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北方領土の私的検証(その8)サンフランシスコ講和会議後の動き

2019 JAN 28 11:11:41 am by 野村 和寿

前回は、1951年9月4-8日のサンフランシスコ講和会議における吉田全権の受諾演説のところまででした。今回はその続きです。

その前に日本では、1950年3月8日 衆議院外務委員会で、「千島列島の範囲」についての質疑が行われています。
浦口鉄男議員(野党・立憲義正會)の、千島列島の範囲について政府への質問に答えて政府委員の島津久大(ひさなが 生年1906-没年1990年)政務局長は、
「1875年締結された樺太千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)で列挙
されている18島とは北千島である」と答弁しています。北千島とは千島列島全部ではなく、千島列島の北千島・中千島・南千島のなかで、一部という意味です。

また前回までにも登場した登場した西村熊雄条約局長は、
「政府側は一貫して、千島列島は北千島と南千島を含むが、歯舞諸島と色丹島は千島列島に含まない」と答弁しています。ここでは、千島列島には北千島と南千島があって、その千島列島は、サンフランシスコ条約で日本は放棄した、ということになります。

また1951年3月31日衆議院では、「歯舞列島返還懇請に関する決議」を行い歯舞諸島はわが国に返還されるよう懇請決議を行っています。

サンフランシスコ講和会議後に締結された平和条約への日本政府の署名

ここで1951年9月4-8日のサンフランシスコ講和条約に話をもう少し詳しく触れてみましょう。
前回、本稿で問題にしたのは吉田全権演説のなかで、日本は千島諸島についてサンフランシスコ講和条約で千島諸島についての放棄を宣言しました。

ところが、一方で、「千島には北千島と南千島があり、南千島は、古来から日本の領土であること」を吉田全権が強調したくだりでした。これですと、北千島も南千島も千島列島に含まれると全権が宣言してしまったに等しく、ゆえに、
サンフランシスコ講和条約で、千島列島を放棄した日本にとっては、「南千島に属する、国後択捉島もまた放棄した」と、直に読めば解釈できてしまうのです。

後年吉田茂はよほど、この演説に後悔の念があったらしく、講和条約5周年の1956年9月8日付けの産経新聞・時事通信に小文を寄せ「私はダレス氏の示唆にもとづき、会議の演説において択捉・国後両島はいわゆる千島には含まれず外人未住の日本固有の領土なるゆえんを強調した」とあります。しかし、のちに著された「吉田茂回想10年」(1957年中公文庫)では、この部分がそっくり削除されています。

サンフランシスコ講和条約における吉田全権の演説をさらに続けましょう。吉田全権は、この演説の冒頭で、別に、つぎのことを強調しています。
「千島列島および南樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連(グロムイコ)全権の主張は承服いたしかねます。
色丹・歯舞諸島は、日本の本土たる日本の北海道の一部を構成し、択捉、国後両島が日本領であることについては、
帝政ロシアもなんら異議をはさまなかったのであります」と吉田全権は述べました。これは、「千島列島から択捉、国後の2島を除外する法的効果をもつ」とみなすことができる。という解釈が成り立つという主張です。
実際にロシア帝国は1875年(千島樺太交換条約締結)まで国後・択捉島を、ロシア領土と主張していた形跡はありませんでした。

しかし、この吉田全権の演説だけでは、前者の「南千島も千島列島に含まれる」としてしまったので、根拠がいまいち弱いのは否めません。

1951年10月19日 衆議院平和条約におけるサンフランシスコ講和条約(第2条c項(c)「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する)に関する質疑が行われています。
ここでも、クリルアイランド(千島列島)とは一体どこをさすのか、ということを、高倉定助(北海道5区 日本農民党)議員が政府に質問しています。
このなかでも、西村熊雄外務省条約局長・政府委員は、「千島がいずれの地域を指すかという判定は、北千島及び南千島を含む意味と解釈しています」と答弁しています。つまりは、政府は、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島に、国後・択捉島は、含まれるといっているのです。

ここで注目すべきは、1875年と(樺太・千島交換条約)ではなく、
「1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約にたって解釈すべきであり、千島列島は北千島と南千島を含むが、歯舞群島と色丹島は含まない」との政府答弁をしています。

また1953年7月7日および11月7日の衆議院「領土に関する決議」
でも、歯舞諸島、色丹島の領土返還要求をしており、少なくとも1953年まで、
日本は「国後・択捉島の返還要求」ではなく、「歯舞諸島・色丹島の2島を返還要求」をしていたことがわかります。

話は少しそれますが、1950年3月8日 衆議院外務委員会で、千島列島の範囲について質問した浦口鉄男(生年1906-没年2005年)議員は
北海道1区選出で、立憲義正會という右翼政党でした。この政党の創始者は、田中 智學です。

晩年喜寿のころの  浦口鉄男氏 2004年 札幌彫刻美術館友の会会報より

1951年10月19日 衆議院平和条約におけるサンフランシスコ講和条約の関する質問した高倉定助(生年1893-没年1965年)議員は
北海道5区 日本農民党から改進党)。ともに北海道選出の野党議員の質問は、現在に至るも必ずと言ってよいほど引用される意味深い質問でした。

ところが、ここで大事件がおきました。しかも、1954年11月17日
「北海道の納沙布岬と歯舞諸島の間の海上で地形観測を行っていたB-29爆撃機がソ連のミグ15戦闘機2機から攻撃を受け別海村(現・別海町)にある農家に墜落し農家は全壊した。この飛行機の乗員は12名で、そのうち10名は無事にパラシュートで降下、1名死亡、1名行方不明となった。」
実は、1952年 歯舞諸島の勇留島付近で初めてソ連軍機に撃墜されるという事件も起こっています。

RB29とMiG15

米軍機以外の国籍不明機(ソ連機)は根室国監視所上空飛行回数は、1951年171機、1952年165機と記録されています。(1953年北海道議会記録による)
ここで驚異深いことがわかりました。北海道野付郡別海村(現別海町)にはなんと、墜落したB29のプロペラブレードが現在も展示されていたのです。
なんと撃墜された在日米軍偵察機RB-29(B29爆撃機を写真偵察用に改良)したプロペラブレードが、現在でも、北海道別海町に野外に展示されていました。下記が別海町教育委員会生涯学習課のHPにありました。

RB29のプロペラがなんと北海道別海町歴史文化遺産になって野外に展示されています。

 

話を元に戻しますと時代は少しあとになりますが、

1957年5月23日 ダレス米国務長官は、1954年11月7日北海道沖におけるソ連軍戦闘機による米軍機撃墜事件の賠償を要求する書簡をソ連に送付しています。
そのなかで、北方4島(国後・択捉、歯舞諸島、色丹島)の日本帰属を明確に認めることで、「北方4島を千島列島に含まれない」ことを、米国は公式に表明したのです。

「米国政府はヤルタ協定、サンフランシスコ講和条約におけるクリール(千島)列島という字句は、従来常に日本本土の一部であり、正義のうえからも日本の主権下にあるべきものと認められる歯舞群島、色丹島または、国後島択捉島を含んでいないし、含むように意図されもしなかったということを繰り返し言明する」
つまり、米ソ対立の激化によって、米国は、国後・択捉島を、日本固有の領土と認めると言明し始めたのです。

そんな折、1955年1月25日 日本と国交のなかったソ連の駐日代表部アンドレイ・ドムニツキーは「ソ連はいつでも日ソ交渉を始める用意がある」
と述べました。
1955年当時、日本とソ連は国交が結ばれていなかっただけでなく、ソ連に抑留されている日本人がまだ1500人もいましたし、
日本の国際連合加入は、ソ連の拒否権行使によって実現せず、法的には、日本とソ連の戦争状態は継続していたのです。日ソ平和条約交渉については、次回に始めることにいたします。

参考資料 「ロシア・ユーラシア地域研究入門①」上智大学ロシア語学科 上野信彦教授の講義録、「日露国境交渉史 領土問題にいかに取り組むか」(木村汎著 中公新書 1993年刊)

衆議院外務委員会 議事録- 7号   昭和25年03月08日
平和条約及び日米安全保障条約特別委員会 議事録第4号昭和26年10月19日

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北方領土の私的検証(その7改)サンフランシスコ講和会議の根回し

2019 JAN 14 12:12:55 pm by 野村 和寿

1951年9月4日から8日にかけて、対日講和に関する平和会議がサンフランシスコのオペラハウスで行われ、結果として9月8日サンフランシスコ講和条約が世界48カ国が条約に署名、日本が世界に復帰しました。(1952年4月28日日本批准発効)ここまでは、世界史で学習したことがあると思います。

サンフランシスコ講和会議の映像です。

ぼくは、この対日講和会議の席上で、議論が戦わされたのだと今の今まで思っていました。ところが、前回触れた外務省西村条約局長も著書「サンフランシスコ平和条約日米安保条約」のなかで触れているように「サンフランシスコ平和条約といえば、1945年夏から1952年春にわたる約6カ年にまたがる事柄で、連合国相互間の関係と連合国と日本の関係の双方をふくむ複雑な歴史」(同書 中公文庫1999年刊)と述べています。

要するには会議が始まる前に、当事国間での話し合いはほとんど終了していたのです。

年を追って触れてみたいと思います。

1945年12月24日 モスクワ外相会談

米バーンズ国務長官、英ベビン外相、ソ連モロトフ外相

千島列島と南樺太の帰属問題に言及し、ソ連モロトフ外相は、千島処理については、すでにヤルタで合意しており、最終決定と主張。(つまり千島は、ソ連領と主張 現実には1946年2月2日 ソ連は千島列島全域を自国の領土に編入していました)

ダレス国務長官顧問(のちに国務長官)

1950年9月11日 ダレス国務長官顧問は、対日講和の7原則を関係国へ根回し C項で南樺太、千島列島の地位については、イギリス、ソ連、中国・米国の将来の決定に委ねる。条約発効後1年以内に決定をみなかった場合は国連総会が決定。としている。ここでは、南樺太・千島列島をソ連に引き渡すというヤルタ密約は反故にされています。

これに対して、ソ連国連大使マリクは、ダレスと予備交渉を行っています。

ヤルタ会談で千島列島、南樺太はソ連に譲渡すると決定しており解決済みと主張しました。

これに対して、英国デニング外務次官は、ヤルタ協定の履行を宣言しています。上記7原則C項には強い疑問を表明しました。「ソ連の占領下にすでにある現状を変えるのは非現実的である。イギリス・アトリー労働党内閣は、南樺太、千島列島は日本からソ連に引き渡されるべきという方針であり、ヤルタ協定を否定するのは無理なこと」と主張しました。

米ダレス国務長官顧問は、ヤルタ密約が正当でなかったことをアピールして、妥協をエサにしてソ連を、講和条約に引き込もうという作戦でした。

1950年11月 ソ連国連大使マリク ダレス予備交渉②

マリクソ連国連大使
(1948−52、68−72)どこかで見たことがあります。そうです、1945年8月10日東京で宣戦布告を手交した際のソ連大使でした。

ダレスは「もしソ連が講和条約に参加するなら、千島列島と南樺太はソ連に譲渡されるだろう」とマリクに口頭で伝えました。

1951年4月 英国外務省が条約草案。

「南樺太と千島列島を無条件にソ連に引き渡す」と再び述べています。

ソ連は講和条約調印の方針を認めれば、歯舞・色丹はともかく千島列島も手に入ると思っていました。千島列島に含まれる国後、択捉(えとろふ)については、ソ連への引き渡しが決まっていたと言えます。

ところが、ソ連は、1949年に建国されたばかりの中華人民共和国の講和条約参加を強く求めました。ソ連は「講和会議に中華人民共和国が招かれないのはおかしい」と主張しました。

1951年5月3日

米英対日講和の米英共同草案を提出。米国の案を実質的に英国ものんで、採用されました。「ソ連が講和条約に調印すれば、千島列島と南樺太はソ連に引き渡される」という内容でした。ところが、ソ連はあくまで中華人民共和国の講和会議参加を主張し、米英ソ・中華人民共和国の外相会談を求めました。

米英は、カイロ宣言(1943年)もポツダム宣言(1945年)も中国は中華民国・蒋介石が署名し、まだ中華人民共和国は建国されていなかった。と主張。

1951年6月 ソ連の態度に業を煮やした米英両国は、南樺太と千島列島のソ連への引き渡しを撤回。講和条約には、「南樺太と千島列島の日本の放棄」のみをかき込むことにしました。

(1950年6月25日には、北朝鮮軍が、南朝鮮に侵攻、朝鮮戦争が起きています)

結局 サンフランシスコ講和条約には、日本は千島列島を放棄する。どこの国に引き渡すかは条約にはかき込まれていません。

まったく奇妙な結末を迎えました。

1951年9月4日

ここでようやくサンフランシスコ講和会議が開催されます。9月5日午後の討議で、ダレス国務長官顧問、米国全権は、「歯舞島は千島列島の一部ではない。歯舞島の帰属問題は将来、国際司法裁判所に提起する道が開かれている」と演説しました。

ヤンガー英国代表は、「中華人民共和国は中国を代表する政府である。」と述べています。このあと、メキシコ、ドミニカ代表の演説があり、

グロムイコソ連全権

ソ連全権グロムイコ前外務次官が登壇し1時間2分にも及ぶ長い演説を行いました。「中華人民共和国の参加なしに日本との講和条約解決は問題にならない」「日本国はサハリン南部およびこれに近接するすべての諸島並びに千島列島に対するソ連邦の完全な主権を承認しこれらの領土にたいする一切の権利、権原、請求権を放棄する」とする修正案を提示、会議で修正案は否決)。グロムイコ演説の中で、「樺太と千島はソ連に帰属させる」と演説し、グロムイコ代表は、講和条約署名の意思なしとして、講和条約原案に反対し、署名を拒否して会議場を退席しました。ロシア研究者の木村汎氏の「日露国境交渉史」(中公新書・1993年刊)によれば、このグロムイコ演説は「日本がソ連による千島列島の領有を認めない限り、ソ連は領有権を主張する法的根拠がないことを自ら認めたことになる」として、グロムイコの致命的な失敗としていいます。

そして採択されたのが、米英提出による原案です。

「サンフランシスコ講和条約 第2章領域 第2条領土権の放棄C項」

日本国が1905年9月5日ポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部、およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原、および請求権を放棄する

とあり、日本は千島列島を放棄させられたのです。しかしその帰属先は繰り返しになりますが、書かれていません。つまりは、千島列島の範囲がどこまでなのかについて、条約に記載がないのです。その解釈についての、後年に火種を残すことになります。

しかし近年の研究によれば、この「火種」こそは、ダレス米国務長官顧問の深慮遠謀であったといわれています。つまりこれで、日本が過度にソ連に近づけさせないという策略だというのです。

グロムイコ元外務次官・ソ連全権の回顧録によれば「米英両国がヤルタ会談で負った義務と歴史的正義にもかかわらず、サンフランシスコ条約はこれらの島々が固有の領土としてソ連に帰する事態を認めようとしていない。この事実はトルーマン大統領とその周辺がソ連に抱いている敵対意識とをあざやかに浮き彫りにしている」とあります。

サンフランシスコ講和会議署名

日本は9月7日夕方 吉田サンフランシスコ講和会議首席全権が講和条約に対する受諾演説を、巻紙に書いた日本語で行いました。受諾演説全文は下記に記載があります。吉田茂日本首席全権による受諾演説

この演説は、前回紹介した西村熊雄・当時の外務省条約局長、サンフランシスコ講和条約政府随員の著書「サンフランシスコ平和会議 日米安全保障条約」(中公文庫1999年刊)のなかで、「1951年8月11日箱根小涌谷の三井別荘に吉田総理に呼ばれ、今夜ここで受諾演説をかきたまえ、かん詰めにして腹案が語られ午前3時までかかって書き上げた」とあります。「東京出発まで2案用意し、出発前日本政府の閣議で披露された」とあります。吉田首相の演説原稿についてのエピソードは、顧問として同行した白洲次郎とのやりとりとしても伝わっています。下記にありました。白洲次郎が、外務省の演説原稿を、直前になって英語から日本語の巻紙へと変更したとあります。(西村熊雄の同掲書では、当時のシーボルト米大使のアドバイスで、ディグニティーのために日本語での演説にしたとありますが)

 

 

吉田全権の受諾演説中該当部分を抜き出してみます

「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては抗議いたします。日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。

千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。」

千島諸島地図

実は、太字にした、千島南部の二島、択捉(えとろふ)、国後両島が日本領である、という部分が、大きな問題となります。これは吉田受諾演説のなかでも、「痛恨の部分」かもしれないのです。択捉(えとろふ)、国後を千島南部の2島だと、吉田全権自らはっきりと述べているのです。そして、北海道の一部といえる歯舞、色丹とは違うとの認識を自らはっきりと示してしまいました。

サンフランシスコ講和条約では、日本が放棄した千島列島には択捉(えとろふ)と国後)の2島が、含まれるという解釈が成り立ってしまいます。前校から御紹介してきたとおり、1945年11月から始まる外務省の連合国代表部総司令部への働きかけが、1951年サンフランシスコ講和会議で成就して、1952年4月28日サンフランシスコ条約が発効し、日本は占領を解除され、独立を勝ち取りました。ただし、1945年から外務省が主張してきた千島列島の北千島、南千島にわけた説明は、吉田受諾演説においても表明されたことになります。これで、千島列島を日本は領土放棄しました。繰り返しますが、帰属先は明記されていないのです。

ところで、今回、調べている中でサンフランシスコ講和会議で、意外な事実も発見してしまいました。日本側全権団のメンバーです。

サンフランシスコ講和会議全権委員

首席全権委員・吉田茂(1878-1967)と徳川宗敬、星島二郎、苫米地義三、一萬田尚登、池田勇人(1899-1965、蔵相)の6人の全権委員。

吉田茂(1878−1967年 よしだ しげる民主自民党)、德川宗敬(1897ー1989年 とくがわむねよし)貴族院副議長 参議院議員緑風会、星島二郎(1887-1980年ほししま にろう・日本自由党)、苫米地義三(1880−1959年 とまべち ぎぞう)国民民主党、一萬田尚登(1893−1984年いちまた ひさと)日本銀行総裁 日本民主党、池田勇人(1899−1965年 民主自由党)と、超党派の議員から構成されているということです。これは吉田首相が、将来のことも考えて、全権は超党派がよろしいということで決まったということです。当時、多数講和派と全面講和派とに国論が二分されていて、全面講和派だった日本社会党は、全権委員になることを、自ら拒否しています。

また親ソ派と目されていた日本社会党の鈴木茂三郎(1893−1970年)委員長は、グロムイコソ連全権の演説にあるソ連の修正案を失望して、「少なくとも千島にあるソ連の軍事基地を軍事基地をつぶして、南樺太とともに日本に返還し、同時に中ソ友好同盟を廃棄した上で米国とともに日本の中立を保障する平和への建設的な態度をとって、ソ連が真に平和愛好者だということをみずから立証するような主張でなければ全然筋が通らない。全般的にソ連の修正案には失望した」と述べています。少なくとも、日本社会党は、1951年当時は、「南樺太、全千島列島は、日本領有である」という主張をもっていたことがわかります。

日本はソ連、ポーランド、チェコスロヴァキアなど共産圏を除く48カ国と条約に署名し、52年4月28日日本国会で批准されサンフランシスコ平和条約へ発効しました。

参考資料 「サンフランシスコ平和条約の盲点〜アジア太平洋地域の冷戦と『戦後未解決の諸問題』」(原貴美恵著 2005年・渓水社刊)「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約」西村熊雄著 1999年・中公文庫刊)、「ドキュメント北方領土問題の内幕 〜クレムリン・東京・ワシントン」(若宮啓文著・2016年・筑摩選書刊)

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北方領土の私的検証(その6)1946〜51年の日本側

2019 JAN 14 9:09:11 am by 野村 和寿

1946年 当時の外務省が終戦連絡中央事務局を通じて、連合軍代表部総司令部、対日理事会連合国代表部に、1945年から1950年まで提出した英文冊子は全部で36冊ありました。日本には外交権がないために、来たるべき講和条約のために、外務省は資料をこまめに作成していて、連合軍代表部側にわたしていたのです。上記の資料の表紙には㊙の印が押され、”Minor Islands Adjacent To Japan Proper Part1 The Kurile Islande The Habomai and Shikotan Foreign 〜Office Japanese Goverment  November 1946  Department of External Affairs(対外部門)とオーストラリア側の添え書きがあります。(この文書は、オーストラリア公文書館で1994年発見されました)

(日本に隣接した小離島 第1部 クリル諸島 歯舞・色丹島〜日本政府外務省・原文は全て大文字)”と読むことが出来ます。

図をみてみましょう。

1946年日本外務省調書 表紙と掲載地図 「サンフランシスコ平和条約の盲点」(原貴美恵著・2005年・渓水社刊)

当方で示した①はクリル(千島)諸島 真ん中の択捉(えとろふ)水道に線が引かれています。北部は北クリル(千島)諸島(1875年に締結されたサンクトペテルブルク条約(千島樺太交換条約)で、サハリン(樺太)と交換により日本に割譲さ

②は南クリル(千島)諸島 初期から日本が領有していた。1855年下田(日露和親)条約により確定された。

③は歯舞諸島と色丹島地図です。

ここで、外務省は、千島諸島を北千島と南千島に択捉(えとろふ)水道を境に分けて説明しています。北千島は、1875年に日本の領有となった。南千島は、日本固有の領土。

この文書は、現在に至るも、外務省では公開を拒み、その存在さえ、認否をノーコメントとしています。いったいなぜなのでしょうか?

この文書を作成したのは、当時、外務省条約局で、特に1947年から1952年まで条約局長だった、西村熊雄氏(にしむら くまお・1899−1980年)でした。西村局長は1951年9月8日に開催されたサンフランシスコ講和会議まで、日本外交の最前線にいた人物です。

西村氏の著書「サンフランシスコ平和条約 日米安保条約1999年 中公文庫刊・絶版)に、交渉のいきさつは詳しく載っています。また西村条約局長は、著書のなかで、「1945年11月外務省内に平和問題研究幹事会をつくり、講和対策研究講和資料作成に早くも着手した」とあり、「1950年2月までの5年間に36冊の英文冊子を作成した」とあります。

それも、連合軍代表部総司令部に正面玄関からもっていくわけにはいかないために、日本政府と連合軍代表部総司令部との交渉窓口だった終戦連絡中央事務局を通じて、対日理事会連合国代表部の交渉ある人々に機会をとらえて、資料をてわたしたり、担当者の机の上にそっとおいてきたりすることで、連合軍代表部総司令部に、外務省の意向を伝える努力を続けました。

西村熊雄外務省条約局長(局長在任期間1947−1952)            2012年外務省外交史料館展示資料より

 

サンフランシスコ平和条約 日米安保条約 西村熊雄著 1999年 中公文庫刊 2019年現在古書として2800円と高額で重要視されている本。

1947年8月26日 当時の芦田外相(在任1947−48年)はアチソン駐日米大使に、日本の講和に対する要望書を手渡しました。これでようやく米国に正式に日本の意向を伝えるルートができました。この要望書の(7)領土=ポツダム宣言にいう諸小島を決定されるに際して、本土とこれらの諸小島の間に存在する歴史的・人種的・経済的・文化的その他の関係を充分に考慮してほしいと、要望しました。

1947年岡崎外務次官(在任1947−48年)は、占領軍民政局のホイットニー准将(ダグラス・マッカーサー司令官の分身と呼ばれました)に、講和資料を提示して、総司令部外交局を通じてワシントンに伝達されました。

1951年1月26日

ダレス国務長官顧問は、シーボルト大使、アリソン公使とともに、目黒にあった吉田茂総理公邸を来訪した際に、吉田首相は講和会議に対する日本側の要望を伝えました。日本側意見(C)台湾・澎湖諸島、南樺太・千島列島の地位は英ソ中米、四国による将来の決定を受諾する、条約発効後1年以内に決定がなかった場合は国連総会が決定する旨を伝えました。つまり、日本は占領中であり、まだ外交権がなかったので、アメリカを通じて、日本の講和に対する意向を伝え、「最終的に、決定されたことに従います」と日本の吉田首相がいったわけです。

フランス大使時代の西村熊雄氏1956年1月28日ルーサー・エヴァンスユネスコ事務局長を訪ねたときの写真

今回取り上げた外務省条約局長だった西村熊雄氏(1899〜1980年)は、1923年外務省入省(フランス・スクール)、1951年9月8日に開催されたサンフランシスコ講和会議の政府側随員としてまで、外務省で、対日講和のために奔走しました。その後は、駐フランス大使(1952−1956年)として着任しています。退官後はハーグ常設仲裁裁判所判事、フランスの劇作家『ジロドゥ戯曲全集 第2巻』白水社、1957年、新装版2001年。の翻訳などを手がけた文化人でもありました。

外務省とは、連合国代表部総司令部に、北方領土について、より詳細に説明するために、千島諸島を、北千島・南千島にわけて、なるだけ丁寧に説明しようとしたのです。それはそれで、間違っているとは思えません。日本の官僚らしい、きわめて誠実な姿勢です。しかし、その誠実な姿勢は、いまに至るも思わぬ影響を及ぼしてしまいました。詳細については、次回にご説明します。

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北方領土の私的検証(その5)ポツダム宣言・日本降伏文書調印前後の千島

2019 JAN 12 20:20:16 pm by 野村 和寿

第2次世界大戦前、日本では、千島諸島をどうみていたかを、まず見ておきたいと思います。左記と、下図は、1924(大正13)年日本地図帖(小川琢治編著 成象堂刊)国立国会図書館蔵です。左図は、「千島列島とは択捉(えとろふ)島以下30余の島々をいう」とあります。「その北東端は、占守(しゅむしゅ)島は、千島海峡を隔ててロシアのカムチャッカ半島と相対している。この列島は千島火山脈がとっていて、地勢が険しく、地味もやせ、冬の寒さもはげしいから、住民も少なく陸上の産物もきわめてすくない。けれども、さけます等の水産物が多いから夏の間は漁業のため各地からここに来るものが少なくない」と解説しています。

1924(大正15)年日本地図帖 小川琢治編 成象堂より 本稿第2回で書いた1875年の千島樺太交換条約では、千島諸島の北側 ウルップからシュムシュ島までの18島と新たに日本領とすることが明記されています。

赤く囲った部分に「千島諸島」という文字が見えます。

上記1924年の千島諸島の解説では、「千島は、30余の島々からなる」となっていて、島の数の違いからして、1924年時点では、樺太千島交換条約で日本が獲得した18島に加え、もともと千島諸島南部(南千島)も含めて、その全部を指し千島諸島を指していると考えられます。

私的検証その2まででお伝えしたように、樺太千島交換条約によって、1875(明治8)年に千島諸島全島を獲得した日本は、当然、千島諸島を地図上でも、日本領として、明記しています。

下図は、赤く囲った部分に、千島諸島という文字が見え、黒く囲った部分が、歯舞諸島と色丹島の地図になります。つまり1924年時点では、千島諸島は全部日本領、歯舞諸島と色丹島は、千島諸島とは別の表記で記載されていました。

話はポツダム会談に移ります。

ポツダム会談の様子。1945年7月

ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の1945年7月17日から8月日にかけて、ドイツ・ベルリン郊外ソ連占領地域に米国、英国、ソ連の3カ国の首脳が集まって開催されました。米国は、ルーズベルト大統領死去にともない、副大統領だったトルーマンが大統領として参加、英国は、チャーチル保守党首相から7月26日から選挙で勝利した労働党のアトリーに変わっています。

1945年7月26日 連合国側からポツダム宣言(正式には日本に発された日本への降伏要求の最終宣言・米英支三国共同宣言)が通告されます。ポツダム宣言は、ソ連に相談がなかったのです。米英からすると、いまだ、日本との中立条約中のソ連は中立の立場であるから、宣言を起草する立場にないという理由からです。(ソ連は署名していません。遅れて追認しました)

ポツダム宣言第8条に「カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない」とされます。カイロ宣言(1943年)の内容が引き継がれ、その後のヤルタ秘密協定(1945年2月11日)の内容は踏襲されませんでした。

戦艦ミズーリ号上の重光外相・梅津参謀総長ほかの日本全権団

ここで問題となるのは、漠然と示されている「我々の決定する諸小島」の範囲です。1945年9月2日東京湾・米国戦艦ミズーリ号上で開かれた降伏文書とともに、連合国最高司令官SCAP一般命令第1号にも日本政府は署名しました。

1946年1月29日に発布されたSCAPIN(スキャッピン)677号 「若干の外かく地域を政治上行政上日本から分離することに関する覚え書き」では、

日本の行政権の行使に関する範囲として「千島列島、色丹島、歯舞島」が除かれています。(SCAPの上部組織である1945年12月に設置された極東委員会には軍事作戦行動や領域の調整に関する権限が与えられていない。それを踏まえて、この文書の第6項には「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」と、これがあくまでも暫定的な指令である旨が明示されています。

また1946年2月13日になって、極東委員会は「SCAPINが領土決定に関する決定ではない。領土の決定は講和会議によって決定される」と回答しています。

しかし、このSCAPIN677号が、ヤルタ密約とともに、「千島諸島はロシア領で領土は決定済み」という現在なお、ロシアの主張の根拠の一つとなっているのです。

そこで、日本政府は、敗戦後正式な外交ルートを持たなかったのですが、米国に対して占領期間中に英文調書を占領軍に7冊送り続けました。このうち3冊が北方領土を扱っていました。

占領軍に送った英文調書①1946年11月「千島列島・歯舞・色丹」

②1949年1月「樺太」③1949年9月「南千島・歯舞・色丹」の3つです。後年1951年10月19日の衆議院外交委員会で、吉田首相が「千島列島の件につきましては、外務省としては終戦以来研究いたして、日本の見解は米国政府に早くすでに申し入れております」と答弁していますし、1956年3月10日衆議院外務委員会で、政府委員の下田武三委員が「占領中から歯舞・色丹はじめ領土問題につきましては、7冊の民族的にも歴史的にも地理的にも経済的にも、あらゆる角度から検討をいたしました資料を準備いたしまして、アメリカに出したのであります」と証言しています。

しかし、該当文書は、今に至るも、外務省は非公開とされており、今では、該当文書があったかなかったのかさえも、ノーコメントになっています。

(平成十八(2006)年2月24日受領 質問主意書・答弁第72号内閣衆質164第72号より  御指摘の調書の存否を含め、平和条約の締結に関する交渉(以下「交渉」という。)の内容にかかわる事柄について明らかにすることは、今後の交渉に支障を来すおそれがあることから、外務省としてお答えすることは差し控えたい。)

ところが、その該当文書のうちの1946年11月「千島列島、歯舞・色丹」文書が、1994年になって、オーストラリアの公文書館で、カナダ・ウォータールー大学・原貴美恵教授(専門アジア太平洋地域の国際関係)によって発見されました。

下記の図が、1946年11月に外務省が、米国(占領軍)に提出した「千島列島、歯舞、色丹」に付随する千島諸島の説明図です。詳細は次回に行わせてください。

1946年日本外務省調書 表紙と掲載地図

 

北方領土の私的検証(その4改)ヤルタ秘密協定

2019 JAN 5 12:12:50 pm by 野村 和寿

今度は、ヤルタ会談を時間軸の中心に、ソ連側から動きをみていくことにします。

その前に1941年に締結された日ソ中立条約について言及します。

日ソ中立条約 写真:中野文庫所収

ソ連側モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側建川美次駐ソ大使、松岡洋右外務大臣によって、1941年4月13日にモスクワで締結された日ソ中立条約は、当初、日ソ不可侵条約締結をめざしていたところ、ソ連側は、条約締結の代償に、「千島諸島の引き渡しを要求」したが、日本の拒否によって、日ソ中立条約締結になったいきさつがありました。(それだけ千島諸島は当初からソ連には是非とも我が領土にしたいと思っていた場所だったことがわかります)

 

有効期間は1941年4月25日から5年(つまり1946年まで)であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされていました。

日ソ中立条約締結後も、ソ連は日本軍の動きを警戒していましたが、日本はドイツとソ連の戦争の成り行きを見守りつつ、ソ満国境に軍隊を集結させ、こととしだいによっては、ソ連をドイツと日本で挟み撃ちにするという機会をうかがっていました。しかし一方では、ソ連に米国から援助物資、武器弾薬を運ぶ米国の輸送船を、監視してはいたのですが、攻撃することはありませんでした。それでも日本は、宗谷海峡からソ連軍をしめだしていて、1941年から1944年までに日本軍に沈没または抑留されたソ連船は178隻におよびました。。

ヤルタ会談にもどります。

ヤルタ会談は、1945年2月4日から11日にかけて、ソ連のクリミアの避暑地ヤルタ郊外のリヴァディア宮殿で、アメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相、ソ連・スターリン書記長の間で行われました。主に、ドイツの戦争後の処理について、利害を調整するのが目的でした。しかし、2月8日 極東密約と後世呼ばれるソ連による対日戦争参戦が確認されました。

1945年2月8日というのは、きわめて微妙な日にちであります。

対日戦は終末に向かって突き進んでいたをとはいえ、B29爆撃機による大規模な東京大空襲は、1944年11月24日以降に激しくなってきましたが、3月10日をはじめとする、大規模空襲はまだ行われていませんでした。

沖縄戦は、1945年3月26日から6月23日に戦われたが、2月8日にはまだ戦われていません。

原爆製造計画 マンハッタン計画は、初の原爆実験が行われたのは1945年7月16日でした。

つまり、1945年2月8日には、上記のいずれもまだ実施されていませんでした。そこで、日本上陸作戦で予想される連合軍の死者は、25万人と推定されていました。

そこで、アメリカ・イギリスはどうしても、ソ連の日本への参戦を切望し、これまでにもモスクワ3国外相会談1943年10月でも、ソ連参戦を申し入れています。

ソ連は、ドイツ降伏後2〜3ヶ月後に参戦することを確認。たしかに、ドイツ降伏が1945年5月、3ヶ月後の1945年8月8日に、ソ連は日本に宣戦布告しています。

ヤルタ密約では、ソ連の日本への参戦と引き換えに、樺太南部、千島諸島をソ連に引き渡すことが取り決められています。(2019年の現在でも、ロシアのラブロフ外相が、北方4島について、ロシア領を主張の根拠にもなっているのです)

ヤルタ密約は、アメリカ・ルーズベルト、英国チャーチル、ソ連スターリンの署名がある文書が存在します。しかし、このヤルタ密約は、日本には知らされておらず、公表されたのは第二次世界大戦後の1946年のことなのです。

しかも、トルーマンの国務長官だったジェームズ・F・バーンズ(1945−1947年)さえも、ヤルタ密約のことを国務長官になるまで聞かされていませんでした。

最近の新聞記事『米英の弱みにつけ込んだソ連 お墨付き得て北方4島占拠』(産経新聞2017年2月23日付け)が、大変興味深いことを報道しました。

産経新聞2017年2月23日付け記事より

それによると、1946年2月9日付け、英国全在外公館へ送られた電報のなかで、

ヤルタ密約が1941年ルーズベルトとチャーチルの間でかわされた領土不拡大をうたう「大西洋憲章」に抵触するというのです。ルーズベルト米大統領は、大統領権限を超えて米議会の承認なく、ヤルタ密約に署名したために、3人の合意の有効性に論議がおこるかもしれないとされているのです。

▇第二次世界大戦中に連合軍首脳が会談した主なものは、

カサブランカ会談 1943年 1月(当時フランス領)

カイロ会談 1943年 11月(エジプト王国)

テヘラン会談 1943年11月(当時パフラヴィー朝)

ヤルタ会談 1945年 2月(ソ連)

ポツダム会談 1945年7月(ドイツ・ソ連占領地域)

ヤルタ会談 1945年2月

 

ここで改めて注目するのは、当事国または占領地域で行われた会談は、ヤルタとポツダムだけということ。どちらも、ソ連領、あるいはソ連占領地域であります。

これはやはりソ連になにか有利なのではないか?ということです。

 

さらに調べを進めると

アメリカのルーズベルトの随行員で、ヤルタ会談のまとめ役の人物が米国務省のアルジャー・ヒス(1904-1996年)という人物でした。ヒスは、後に、ソ連のスパイだったことがわかっています。ルーズベルト大統領をあざむくことに成功し、千島諸島はソ連の領有となることが、ヤルタ密約で戦後秩序を決める首脳会談を取り仕切ったことになります。

ヤルタ密約は、1951年米議会で破棄され、これにより、ソ連の千島諸島に対する主張は根拠を失ったことになります。

米国国務省ヤルタ会議の準備を担当 ソ連スパイ(1904−1996年)

アルジャー・ヒス:米国国務省ヤルタ会議の準備を担当 どうしてわかったかといえば、アメリカ陸軍情報部と英国情報機関が、ソ連と米国内のソ連スパイとの間の交信、ペノナ文書の解読で、ヒスのスパイ活動は米国政府のモイニハン委員会によって証明されている。戦後、1948年 米下院非米活動委員会(赤狩り)に喚問され、実際にソ連のスパイ活動を行っていたことが、元アメリカ共産党員によって暴露された。(スパイ行為については、出訴期限がつきたため1992年になって無罪)(参考資料 有馬哲夫早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授。小学館・SAPIO2016年3月号より)

千島諸島地図

▇ソ連対日参戦後の動きをまとめておきます。

8月8日ソ連モロトフ外相 佐藤尚武大使に、宣戦布告書を伝達

8月9日午前7時30分 ソ連による最初の日本攻撃は、樺太・敷香(しすか)町・武意加(むいか)の国境警察に加えられた。北部方面軍 積極先頭を禁ず 専守防衛的。

8月10日午前11時52分 東京・外務省をマリクソ連大使が訪ね、宣戦布告書を手交

8月11日 樺太中央部 半田集落、および、西海岸・西柵丹村(にしさくたんむら)安別(あんべつ)にソ連軍侵入。陣地防御を実施。

8月14日 日本ポツダム宣言受諾

8月15日 終戦証書発布。日本・第5方面軍戦闘停止 自衛戦闘に移る。

8月16日 塔路(とうろ)町・恵須取(えすとる)郡へソ連軍上陸作戦。

8月18日 千島諸島北部占守(しゅむしゅ)島に、ソ連軍揚陸艇・航空機で上陸作戦開始、日本軍はソ連軍に対し水際防御を行い、ソ連軍の艦艇13隻を沈没させる。

8月20日 真岡へソ連軍上陸 真岡郵便電信局電話交換女子が集団自決事件発生。自衛戦闘続行。

8月21日 樺太・停戦実現 日本軍武装解除

8月22日 知取(しるとる)町で、停戦協定結ばれた後、豊原駅前の赤十字テントにソ連軍機空爆、多数の死者が出た。樺太からの引き揚げ船 小笠原丸、第二興丸、泰東丸が、留萌沖でソ連軍潜水艦から攻撃をうけ1708名の犠牲者。

8月25日 千島諸島・松輪(まつわ)島へ上陸開始

8月29日 千島諸島・択捉(えとろふ)島へ上陸開始

8月31日 千島諸島・得撫(うるっぷ)島へ上陸。日本軍守備隊降伏。

9月1日から4日 国後島・色丹島 占領完了

9月2日 東京湾戦艦ミズーリ上で、降伏文書調印

9月5日 歯舞群島占領

ここまでで、ソ連軍は、南樺太、北千島、択捉(えとろふ)、国後(くなしり)、色丹、歯舞全域を完全に支配下においた。

まとめますと、前回登場した、元外交官天羽英二氏の言のよれば、「ソ連に終戦の仲介を依頼するために行われた1945年6月3・4日の廣田・マリク会談のうらをかかれ、ポツダム宣言をつきつけられて目が覚めた我が指導階級の迂闊(うかつ)さは、すでに批判の余地もあるまい」日本側のソ連側への中立・連合国側への調停依頼の際にだした条件は、連合国米英がソ連側に出した条件にくらべて、あまりにも少なく、廣田・マリク会談は、ヤルタ密約の後に行われたのであって、結果として、廣田の頑張りと努力にもかかわらず、まったく意味をなさなかったといわざるをえません。

 

かねてより疑問に思っていたことですが、1945年5月9日の対ドイツ戦争終戦から、わずか3ヶ月で、ソ連は、兵力40万人、迫撃砲7137門、戦車・自走砲2119両、飛行機1400機を、極東に移動させました。大規模な移動は、満州を制して、南サハリンを解放し、さらに千島列島を占拠することでした。ソ連は、いったい、海をわたって、千島列島にどうやって兵員や火器を移動させることができたのでしょうか?

米国からソ連に貸与された哨戒艇 ルーズベルト米大統領の死去にともない、半旗を掲げているのが見て取れる。”PROJECT HULASecret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan”より

元となったのは、2003年にアメリカ・ワシントンにある”Naval Historical Center Department of the Navy(海軍歴史広報センター)”が発行した”Project Hula Secret Soviet-American Cooperation in the War Against Japan(プロジェクト・フラ 対日米ソ共同秘密作戦”で、筆者は、Richard A Russel 氏(元米海軍)でした。

これまでの「米ソのヤルタ密約後の動きでは、米国が3年半に渡る対日戦を戦ってきたのに、大した犠牲も払わずに終戦直前に参戦して、ソ連がヤルタで約束した利益をごっそりともっていくのは、あまりに理不尽と考える米国は、ソ連をなるだけ参戦させないうちに、日本との戦争を終わらせてしまおう」という考えが定説だったのです。ところが、ソ連軍による千島占領作戦に米国が掃海艇55隻、上陸用船艇30隻、護衛艦28隻をソ連に貸与、しかも米国アラスカ州コールドベイでソ連兵1万2千人の訓練も行っていたという事実でした。

この驚くべき事実は、北海道新聞2017年12月30日に掲載されました。「ソ連の北方四島占領、米が援助 極秘に艦船貸与し訓練も」という記事です。根室市内の道立北四島交流センター(北海道根室振興局)で2018年1月19日から2月2日にかけて公開されました。

つまり、終戦間際のソ連に対日参戦に、米国は了解していただけで亡く、ソ連に援助もしていたということである。千島に対する占領も、ソ連が勝手に行ったわけでなく、米ソをリーダーとする「連合国の作戦」として行われたことになります。2018年12月日付け「週刊金曜日」にも「ソ連軍の千島占領と米ソ極秘共同作戦 〜多くの日本人の記憶から抜け落ちた」と題する記事が掲載されました。この記事によりますと、「ソ連に貸与された米国の艦船の多くは1955年に米国に返却されたが、その後、

米海軍から貸与された海上自衛隊くす型PF
護衛艦 写真は同型の護衛艦「もみ」

創設されたばかりの、日本の海上自衛隊に18隻が「くす型PF護衛艦」としてさらに貸与された」そうです。

米国・ソ連・日本、歴史の皮肉とかんじさせます。いずれにしても、このヤルタ秘密協定はここにきて、新たなる解釈の見直しが必要になってきているようです。

 

 

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北方領土の私的検証(その3)終戦直前の廣田・マリク会談を中心に

2019 JAN 4 12:12:54 pm by 野村 和寿

日露間の国境線の歴史的変遷(原貴美恵著「サンフランシスコ平和条約の盲点」2005年・渓水社刊行)

北方領土の私的検証(その3)です。まず、その前に、1と2のおさらいからいたしましょう。ちょっと小さいのですが、「日露間の国境線の歴史的変遷」概略図をみてください。

右上①1855−1875年 日露和親条約締結から樺太千島交換条約の間 千島諸島択捉(えとろふ)島とウルップ島の間で日露国境

右下②1875−1905年 樺太千島交換条約からポーツマス条約の間 千島諸島 占守島までの千島全島が、日本領 樺太が露領

真ん中③1905ー1945年 ポーツマス条約から第2次世界大戦終戦まで 千島諸島・南樺太が日本領、北樺太が露(ソ連)領

左④1945年以降 第2次世界大戦終戦以降 日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で南樺太と千島列島を放棄ということになります。

今回は、1945年のヤルタ会談が行われた時期の前後に、日本側・露(ソ連)側の動きを追ってみようと思います。なるだけいろいろな資料にあたり、予断のない記述を目指してみました。そこには、今まであまり知られていない事柄がたくさんありましたた。まず日本側の動きを調べてみました。

資料は国立国会図書館に天羽英二(あもうえいじ)が寄贈した資料(日本週報1955年7月5日発行No.322)を中心に参照してみました。

わかりやすいように、日にちごとに並べてみることにしました。会談のもようは、恐ろしく外交戦術的に「糠に釘」暖簾に腕押し」的で、読んでいるとじれったくて、なかなか本音をいわないものでしたが、逆にこうした交渉が、戦争末期にさえも、外交戦術として続けられていた手法として、興味深いので、長いのですがあえて記すことにいたします。。

1944年 9月4日

最高戦争指導会議(首相、外相、陸相、海相、参謀総長、軍令部総長)で重光の推す廣田弘毅元首相のソ連派遣が決定。

9月16日

佐藤尚武駐ソ大使・ソ連モロトフ外相会談が実現。「特使派遣を必要とするような新しい問題は存在せず、両国の懸案は従来の外交経路により充分解決可能であり、しかも「特使派遣は内外に特殊の意味を持って解釈せらるる懼(おそ)れ」があるとしてソ連拒否回答。(「終戦工作の記録 上 江藤淳監修 1977年講談社刊

1945年4月5日 日ソ中立条約が、1941年4月30日に調印されたが、1945年4月5日 ソ連モロトフ外相(ヴィヤチェスラフ・モロトフ1890-1986年外務人民委員1939-1946年)は、佐藤尚武(さとうなおたけ)駐ソ大使に日ソ中立条約不延長(事実上の破棄)を通告してきた。

駐ソ大使佐藤尚武

ソ連外相モロトフ

佐藤尚武 の「回顧80年」(時事通信社)によれば、モロトフは、「日本側さえ条約を守るならばソビエト側で今後1年間、これを遵守するであろう」と語った。

(後述するように対日戦はすでに、1945年のヤルタ密約によって決まっていたのだ。)

4月22日 鈴木貫太郎内閣の外相・東郷茂徳に、河辺虎四郎参謀次長、有末精三情報担当第二部長が訪ねた。(数日後に梅津美治郎参謀総長、小沢治三郎軍令部次長も同様の提案)ソ連側をして不参戦、中立の立場を保持、和平斡旋に乗り出すよう、ソ連側に有利な条件を提示するように申し入れた。日本側の譲歩提案:満州(現在の中国東北部)、樺太を手放すこともやむをえない。

5月14日 最高戦争指導会議対ソ方針決定:ソ連の戦争防止、好意的中立誘致、戦争終結に際して日本に有利な仲介。日本の代償は:日露戦争前の状況に復帰、朝鮮は自治問題は別としてこれを日本に保留、南満州は中立地帯(後に見合わせ)

元首相)在任 極東軍事裁判で非軍人で唯一の絞首刑

マリクソ連駐日大使

6月3日 廣田:今度戦争が始まったが日本とソ連が戦争していないことはまことに幸い。ソ連が甚大な損害を被ったにもかかわらず、対独戦に勝利したことは、ソ連のためにまことに慶賀にたえない。日本は変転する事態において、アジアの安全を希望し、アジアの大きな部分を領有するソ連に安全の基礎を見いだすものである。

強羅ホテル 1938−1998年

マリクソ連大使:今度の戦争中、平和の事態において任務を遂行し得たことは誠に喜ばしい。ただ日本には幾多外国筋の影響を受けた諸勢力があると認めるが現状はどうか?

廣田:日本国内にあってはすべて皇室中心に統一され、外に大しては、国民あげてソ連および中国との前輪関係を希望している。

マリク大使:日本軍人および政治家の中には、外国の影響を受けている者が有って、日ソ国交の上に悪い影響を与えているのではないか?

廣田:現代においては、自分の知っている多くの者は対露提携論者である。過去においても伊藤博文、後藤新平伯のごとき親善論者がある。私もその流れを汲む者である。

会談2日め 6月4日

廣田:ソ連は戦後復興に努力し、またヨーロッパにおいては失地回復するうえ、隣邦との関係改善に意を用いておるものと見られ、東方においても、同じ主旨の考えをもっているものと思う。日ソ間には中立条約が守られているので、なにも心配する必要はないが、この条約はあろ1年(1946年)で期限満了となるから、将来のことを考える必要がある。この期限内でも日ソ友好関係を増進したい意向で、その形式等についても目下研究中であるが、これに対するソ連政府の大体の意向なりとも承知いたしたい。

マリク大使:アジアの安全問題については、昨日日本側方針の大要は承知したと思っているが、日・ソ・中三国関係に対する具体的形式はどうか?

廣田:日本と中国との間には現に戦争が行われている関係もあり、中国のことについては、目下のところ明瞭なことは言い得ないが、日ソ間については従来存在せる友好関係をいっそう増進してゆき、中国に対しても同じ考えを有する国家として、漸次参加方に誘導したいと考えている。

マリク大使:ソ連は終始一貫平和制作を遂行してきたにもかかわらずドイツのごとき国家が存在するため、独ソ開戦となったのである。ソ連は東方ことに日本に対しても同様平和制作によって努力してきたにもかかわらず、反対勢力が強かったため、所期の成果をあげることができず、その結果一種の割り切れざる感情ないし後味を残し、自ら不信任または安全欠如の感を与えたことと鳴っているが、これを払拭するために具体的方法を考慮されているか?

廣田:日本においても漸次ソ連の態度を正解する者が多くなったので、この機会に日ソ関係の根本的改善に乗り出したい意向で、ソ連側の意向を聞き取った上、その方向に運び行くことができるである。

マリク大使:それは廣田氏個人の私見であるか、または日本政府の意見であるか?

廣田:右は帝国政府および意向と了解されたい。

マリク大使:昨日および今日の会談において日本側の具体的意向を承知したから、とくと研究の上、卑見を開陳したい。それで若干の猶予を願いたい。

廣田:根本の考えは両国間に長期にわたり、相互に不安のない国交を維持する基礎をたてたいととの意味に他ならない。この考えさえ決まれば他の枝葉末節の問題は自然に解決を見いだすことができよう。今こそ、根本問題解決上絶好の機会であると思う。外務省はもちろん政府全体としてもその気になっているので、ここに乗り出した次第である。ついては至急回答をお願いする。

マリク:十分に研究したいから回答は早くても来週はじめとなるだろう。

廣田は、東郷外相に経過報告 廣田とマリク大使との会談は有効裏に行われ、ソ連側の受け方良好で交渉の前途は有望と認められる。

しかしソ連側からはなんの音沙汰もない。

6月29日 廣田・マリク会談が東京のソ連大使館で行われ、不可侵条約締結の条件として、満州国の独立と日本軍の撤退、ソ連の石油と交換に日本のソ連領海での漁業権の放棄南方のゴム、錫、鉛、タングステン等南方物資を供給を列挙。大使に催促、東京のソ連大使館員は、外務省かかりかンに、日本側具体案は、電報ではなく、クーリエ便で送ったとした。それからも、廣田は再三再四、東京のソ連大使館に電話をかけ続けたが、マリクは病気と称して出てこなかった。

7月8日 東郷外相は、鈴木貫太郎首相と、戦争終結に対する処置としてソ連に特使を送ることをきめ、特使に近衛文麿元首相になってもらいモスクワ行きを依頼。

7月12日 昭和天皇は近衛元首相をお召しになり、近衛特使のモスクワ行きが本決まりになる。

7月13日 モスクワ駐在佐藤大使、モロトフ外相に会見を求めたが、モロトフはベルリン出発のため、モロトフからの回答は遅延するだろうと通告される。

(7月17日からベルリンでポツダム会談が開催)

7月25日 モスクワの佐藤大使、ロゾフスキー外相代理に近衛特使が、戦争終結に関する具体案をモスクワに持参することをソ連側に申し入れ。

(7月26日 ポツダム宣言が発表)

8月8日 モロトフ外相から佐藤大使に会見の通知がよこされたので、佐藤大使がモロトフを訪問したところ、意外にもソ連の対日参戦の通告を渡された。

8月9日 宣戦布告7時間後、午前0時すぎ 満ソ国境全面で攻撃を開始。

8月10日 11:1512:40東京・東郷外相 マリク大使宣戦布告分を手交。 ソ連政府の訓令によりソ連政府の日本政府に対する宣言を伝達。

日本政府は1945年7月10日段階で、軍隊の解体を含んだ降伏案をソ連を仲介として、連合国側に提示しようとしました。これを近衛文麿元首相により、ソ連・モスクワに手交させようとしたのです。これには興味深い内容が含まれています。

軍隊の解体を含んだ降伏案で、沖縄、小笠原、樺太を棄てても南千島は最後まで譲歩案には入っていなかったことだ。つまりは、南千島は日本政府にとっては、最後まで手放すつもりはなく、死守する構えでした。また、他国に奪取されることも予想していませんでした。(和田春樹 「北方領土問題 歴史と未来1997年朝日新聞刊・所収、長谷川毅「暗闘〜スターリン、トルーマンと日本の降伏」2011年中公文庫所収)

参考資料 「戦争末期のソ連への和平斡旋依頼」(日本週報 No.322 1955 7/5)「終戦工作の記録 上・下 江藤淳監修 栗原健・波多野澄雄編 1977年 講談社文庫刊)

天羽英二は、戦争末期のソ連への和平斡旋依頼について、「日本が中立条約を守ったのだから、ソ連もかならず守るだろう、という甘い観測が形勢いよいよ不利になった、大東亜戦争末期になってもわが為政者の頭を支配していたのであった。おめでたいというにはあまりにもいたましい悲劇であった」と語っている。

 

井上ひさしが、箱根強羅の戦争末期の廣田・マリク会談の舞台、箱根・強羅を、演劇作品「箱根強羅ホテル」を書いている。内容は、会談とは直接関係がないものの、緊迫した会談の舞台裏で、周囲のホテルの人々はどんなふうにみていたかコミカルに諷ししている。

 天羽英二(あまうえいじ・1887−1968年)

元イタリア大使 元情報局総裁

1921年ワシントン会議全権随員、1929年ソ連在勤、1937年スイス大使、1939年イタリア大使 1941年外務次官、1943年内閣情報局総裁19451948年 A級戦犯・巣鴨拘置所収監 1995年 膨大な蔵書・執筆ノート類・国立国会図書館へ遺族が寄贈。

 

 

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北方領土の私的検証(その2)榎本武揚の樺太千島交換条約

2018 DEC 22 11:11:56 am by 野村 和寿

北方領土の私的検証、その2は、「樺太千島交換条約」(1875年)です。

樺太千島交換条約 外務省外交史料館蔵

この条約交渉に当たったのは、榎本武揚という人物です。かなり巧妙な交渉術を駆使しています。

日本側 明治初期の新政府には、すでに、英国から船一隻を購入する外貨さえ残されていませんでした。前回紹介した、1855年締結の日露和親条約で、樺太(サハリン)は両国間の境界を決めず、日本人もロシア人も自由に活動できる”雑居の地”をとしました。

しかし榎本武揚は、樺太をもし獲得したとしても、開発と海岸警備に向ける資金はなく、「樺太を放棄すること」を当初から考えていました。

日本の国威発揚のため、すでに斜陽だった李氏朝鮮を攻めるために、兵員輸送に使う中古軍艦を、露から譲り受け(西郷隆盛の征韓論)、樺太を開発する資金は当面日本にはないので、北海道開発に注力すべきと考えていました。(西郷隆盛は征韓論に破れ、朝鮮に日本が兵を送ることは頓挫され、1876年日鮮修好条約が結ばれました)

1875と赤線が引かれたところまでが本条約で確定した境界です。

露側 正直言えばたびたび火が吹いていたバルカン問題で、日本との交渉どころではありませんでした。露系の住民が多いバルカンで、オスマントルコとの対立が高まっていました。(最終的には、本条約締結直後1877年露土戦争になります。露土戦争1877−78年・結果は露が勝利)のほかにも、対英問題、対オーストリア問題とロマノフ王朝はすでにかげりが見えていました。

サハリン(樺太)は露の流刑地で一部住民が住んでいるだけでした。そこで、日本側住民と露の流刑民との間で争いが耐えませんでした。

しかも南サハリン(南樺太)には、大量の石炭が埋蔵されており、船の石炭の供給地として、英国はコルモラント号は、南サハリン(南樺太)湾内の下調査、湾内の深度調査を行い、米国も興味を示していました。露は太平洋側に基地となる港をぜひ確保しておきたかった、ということがありました。しかし、まだ露東部シベリアは深い森と幅広い川でおおわれていて、無人の大地でした。(シベリア鉄道が全通するのは1904年のことです。)

1874年8月に露交渉役ストレモーホフとの交渉が始まりました。

榎本武揚はあたかも、南樺太(南サハリン)は1855年締結した日露和親条約で日露が混住しているが、大きな問題を起こしている訳ではないと主張、露側の、日露住民が問題を起こしているという主張と争いました。 一方、露側の主張では、逆に函館から日本の大量の流刑民を英国船にのせて、サハリンに送り込んだという主張もしました。

しかし、榎本武揚の本音は、すでに述べたように、南樺太(南サハリン)を経営するよりも、むしろ、ここは北海道の経営に注力するべきだと思っていたため、ぎりぎりまで南樺太(南サハリン)について主張しつつも、露側の千島諸島のうち、4島(具体的にどの島かは不明)を日本に譲るという提案をしてきました。

榎本武揚は、さらに、千島諸島のうちの4島と広大な樺太(サハリン)を交換することは、いくらなんでも、釣り合わないという主張を展開し1875年3月千島諸島全島との交換を要求しました。

一方、露側は、千島全島を日本に譲り渡すと、太平洋の出口がなくなるので困ると主張してきました。ところが、露は日本との交渉時に、さらにバルカン問題でオスマントルコとの関係が悪化してきており、正直なところ日本との交渉どころではなくなりました。

露は、1875年3月18日、態度を軟化させ、サハリンを露、全千島を日本と交換するという提案をしてきました。

榎本武揚は、当初、日本が目指したまさに、全千島の日本領が達成され、さらに露の中古軍艦を入手することができ、樺太の久春小丹港は日本郵船に10年間港税、海関税を免除、日本領事の駐在を認める、近海での漁業は最恵国待遇を与えるとしました。榎本武揚は交渉を成功させるために、日本の譲歩ラインを露に悟られないようにしながら慎重に交渉を継続させた結果でした。

こうして1875年5月7日、千島樺太交換条約は、露サンクトペテルブルクで締結されました。

■樺太千島交換条約1875年(明治8年)

日本 榎本武揚駐露全権公使・海軍中将

日本駐露特命全権公使 海軍中将 榎本武揚(1836−1908年)1874年3月日本を出発、8月交渉開始、11月14日本交渉開始、1875年5月7日条約調印

 

 

 

 

 

 

 

 

 

露外務大臣ピョートル・ゴルチャコフ

  締結役 露外務大臣 アレクサンドル・ゴルチャコフ(1798−1883年)交渉役 露外務省アジア局長 ピョートル=ストレモウホフ(1823-85年)

樺太を露領とするかわりに北千島を日本領としました。この結果、すでに日本領となっていた択捉(えとろふ)までの島とあわせて、全千島諸島が日本領となりました。千島全島を日本領とすることで、豊富な漁獲高が期待できる海域を日本の漁民のために確保しました。

ここで注目すべきは、交渉言語が露語でも日本語でもなく、フランス語でおこなわれたことです。条約の正式条文は、フランス語のみ。(榎本武揚が6年間のヨーロッパ留学で、フランス語、ドイツ語、フラマン語が巧みだったことがあります)

千島樺太交換条約は、第2款(かん)で、フランス語からの翻訳と、従来、日本語の訳文とで、

微妙な食い違いがみられ、これがあとあと、問題となってきます。

フランス語からの訳では、「上述のクリル(千島)の諸島のグループは日本国に属する」とあります。これは、クリル諸島全部が千島諸島であり、国後・択捉(えとろふ)を含めてクリル(千島)諸島に属していて、本条約で、クリル(千島)諸島が日本領となったと読めます。

ところが、従来から日本の外務省が根拠としている日本語訳では微妙に異なります。同じ部分は、「現今所領クリル群島」となっていて、フランス語訳のグループに対して「群島」となっていることから、「現今所領」と「クリル」、「群島」の3つの言葉が「同じものを指す」と解釈することができ、日本語訳文ですと(1855年日露和親条約で決まった択捉(えとろふ)島より北の18島だけ」のように読めます。

つまりは、日本の主張は、択捉(えとろふ)以北の18島以外の島は、もともと日本の領土であって、露から本条約で新たに日本領土になったのは、「上記、択捉(えとろふ)島以北の18島」という考えが成り立ちます。

(そもそも、条約文が公文がフランス語ですので、条約としての効力を有しません)

もともと、江戸時代から日本での北方探検熱は高まりをみせていて、1798年近藤重蔵の蝦夷探検、1808年間宮林蔵の北樺太探検、1844年松浦武四郎の蝦夷探検、1869年岡本監輔の蝦夷探検と続いています。

2010年千島樺太交換条約は、戦争などの武力衝突なしに、平穏かつ公然と両国間で締結された条約であるから、現在でも有効。北方領土は、千島全島をロシアに返還要求すべきという主張もあります。なんとこの主張をしているのは日本共産党です。(ちょっと面白いですね。スターリンの拡張主義だそうです)

参考資料 『駐露全権大使 榎本武揚(上・下)』(ヴェチェスラフ・カリキンスキイ著藤田葵訳・群像社2017年刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

『榎本武揚と明治維新』(黒渕秀久著 岩波ジュニア新書2017年刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

資料:Wikipedia日本語版

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北方領土の私的検証(その1)川路 聖謨・プチャーチンの日露和親条約

2018 DEC 18 15:15:54 pm by 野村 和寿

北方四島か二島返還か? ロシアを相手に、平和条約締結に向けて、駆け引きが再び盛んになってきました。この問題のルーツを調べているうちに、興味深いことをいくつもみつけたので、ブログに書いてみます。

露側全権プチャーチンを描いた当時の瓦版錦絵

本問題に関しては、興味をもてば持つほどに、興味深い点がたくさん出てきます。

興味深い点その1,千島列島をどこからどこまでとするかは、日・露で1855年以来ずっと解釈の違いがありました。

日露和親条約 日本語版全文

まず日露和親条約(1855年 安政2年)です。

露側代表 エフィム・プチャーチン

露側代表・エフィム・プチャーチン(1803-1883年)、

日本側代表・川路 聖謨

日本側代表・川路 聖謨(としあきら)(1801-1868年)

■川路 聖謨 海防掛・勘定奉行による交渉

1853年、長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉を露使応接掛となり

12月20日から国境、和親通商について第1回交渉を開始。

1854年 10月7日下田に出張、

12月23日、安政東海地震(マグニチュード8.4)・津波が起きて交渉中断。

露全権プチャーチンの乗船していたディアナ号は、津波に攫われた日本人を救助、船医が治療。ディアナ号津波で破損。応急修理をして戸田港へ向かうも1855年1月15日風と波により浸水航行不能に陥りました。江戸幕府は、ディアナ号にあったほかの船の設計図をもとに、日本の船大工を動員して、新しい代船ヘタ(日本名・戸田)号の建造に尽力しました。

1855年1月1日(嘉永7年11月13日)中断されていた交渉再開5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、日露和親条約締結調印に成功します。(ディアナ号の日本人救助が、日本側に好印象、また代替船の建造が露側に好印象だったことが、早期条約締結になったと思われます。

■条約交渉の言語はオランダ語で行われました。交渉はオランダ語により、オランダ語条文ロシア語条文があり、さらに、ロシア語条文から日本語訳が作られました。(なぜか、オランダ語から日本語訳は作られませんでした)

日露和親条約では、択捉(えとろふ・英語名Itrup)島・得撫島(うるっぷ・Urup)間に日露の国境を画定。択捉(えとろふ)島は、日本の領土で確定しました。下の図中央の1855年の線が、それです。

日露和親条約(1855年)第二条「両国の国境を択捉島とウルップ島の間とし、樺太については国境を定めず、雑居地とする」となりました。

■条文内で注目すべき論点

条文では、クリル(千島列島)諸島部分で日・露で異なります。後々、クリル(千島列島)諸島がどこからか?という問題がここで始まっていました。

■露語による第二条

日露和親条約条文・露語 「残りの北のほうのクリル」

(解説:クリル諸島の地理的呼称は「得撫(うるっぷ)島以北」に限定することはできない。つまり択捉(えとろふ)島もクリル諸島の一部であるようにも読める)

■日本語(オランダ語訳→露語訳→日本語訳)による第二条

日露和親条約条文・日本語「それより北のほうのクリル」

(解説:残りが抜けている。クリル(千島列島)諸島の地理的呼称が、得撫(うるっぷ)島よりも北であるかのように読める。つまり択捉(えとろふ)島はもともとクリル(千島列島)諸島に含まれないと読める)

■ここまでのまとめ 日露和親条約(1855年)で、日露の国境を画定。

択捉(えとろふ)島は、日本の領土で確定しましたが、後々に問題となる、どこまでが千島列島(クリル諸島)なのか?ということについて、日露ですでに見解が分かれていたことがうかがえます。

■日本側 千島列島(クリル諸島)に、択捉(えとろふ)島は含まれない日本固有の領土。

■露側 クリル諸島(千島列島)に、択捉(えとろふ)島は含まれる。

この際の川路聖謨の交渉は見事で、硬軟使い分けて日本の主張を認めさせました。日本側代表・川路 聖謨(としあきら)(1801-1868年)は、プチャーチンをして「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書かしめています。「川路を、私たちは皆、気に入っていた。川路は非常に聡明であった。彼はロシアに反発する巧妙な弁論を以って、知性をほのめかすものの、なおもこの人物を尊敬しない訳には行かなかった。彼の一言一句、一瞥、そして物腰までが、全て良識と機智と慧眼と練達を現わしていた」副官だったゴンチャロフ「日本渡航記」(1941年井上満訳・岩波文庫)より

後、1887年(明治20年)、プチャーチンの孫娘のオルガ・プチャーチナ伯爵は所縁の地、静岡県戸田村を訪ね、そこに100ルーブルの寄付をしています。その後の歴史の激動の中にも両家の交流は続き、2008年にも日露修好150年を祝っています。1868年(慶應4年)江戸城開城の報を聞き割腹のうえピストル自殺。享年68歳。なお、冒頭の写真が、不鮮明なように見えるのは、若い頃に煩った、病気・疱瘡(ほうそう)の痕だそうです。川路聖謨は、自らのことを酷い顔をしているといっていたそうです。

これを裏付けるように2018年12月3日の毎日新聞紙上で、国境警備にあたった松前藩士の墓が、択捉(えとろふ)島で見つかったというニュースが飛び込んできました。「北方領土・択捉(えとろふ)島中部の振別(ふるべつ)付近で、在島ロシア人が日本人の墓所を発見し。」墓には、文政11年(1829年)3月8日 (松前藩士 藤原正蔵隆則の墓と読める)

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男性更年期障害を克服する

2018 OCT 28 7:07:20 am by 野村 和寿

このおよそ6ヶ月の間、ぼくのなかで苦しんでいました。よく男性同士の会話で「おまえ、男の更年期なんじゃないの?」と冗談とも付かぬ言葉を交わしたりすることがある。ぼくは、その「男性更年期障害」に本当になってしまいました。

「うつ」のように塞ぎ込む毎日、「自分はもう駄目なんじゃないか」と落ち込む日々、かといって、「些細なことを気にし出す」。周囲の些細なことにもイライラして神経過敏になる。いつも体がだるくて、すぐに眠くなり休日はよこにごろんと横になってばかり。いつもは好きな趣味もなんとなくしたくなく、なにもしたくない日々が続きました。仕事もなかなかうまくはかどりません。このことと、頻尿。夜なんどもトイレに立つ、 1日じゅうそれこそすぐにトイレに立つことが多い。この前者の神経内科的な、うつのような症状と、頻尿とがまさか、結びつくとはなかなか考えていませんでした。

本を見つけた。『ホルモン力が人生を変える』(小学館101新書

https://www.shogakukan.co.jp/books/09825023)、

やる気が出る!最強の男性医療

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166609192

ともに、

順天堂大学病院の泌尿器科の堀江重郎先生の本でした。

順天堂大学の泌尿器科のhpをためしにみてみると、「メンズヘルス外来」という診療科目が目に入った。詳しくは、ここにあります。

男性更年期障害という病気は、まだまだ泌尿器科の医者にも理解が少なく、メンズヘルス外来を設置しているところは、全国に数えるほどしかありません。しかも、外来は第一と第三土曜日の午前中に限られているので、千客万来の様相を呈しております。

メンズヘルス外来、そして、上記の2冊の著書よると、男性は、ある年代から、男性ホルモンのひとつである「テストステロン」の分泌が悪くなり、泌尿器に向けてだけでなく体全体を司るこのホルモンの減少が、男性更年期障害を引き起こす。と書いてあった。

女性は閉経による女性更年期があることは周知の事実で、みながよく知っている。女性はエストロゲンという女性ホルモンの一種を減少させ、かわりに、女性のもっている男性ホルモンであるテストステロンが結果的に割合がふえる。女性が高年齢になると活動的になることが多いのは、女性の男性化なんだそうだ。ところが男性は、男性ホルモン テストステロンが減少すると、男性更年期になってしまい、活動力がにぶるのだということを、上の2つの本で知りました。

テストステロン

男性ホルモンの一種テストステロンの働き(順天堂メンズヘルスhpより)

 

 

 

そこで順天堂大学病院に設置されている「メンズヘルス外来」を受診してみた。泌尿器科の中にある。5本の血液検査、検尿検査と同時に、30ページにもおよぶ、細かなチェックリストをマークシート方式で行い、現在の症状をチェックする。この調査項目のなかには、「朝だち」を最近するかといった、性についての、こまかな質問も多くある。ここではデリケートな話なので、触れられないけれど。

目にたいしての質問、心身の疲労感についての質問、尿についての質問、腰痛や背中のむくみ痛みについての質問もある。

ぼくのばあい、初診なので、細かな結果は次回にもちこしだったが、基本的には中度から重度の男性更年期障害ではないかと、メンズヘルス外来の先生にいわれた。

メンズヘルス外来で、自分の体の悩みが、決して、心療内科的な悩みではなくて、泌尿器科とむすびついたれっきとした病気であることを、お医者に認めて貰ったことだけで、随分と楽になりましたた。

治療としては、まずは、牛車賢気丸(ごしゃけんぎがん ツムラ107番)、補中益気湯(ほちゅうえっきとう ツムラ41番)の1日食前3回の服用、そして、検査結果の後に、テストステロンの院内での注射ということになりそうです。 これからです。

人にほめてもらうことはこの病気にはいいそうです。

お医者さんにいっただけなのですが、大分安心したので、ご報告しました。

順天堂病院のパフェ

順天堂病院にはヒルトップホテルが食堂に入っていてパティシエが調整した「シャインマスカット・パフェ」を久しぶりにいただきました。

『妖星ゴラス』(1962年)を今日的に観る その2

2018 MAR 3 9:09:39 am by 野村 和寿

その1はこちらです

妖星ゴラスが太陽系に侵入すれば、45日目の1982年2月中旬には地球に到達し衝突してしまう。そのときまでに地球は少なくとも40万㎞以上も軌道を大移動させなければならない。地球を動かすのに要する推力は660億メガトン、加速度1.10×10のマイナス6乗G。

国連科学委員会

NYで緊急開催された国連科学委員会。その席上で田沢博士は妖星ゴラスはこのままでいくと、1982年2月中旬に地球に最接近することを解く。背景の絵画は、アンリ・ルソーの絵画「戦争」のオマージュだと思われる。

これまで互いに争っていた米ソ両大国でさえ、地球それ自体の危機に際し、一致協力して、南極へのブースター群基地建設を急ぐのだった。

ロケット噴射口の高さは地上50m、面積は600平方㎞推力660億メガトンのジェットパイプで、これで100日間に40万㎞以上地球を動かす。世界各国から資材が続々と集結し建設された。

 

 

ブースター群基地は、ジェット噴射で、地球の軌道自体を動かしてしまおうという気宇壮大な計画。国連科学委員会の席上で、田沢博士(池部良)は、推力に水爆と同じ重水素と三重水素(無尽蔵の海水)を使い、巨大ブースター推進装置の基地からジェット噴射させれば、地球自身の軌道を変えることが可能であると諸外国の科学者たちに力説する。

 

さらに、妖星ゴラスの爆破計画も提案され、日本政府に、国連からなけなしのJX-2鳳号の派遣を要請される。妖星ゴラス爆破し、軌道を変えるべく出動。

JX-2「鳳」号

国連からの要請を受けてJX-2「鳳」号(写真左)が、妖精ゴラス爆破に向かう。母船「鳳」号のカプセル(写真右)が発射され金井隊員が妖星ゴラスに接近を試みるもあえなく失敗。母船はカpセルの回収には成功するが、乗組員の金井隊員は記憶喪失に。

世界が注目する中、JX-2鳳号は妖星ゴラスに接近、爆破を試みるが、重力が大きすぎて爆破は不可能。逆に、鳳号のカプセルで、妖星ゴラスへの接近を試みたが失敗。妖精ゴラスは、パロマ天文台発見当時は質量が6000G、JX-1隼号から送られてきたデータでは6100G、そして鳳号の観測データでは、6200Gと、惑星を吸収すながら肥大化を遂げていた。いまや地球の6200倍あることが観測で判明する。

JX-2鳳号乗組員で、偵察任務に出た、金井達磨隊員が、妖星ゴラスの輻射熱で、記憶喪失になってしまう。この「記憶喪失」というのも、なんだか、当時のネタという気もする。金井隊員は、幸運にもJX-2鳳号に回収され、無事地球に帰還するも、記憶は喪失されたまま。

金井隊員は、宇宙相の秘書でタイピストの野村滝子(水野久美)と幼稚園から高校までの幼なじみで、恋心もいだいていた。金井はすべての記憶を喪失しまっていた。なんとか記憶を呼び戻そうと奔走する滝子。

妖星ゴラスの重力により地球は既に膨大な被害をこうむっている。東京はほぼ水没。この映画のなかでの1982年2月に計算上妖星ゴラスと地球はぶつかる計算になる。

このままいくと妖星ゴラスは1982年2月中旬、地球に最接近するか最悪の場合衝突する可能性がある。日本宇宙物理学会の河野博士(上原謙)の新聞記事。

悲観した滝子(水野久美)は「いっそのこと妖星ゴラスと地球がぶつかっちゃえばいいのに」と嘆息する。妖星ゴラスと地球とが、衝突しないためには、あと36時間分の地球移動距離が必要と判明。足りない。さてどうなったのであろうか?

妖星ゴラスとの衝突を回避しようと試みる、南極のブースター群ジェット・パイプ基地は、100日間、総エネルギー660メガトンのジェット噴射で燃え上がることになった。

南極基地のジェットパイプ

南極計画 地球の軌道を変えるために、100日間噴射口の合計600平方㎞の噴射口から、推力660億トンのジェットパイプが勢いよく火を噴いた。

宇宙ステーションに設けられた「妖星ゴラス重力圏外観測本部」では、妖星ゴラスの地球接近を観測した。

妖星後ラス重力圏外観測本部

宇宙ステーションに設けられた「妖星ゴラス重力圏外観測本部」では、妖星ゴラスの地球接近を観測した。

重力圏外に設けられた観測本部では、地球が南極基地のジェットバルブ噴射により1.10×10の−6乗Gで地球の軌道が動き出したことが判明した。地球と妖星ゴラスの衝突はひとまず回避された。地球の軌道を元に戻すこれからが大変だというところで映画は終わっている。国連科学委員会からのメッセージ「皆さん、我々は勝ちました。妖星ゴラスは既に地球から離れようとしています。我らは全人類の平和への願いと協力によって勝ち得たこの勝利を永遠のものにしようではありませんか!」

1962年公開・東宝映画 監督・本多猪四郎 特撮監督・円谷英二 製作・田中友幸

 

*この映画の面白さ 時代背景が面白い

1979年のクリスマスでごった返す人混みのなかの、園田智子(JX-1「隼」号園田艇長の娘・白川由美)と野村滝子(宇宙省大臣秘書・水野久美)

ここで挙げられるのは1962(昭和37)年という『妖星ゴラス』が公開された年時代背景である。

確かにぼくの子どもの頃、昭和30年台には”Merry Xmas”などと飾って、頭に紙の帽子をかぶって、盛り場に繰り出すということがあった。今、考えればとても奇妙な日本のクリスマス的な風物だった。

映画公開当時の1962年から17年後の設定である1979年のクリスマスは、クリスマスの帽子をかぶった浮かれムードで銀座に繰り出す若者でいっぱい。宇宙パイロットは、アルバイトで、かぶりものの、ロボットのかぶりものに身を包み、サンドイッチマンをやっているという趣向。あくまでも未来はばかばかしいほどに明るい。

1956年に日本が南極観測を再開し、昭和基地を作ったことは、日本の国際社会への復帰を日本国民はこぞって喜んだ。

映画では、当時日本では最高の国際機関だと思われてもいた国際連合本部が登場する。1962年当時、日本は国際社会への復帰が国民大衆の大きな希望であったことが窺える。「国際連合」という戦後登場したインターナショナルな国際機関が、「希望の星」とみていた機運は確かに日本にあった。

国連科学委員会にはなぜか黒板が

国連科学委員会で妖星ゴラスの軌道を発表する**博士。黒板で発表するのが当時らしくほほえましい。熱心に働きすぎており、上司から「君ももう少し自分を大事に為なくちゃ」といわれている。この言葉は当時の映画によく出てきた台詞だった。

日本の英知では世界に貢献できる。ということも、湯川秀樹博士のノーベル物理学賞受賞以来日本が抱いていた希望だった。日本の学者が国際会議の席で、各国の代表のなかでも、指導力を発揮し、平和利用で地球的な規模の難題に立ち向かうという話も、当時的にはうれしかったのだろう。日本は戦争には負けたけれども、捨てたものではない知的な国家なのだと思いたかったのだろう。

パロマ天文台というのも、私たち男児には魅力的な名前だった。アメリカのカリフォルニア州サンディエゴにあり、当時世界最大の1.22mの反射式望遠鏡が完成したのは1958年のことだった。子どもの図鑑には必ずといってよいくらいパロマ天文台の写真が載っていたのものだった。

*******

写真上・国連という名前は1962年当時の理想の国際機関 映画内の「南極基地」にも国連のマークが見える。写真下・富士山麓宇宙港の建物。ロケは山手線内で一番高い建造物だった早稲田大学理工学部校舎が使用された。夢と現実をうまく組み合わせた例

妖星ゴラスの衝突を地球の軌道を変更することで、回避するというアイデアは、当時スタッフが東京大学理学部天文学研究室『妖星ゴラス』の軌道計算の黒板への板書は、当時最先端の権威、東大の理学部天文学科 畑中武夫教授門下・堀源一郎先生(のちに東大名誉教授)に、軌道計算を依頼した。大まじめにSF映画のスタッフが、ときの権威の門をたたいたこと。そして、ときの権威もそれ大まじめで応えたこと。これはかなり画期的といってよい。しかし、堀先生は、映画のために、計算に入ったが、なんど計算しても、妖星ゴラスが、地球と衝突してしまう計算になったために、軌道計算の修正になんとまる1日もかかってしまったとのことである。国際会議場で、田沢博士(池辺良)の背景に出てくる黒板への長い長い数値計算式は、実際の堀先生の板書とのこと。

ちなみに宇宙省富士山麓宇宙港の建物は、当時、東京の山手線内でもっとも高かった出来たばかりの早稲田大学理工学部の建物が使われた。この建物は、世界遺産ル・コルヴィジェの愛弟子でった建築学科の吉阪隆正教授の設計による建物群だった。

一方で、宇宙船に隼(はやぶさ)号とか、鳳(おおとり)号とか名前が付けられている。宇宙船内は、なんだか戦前の伊号潜水艦を思わせる作りで、蚕棚の乗組員居室、艦長の潜望鏡による宇宙視察など、さらには、通信や艦長の部下への命令下達の口調はなんだか、旧日本軍の命令口調と似ている。つまりまだまだ日本のなかに、戦前の日本軍のイメージがずいぶん色濃く残っていた。

地球は危機から脱した。すでに水没した東京を東京タワーから眺める野村滝子(水野久美)と、園田智子(白川由美)

1962年当時大人達がおおまじめで製作した『妖星ゴラス』は、1962年当時の大人と子どもの、日本の将来への夢がいっぱいつまった作品であったことは間違いない。

 

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