ベートーベン交響曲第1番の名演
2013 JUL 8 0:00:08 am by 東 賢太郎
(改訂、3月6日)
アルトゥーロ・トスカニーニ / NBC交響楽団(51年12月21日、カーネギーホール)
僕はLPを持って行けなかった米国留学の2年間、トスカニーニのカセットを買って大好きなベートーベンの交響曲への渇きを癒した。だから僕のベートーベンの原像はトスカニーニの直截的な演奏で築き上げたものだ。それと同じ録音がロンドン勤務の86-7年に、当時まだ新フォーマットであったCD(右の写真)がRCAから出て狂喜したのを昨日のように覚えている。もちろん毎日のように聴きこんだから当時の我が家ではこの1番がテーマソングのように鳴っていたはずだ。そうして87年は僕のベートーベン・イヤーとなり他の作曲家はお留守とさえなってしまった。ベートーベンというのはそういう音楽を書いた作曲家なのだ。いま聴きかえしてもこの1番は熱い。そして僕の心にも熱いものを掻き立てる。当時、仕事は想像を絶する大変さであり、この1番が精神的支柱で、くじける寸前で救ってくれたものであったことは間違いない。この演奏の価値や評価がどうのということは問題ではなく、人生の糧として換えがたい恩のあるものであって、このCDは家宝となるべきものだ。
こちらは空襲で破壊されたスカラ座が再建され、その直後に管弦楽団を連れてルツェルンで演奏された1946年7月7日のライブ録音だ。コンセプトはNBC盤と何ら変わらない。
トスカニーニの強烈な洗礼を受けると他の演奏はもうどうでもよいが・・・。
フランツ・ブリュッヘン / 18世紀管弦楽団
ブリュッヘン盤はピッチがちょっと低いです。しかし演奏はアムステルダムの名ホール、コンセルトヘボウの音響がプラスに働いて古楽器演奏のプラス面だけが出ており、第1楽章はゆっくり目のテンポで重厚感すらあります。ブリュッヘンはこの1番を3,5,7,9番へ連なる系譜に並べているのかもしれません。しかし第2楽章はハイドンの延長線上にあって古楽器流の表現が前面に出ます。これがモーツァルトの40番の緩徐楽章の血を引いていることがよくわかります。第3楽章、トリオの後で主部を繰り返すのはやや驚きますがテンポは素晴らしいですね。これぞメヌエットでなくスケルツォ。ヴィヴァ―チェだからこれでいいのです。運命動機もよく聞こえます。終楽章、いいテンポです。僕はこれを理想的とします。ライブでの気合いで加熱していく様はすばらしく、手に汗握る高揚感は実にエキサイティングです。彼が同じオケでやったモーツァルトの39番の実演を聴いたことがありますが、あの決して盛り上がるわけではないエンディングでも充分な終結感に至ったのはとても印象に残っていて、指揮者の綺麗ごとではない表現意欲の強靭さを感じました。ベートーベンのシンフォニーにはそれが不可欠なのです。それが作曲者の意図どおりのものかどうかはともかく、演奏家が強いステートメントをぶつけて曲と対峙するのがベートーベンを演奏するという行為であって、それがない綺麗ごとの演奏など僕は何の存在価値も感じません。例えばこの楽章ではホルン、ティンパニのffによる嵐のようなダイナミクスがさく裂しますが、この曲はこうでなくてはいけません。というのは、ウィーンのブルグ劇場でベートーベンが自費を投じて開いた演奏会での初演を聴いた聴衆は「ブラスバンドみたいだった」とコメントを残しているからです。作曲者自身が何かを曲にぶつけていたんです。そして最後は古風に念を押すように減速して停止。これは博物館の陳列品のような風情のひからびた古楽器演奏とは一線を画した、人のパッションとぬくもりのある見事なベートーベンです。
オイゲン・ヨッフム / バイエルン放送交響楽団
ヨッフムの1度目の録音です。第1楽章、息の長いアダージョの開始からどこかロマン的な雰囲気を漂わせます。遅めのアレグロで弾かれる主部は、腰の重い弦を土台にあでやかな木管が乗ってピラミッド型のマスの音響を構築する19世紀的ベートーベン演奏です。このスタイルというとベームが晩年にウィーンPOを振ったものがありますが、あれは何故かあまりにつまらない凡庸な演奏なのでこのCDを聴いてこの曲の(というよりベートーベンの)懐の深さをぜひ味わっていただきたい。第2楽章はフレーズごとに終止でテンポを緩め、レガート重視で一音一音念を押しながら進みます。第3楽章、リズムの前衛性は目立たずひたすら歌謡性で押し、その末にトリオではppまで音量を下げるというユニークさ。アタッカで入る終楽章の主部はやはり遅めのアレグロで繰り返しあり。ここでも木管(特にフルートがうまい)のあでやかさは絶品です。音楽の均一的な横の流れよりも、和声感、質量感に伴って速さや流れが副次的に決まるという、例えばラフマニノフのショパン演奏などに明確に現れている19世紀ロマン主義的スタイルの名演です。ではリズム感が鈍いかというと、終楽章のちょっとした合いの手での付点音符の扱いなど句読点へのこだわりも充分です。古老のおとぎ話を聞く感があり、管弦が混合して醸し出すトゥッティの濃厚な和声感はたまり醤油のような風味を感じます。59年4月の録音は年代にしては驚くほど良好で素晴らしいコクを味わえるのです。
(こちらへどうぞ)
Categories:______ベートーベン, クラシック音楽
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/9/2013 | 8:38 AM Permalink
2番と並んで1番も古楽器による演奏が、しっくりと来ますね。以前、日経新聞の最終面の文化欄に、日本人のベテランのピアノ調律師の記述が載っていましたが、二次大戦前には、「A」のピッチが435と現在よりも低かったそうです。ブリュッヘンの演奏は、その当たりを反映させているかもしれませんね。東さんがトスカニーニを何番でベスト1に挙げられるか、楽しみにしております。花崎洋
東 賢太郎
7/10/2013 | 8:27 PM Permalink
この1番を30歳で書いたベートーベンはモーツァルト、メンデルスゾーン、ビゼーに早熟さではずっと劣っていると思います。彼が並はずれていたのは後天的に進化する速度でそれがディファクトを破壊するほどパワーがあったことではないでしょうか。モーツァルトの若いころの宗教曲、例えば戴冠式ミサとレクイエムを比べても進化という言葉は浮かびません。天才とひと口に言っても色々な人がいるものですね。トスカニーニはあまりモーツァルトは振っていませんがベートーベンには全力投球でした。彼がおそらく共感していた部分に僕自身も共鳴するものを感じています。ミラノで彼の御墓参りまでしたのは彼のヴェルディでもプッチーニでもなく、ベートーベンへの敬意に、敬意を表するためでした。
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/14/2013 | 5:38 AM Permalink
東さん、正におっしゃる通りと思います。交響曲2番やピアノ協奏曲3番を作曲した段階で既に「一流」なのに、エロイカ交響曲や「運命」、「田園」などで「超一流」のレベルに進化し、更に晩年のピアノソナタや弦楽四重奏で、更に次元を超えて突き抜けて行ったベートーヴェン、耳が聞こえなくなってから、彼の音楽が生成発展していったことに、ただただ驚嘆するのみです。花崎洋
東 賢太郎
7/15/2013 | 10:09 AM Permalink
モーツァルトのシグナチャー・ピースはピアノ協奏曲でした。それに短調が1割もないのは聴衆が求めていなかったからと思われます。ところがその2曲の短調曲、ベートーベンが20番を愛好してカデンツァまで残していて、ブラームスも24番を弾いていたという事実は非常に興味深いと思います。聴衆の顔色を見るのはいわばポップスですが、作曲家の頭が一歩先に進化して聴衆をおいていってしまう所に短調曲があったようです。ベートーベンが3番ハ短調、ブラームスが1番ニ短調を世に問い、ポップスに決別しているのも面白いです。ベートーベンのシグナチャー・ピースは交響曲でした。結局5、9番しか短調はなく、7番のような外向的な曲や最後はオラトリオ風まで持ち出してきたわけです。弦楽四重奏曲は16曲中5曲と短調比率が当時としては異様に高いのです。例えば現在に至ってもマイナーキーのロックやポップスがどれだけあるでしょう。ビートルズでもアンド・アイラブ・ハー、ミッシェル、ガールのような名曲はありますが、いくら彼らでもコンサートの3割が短調曲ではさっぱり盛り上がらないでしょうね。ベートーベンが切り開いた道は非常に先進的なもので、21世紀になっても聴衆の耳は追いついていないということかもしれません。
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/17/2013 | 8:36 AM Permalink
ベートーヴェンにとって、弦楽四重奏というジャンルは、「自己実現の場」で軽い表現をすれば「趣味の世界」であったようにも、個人的には思います。ですから、自分が創りたかった短調の作品が多いように思います。それに対してピアノソナタは、正に「実験工房」であり、交響曲は「一般聴衆に語りかけ、訴えかける場」であるように思います。彼の交響曲が比較的、素人でも楽しめるのは、そのためとも思います。花崎洋
東 賢太郎
7/18/2013 | 12:23 AM Permalink
運命(ハ短調)と田園(ヘ長調)をペアで発表したし2番(ニ長調)とPC3番(ハ短調)もそうです。ヴァイオリンソナタも5番(春、ヘ長調)と同4番(イ短調)はペアにしたかった(が出版の都合で別々に)。かようにコントラスト(陰陽?)を多分に意識していましたね。だから短調に特別の意味があったということではないかもしれません。少ないのはニーズがなかったからか。弦楽四重奏は聴衆のニーズに関わらず書いたということなら正に「自己実現の場」ということになりますね。
花崎 洋 / 花崎 朋子
7/18/2013 | 11:03 AM Permalink
東さんがおっしゃるように、ベートーヴェンは、陰陽のコントラストを大いに意識していたと私個人も考えます。この「一方に極に偏らないアプローチ姿勢(つまり陰陽両極で、極限的な対比を図ったこと)」が、彼の音楽が、一生に渡って生成発展していった大きな理由の一つであろうと推測しております。花崎洋