1949年のロンドンから東京へ飛行艇の旅

2017 APR 18 16:16:12 pm by 野村 和寿

BOAC(英国海外航空)1949年3月の時刻表から、ロンドンから遠く、ファー・イースト東京までの飛行機の旅を再現してみます。

boac timetable

BOAC(英国海外航空)1949年3月のタイムテーブル(時刻表)です。

ロンドンのBOAC(英国海外航空)の乗客ターミナルから、送迎車でサウサンプトンまで。サウサンプトンといえば、悲劇の客船タイタニック号の出発港として名高い港湾都市です。

就航時刻表

サザンプトン(ロンドン)・横浜(東京)間の就航時刻表です。タイムテーブルの23番目に見つけました。写真をクリックすると拡大できます。

港には、ショート社製の飛行艇サンドリンガム5型号が駐機中。1946年6月22日にデビューした「サンドリンガム号」は2層デッキの飛行艇。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名、を搭乗させることができます。

飛行艇

これが搭乗する飛行艇英国ショート社製サンドリンガム5型です。

boac map

BOACの海外ネットワーク図です。右隅にかろうじてTOKYOと記載があります。写真をクリックすると拡大できます。

1949年3月6日日曜日

●ロンドン・ターミナル発7:00(送迎車移動)

  • サウサンプトン(ロンドン)発11:00

    サウサンプトン

    出発港はサウサンプトン

 

 

 

 

 

 

 

 

▇第1経由地は、イタリアのシチリア島

イタリア・シチリア島アウグスタ着19:00

アウグスタ

イタリア・シチリア島の都市アウグスタ(現在)

アウグスタといえば、イオニア海に面した港湾都市で、英国第8軍モントゴメリー将軍によって1943年に連合軍が上陸した都市であります。

この日はアウグスタに宿をとります。

 

 

 

▇3月7日 2日目は、エジプト・アレクサンドリアへ向かいます。

アウグスタ発 午前9:00

アレクサンドリア

アレクサンドリアエジプト第2の都市(現在)

第2経由地は、エジプトのアレクサンドリア 午後15:15着です。

古代エジプトプトレマイオス朝の首都で蟻、エジプト第2の都市です。

ここでまた1泊 飛行艇は、海上のすれすれを飛行するため、昼間の飛行が原則でしかも長時間の飛行は、難しかったのです。

▇3月8日 3日めは、バーレーンヘ向かいます。

バーレーン

バーレーン(現在)

第3経由地は当時英国領バーレーンのバーレーン(現在はマナーマ)

アレクサンドリア発 午前7時

バーレーン着17:00 ここで1時間の休憩をとります。

 

 

 

▇第4経由地パキスタンのカラチヘ向かいます。

バーレーン発 午後18:00

カラチ

カラチ パキスタンの首都

パキスタンの首都カラチ着 日が変わって(3月9日)の日の午前1:45

ここで6:15の休憩 この日はさらに飛行します。

 

 

 

 

▇第5経由地は、インドのカルカッタです。

カラチ発 午前8:00

コルカタ

インドのカルカッタ(現在のコルカタ)(写真は現在)

インドのカルカッタ(現コルカタ)着 午後16:00

コルカタでやっと1泊できます。やれやれ。

 

 

 

▇3月10日 第6経由地は、ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)です。コルカタ発 午前6:00

ヤンゴン

ビルマのラングーン(現在のミャンマーのヤンゴン)写真は現在

ビルマのラングーン着 午前11:00 ここで1時間休憩を取ります。

 

 

 

 

BOAC900便の航路図

BOAC900便の航路図を描いてみました。

▇第7経由地は、タイのバンコクです。

3月10日 ラングーン発 午後12:00

バンコク

タイのバンコク

 

第7経由地は、タイのバンコク着午後15:00

ここで1泊します。

 

 

 

 

 

▇3月11日 第8経由地は、香港です。

バンコク発 午前8:00

香港

英国領香港(現在の中国・香港)写真は現在

 

香港着 16:45ここで1泊します。

 

 

 

 

 

 

 

▇3月12日 第9経由地は、上海です。

香港発 午前10:00

上海

中国・上海(写真は現在)

上海着 午後15:00ここで1泊します。

 

 

 

 

 

 

▇3月13日 いよいよ東京(横浜)に向け出発します。

上海発 午前8:00

日本の岩国・到着時刻は午後17:00

横浜

横浜 写真は現在

ここでさらに1泊し

3月14日 岩国発午前7:30

横浜(東京)着10:30

 

時刻表にはどこにもないのですが、たぶん、到着時刻は現地時間のような気が致します。

やっと横浜港に到着しました。なにしろ飛行艇なので、羽田飛行場ではなくあくまでも、横浜港というところが面白いです。

旅程をみると、後年、南回りヨーロッパ行き航路東京=マニラ=バンコク=ラングーン=カルカッタ=ニューデリー=カラチ=バーレーン=カイロ=ローマ=ロンドン(1952年:英国海外航空、機材:デハビランド DH.106 コメットI、経由地:9箇所) とよく似ていたことがわかります。

▇まとめてみますと

3月6日日曜ロンドン・ササンプトン発

3月14日月曜東京(横浜)着

実質飛行時間 73時間45分

所要時間8泊9日 どうですか?素敵な旅をご堪能いただけましたでしょうか?

tokyo料金表1

東京発の運賃表左が片道、2番目が往復運賃、次がエクセス・バゲージ料金です。    写真をクリックすると拡大できます。

 

london料金表

こちらはロンドン発の運賃表 機内持ち込み荷物は24㌔までキロあたり5ポンドです。 写真をクリックすると拡大できます。

気になるお値段ですが、往復387ポンド、片道215ポンドとあり、1949年の円・ポンド換算が1ポンド1,080円でしたので、単純計算すると往復370,046円、片道216,720円となります。昭和24年と平成27年とで7.75倍になっているので、現在の貨幣価値ですと、おおよそ、往復2,86万7,856円 片道1,67万9,580円。 ちなみにBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)の正規ファースト・クラス・ロンドン往復航空運賃が1,34万2,690円

所要時間12時間20分(ノンストップ)ですので、約2倍のファースト・クラス運賃と思ってよさそうです。

boac 22

これは当時のBOACのパンフレット(別の路線バーミューダ島路線)から乗り心地を想像できます。BOACは27年の実績からお客様に素晴らしいサービスをお約束いたします。 写真をクリックすると拡大できます。

内部レイアウト

英国ショート社製サンドリンガム5型機内の内部レイアウトです。艇内は、プロムナードデッキ・ダイニング・カクテル・バーなどを備え、座席で22名、寝台で16名を搭乗させることができます。写真をクリックすると拡大できます。

 

Courtesy of http://forum.keypublishing.com/showthread.php?79617-Need-a-Photo-of-Short-Sandringham-5-quot-Portland-quot

エアバスA380

飛行艇サンドリンガム5型は、内部キャビンの豪華さなど、エアバスA380型機と相通じるところがあると思います。

ちなみに、2015年 日本海上自衛隊の飛行艇US-2が、インドへ売却されることに決まりましたが、なぜ日本かといえば、現在飛行艇を生産している国は日本しかないからです。

Special thanks to:

The Collections of either Björn Larson or David zekria

“Airline Timetable Images”

http://www.timetableimages.com/ttimages/complete/complete.htm

 資料 『時刻表世界史』曽我誉旨生著 社会評論社2008年刊

写真・ウィキペディア・パブリック・ドメインより

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60年代のポルトガルは・・・

2017 FEB 12 21:21:38 pm by 野村 和寿

堀田善衛の『スフィンクス』

スフィンクスオリジナル

毎日新聞社 初版1965年

読了。作者は、画家ゴヤを描いたスペインもので有名ですが、1963年に不思議な小説を書いていました。同年4月2日号から毎日新聞の『エコノミスト』誌で1年間連載された小説で、1965年に毎日新聞から単行本化され、1977年に集英社文庫に収録されました。なんと610ページにもなんなんとする大長編で、いまどきは、1冊で、こんなに分厚い文庫はなかなかありません。

集英社文庫1977年

集英社文庫1977年 カバー・イラストは朝倉摂(1922-2014舞台美術家・画家)が担当している。

ボクは、昔の小説を古書店で探してきて読むのが好きです。といいますのは特に、執筆当時の世相がかいまみられて、なかなか今では知ることが出来ないことに遭遇して一喜一憂しています。
『スフィンクス』というタイトルは、エジプトのアブ・シンベル神殿が、アウワンハイダムの建設によって、水中に沈むのを移設する寄付金を募る主人公・国連ユニセフの日本人職員菊池節子というのと、スフィンクスが、神殿をまもる守護神というところからきていて、ストーリー自体はヨーロッパ・ドイツ、スペイン、ポルトガル、スイスが舞台になっています。
小説のなかで、こんな一節をみつけました。「デザートはスイス・ドイツ風な料理とは違って美味なワッフルとそれにイタリー風な、エスプレッソと呼ばれるコォフィであった。」つまり、日本の読者にとって、エスプレッソはなんだか解説しないと分からない飲み物でした。そんな時代だったのです。

『スフィンクス』の書かれた1963年の少し前の時代背景はこんな感じです。1962年 スイスのローザンヌの対岸にあるフランスの街エヴィアンでフランスとアルジェリアの間で交渉が妥結し、同年7月、アルジェリアが正式に独立を果たしています。
また、小説に出てくるポルトガルについての記述に目が行きました。
「ポルトガルはいまなお1275万の植民地人口をもち、その植民地の面積は2090万平方キロにのぼっている。そうしてサラザール政権には、これを解放し独立させる気などはまったくなかった。しゃぶれるだけしゃぶり、反抗するものは徹底的に武力弾圧する。カイロでは、誰もがアルジェリアと今後の次はアンフォラだといっていたことも思い出されてくる」つまり1960年代は、まだ、ポルトガルは大航海時代から連綿と続いてきた大帝国だったのです。というより大帝国の名残といったほうが正確かもしれません。

ポルトガル 植民地

1410年から1999年までのポルトガルの海上帝国 赤はポルトガルが領有したことのある地域、ピンクは領有権を主張したことのある領域、水色は大公開時代に探索、交易、影響が及んだ地域  ウィキペディアより

ポルトガルのサラザール政権を、別途、調べてみると面白いことがわかりました。スペインの市民戦争にナチスの後押しを受けて、フランコ政権は、第2次世界大戦中も中立を宣言したために、戦後もなんと1975年まで独裁を続けたのは有名ですが、ポルトガルもこれとまったく同じ歩調をとっていました。サラザールの独裁体制はエスタド・ノヴォ(新国家体制)と言われ、1933年にドイツとイタリアから顧問を呼ビ国家防衛秘密警察(PIDE・ナチスのゲシュタポを模しています)を創設。サラザールの政敵を弾圧したほか、共産主義者、社会主義者、自由主義者、フリーメーソンも弾圧したのでした。

1936年1月にサラザールは首相、財相、外相、陸軍相、海軍相のポストを兼任し1939年にスペインのフランコ将軍率いる反乱軍に義勇軍を送ったりしています。フランコが勝利すると、スペインと友好不可侵条約を締結し、1940年ローマ教皇庁と政教協定(コンコルダート)を締結しました。ボクはポルトガルにおける全体主義とカトリックに裏打ちされていたと言うことを、恥ずかしながら初めてしりました。

サラザールの政治哲学はカトリックの教義に基づいており、経済政策もカトリックに影響を受けています。高等教育は重視されなかったために、現在でもポルトガルの識字率はヨーロッパ一低いといわれています。

 

サラザール

アントニオ・サラザール(1889−1970 1932−1968ポルトガル首相)写真:ウィキペディアより

そして、この小説の生まれた1960年は、「アフリカの年」と呼ばれたように、アフリカの国々が民族解放の名のもとに、いっせいに誕生しています。1961年にはアンゴラ独立戦争が、はじまり、同年、インドが、ポルトガル領、ゴア、ダマン、ディーウを武力侵攻、1962年にギニアピサウ独立戦争、1964年にモザンビーク独立戦争が起きていました。
サラザールは1968年まで首相でした。その後も、ポルトガル植民地帝国は続いたのですが、1974年のカーネーション革命で打倒されたのです。
ちなみにマカオが、中国に返還されたのは、1999年12月20日のこと。
それまでは、ロシャ・ヴィエラRocha Viera総督が統治していました。司法管轄区分も、リスボン地方裁判所管区支部だったとありました。

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命のビザ、遙かなる旅路

2017 JAN 4 5:05:07 am by 野村 和寿

北出明著『命のビザ、遙かなる旅路 ~杉原千畝を陰で支えた日本人たち』(交通新聞社新書044)読了。

命のビザ、遙かなる旅路

杉浦千畝を陰で支えた日本人たち 交通新聞社新書

リトアニアの首都カラナスの杉原千畝総領事の、ユダヤ人難民への日本通過ビザ発給は、つとに有名だが、本書は、ビザ発給を受けたユダヤ人たちが、シベリヤ鉄道の終点ウラジオストクから、国際航路で就航していた日本郵船の「天草丸」に乗船して敦賀港へ向かったとき、実は、JTBの前身、ジャパン・ツーリスト・ビューローや、日本郵船の多くの日本人たちが、半年以上に亘り、彼らを献身的にサポートしていた事実が書かれています。

難民が着いた敦賀市では、戦雲急を告げる中、中学の校長が「ユダヤの民は、今は、ぼろを着ているが、高名な学者や芸術家、銀行家などを多く排出しており、ぼろをきているからといって、けっしてさげすんではいけない」と子ども達に訓示。

ユダヤ人たちに、無償で銭湯を提供したり、宿を提供したり、また、難民たちにりんごを配る少年がいたなどのエピソードを発掘しています。難民たちは、敦賀から列車で、横浜や、神戸に向かい、アメリカを目指しました。著者は長く国際観光振興会に奉職後、たった一人で、ユダヤ人難民の生き残りを探し、家族達を探し当て、アメリカ中を旅をします。

リトアニア・カウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用

リトアニア・カウナスで発給されたビザを携えたユダヤ難民は経由地である日本の敦賀をめざしました。敦賀市ホームページより引用

この事実を当時のユダヤ難民たちの生き残りや家族へのインタビューを通して明らかにしていく迫真のドキュメンタリーです。多くの名もない日本人たちが、敦賀で、神戸で、ユダヤの難民を助けたという事実は重く、運命の糸でつながっていることを感じてしまいます。こんなことを70年経って発掘した本が出るとは本当に、すごいことだと思いました。

▇本書から見つけた興味深いことがら▇

1,本書には「ヴェルディヴ事件」のことが若干触れられていました。1942年7月19日早朝ヴィシー政府下のフランス警察は、自主的にパリ在住のユダヤ人1万3000人を検挙。うち4115人の子、2016人の女性、1129人の男性をエッフェル塔近くの「ヴェルディヴ」と呼ばれる自転車競技場に閉じ込め、最終的にはアウシュビッツに送り込まれ、生存者はわずか25人だった。この事件が公にされたのは1995年シラク大統領の時で、そのときはじめてフランス政府は謝罪したということでした。

2,1937年満州国ハルピンで開かれた第1回極東ユダヤ人大会を開き、ユダヤ人の立場に同情したのが、関東軍指揮下のハルピン特務機関長樋口季一郎中将だったこと。満州国の経済圏の確立を企図したことがうかがえるとはいえ、関東軍はナチスを非難し、ユダヤ人に同情。 1938年3月満州と国境にあるソ連側のオトポール駅にナチスに追われたユダヤ難民が大挙して流れ込んだ。寒さと餓えに苦しむ彼らを救ったのが、で、ユダヤ難民をハルピンに逃れることが出来た。というエピソードにも触れています。

3,ユダヤ人たちを、ウラジオストクから敦賀まで運んだ船、天草丸は数奇な運命の船でした。ドイツで竣工し、帝政ロシアに売却され、日露戦争で、日本海軍に拿捕、そして最後は、米海軍に撃沈されます。つまり、ドイツ→ロシア→日本→アメリカ と結びつきます。しかも時代は異なるものの、ユダヤ人を迫害していたドイツと、ロシアで活躍していた船が、日本でユダヤ人を助けることになるのでした。

天草丸の歴史

ウラジオストク→敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸

ウラジオストク→敦賀間でユダヤ難民を乗せた天草丸

ドイツ北部バルト海に面する港湾都市ロストックのネフタン造船所で1901年浸水し、帝政ロシア東清鉄道に売却、され、貨客船アムールと命名される。1905年日本海軍が、拿捕、天草丸と改名される。

1906年に大阪商船に払い下げ、1929年北日本汽船に売却、その後日本海汽船に引き継がれ、敦賀~ウラジオストク間に就航。1932年、ジュネーブの国際連盟会議に出席する全権代表の松岡洋右:後の外務大臣が乗船していることである。

天草丸その2

数奇な運命をたどった天草丸

1943年合併から大阪商船に移籍、1944年台湾近海で、米海軍潜水艦バングとレッド・フィッシュの両潜水艦の水上雷撃により沈没

 

 

 

4,杉浦千畝の発給したビザの有効期間はわずか10日間でした。これではとても日本からアメリカへの乗船までの期間が確保できません。窮状を聞きつけたユダヤ研究家小辻節三は、松岡が南満鉄総裁時代の部下だったことから、窮状を当時の外相松岡洋右に直訴。松岡は「ドイツ・イタリアと同盟は結んだが、ユダヤ人を殺せとまでは約束していない」として、小辻に秘策を伝授。それは、元官僚らしく、ビザの延長権限は地方公共団体の警察にあることを話し、これが認められれば、外務省はぐうの根も出ないとアドバイス。そこで、小辻は神戸の警察幹部に、1回のビザ延長15日間を認め、事実上何度も申請することで、無期限までビザ延長が可能になったのです。

小辻節三については、下記のHPで詳細がありました。

ユダヤ人ビザに奔走した小辻節三についてのHP

敦賀市によるユダヤ難民関係のHP

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大森実の『戦後秘史』を読了

2017 JAN 3 7:07:42 am by 野村 和寿

1975年に刊行された、大森実の『戦後秘史』(講談社刊)を、アマゾンで1-5巻まで揃えました。ぼくはこの本を、大学のときに、本当にスゴイジャーナリストがいるもんだと、感動して読んだのを思い出します。それからもうかれこれ30年、再び読んでいます。

古書が揃えられるのは、アマゾン恐るべしです。

大森実著 戦後秘史

戦後秘史料全10巻その1
1975(昭和50)年第1冊講談社より刊行開始

元毎日新聞の国際事件記者 大森実が、終戦直前、終戦直後に、関わった人々に直接取材する時間がないと、精力的に、インタビューを重ねた力作です。

文章は、まるで目の前で事件が起きているように新聞記者の平易な文章で血湧き肉躍ります。各巻には、直撃インタビューが掲載されていて、当事者の肉声が聴けます。その多くは既に鬼籍に入っているので、今や話を聞けない人々ばかりです。

1 日本崩壊 児玉誉志夫(上海海軍児玉機関長)

2 天皇と原子爆弾 阿南綾(陸軍大臣阿南惟幾大将未亡人)

迫水久常 (鈴木貫太郎内閣 書記官長)

松本俊一(鈴木貫太郎内閣 外務次官)藤村義朗(海軍中佐

在スイス日本公使館駐在海軍武官)

3 祖国革命工作 野坂参三(日本共産党議長 参議院議員)

西氏恒次郎・ジョー小出(元アメリカ共産党員)

4 赤旗とGHQ ジョン・エマーソン(OWIスタッフ 元駐日公使)

テオドル・コーエン(GHQ労働部長)

志賀義雄(日本のこえ全国委員長)

鹿地亘(作家)

5 マッカーサーの憲法 鈴木九萬(横浜終戦連絡委員会 委員長)

後藤隆之介(近衛公ブレーン 昭和同人会代表委員)

近衛通隆(東大助教授)いずれも肩書きは本中のもの

6 禁じられた政治

曾禰益(終戦連絡事務局政治部長)敗戦時のポイントを握る外交部長

塚原太郎(GHQ民政局公職審査課適正分析官・元米国陸軍中尉)

反軍国 主義の帰米二世

福田篤泰(第一次吉田内閣総理首席秘書官)吉田茂の最大の事情通

都留重人(GHQ経済科学局アドバイザー、朝日新聞論説顧問)

財閥解体に取り組んだ第一級の経済学者

エリノア・スメドレー(GHQ民政局財閥問題担当官)

財閥解体の精密な証言者

岩崎昶(あきら)(元日映製作局長)

吉田が圧(おさ)えた「日本の悲劇」

7 謀略と冷戦の十字路

鹿地亘(作家)朝鮮戦争と絡んだ運命の変遷

山田善二郎(日本国民救援会中央本部事務局次長)鹿地亘の救出者

9 朝鮮の戦火

カール・バーナード(”タスク”・フォース・スミス戦闘部隊中隊長)

生々しい歴戦の証言者

ヒュー・ブラウン(第二十四師団二十一連隊第三大隊L中隊曹長)

徹底的に戦闘した鬼軍曹

韓載徳(『朝鮮中央通信社』主筆補兼外信部長)

『金日成将軍伝』を口述筆記

呉基完(北朝鮮人民軍第一〇五戦車旅団付政治将校)

三十八度線を突破した北朝鮮軍将校

大森実 戦後秘史その2

戦後秘史第9巻・第10巻 1976(昭和51)年初版。

9 講話の代償

ジョン・アリソン(講和工作当時 米国務省東北アジア局長 次官補を経て

吉田政権の駐日大使)対日講和の唯一の生き残り証人

ウイリアム・ディーン(朝鮮戦争時、米国第二十四歩兵師団長)

三十八度線を越えて生還してきた男

10 大宰相の虚像

リチャード・フィン(米国務省政策立案スタッフ)対日戦略に携わった米

政府きっての日本通

那須聖(毎日新聞元ワシントン特派員)池田・ロバートソン会談の取材秘

▇大森実著戦後秘史 第1巻 日本崩壊(講談社文庫81年8月15日刊)。

巻末に収録された1974年5月25日に東京銀座数寄屋橋の塚本素山ビルで行われた右翼の大物児玉誉志夫(上海・海軍児玉機関長)との、緊迫したインタビューは、大森実の真骨頂でありました。

戦時中は、上海特務として、戦後の裏面史に見え隠れする児玉の、むしろフランクな天皇観などの意外な一面を、ジャーナリストが浮き彫りにする。緊迫感がいまでも伝わってくる圧巻。児玉機関の金塊が、鳩山に流れ、自民党の結党の資金になったことなど今にもつながる内容でした。

・・・・

それから 半年かけて、元毎日新聞の大森実氏の著書「戦後秘史」全10巻を読了しました。

元新聞記者の筆致は明快で分かりやすく、無駄のない文章で、おびただしい取材によって、戦後登場した宰相から元軍人、共産党の幹部、成金の親分まで、幾多の人物に取材し、その人物像をあぶりだしていました。自分の到底知ることのなかった有象無象に現れては消えていく人物たちが、それぞれの立場でもって、戦後の混乱の中を泳ぎ、そのどの人物たちも「日本」という曖昧で独特な国家を再建していくなかで、懸命に努力し、動いていたことが活写されています。

昭和51年(1976年)の刊行。取材当時は、終戦からまだ30年しか経過しておらず、GHQのニューディーラーや参謀本部の旧軍人や、日本側の終戦対応の人たち、右翼の大物、成金や、左翼の大物など、存命であり、取材ができた最後の年代でした。曖昧模糊とした日本独特の人物の動きは、今と少しも変わっていないように思いました。偶然と偶然が重なり合って、大きなうねりとなり、「歴史」というものの、表裏を構成し、余人の想像とは違った方向に流れていくものだと思いました。この10冊は、後世に残る労作だと思います。

 

「戦後秘史」の中でみつけた、ごく小さいエピソード記事だったのですが、ボクにとって興味深いこと。

日本郵船 信濃丸

1900年英国・グラスゴー竣工、1951年廃船

「日本郵船 信濃丸の数奇な運命」です。

なにしろ、この船1900年に、イギリス・グラスゴーで竣工、シアトル航路用貨客船として、イギリス・グラスゴーで竣工。シアトル航路に、作家の永井荷風が乗船、1904年に日露戦争が起こると、仮装巡洋艦になり、対馬海域で哨戒任務についたときに、なんと、バルチック艦隊の船影を日本海軍として初めて発見し、「敵艦見ゆ」を打電、日本海海戦の勝利につながったのです。

その後、シアトル航路に復帰、乗船名簿に亡命者孫文の名前があります。1930年に日ロ漁業に売られ、太平洋漁業のサケマス船に転用、折からの太平洋戦争中には、陸軍に徴用され、輸送船として活躍しますが、戦没せず活躍を続けます。まんが家水木しげるが、乗船しています。戦役を、戦後まで生き延びます。

戦後、今度は、舞鶴を母港に、引き揚げ船として活躍し、シベリアからの帰還兵の輸送にあたります、作家の大岡昇平が、乗船名簿にあり、1951年にスクラップとなるまで活躍を続けたのです。なんと日露戦争、太平洋戦争と2度の戦役を生き延びて戦後まで活躍した船、船のことを、よく彼女にたとえますが、こんなに長生きでしかも、強い船があったなんてちょっと驚きでした。

▇大森実プロフィール

1922−2010年 神戸生まれ 神戸高商卒業 1945年毎日新聞大阪本社入社 ワシントン支局長、ニューヨーク支局長、外信部長、ベトナム戦争報道でライシャワー駐日大使の不当干渉に屈した毎日新聞社に抗議して1966年退職 UCI(米国カリフォルニア大学アーバイン校常任理事 フリージャーナリストとして、UCLA国際ジャーナリスト賞、ボーン・上田国際記者賞、日本新聞協会賞、ギャラクシー賞などを受賞。カリフォルニア州ラグナビーチに住居をかまえた。戦後秘史 全10巻、人物現代史全13巻

大森実氏の死を報じる毎日新聞

大森実氏の死を報じる2010年6月28日付け毎日新聞特別版

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イタリア人の考える神道

2016 DEC 27 21:21:10 pm by 野村 和寿

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今回は、フォスコ・マライーニ著『随筆日本 イタリア人の見た昭和の日本』(2009年松籟堂刊)という本を紹介します。この本の著者、マライーニは、戦前の1938年に、日本の外務省の国際学友会の奨学金を得て日本に留学、1941年には京都大学でイタリア語を教えていましたが、1943年に日本と同盟関係にあったムッソリーニの後継であるサロ共和国への忠誠を拒否して、名古屋の敵国人収容所に収容され、1945年敗戦後に開放され一時帰国し、1954年に再来日したという数奇な経歴をもった学者です。写真家、人類学者、東洋学者です。2001年には25000枚にも及ぶ彼の撮影した写真が、東京・恵比寿の東京都写真美術館で「イルミラモンド レンズの向こうの世界」と題する展覧会まで開かれたくらいです。
さて、本書はイタリア語で書かれ、それを*人の日本人が翻訳したという名作ですが、なにしろ、大著728ページにも及ぶ大著で新刊で価格も7500円しました。今は、絶版になっていますが、古書店などで探すと3万円(アマゾン)で今でも入手可能です。
ちょっとかなり高価な古書ですが、人にもよると思いますが、ボクは読む価値があると思っています。

この本の面白いところは、ボクの感想は、以下のようになります。
・・・通常、なんとなく通り過ぎている当たり前のような日本の景色、仕草、行動、季節的な行動、初詣のような、初日の出のような。こうしたことが実は西洋人からみると、随分不思議に映るらしい。日本人のアイデンティティを喝破されているのに等しいかもしれない。

日本人のアイデンティティとはなにか?
神社にお参りする気持ちは? 山河を愛でる気持ちはどこからきているのか? 神仏をいっしょくたにし、信じる神仏はいないと、無宗教を気取るも、どうして初詣には行き、七五三には、そして、厄年には、神社にお参りする気持ちになるのか?
何故、おみくじをひき、お札を奉納して、商売繁盛を祈る気持ちにもなるのか?
日本人とはなにか?
日本人の中に脈々と流れているものを、外国人のマライーニに言われて、ようやくわかってくるとはいったいなんと言うことだろうか?
日本人自身が、西洋的になったと思っているのに、どうして、西洋人にはない考え方を元から持っているんだろうか?

ちなみに、マライーニの本書から「神道」の項目から引用しますと
「神道の世界はきわめて複雑かつ多様である。それは、いわゆる世界宗教とは本質的に異なり、創立者も聖典も存在せず、神学としての教義を形成したこともなければ、厳密な倫理的価値観をつくることもなく、純粋に日本国内の民俗信仰のレベルにとどまった。神道は日本のあの魅惑的な風景のひとつに似ており、梅雨の日の神秘的な雲煙に霞んで見え隠れする山々の頂、滝や森、遠くの寺院の瓦屋根などからなる眺望の全体像を、想像で補ってみるのと同じようにして思い描かなければならない。神道の生命は、信条や教義ではなく、シンボルや直感、示唆やささやき、仄めかしや、詩情、魅力的な典礼や儀式、建築や庭園、音楽や沈黙、だが時には突如として想像しい民衆的な歓喜の表現になることもある。その内にこそだるのだ」引用終わり。

マライーニのイタリア的な知性にみる、日本人というものへの眼差しは、正直とても優しく、ほっとします。そして、これから正月の初詣に、神社にいくときに、備えて少しでもこんなことを感じてみてはいかがでしょうか?

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