Sonar Members Club No.36

カテゴリー: 小倉記 東京より愛を込めて

小倉記 町起こし編

2016 SEP 3 3:03:02 am by 西 牟呂雄

 実に九ヶ月ぶりに小倉に行った。
 東京は台風に見舞われたが、こっちは随分雨が降ってないらしい。
 小倉駅南口ではすぐ側の元郵便局のあたりで割りと大きなスペースが再開発されていた。しかし・・。
 この街にいたのも5年前だった。産業遺構が世界遺産になり、遊園地もあり、お城も歴史もあり、祭りも文化もあるのだが、寂れる一方なのはどうしたことか。場所柄半島にも近く、北九州空港は国際空港でもある。
 飲んだくれていた懐かしい小倉の繁華街で酔い痴れながら話をしていると、警察と対峙していた武闘派のK会も頂上作戦が効いてかなり弱体化したとか。
 
 パンチ・パーマ発祥の地、バナナの叩き売り発祥の地、アーケード発祥の地、競輪発祥の地、色々あるがあんまり自慢できるものではない。バブルの申し子丸源ビルもスタートは小倉だった。風俗なんかは至って昔風。
 つらつら思うに石炭等基幹産業の全盛時代が過ぎて以来何をやってもダメなのだ。色々と考えてやったのだろうが、どうも〝落ち目″感がぬぐえない。
 関係者の努力は認める所だが、なぜそうなのかを考察すると・・・。
 どうも町起こしに対する姿勢が行政も企業も『上から目線』だったのではないのか。マラソン大会もやっていたが、市の偉い人なんかが出て来ると〝やらされ感″が漂ってしまう。
 小倉祇園太鼓を見ていた時に、ねぐらにしていた半旅館(単身赴任者専用の寮みたいなところ)のおかみさんが嘆いていた。
「前にK会が祭りを仕切っていた時はそりゃー賑やかなもんでした。」
 僕は暴力団は肯定していないが、祭りとテキ屋は不可分の文化。ただ小倉にいた時は恐かった。通っていたスナックの隣に火炎瓶が投げられたりしたが犯人は挙がらない。
 
 結局ダメになっていくものにすがっていては上手くいかない。別に根こそぎにしなくてもいいが『全取替え』の気迫で当たらなければ。それも民間が。
 一方ここは行政としても判断が難しいが、例えば人口が半分になっても食っていけるような(財政が黒字化できる)施策が望ましい。無駄なインフラは維持管理だけでもコストがかさむばかりである。
 キーワードは中小企業と規制緩和と考えている。
 北九州空港のひろい滑走路跡に倉庫やら何やらが立ち始めた。物流基地に持っていくのか。それならば消費を上げる。消費を上げるのはカジノが一番いい。ここは規制緩和だ。
 洋上の北九州空港の空き地を解放して、カジノ&バクガイ・ランドにする。爆買いは下火?富裕層を呼べ。元でもウォンでも何でも使え。
 祭りの間は地域限定で消費税減免の商品券をバラまいてギャンブルでも風俗でもホスト・クラブでも使えるようにしろ(これなら野党も賛成する)。
 無駄でシケたハコモノで医師常駐の大麻解放区にして合法特区にしろ(ケシの阿片と覚醒剤はダメ。この違い分かって)。これにはスペースが必要だぞ。遊園地の跡地が最適。
 従業員30人以下の中小企業から税金を取るな(事務的には難しいに決まってる)。
 自動運転の軽自動車を各住宅街まで往復させて夜中帰りを心配することなく酒を飲ませろ(酔っ払い運転防止にもなる)。

 まっ早く見切りを付けて年寄りの消費を喚起することですな。

 

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小倉記 再会編

2015 APR 20 20:20:33 pm by 西 牟呂雄

  門司の北端、すなわち九州の北端に和布刈(めかり)神事で名高い『和布刈神社』があり、その一角は割に由緒ある料亭になっています。和布刈神事は厳冬の旧暦元旦の深夜に神職が関門の海に入って、松明に手鎌でワカメを刈り取る儀式のことで、和銅時代には朝廷に献上もした由緒ある行事です。
 この料亭でメシを食っていて気付きました。関門海峡は西にむかって一度蛇行して小倉の方へ曲がりS字のように玄界灘に通じます。夕陽を眺めながら飲んでいますと、何と九州から見る夕日が本州に落ちていくのです。正確には彦島ですね。馬関戦争でやられた後、危うく香港のように外国領土になりかけたのを、高杉晋作がツベコベ言って何とか繋ぎとめました。高杉晋作はあの写真の顔があまり好きになれないのですが(ファンの方ごめんなさい)大したものです。
 私の知り合いに元小倉藩士の子孫がいて、大変変わった苗字です。小倉城主は礼法宗家の小笠原氏ですが、信濃から国替えでやって来た時に藩主に付いて来た一族です。その彼、幕末の長州戦争・小倉口の戦いで高杉晋作の部隊に軽く負けたことを今でも恥じていて『博多の黒田が助けに来るはずが裏切られて負けた。』と黒田藩を逆恨みしています。恨むなら奇兵隊を率いた高杉を恨みなさいよ、といったところなのに。

 ところで小倉に行きまして。インド人とドイツ人が一緒に来るという奇怪な日程にあわてて足を延ばし再会しました。連中とは10ヶ月ぶりですかね。両人とも実は偉い人で大金持ちです。そしてなかなかのタフ・ネゴシエーター、尚且つユーモリストでもあります。
 話していると、ドイツ人のここ一番の集中力とインド人の譲らなさにはしばしば『もう分かった。』と妥協しかけたものの、黙り込むのも技の内。
 その後食事にディナーに誘うとにこやかに応じてくれました。ただインドの方はビーフはだめです。『ヒンドゥーか?』と聞くと『私はブラマンだからね。』とウィンク。初めは何のことかわからなかったのですが、これ日本ではバラモンと教えられた最上位カーストのことでした。彼は上級バラモンで先祖以来ビジネスに手を染めたのは父親の代からだそうです。さすがに肌は黒いのですがジョニー・デップに似た男前。
 彼の地元に行った時にまるで国会議事堂のような建物がありましたが、なんとあのサイババが建てた病院でした。もう亡くなった有名なサイババは初代サイババの生まれ変わりと称していて、ただ彼の説明では初代は元々イスラムの異端で、あんなものニセに決まっているといっていましたね。どうでもいいけど。
 ドイツ人はデカくてゴツくて、昔のサッカー・ナショナル・チームにいた名キーパー、オリバー・カーンにそっくりで強そう。アジア中にビジネス・ユニットがある連中だから日本食もお箸も慣れたものでした。最後の桜に喜んで携帯でたくさん写していました。
 それで食事した後にカラオケに連れていくと、奴等面白がっていましたねぇ。
 カラオケは英語縛りでやりましたが、彼らはビートルズ、私はプレスリーばかり。インド人はパフォーマンスはよかったがリズム音痴というやつで歌が合いません。ドイツ人は真面目にやり過ぎてビートルズというより男性バロック音楽のコーラスみたいになってしまいました。
 このドイツ人はお母さんが先日 国境を考える Ⅱ で書いたカリーニングラード(旧ケーニヒス・ベルグ)の出身でした。ここの出身者の話になってイマニュエル・カントやオイラーの名前を出したら『よく知ってるな』と受けました。
 二日の話し合いでおぼろげながら着地点が見えてくるのですが、その後のスケジュール感が微妙に違う。ドイツ人はここから加速するように次々と目標を前倒しにしようとします。インド人は『これからのインドは凄いことになる。中国なんか問題にならない。』と張り切ります。日本側のハラが試されることでしょう。

 ところで、帰る時に以前九州で研修していたロシア人とバッタリ羽田で会ってビックリ。別のプラント・メーカーと商談していたそうで(私の件とは別に)旧交を温めたのですが、始めに『ヴィー・ゲート・イーネン(数少ない使えるドイツ語)』とやってしまい怪訝な顔をされました。ここはロシア語で『カクダィラ』と聞くべきでした。
 別れ際にはカンが戻って『ダスヴィダーニャ』がスッと出ましたが付け焼刃ではこんなもの、まだまだですな。
 
世界は狭い!

インド高原までやってきた


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小倉記 (これはどうしたことか編) 

2015 FEB 28 15:15:05 pm by 西 牟呂雄

 ちょっとした用事で又小倉に寄った。飲みに出てビックリしたが、3人一組で夜中まで繁華街を練り歩いていた機動隊員がすっかりいなくなっていた。どうも今年から原隊に帰ったらしい。かの武闘派K会のNO3まで逮捕されて『じぇったい何かあるばい。』と噂されたが何も起こらないので警戒態勢を解いたそうだ。去年までは駅の側のビジネスホテルの大浴場ではガタイのでかい強そうなのがワサワサ入ってきていたのが、一転ガラガラ。あれは長期出張で来ていた他県の機動隊員だったのだ。
 K会は堅気にはほとんど手を出さないからやられた方も訳アリなのが多いが、飲み屋に火炎瓶には実際怖かった。しかし、それによって繁華街に賑わいが戻ったとか寂れたとかはない(本当は機動隊員が回ってくれると安心ですがね)。
 別に僕は暴力団肯定論者じゃないですよ、断っておきますが。
 寒い小倉の立ち飲み屋でガバガバ飲んでオヤジギャグに酔い痴れてから、仲間とカラオケに興じた。以前であれば軍歌バーで歌に合わせて腕立て伏せやスクワットで暴れていたが、そこが潰れたので健全なカラオケルームに行った。結構広い部屋に通された。
 ところが例によって酒池地獄に浸かっている内に得体の知れない何かが脳内に分泌されてしまい、レパートリーでも何でもない石川さゆりの『天城越え』を字幕を見ながら英語に直訳するという離れ業ができた。その前にブルーハーツや忌野清志郎の激しいヤツを歌ったのが悪かったのか。この歌のオケにジャマイカ・ヴァージョンというのがあったので面白がって入れたところ、レゲェ風のアレンジで以外とノリが良かったのだ。『残り香』なんかどういう単語にしたのか全く覚えていないが、最後の『天城~越~え~』の所を『Go ahead AMAGI』とやったのだけは覚えている。おそらく歌詞をテキトーに概略だけ意訳して知りうる英単語を当てはめただけだろう。受けたことは受けたがもう一度やれ、と言われても多分できない。更にその場に素面のアメリカ人がいたら到底何を言っているのか分からなかったに違いない。
 その後はギトギトの豚骨ニンニク・ラーメンを食べて帰った。

 翌日ひどい二日酔いに見舞われたがあのレゲェのリズムだけが頭の中でガンガン鳴っていて、夕方まで水一滴も喉を通らなかった。
 空は相変わらずの厳しい曇天で玄界灘の上は真っ暗に近い。

という訳で中島さん、今回は博多までたどり着けませんでした。またよろしくお願いします❗️
 
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小倉記 別府 さけいけにくばやし 編

2014 DEC 15 20:20:03 pm by 西 牟呂雄

 忘年会を別府でやった。関東近辺でも昔は会社とか団体で熱海あたりに繰り出してはドンチャン騒ぎをやっていたのだが、昨今はすっかりそういったムキは減り、せっかくの機会だから小倉から別府までわざわざ行って宴会をやったのだ。昼前の特急ソニックに乗ってエッサエッサと出発。古式に則って缶ビールをジャカジャカ開け早速盛り上がった。
 実は小倉時代には九州の温泉は随分と行ったのだがズバリ別府というのは初めてで、それだけでウキウキする。僕の単純なところだ。源泉数・湧出量ともに日本一である。別府八湯とも言われる広大なエリアで地獄巡り等も有名なのだが・・・。
 別府に着くころには当然のごとく全員が酔っ払ってしまった。頼りになるのは元々飲めない者二人なのだが、アミダクジで部屋割りをしたりその勢いでドボドボ温泉に飛び込んだりしていると、何も観光していないうちに夕食の時間になってしまった。しかもこの日は物凄く寒かった。さすがに別府のお湯はなかなか熱い。長く入っていられないので何回も出たり暖まったりしたところ、胃の中に残っていた焼酎がガンガン廻って気持ち悪くなってしまった。

 夕食は『コ』の字型にお膳が並べられた大広間で、正しく『カンパーイ』の声が掛かって始められた。コンパニオンなんかを呼ぶ余裕は無いから、仲居のオバチャンと掛け合い漫才をしたり、焼酎をつくる若い人が走り回ったりしているうちにだんだん声がデカくなる。バカ笑いもあがる。はじっこのほうでモメ事が始まる。何も別府名物の地獄巡りに行かなくても、十分に酒池(さけいけ)地獄にドップリ浸かっているのだ。
 その次は徒党を組んでの肉林のはずが、食後にもう一度浸かった温泉で昇天してしまい、旅館から出ることはなかった。

 さて全員二日酔いで朝起きると、遠く大分の山は冠雪しているではないか。この日は選挙で東京まで新幹線で行くのに大丈夫か、と不安がよぎる。小倉でちょうど良く乗れたのぞみの自由席で缶ビールを空けて睡眠導入剤〇〇スリーを飲んだ。これ、お医者様からは止めたほうがいいとは言われていたが、二日酔いに耐え切れずやってしまった。以前ロシア行きの飛行機でこれをやってヘロヘロになり、キャビンを徘徊したことがある。今回はウトウトするくらいで助かった。次に気が付いたのは関が原あたりで、大雪の光景に目が点。
 東京駅に着いたら上越新幹線が雪で何時間も止まったようで、払い戻しの人がごったがえしていて又ビックリ。

 帰宅後、国民の権利とばかりにセッセと投票に行きましたとさ。結果比例復活が効いて対立候補は二人とも(共産党除く)議員になってしまい、目出度いのか何か知らんが損した気分になった。

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小倉記 博多泥酔編

2014 DEC 14 17:17:50 pm by 西 牟呂雄

 実に1年振りくらいに関門海峡を越えたのだが、北九州の冬らしく初雪(みぞれ?)も降りゴーンと冷えた時期に当たってしまった。いつもと違うのは我がSMCの同朋中島兄と一席一緒に囲んだのだ。
 今回は新幹線で小倉を通り過ぎ博多に降りた。小倉時代は温泉めぐりはしたが、観光目的で博多に行った事はない。考えてみればもったいない話だが近すぎるのだ。東京からわざわざ横浜まで飲みに行かない、といった感じか
 中島兄は秋口のライヴでお目にかかったが、実に多彩な音楽談義を楽しめた。どうもワタシの方が若干ヤンキーっぽい道を辿ったようだった。水炊き発祥の地で博多の味を堪能させて頂いた。中島さんは酒も強く、二人でカルーく焼酎を一本飲んでしまい、コメントした通り帰りには新幹線で寝て広島で目覚めるという危ない橋を渡った。

 楽しく酔っ払った後にトボトボ歩いていたらみぞれ交じりになった。これ、実にシミジミするモンですな。翌日は例の二色刷りの小倉の空で、玄界灘の方は真っ暗だった。

 さびしいなと 口に出してみる みぞれ空  夜長の冬の 寒き 旅先

 こう詠みつつ又飲みには行くのだが、小倉の繁華街は相変わらず3人一組の機動隊員が見回りをしていて、安全は確保されてはいるものの不気味ではある。k會はNO1・2・3が挙げられて本部も使用できないらしい。このまま引き下がるとも思えないのだが警察も引くに引けない。
 別にそのせいじゃないが、あしたは忘年会に別府まで繰り出す。温泉が楽しみだ。
 

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小倉記外伝 友よ何処に

2013 SEP 11 9:09:33 am by 西 牟呂雄

 この夏の終わりに、身辺整理(女の問題や借金ではない)に小倉に行った。そして工場を訪ねてみると何か様子がおかしい。強い日差しの中、工場裏の堤防に上ってみたが相変わらずの流れで潮が引いていた。打ち合わせをかたずけて、さぁ飲みに行くかとなったので、広い敷地を歩いてみたが画龍点晴を欠く感のまま、駅前の立ち飲み屋に流れた。九州は東京標準と比べると日暮れが小1時間遅れるから、昼からだらしなく酔っ払っているオヤジ風情と変らない。

 北九州は鉄の街。街自体が鉄鋼カレンダーで動く。今は車通勤が普通になったので大分廃れたのだが、通勤帰りに駅前の酒屋とか焼き鳥屋で立ったまま一杯引っかけるのが習慣としてある、朝からだ。即ち製鉄業は24時間3交代で土日も動くから、夜勤(丙番という、炭坑だと三番方)明けの帰りにビールとか焼酎・日本酒をガッとやって帰って寝る。これを『角打ち(かくうち)』と称する。焼酎を升にいっぱい入れて角から啜るところから来たらしい。だから小倉、戸畑、八幡の駅のそばにはツウならばすぐそれとわかる店があって、立ち飲みする光景に違和感は全くない。それでこの場合は健全に夕方だが4~5人のおやじが焼き鳥でジョッキを傾けることになる。行きつけの某駅前飲み屋は荒っぽいところで、ビールに飽きて焼酎ロックに変えると、そのジョッキに氷を口まで入れてガバッと焼酎で満たしてくれる。2~3杯飲めばタチの悪い酔っ払いの出来上がりだ。

 ところで、夜勤勤めというのもシロウトがやるとかなり堪える。特に夏場は暑くて昼間にうまく寝られず、職場に行ってもボケーッとしてしまうのだ。学生時代に連日徹夜で麻雀をして鍛えたつもりになっている奴がまずバテる。寝損なって晩飯にビールを飲んで使い物にならない、なんてことになりかねない。コツは午前中だけ寝て、午後6~8時頃にもう一度ウトウトしてから丙番に入ることだ。だから夜勤番の時はあまり遊んだりしないで過ごすのがプロ。

 新入社員時に転炉という精錬工程で交代勤務をしていた。小学校の教室くらいある炉に300Tの溶けた銑鉄を入れ、純酸素を吹き付けてカーボンを飛ばす、熱く重く巨大な設備だった。とある夜勤の明け方にちょっとしたトラブルがあった。この交代勤務は自然と各番のライバル意識が芽生えるもので、トラブルを処理できずに次の番にハンドル交代することは恥の中の恥とされた。腕が悪いと言わせてなるものか、の気迫が満ちていて現場は実際火の粉の飛び交う戦場のようになった。無論役立たずの僕は少し離れてオロオロするばかりだったが、朝日の中を後番の棒芯(番方の大親分)がノッシノッシと歩いてきた。そして鬼の様な形相になって指揮を取る僕の番の棒芯ににっこり笑いながら大音声で呼びかけた。

「なぁーもあわとっこつなか!(何も慌てること無い。なか は か↑と上がる)前番ははよー帰えりんしゃい。」

この一言で我に帰ったか手じまいを始め、やっとハンドル交代ができたのだ。後番の棒芯、駆け出したいような喧噪の中のあのノッシノッシはわざとやったに違いないと僕は睨んでいる。現場魂を見せつけられ、なかなかの人物がいるもんだと感心したものだ。

 さて酔いも廻った頃合いにハッと気がついた。チビがいなかった。あいつどうしたの、と聞くとギトギトの酔っ払い達の表情が曇った。盆明けに来てみたら姿が消えていたそうだ。犬というものは死期を悟ると屍をさらさずにどこかに死に場所を求める、という話を聞いたことがある。以前の小倉記に「犬には死ぬという概念が無いんじゃなかろうか」などと書いた僕は密かに自分を恥じた。

 仲良くなってから、しゃがみ込んでチビに良く話しかけていた。「オレも一人でこっちに来てるんだよ。」とか言うと、チビは「それがどうした。」といった感じでそっぽを向くので気が楽になった覚えがある。その仕草にずいぶんと慰められたものだった。ただ、オッサンと犬の会話というのは全く絵にならない。一度女子社員がその光景を見て、吹き出しながら走り去ったことがある。

 最悪のシナリオはうっかりヨタヨタと工場から外に出て、車かなんかに跳ねられ、市役所が死骸を処理してしまった、という哀れなケース。どうやら年を取りすぎて目も悪く耳も遠かったらしいので、テリトリーを出るとヤバかったらしい。普段は陽気な同僚も『最悪』だけは勘弁して欲しいと言って、しんみりしてしまった。

「まぁあいつのことだから、又どこかの工場で番犬代わりに元気でやってるだろう。今頃は別の名前になってたりして、ヨボとか。カラオケ行こうぜ。!」

 チビよ、僕は君を忘れない。ありがとう。

 

小倉記 秋・古代編


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小倉記 さらば小倉・さらばエカテリンブルグ編

2013 SEP 3 18:18:25 pm by 西 牟呂雄

一年と少し小倉に住んだが仕事も一段落、流れ者としてはケジメをつける意味で都に帰ることにした。感慨は特にない。心残りは日本初の工場犬チビとの別れだが、アイツの残り少ない犬生を見届けられないのは残念だ。死んだ後、工場の一角にでも埋めてやろうなどと考えるのは守衛のおじさんと僕くらいだから、どこかでゴミにされたりしたら浮かばれない。

もう一つ、小倉の軍歌バー『予科練』も寂しがってくれるだろう。実に怪しげな店だった。例によって酔っ払って帰る時に旭日旗の看板に気付き思わず入ってしまったが、水兵服のジイサマとモンペ姿のバアサマがいて、ガンガン軍歌をかけていた。付け出しは乾パンと金平糖。因みに僕の親父(2013年時点85才)は旧海軍兵学校の出身で同期会の会長をやっている。本人は「世が世であれば聯合艦隊司令長官。」と大はしゃぎしていたが、一般に旧海軍はクラス会が盛んで、関係各種学校の同期会は今でも集まっては「貴様元気だったか。」と軍歌演習に励む。それで知らず知らずの内に僕や僕の息子にまで伝染し、息子に至っては子供の頃から大のゼロ戦ファンになってしまった。その手の話をその『予科練』でひけらかしていたら、『提督』などと呼ばれて調子に乗っていた。後日その話を親父にしたところ「お前のようなシロートが提督とは怪しからん。オレが行って本物を見せてやる。」と烈火のごとく怒り狂った。不思議なことにいつ行っても他に客がいたことがなく、そのせいか勘定はバカ高かった。

ところでアベノミクスもいいのだが、製造業の現場までは半年・1年もタイムラグがあるから、年度変りになっていよいよ工場を臨時休止せざるを得なくなった。実体経済はやはり設備投資と物流だからまだまだ耐える期間ということでしかない。工場を止めると月に2回程3連休になってしまうのだが、それは悲惨な暮らしだった。何しろ単身赴任だから、掃除・洗濯をやり尽くし、朝から酒を飲んだりしては昼夜逆転になってしまう。テレビはBSの洋画がつけっぱなしで、誰とも会話しないから英語ばかり聞いていると3日目には今どこにいるのか分らないような錯覚症状を起こす。その間食事なんかカップ麺かコンビニおにぎりが1日に2回程度だから体に悪いなんてもんじゃない。ヘトヘトになって連休を乗り切り月曜日に出勤するという本末転倒の極みになってしまった。それやこれやで都(みやこ)に舞い戻ることを決心したのだが。

ところがその都たるや、チョットいなかっただけで東横線の渋谷駅は地下にもぐり、吉祥寺駅は工事中、赤プリは影も形も無くなった。小倉が疲弊しているというのにこれは何だ。東京駅周辺に至っては再開発だらけで壊すわ建てるわ、政権交代ねじれ解消で破れかぶれになった都が発狂したようだ。オリンピックもまだ先なのに、もはや僕の時代は過ぎ去って早くも引退モードに入れ、という例の天の声が聞こえそうだ。

さらばついでに、直近に訪問したロシアの旅を紹介しよう。前回は二月に行って零下30度と冬将軍に痛めつけられたので夏場にしてもらった。すると今度は白夜。夜の八時なんかはカンカン照りだった。

訪ねたのはエカテリンブルグという百万都市。何しろあの国土に一億四千万人しかいないからスベルドロフスク州では抜きん出た都会となる。この前隕石が落ちた所から約百キロ、モスクワからは千七百キロ(飛行機で2時間、時差も2時間)、この街から東をシベリア、西をヨーロッパ、即ちヨーロッパの最東端に当たる。ちゃんとそれを表示したオベリスクが立っていて、まぁ田舎なんですな。このヨーロッパという概念はどうも白人・キリスト教徒には大変な重みがあるようで、ロシア全体を何とかそちらの方にくっつけていたい、と思わせるアイデンティティーになっているようだ。余談だが革命時に最後のロマノフ、ニコライ二世と一家が皆殺しになったのもこの街で、惨殺現場に教会をたてたのがエリツイン。

ここら辺のロシア人の感覚は百キロ二百キロはちょっと隣町のノリで、レセプションのある隣町の工場が二百キロ離れていた。道路は良く整備されたフリーウエイのような幹線道路が、時に地平線までまっすぐに続く。とにかく人なんか住んでないのだから地形を縫うようにサッと線を引けば計画ができる、という感じ。但し冬の間もスパイクを履いた重量トラックが猛スピードで走るから傷みはひどい。

このエリアでの事業は日系の例があまりなく、レセプションには地元政府の要人(州副知事)、製鉄会社社長、に加え恐れ多くも日本大使館から公使閣下・審議官殿・三等書記官様のご一行の臨席も賜った。時間も有ったので市内見学と称して古い製鉄所の跡地を見学したが、驚いたのなんの。高炉モニュメントは18世紀、前世紀の遺物とも言うべき反射炉(通訳の人は平炉と訳したが構造から見て、鹿児島や韮山にある反射炉)に至っては19世紀からつい40年前まで使われていたそうだ。よほど原料の純度が高いのでこんな設備でもそれなりの歩留りがとれたのか、或いは旧社会主義体制には償却の概念が無かったそうだから、使い物にならなくなるまでやめられないシステムだったのか。

だが一番大きな理由は、タダ同然の土地がいくらでもあるので、壊すにも金が掛かるからほったらかしにしてハイお次、とばかりにサッサと別の所に造っちまえとなったのではないだろうか。これは中国なんかでもそうで、新規高層建築の隣で経営者が夜逃げした草ボウボウの立派な工場なんかザラにある。僕が以前やっていた工場の隣のビルは農民工の寮になっていたっけ。

レセプションの後、エカテリンブルグまで戻り保養所のような所に泊まった。ところが白夜なものだから夜8時位までサッカーをして遊んだりするのだ。これもロシア流の歓迎と喜びの証、とつきあったがそれだけじゃない。10時頃からはウオッカをやりながらサウナに入り水風呂に飛び込むといった難行苦行が続く。ただ、感じたのは彼等タフネゴの時とは別人のようなしみ通るような笑顔でもてなす。ひょっとすると義理人情の世界が透けて見える気がするのだが。

翌日はエカテリンブルグ市内でさる展示会の打ち上げの市長主催のパーティーにも招待された。かなりの大規模な立食ガーデン・パーティー形式で、バンドが入り大賑わいだった。圧倒的に目を引いたのは案内役のプロポーション抜群のホステス達で、棒高跳びのイシンバエアやテニスのシャラポア並みの美人がゾロリと立っている。いやはや街中にウジャウジャいたデブのオバさんとは別の民族なんだろう、きっと。又、会場をヒラヒラ歩いている人形のようなメイクの妖精コスチュームの女性にも驚いた。何というのかピッタリした素材に等高線のような縞模様のデザインで、小柄ながらこれまた均整のとれたボディラインを、新体操のような振り付けでヒラリヒラリと歩いている。一言も発しないので何か食べているときに隣に来られるとビックリという嗜好だ。もう一つ、大きなエアドームがあって、なぜかアフリカ館になっていた。中には各国のブースがズラリ。英語・フランス語・現地語が飛び交ってワンワンとうるさい位だった。そこで何を商談しているのかは展示も無くさっぱり分らない。一回りしてハッツとしたのだが、これはロビー活動なのではないか。

実はエカテリンブルグは2018年サッカー・ワールドカップと2020年万国博覧会に名乗りを挙げていて街中にはポスターがたくさん貼ってあった。誘致をする際にはかなり荒っぽいことが行われていることが知られているが、まとめてご招待ならば腑に落ちる。その裏では更にそのぅ・・・・。これは大変だ・・、PM10時過ぎにやっと暮れゆくユーラシアの真ん中で、僕は新たな躍動感に包まれたような気がした、密かに力こぶを造ってみた。

と言う訳で小倉記はこれを持って終わります。次のシリーズで又、ダスビダーニャ!

 

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あいや御同輩、いやさお若えの

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