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日独を結んだ潜水艦・深海の使者たちその①

2017 FEB 28 5:05:02 am by 野村 和寿

ドイツ大使館・総領事館のホームページ「日独交流150年の歴史」(文:上智大学准教授スヴェン・サーラ氏 訳ドイツ大使館岩村偉史氏)に興味深いことが載っていました。「日独関係は軍事同盟へと進展していき、日独伊三国同盟(1940年)と1942年の軍事協定により頂点に達します。しかしながら、戦争中に日独が実際に協力しあうことはありませんでした。両国の政治指導部は互いに相手に対してむしろ懐疑的で、軍事同盟はまず第一に宣伝手段としての役目を果たしていたのです。ドイツと日本は別々に戦争を行い、そしてドイツ帝国は1945年5月8日に、日本は1945年9月2日にそれぞれ別々に降伏しました。ちょうど6年前にドイツがポーランドに侵攻したのとほぼ同じ日に、第二次世界大戦が終わりました。2800人にふくれあがった在留ドイツ人社会では(オランダ領東インドからの避難民約700人と海軍兵士500人を含む)その大部分がドイツに強制送還されましたが、ドイツにいた日本人たちも同様でした。」(太字・本ブログ)

ボクは、学校のときに、第2次世界大戦では、日本とドイツは日独伊三国同盟で連合国と戦ったと常に教えられてきました。ところが、上記の赤字は、日本とドイツは別々に戦争したのであって、特に協力しなかったとあります。確かに、最近の歴史学では、三国同盟はほとんど戦略的に機能することはなかったという説が有力なのです。

そこで、頭に浮かんだのが、吉村昭『深海の使者』(1973年)です。

吉村昭(1927−2006年)は、『戦艦武蔵』をはじめ、単なる戦記物とは内容を異にし、徹底した取材によって得られたデータを元に下ノンフィクションで著作する作家です。そこで、日本とドイツの間を、第2次大戦中に、主に潜水艦での交流を調べてみることにしました。

日本には、長距離の航行が可能な潜水艦がありました。イ号潜水艦です。海中深く潜行し、主に、現在のマレーシアにあった日本海軍基地ペナンを出港し速力12−16ノットで印度洋を南下、喜望峰からアフリカ大西洋に入り、一路ドイツを目指しました。訳66日かけて、ドイツ占領下のロリアン、ブレスト軍港に入港するという計画でした。夜間は水上航行、昼間は深海深く水中航行をするということを繰り返しました。乗員たちは10時間以上にもおよぶ潜行で酸素の欠乏と炭酸ガスの増大にもよく耐えました。

ここに『深海の使者』に登場する潜水艦の日本とドイツ1万5千浬を海中深く潜行した潜水艦を紹介します。始まったのは昭和17年4月11日に呉軍港を出港したイ号第三十潜水艦です。途中、現在のマレーシアの日本海軍基地であったペナンで燃料補給をし、それから一路欧州を目指しました。約4ヶ月かけて、ドイツが当時占領していた旧フランス領ロリアン軍港に到着。帰途は8月22日ロリアン軍港出港し、行きと全く反対の経路をたどりつつ、10月8日に無事ペナンに入港したのですが、指揮命令系統の混乱と多少の到達の気の緩みも正直あったのかもしれません。日本帰港をめざした矢先、10月13日にイギリス海軍の敷設した機雷に触れて、シンガポール沖で沈没しました。往復はしたのですが、まったく惜しいところで生還を逃してしまいました。

0227日独1

第2次世界大戦時の日本とドイツの交流 その1です。

日独2

第2次世界大戦時の日本とドイツの交流その2です。

イ号第八潜水艦

昭和18年6月1日呉軍港出港、8月31日旧フランス領ブレスト軍港到着、10月5日ブレスト出港、12月21日呉軍港入港 日独往復した唯一の日本海軍潜水艦

日本とドイツの間の往復に成功した潜水艦は、日本側では1隻だけありました。イ号第八潜水艦です。昭和18年6月1日に呉軍港を出港し、シンガポール、セレター軍港で、燃料補給を受け、60数日かけて、8月31日無事ドイツ軍の旧フランス了ブレスト軍港に到着、10月5日ブレスト軍港を出港し、12月5日シンガポール水道にあるセレター軍港に入港、12月21日午後無事呉軍港に帰港しました。

イ号第八潜水艦は、昭和6月1日呉軍港を出港し、約3ヶ月後8月31日旧フランス領ブレスト軍港に入港した。

ドイツから日本へむけてUボートでの交流も行われました。

ドイツ潜水艦U511は1944年3月30日 ドイツ軍旧フランス領ブレスト出港、7月15日に現在のマレーシア 日本海軍ペナン基地に入港し、8月6日に無事呉軍港に到着しました。U511はその後、日本海軍に譲渡され「さつき1号」と呼称されました。

ドイツ海軍UボートU511は1943年5月6日ブレストを出港、8月6日呉軍港入港し、日本海軍さつき1号呂号第五百潜水艦と改称された。

イタリアからも潜水艦が日本に向かいました。

ルイージ・トレッリ号

イタリア潜水艦ルイージ・トレッリ号は1943年6月16日フランス・ボルドー出港、8月26日スマトラ島サバン入港 イタリア降伏後、ドイツUIT25そしてイ号五百四潜水艦となり終戦まで生き残った。

4隻向かったのですが、そのうちの1隻は、日本に到着しています。ルイージ・トレッリ号がその潜水艦で、1943年6月16日に旧フランス領ボルドー海軍基地を出港し、8月26日スマトラ島の日本海軍基地サバンに無事入港、8月30日にシンガポール港を出港し、日本に回航されました。途中でイタリアが連合国側に降伏したために、9月にドイツ海軍が本船を拿捕し、名前をドイツ海軍UIT25と改称。日本到着日時は不明ですが、確かに日本に到着しています。昭和20年5月8日にドイツ軍が降伏すると、今度は、日本海軍に接収され、イ号第五百四潜水艦と改称されました。ちなみに本船は、昭和20年の終戦時、三菱神戸造船所で修繕中でした。イタリア・ドイツ・日本と3国を渡り歩いた戦後まで生き延びた数少ない潜水艦ということができます。昭和21年4月16日に、紀伊水道で、米国海軍によって処分されました。

最初のドイツ大使館の言説とは異なり、非常に微々たる交流ではありましたが、確かに、日本とドイツは物資、技術の上でも軍事的な交流があったことがわかります。この項目つづきます。

 

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