クラシック徒然草-エミール・ギレリスの天上の音楽-
2013 AUG 1 18:18:13 pm by 東 賢太郎
僕の拍手が作曲家90、演奏家10という意味はもうすこし説明が要るでしょう。これは演奏家の価値について云々しているわけでもなければ、感動的な演奏会を聴かせてくれたパフォーマーの才能や努力にあえて少ない敬意しか払わないということを言っているのでもありません。作品が演奏家なしに聴かれることはないように、演奏家も作品の力なしに感動を与えることはできません。それはいかにも当たり前のことですが、作品のクオリティと演奏家の演奏能力がここで問題にするようなレベルに達しているものという前提において、いよいよ最後に、その両者の関わり具合というものが聴衆に与える感動の大小というものを決定づけているのだという僕の経験を述べさせていただく必要があります。
神童といわれる子がリストを弾くリサイタルがあったとして、それを大家の弾くシューマンのそれと同じ興味を持って僕が会場に赴くことは100%ありません。まず、僕にとっては、リストは誰がどれを弾こうと食指の動く相手ではありません。それがリヒテルだろうと。だから感動の総量はおのずと知れていて、「90部分が満点」であっても僕は満足して帰りの電車に乗らないだろうことを自分で知っています。次にそれを小学生の子が完璧に再現したからといってリヒテルに勝るはずもないでしょう。あるとすればこんな子がという意外性だけです。でもそれは、僕の中においてはサーカスで犬が数字を当てましたというのと何もかわらない。では、子供がシューマンを弾くというなら? 聴いてみるかもしれませんが、そしてそれがリヒテル並のものなら、それは評価しないはずがありません。ですがそれは「90が満点だ」ということです。鐘が十全に鳴ったということ。突き手の年齢に反比例して鳴りが良くなる、という風に聞こえるようにはあいにく僕の耳はできていないのです。眼が不自由な辻井 伸行さんのピアノ。実演に接したのは1度だけですが、それは純度の高いクリスタルのようなタッチと明敏なリズム感で非常に印象に残っている見事なラフマニノフの協奏曲2番でした。彼が身体的ハンディキャップを圧(お)して完璧なテクニックを披歴しているという観点から幾分でもその演奏を高く評価するなら、それは真の芸術家に対して大変に失礼なことです。そういう彼の音楽創造プロセスの因果関係などとは一切かかわらず、彼の生み出した音は非常に美しいと僕は思いました。
演奏会でXの感動をいただいたとして、そこに演奏家のプレゼンスがX/10ぐらいしか感じられないケースというのが、実はあまりありません。弾き手の存在が神のようにほぼ消えていて、鳴っているのはベートーベンやモーツァルトそのもの、その純粋無垢な音楽美のエッセンスだけを感じさせてくれるというケースです。僕はこれが音楽演奏というだけではなく、それを必然的に内包している音楽創造というものの理想ではないかと信じています。井上直幸さんのモーツァルトは、おそらくそういう風に聴き手に届けることを目的として弾かれています。僕にはそう聞こえるのです。彼がリストの「超絶技巧」やラフマニノフの3番を弾いたかどうかは知りません。きっと弾けたのだろうけれど、だからといってそういう曲を彼がモーツァルトと同じ姿勢で弾いたということは到底考えもできないことです。彼は、僕の想像する限り、X/10を良しとする演奏家です。だからモーツァルトのような音楽を演奏してXを最大化することができるのです。逆に見れば、彼はモーツァルトの天才の深奥まであまねく見抜いているという知性と感性のおかげで、10の力で100の感動をそこから引き出しているともいえるのです。これが名人の技でなくて何でしょう。一方で、そういう性質の音楽というのは、「彼の存在」がX/8になりX/6と大きくなるにつれて、Xは反対にどんどん値を低くする関係にあると僕は感じています。派手なアクションで汗だくになって飛び跳ねる指揮者の運命交響曲が別にだから素晴らしいわけでも何でもないように。マルタ・アルゲリッチがモーツァルトを弾くのはこわいと言ったのは、何らの技術的な問題をはらんだことであろうはずもなく、彼女の演奏家としての信条や持ち前のスタイルがひょっとするとXを逓減させてしまうのではないかということを、僕とは全く異なった角度や論理や本能から彼女が感知したからではないかと思っています。
僕がリストやパガニーニの類の音楽に関心を抱いた経験がないのは、仮に井上さんのような真の芸術家が弾いたとしても「彼」がX/10でとどまっていることがどうしたってできない、要するに、曲の方がそういう風に書かれていないからです。リスト自身が公衆の前で目立つことを目的として書かれた曲だからX/2ぐらいがいいところ(最適解)であって、がんばってX/10でやってみたらXを減らすだけ、つまり聴衆を退屈させるだけの曲なのです。そして、なんとか最適解を得たところで、僕には何の感興も引き起こしません。自分はそうではないという方がたくさんおられるはずですし、そういう方はここでこのブログを閉じていただきたいのですが、僕にとっては大半のイタリアオペラのアリアも同類であります。X/1.2ぐらいに書かれているのもあるように思う。へたすると初演した歌手でないともうだめなんじゃないかというぐらいの数値をもった曲、例えばユーミンやらカレン・カーペンターの曲がきっとそんなものだろうと推察できるレベルまで特定の演奏家の声が作曲の前提だったんじゃないかと見えるようなのもあります。実はモーツァルトもまったくもってそうやって、服を仕立てるように特定の歌手に合わせたアリアを書いたのですが、彼の声楽書法の非常に器楽的な側面が救ったのと、何よりいかように何をどう仕立てたとして結果が紋切型に終わらなかったという、彼の天才を説明するに欠くことのできない顕著な特性があいまって、時代を超えてユニバーサルな音楽となっています。今日の魔笛は良かったね、ところであのパミーナは何という歌手だったっけ?ということがありうる。X/10が成り立つのです。ヴェルディやドニゼッティのプリマでそういうことはあまり想定できないように思います。
では、その日の演奏会の感動のほぼすべてを演奏家が占めてしまう、つまりX/1に限りなく近いようなことは起こりえないのでしょうか?僕はそういう経験は2度だけしかしていませんが、あり得ます。ただしきわめて稀なことであり、いくら熱心なコンサートゴーアーであってももし人生で一度でもめぐり会えば幸運とするような、ゴルフならホールインワンぐらいの頻度のことかもしれません。ひとつは ヴラド・ペルルミュテールがウィグモア・ホールで開いたリサイタル。これはいずれどこかでご紹介します。ここで書くのはもうひとつの方、ロイヤル・フェスティバルホールでエミール・ギレリスがチャイコフスキーの協奏曲第1番を弾いたときのことです。このとき、僕は自分がいったい誰のためにapplause(拍手)を送っているのかという馬鹿馬鹿しいぐらい酔狂なことを初めて真剣に自覚したという意味でも、忘れられない重要な経験になっているのです。
1984年10月14日。それはチャイコフスキーの第1楽章が開始して間もなくの速いパッセージにさしかかって、かつて鋼鉄と評されたギレリスの指がもうほとんど回らなくなっているという悲しい現実にロンドンの聴衆が息をのんだ日でした。音楽が進むにつれ、誰よりも、巨匠自身が深く傷ついているであろうことを聴衆がとても恐れている、そういう空気がだんだんと会場そこかしこで醸成されてきているように感じられました。終楽章の最後の一音がすべてをかき消さんとばかりに堂々と鳴り終わるや万雷の拍手とブラヴォーがロイヤル・フェスティバル・ホールを包みこんだのです。老ピアニストの健闘をいたわり、目の前の演奏の是非ではなく、彼のこれまでの輝かしい栄光を満場の一致によるapplauseで一心不乱に称えたのです。その時です。立ち上がって会場に一礼したギレリスは両手で拍手を制し、もう一度ゆっくりとピアノに向かって、静かに、何かに祈るように独奏を始めました。信じられないぐらいとても静かに。そして、その時に彼が弾いた曲を、僕はどういうわけか覚えていないのです。そのときのあまりに静謐な情景、指揮者ベルグルンドもオーケストラも聴衆もすべてが凍りついた人形みたいに微動だにせず、耳をそばだてて息をひそめている中で、どこからともなく天上の調べが降りそそいでくるかのような神々しい情景に我々は飲みこまれていたのです。
僕はギレリスのチャイコフスキーの協奏曲1番のレコードを愛聴して生きてきた人間のひとりです。それは彼の十八番でもあり、最も輝かしくドラマティックな演奏として僕のレコード棚に今もひっそりとあります。ベートーベンのハンマークラヴィールソナタ、ブラームスの協奏曲やお嬢さんと弾いたあの優しいモーツァルトだって。アルトゥール・ルービンシュタインに「彼がアメリカに来るなら、私は荷物をまとめて逃げ出す」と言わしめた鋼鉄のタッチ。あの日に涙をこらえながら力の限り送った僕の拍手というものは、長年かけて彼からいただいてきたすべての音楽の喜びに対してのまぎれもない僕の精一杯の感謝、返礼でした。それを届ける機会が得られたなんて、何と幸せなことだったろう。そして、おそらく、あの最後にどこからとなくひそかにおごそかに響いてきた音楽には、もはやそれを奏でている大ピアニストの己の投影は微塵もなくて、彼自身の人生をかけた音楽への愛情と感謝が音となって流れ出ていたものにちがいないと信じているのです。あれはシューベルトやシューマンの音楽だったのだろうか?いや、そうではなく、誰の作品でもなくて、天上の音楽だったのに相違ないと。
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花崎 洋 / 花崎 朋子
8/2/2013 | 7:27 AM Permalink
実に深いご見解です。正直申し上げまして、私の単純な頭では全ては理解出来ていないと思いますが、モーツアルトとリストの比較、スッキリと良く納得出来ます。ここから先は、今後、もっと考え続けていこうと思います。
東 賢太郎
8/2/2013 | 11:52 AM Permalink
これは今回の花﨑企画で他人様の演奏を好きだ嫌いだと判断している中で、お風呂につかりながらふと自分でもよく知らなかった「自分の判断回路」を分解してみたにすぎません。ちなみにもっとわかり易く?算数化すれば「僕の感動(好き)=f(演奏家の感動)× f(演奏家の作品への献身)」(技術は所与とする)です。右辺ですが、演奏家がマシーンでいいなら僕はシンセで自分で演奏します。鐘はそれでも充分に鳴るのは実験済みです。だからヒューマンなものが「僕の感動」にプラスαを生んでいるはずでそれが右辺の2関数に分解されます。「感動」のない人は普通演奏家にならないしその曲に感動したから弾くのでしょうから本来自明ですが、演奏家によって大小ありますしその曲をその録音時に弾きたかったかどうかは未確定です。「献身」の関数値は献身がゼロだとゼロです。だから感動もゼロです。僕はお釈迦様に本心から帰依していない口だけ上手や商売上手の坊さんの説法に騙されたいとは思いません。帰依はしていても坊主のエゴや自己顕示欲から説法に変更やら勝手解釈が加わるなど論外です。説法の天才=宗教家の天才ではなく、もしそうなら彼は自分の宗教を作ったほうが余程エゴも自己顕示欲も満たせるはずなのです。僕はグレン・グールドがモーツァルトをしのぐ釈迦だなどと微塵も思いませんのであんな演奏は許し難く、そこまでしたいなら自分でソナタを作れと思います。釈迦になりたかったフルトヴェングラーやワルターやクレンペラーは正直な人たちと思いますし、本当になってしまったマーラーはすごいとおもいます。坊さんがいくら釈迦に帰依して献身に最善を尽くしても説法が「僕の感動」を生まない残念なケースがリストやパガニーニやイタリアオペラということです。以上、僕の判断回路としては一般性はありますが、世間であるとは毛頭思いませんのでご笑納いただければ幸いです。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/3/2013 | 5:55 AM Permalink
詳しいご説明を有り難うございます。東さんがおっしゃる「演奏家の作品への献身」、演奏家が如何に狭い自分のエゴや、つまらないプライド等を捨てるかということも含まれるように感じてなりません。我の張った演奏家にとっては、かなり難しい修行であるように思います。
東 賢太郎
8/3/2013 | 12:00 PM Permalink
誰しもエゴ、プライドはないと演奏家にならないでしょう。ホロヴィッツは「聴衆は3種類いる。有名人を見たいやつ、音楽を聴きたいやつ、オレを聴きたいやつだ」と言ったそうです。もちろん3番目だけ来てほしかったのです。グールドは知りませんがやはりそれが無理なのでスタジオに籠ったんじゃないでしょうか。人格の問題なので「修行」という解決はそもそもありえないように思います。僕が指向するのは指揮者でいうとサヴァリッシュ、ヴァントというイメージです。彼らは「ベートーベンをベートーベンらしく演奏すること」に誰より強いエゴとプライドをもっていたと思います。ハイティンクのシューマンを高く買うのも聴いてそう感じるからです。問題なのはベクトルの向きです。「当たり前のベートーベン」でオレを見に来て欲しい、これなら大賛成です。何が当たり前か正解はわかりませんから結果は違ってくるわけですし、それを演じるにはとてつもない修業が要るわけです。同じ古典芸能の歌舞伎で勘三郎が「型破りと形無し」と評した議論と重なってくると考えています。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/4/2013 | 6:44 AM Permalink
「ベートーヴェンをベートーヴェンらしく演奏すること」、最も難易度の高い、正に偉業だと思います。しかし、感度の鈍いダメな聴衆ほど、その素晴らしい演奏に触れても、「何か、当たり前の、インパクトの弱い演奏だった」などと文句を言いそうです。演奏する側も血の滲むような努力が大切ですが、聴く側も高い能力が要求されると考えます。
東 賢太郎
8/4/2013 | 11:38 PM Permalink
まったくおっしゃる通りです。ホンモノがわかる客が少ないと万事クオリティが犠牲になります。80年代前半のロンドンの日本食はまずかったのが後半は日本人が増えて一気に質が上がりました。クラシックの場合、「らしい」演奏が飽きられるのは新作が供給されないという理由もありますね。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/6/2013 | 6:43 AM Permalink
音楽もスポーツの世界も、ファンが芸術家や選手を育て、レベルアップを促すという点では共通していますね。新作が供給されないのは、主催者側が、売り上げを懸念して慎重になってしまうからでしょうか。