を分離帯の方に向けて転がっている。気が付くと服は転んだ衝撃でところどころ破けたりして乱れている。明らかに原部を狙った突進だった。
そこにタクシーが通りがかって、佇んでいる原部をタクシー待ちと思ったのかハザードを点滅させながら寄せてきた。倒れていた男には気が付かなかったようで、原部のいる少し先に止まった。
「お客さん、乗るなら早く乗ってください」
息の上がっていた原部は途端に酔いが回り、後先考えずにその車に乗り込んだ。
「お客さん、お客さん、つきましたよ」
と起こされてワン・メータ程度の料金を払って降りると持っている金を数えて目に入った看板に駆け込んだ。ここまでは何回もやってしまったことのある酒の上の出来事だった。
翌日、出社しようとしてやめた。一瞬どこかと思ったが、どうやら旅館にいることは分かった。何が起こっているのかサッパリ分からず行っても仕事にならないと考えた。夕べの事ははっきりとは覚えていないが、何かやらかしたような不安が頭を掠めた。そして妻の携帯に連絡だけは入れようとライン通話しようとしたが、繋がらない。というよりスマホが起動しない、どうしたことか。
とスマホでニュースを見て仰天する。
『深夜の殺人事件か マンション街の死角』
「深夜の突然の来客とトラブルになったらしい会社員 原部穣さんがマンション外で事故に会い死亡。現場から逃走した男がいた、という目撃証言もあり何らかの関係があるとみて警察は行方を追っている」
オレが死んだ?冗談じゃない。服を着てラウンジに行き、ちょうど付いていたテレビがワイド・ショーをやっていたのでそれに見入る、そこでもニュースになっていた。キャスターが『現場から立ち去ったタクシーの行方を追っています』等と言っている。少しづつ記憶が蘇った。原部は逃げてきて顔に怪我をしているが、実際には何もしておらず、突然男が襲い掛かってきたのだ。そしてフラフラとタクシーに乗った。
ハッと事の重大さに気が付いて銀行ATMに走った。下ろせない。こんなに早く封鎖されるとは手回しが良すぎないかと思ったが、とにかくダメである。
原部は途方に暮れた。所持金は一万円もない。妻は連絡は取れない。何が起こっているのか。
椎野茂は住み込みで働いている簡易旅館のテレビニュースに見入っていた。ベイ・エリアで起きた事件をワイド・ショーで特集していた。
夜中にご主人が訪ねてきた男と争って死亡。犯人と思しき男を乗せたタクシーを追っている、という内容だ。
掃除の早番で来たおばちゃんが声をかけた。
「おはようございます。椎野さん、夕べは夜中にケガして帰ってきて大丈夫ですか」
「おはよう。うん、もう何ともないよ」
「全然覚えてないんですって。椎野さん休みの時に時々変になって帰って来るって評判ですよ」
「ああ、オレ酒癖ワリーからね」
実は酒癖の問題ではないのだ。酔っ払って寝付けないときにレ〇〇〇ミンという睡眠導入剤を使う癖があって、時々意識を失うことがある。
椎野はこの簡易旅館で去年から週に3日程働いている。この近辺には修学旅行の生徒を泊める安めの旅館がいくつかあったが、少し前から訪日する外国人の宿泊客がその値段の安さから来るようになった。それに対応する人材が全くいなかったため、語学対応する人材を求めていた時に、初めはボランティアとして雇われた。
椎野は英語だけではなく中国語や韓国語、カタコトでロシア語、イタリア語を喋って見せたので社員待遇にしてもらい日払いで手伝っていた。
ただ、働く時は住み込みでほかの手伝いもこなすという条件だったが、問題は出勤が不規則なのだ。一週間もどこかに行っていたりして顔を見せなかったり、或いは一日おきとなったりする。それでも客受けがいいため社長も従業員も大目に見ていた。給料は日給だし、明るくみんなに好かれてもいた。
ここで拾われるまでは失業者だったようだが、過去のことはあまり話さない。犯罪者ではないようなので誰も詮索しなかった。
この日は若いアメリカ人が全く日本の事情を調べもせずに投宿し、これからどうやって観光するのかの相談に乗っているうちに意気投合し、一緒に飲みに行ってしまった。
だが、椎野自身はなぜケガをしたのかは全く記憶に無かった。
原部は、なぜかアメリカ人のカップルと居酒屋で盛り上がっていた。
アメリカ人二人はインドから来日していて、世界一周の新婚旅行なのだそうだ。
偶然原部がかつて赴任していたバンガロールから来たと言う事で大いに話の花が咲いた。
「あのサイババの病院は見てきたか」
「見た見た。びっくりしたよ」
話しながら原部は少し困惑した。なぜならバンガロールの記憶はあるのだが、どこに住み、何の仕事をしていたのかさっぱり思い出せないのだ。
モヤモヤしながらアメリカ人カップルと別れたのだが、二人は『一緒に帰らないのか』と怪訝そうにした。
悪い癖で、眠れるために睡眠導入剤を口にしてから帰宅するのだが、自宅マンション前でハッとした。突然意識がハッキリし、オレはここで死んだことになっているのだと気が付いた。そして歩きながら自分の結婚生活の記憶が殆んどないことに唖然とした。それどころか自分の生い立ちを思い出そうとしているうちに意識が混濁してきた。
椎野は勤務先の旅館のロビーにある週刊誌を目にし、先日テレビで見た深夜の事故の記事を読んでいた。
かの事件は意外な展開を見せ、格好のワイドショーのネタにもなっていたのだ。
事件の直後は、亡くなった原部さんの奥さんがここのところストーカーに悩まされており、事件当日はそのストーカーがマンションの前に現れたため原部氏が追いかけて事故に会い死亡した、という報道だった。
ところが一週間もしないうちに風向きが変わってきた。
曰く、被害者の奥さんであるA子さんは原部氏に隠れてズーッと付き合っていた浮気相手がおり、被害者の出張の多いことをいいことに自宅マンションでの密会を重ねていたらしい、と。そしてその浮気相手がたまたま被害者がいるときに訪ねてきたためにトラブルとなり、事故に遭ってしまったのだ、と。ストーカーという情報は本人からのカバー・ストーリーとしてリークされた、つまり嘘だ、と。
何とも気分の悪い話に不愉快になりながら、椎野はしきりに顔のケガが気になった。どこでやったか分からないが擦りむいた後が赤く瘡蓋のようで見苦しい。
その時、つけっぱなしにしてあるテレビから速報のテロップが出た。
「警察は先日の深夜に起きた事故で現場からタクシーで去って行った不審な男について、タクシー会社から提供されたドラオヴ・レコーダーの映像を公開することにしました」
ブレイキング・ニュースで画面が変わると『あっ!』と声を上げた。映しdされたのは明らかに自分の顔だからだ。
同時に数名の男と制服警官が入り口から入って来た。受付に向かっていたのだが、ロビーにいる椎野に気が付いてドカドカと向かってきた。
「椎野茂だな。原部穣さん死亡の件で任意同行頂く」
えっ、今ニュースで言っていた件か。オレの顔が出たけど何も関係ないぞ。
「わたし、椎野ですけど・・。何の話ですか」
「言い分は署でいくらでも聞いてやる。とにかくおとなしく同行しろ。逆らうと余計罪が疑われるぞ」
高圧的な態度に呆気に取られているうちパトカーに乗せられてしまった。
つづく
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