ベートーベンの交響曲を語るということ
2013 JUL 7 21:21:57 pm by 東 賢太郎

花崎さんの面白い企画です。ベートーベンの交響曲9曲について一つづつイチオシCDを、指揮者の重複がないように選んでみようというものです。今回はまず、この大きな企画にのぞむ前に現時点で僕がベートーベンのシンフォニーにつきどう考えているのか、この9曲というものがどういう存在と見えているのかからご説明したいと思います。
クラシック好きとしては誰しも同じでしょうが、ベートーベンの交響曲というのははるか聳(そび)え立つ9つの霊峰のようなもの。すべてが8千メートル級の山々です。何度登っても風景は様相を違え、そのたびに別の偉容を感じるのです。僕は、このCDだけあれば他はいらないと言い切れる曲がいくつかありますが、ベートーベンの9曲がその仲間に入ることはありません。だから第九交響曲のイチオシCDは?と訊かれると、とても困る。富士山だって登山口は複数あるからです。
もっと困るのは、そういう状況ですから、例えば第九がどういう曲なのかいまだつかみかねていることです。ただ僕はどんな大指揮者であれ他人の演奏からその曲を知ることはしません。自分で楽譜から読み取る努力が優先です。演奏家とは僕にとってはそういう存在にすぎません。ところが、その肝心の楽譜を見ると良くわからないことが多い。例えばわざわざつけているメトロノーム記号ですが、その通りの速度でやると超高速になるなど、不可解な事が多いのです。彼の楽譜にはイタリア・オペラみたいに「演奏家の歌心におまかせ」のようないい加減な部分はありません。それは彼の明確な意図なのであり、だからこそ困るのです。
近年、楽譜研究が進んでいて、慣行版であるブライトコプフ・ウント・ヘルテル版に対してベーレンライター版なるスコアによる演奏が増えました。細部には立ち入りませんが、ベートーベンが楽器法にこだわったのはある程度事実であり、ベーレンライター版を使うかどうかが指揮者の試金石になっている観すらあります。しかし僕の立場はシンプルです。この9曲はリストによるピアノ版がありますが、ピアノソナタとして充分に成り立つものであり、ベートーベンもまずピアノで発想してから管弦楽化したと思われます。スコアの版の問題のうちこの変換の誤謬の部分は必要悪であり、忘れても音楽の本質には関わらないということです。従って僕は版の選択が演奏の是非を揺るがすことはないと思っています。単なる指揮者の趣味の範疇であり、そんなことで感動が倍加するようなことは起こりえません。
僕は第3番変ホ長調、いわゆるエロイカの第1楽章をMIDIで自己流に演奏、録音して、音楽のあまりの巨大さ、それは長さとか音符の数とか即物的な意味ではなく、その秘めているエネルギーの放射のようなものに圧倒されて第1楽章でやめてしまった記憶があります。音符をただなぞって音にする行為が不謹慎に思えたというか、彼が望んでいた音楽はそういう安易なものではないと諌める力、そういうベートーベンの「氣の力」が音符に封じ込められていて、それに「当たって」しまったという感じです。
それが楽譜のどこにあるのか?よくわかりません。今日投稿した「三十一文字の思い」、あそこに書いた91歳の被災地のおばあさんの短歌が、文字を超えて僕に強く訴えかけてきたようなものです。それはおそらく、難聴という音楽家にとって致命的な不幸と闘って、それでも乗り越えて生きて行こうと彼の内面を突き動かしたはずの何ものか、人間にとって最も強くて高貴な尊厳のようなものが音符や楽器の音を超えて溢れ出てくるのではないかと思っています。ベートーベンは機会音楽と最も遠いシンフォニーというもので、いやそれを最も深遠なものに自らの力で変容させてしまうことで、彼の尊厳を永遠に刻み込もうとしたに違いありません。
一介のリスナーとしてでも、僕がそういう彼の真意を理解しているかと問われれば残念ながら自信はありません。第8番の、無駄がそぎ落とされて宝石のように輝く音譜たち。そこに透かし彫りのように浮き出る予想もしないアイロニーとユーモア。晩年の作品でショスタコーヴィチやバルトークが目指したかもしれない人間、人生というもののはかなさ、おかしさをシリアスな鋳型に埋め込もうという試みの原型をそこに見ます。しかしそれがさらに純化した後期カルテットに至る道のりの中でどうして第九のような作品が現れたのか?よくわかりません。
彼を過度に神格化するのも危険ですし、彼のシンフォニーをそんなに構えて聴く必要もありません。それは単に「良くできた音楽」としても楽しめますし、スポーティな快楽的側面だけ見せて終わってしまう演奏も多々あります。それでも聴けば必ず満足させられ、自分の心に潜む最も清らかでポジティブなものだけを見た気分にさせてくれるのです。どんなに落ち込んでいる時でも、僕はベートーベンのシンフォニーを聴き終えて演奏会場を去る時には必ず「前向きでエネルギッシュな正義感の強い男」に変身しているのです。彼の音楽が生きながらえてきた秘密の一端はおそらくこれであり、それは彼自身を生きながらえさせてきた衝動がもたらしている作用だからこそ、圧倒的なパワーと説得力を持つのです。
ということで、企画に入る前にまずお断りしなくてはならないのは、ベートーベンの交響曲という音楽そのものについて、他の音楽のように書く自信はまだないということ。それからイチオシCDはあくまで今時点で、良いと思って時々聴いているものにすぎないということです。さらにはこの数か月はこれらの交響曲を聴こうという心境にも程遠く、ほとんど耳にしていなかったということもご容赦願えれば幸いです。
Categories:______ベートーベン, クラシック音楽

花崎 洋 / 花崎 朋子
7/8/2013 | 1:53 PM Permalink
東さんのベートーヴェンに対するご姿勢、良く理解いたしました。東さんは8000メートル級のそれぞれの山を実際にご自身の足で登頂されていらっしゃいますが、それに対して私は、それぞれの山の写真を居心地の良い居間にて眺めながら、あたかも登ったの如く、好き勝手に言いたいことを言っているに過ぎないことが良く分かりました。軽い気持ちで「新企画」の提案を行ない、申し訳なくも思っております。よって、第2番以降も投稿を続けさせて良いものかどうか? 大袈裟な言い方かもしれませんが、「進退伺い」いたします。花崎洋
東 賢太郎
7/8/2013 | 4:47 PM Permalink
いえ、僕が登頂など及びもつかないことです。ブラームスですらそう思って1番を書くまで何年もかかったのですから登るといってもふもとの景色を楽しんでいるのがせいぜいです。まったく個人的なことなのでお気になさらないでいただきたいのですが、数年前、起業したてで生きた心地のしない日々を過ごしておりましたころ、どういうわけかエロイカの第1楽章が勇気をくれていて、聴くだけではとどまらず毎日ピアノでガンガン弾いていました。来る日も来る日も思いっきり。もちろん家族や親の支えあっての今なのですが、愛情や励ましではどうにもならないものが世の中にはあって、あの時は自分の中から湧き上がってくるもの以外に何も頼りにならなかったのです。ベートーベンの難聴は遺書を書かせるほど彼を追い込んだのですが、その時彼はやはり自分以外は何も頼りにならなかったはずです。エロイカで僕が元気になったのは、彼が難聴を克服したエキスのようなものをそこからいただいたからだと本気で思っております。こういう音楽は僕にとって二つとありません。そういう中で僕が誰のエロイカを聴いているか、そんな風にお気軽に見ていただければ幸いに存じます。
この新企画は面白いと思います。そうでもなければ書くことはなかったと思いますし、これからベートーベンを聴いてみようという方々にとっては多少の道しるべにでもなればお役にたてるかもしれないとも思います。ぜひやりましょう。
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/9/2013 | 8:31 AM Permalink
ご返信有り難うございます。拙く、ごく狭い視野からの原稿となりますが、2番以降も、投稿を続けさせていただきます。エロイカの第1楽章、凄い曲と、私も思います。規模の大きさだけでなく、内容の密度の濃さという点においても、「次元を超えたブレークスルー」が成し遂げられていると思います。
東さんが、どの指揮者のエロイカを選出されるか、特に楽しみにしております。花崎洋
東 賢太郎
7/10/2013 | 8:40 PM Permalink
エロイカはスイスにいた頃に最晩年だったショルティが来てチューリヒ・トーンハレ管弦楽団を振ったのですがそれがもの凄い演奏で、ああいう直截的な演奏は何を聴いても位負けという残像が不幸にも残ってしまいました。でも本当にそういう曲なのかという思いもありましてよくわからなくなっているのが実情です。
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/14/2013 | 5:30 AM Permalink
ショルティの「直裁さ」、恐らくは、あのウィーン・フィルが嫌った部分であると推測します。若い頃の自分は、エロイカに関しましては、フルトヴェングラーが晩年(1952年)にウィーンフィルを振ったスタジオ録音を最も気に入っておりましたが、最近、同盤を聴き直しますと、どうも廻りくどく、じれったく感じてしまいます。もっと、直裁的な演奏が良いようにも思えてならないようになって来ました。花崎洋
東 賢太郎
7/15/2013 | 9:37 AM Permalink
フルトヴェングラーは終戦後シカゴsoに就任する話がありました(シカゴはドイツ系が多い)。ユダヤ系とトスカニーニの大反対があって実現しなかったのですがこれと例のウラニアのエロイカ問題があって、嫌米、親独の音楽評論家(だいたいインテリと役所はそうだったようですが)がフルトヴェングラーをこぞって持ち上げました。その洗脳の影響でしょうかこんなに彼が神格化して、聞くに堪えない音の録音までがうやうやしく奉られている国はドイツを含めて世界に日本しかないです。なんとなく、東大でマル経が主流なのとイメージがダブります(中国ですらマル経は哲学科です)。もちろん彼の演奏はツボにはまると余人を凌駕するすばらしいものですがどうも一回性のもので、何回も録音で聴くと手管がわかっているので感銘が薄まってくるような気がいたします。録音され繰り返し聴かれることを前提とした演奏と比べてどちらが上かと問われればフルトヴェングラーに軍配をあげますが、何度聴いても良い(限界効用価値が下がらない)演奏はより良いと僕は判断しています。