ベートーベン ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37
2013 NOV 3 17:17:49 pm by 東 賢太郎
ベートーベンにとってハ短調は特別な調とされます。第5交響曲は言うにおよばず、悲愴ソナタ、32の変奏曲、ヴァイオリンソナタ第7番、コリオラン序曲そして最後のピアノソナタ作品111もハ短調ですね。
しかしハ短調はベートーベンより以前の18世紀後半以降の作曲家においてもすでに独特の意味があり、「ドラマとパトス(情念)」の両立という意味があった(チャールズ・ローゼン)という説もあります。ユニゾンのオクターヴでc-e♭と主題が開始され、直後のフレーズが弱音で対比するというパターンはハイドン、モーツァルトを経てベートーベンに遺伝しています。
ハイドンの交響曲第78番ハ短調の冒頭はこうです(作曲は1782年ごろ)。
モーツァルトのピアノ協奏曲第24番ハ短調冒頭と比べて下さい(作曲1786年)。
ベートーベンはモーツァルトの24番に感嘆し、自分の曲の中で「二、三の貢物を捧げている」(アルフレート・アインシュタイン)。ベートーベン3番の冒頭はこうなります。
この3番のピアノ協奏曲の着想は1796年のスケッチ帳に現れ、「カデンツァにティンパニを」という書き込みがあるため当初は軍楽的性格も念頭においていたことが分かる(西田紘子氏、Philharmony10月号)そうです。1803年に作曲者のピアノ独奏でアン・デア・ウィーン劇場で初演されましたが、その翌年から書かれる第5交響曲の終楽章の勇壮な第1テーマはc-e-g-f-e-d-c-d-c (ド-ミ-ソ-ファ-ミ-レ-ド-レ-ド)す。このe(ミ)を半音下げると上の譜面になります。軍楽的という側面から見ると両者は似た性格と出自を持った主題かもしれません。
作曲当時はまだ短調作品は最終楽章に至って長調になって終わる、つまり聴衆への耳触りの良いサービスをもって書かれるというのがスタンダードでした。上記のハイドン78番もそうですし、モーツァルトのP協20番もそこだけは妥協しています。ベートーベン3番は終楽章を短調で始めますが最後は妥協です。だから短調のまま一切のリップサービスなく終わるモーツァルトの24番は異彩を放つのですが、この神がかり的な名曲については別稿でじっくり述べたいと思います。
上記の楽譜の相似を見ても、アインシュタインの主張のように3番はその24番に触発された作品と考えられます。ベートーベンは「神がかり」になることはできない人でしたが、この作品でモーツァルトとは違う独自の語法でピアノ協奏曲の世界を築いたと言えるでしょう。例えば第2楽章はハ短調音階とは一つも音の重複のないホ長調という遠い調で書き、まったく別の幻想的な音響世界を目ざすなどベートーベン・ワールドの萌芽があるのです。
僕は1,2番といえどもモーツァルトの延長のような演奏は好みません。前回までに楽譜にて指摘したように先人の影響、残滓は各所に見られるのですが、それは作曲者がまさに「否定」「克服」しにかかっていたものであり、「引用」「回顧」ではないということがとても重要と思います。それを頭からのんきに肯定してかかる演奏が非常に多いのですが、それを聴く暇があるなら僕はモーツァルトの協奏曲を聴きます。
この3番は第1楽章のオケパートが1番と同じ編成にもかかわらず、その重みでベートーベン・ワールドに踏み込んだという点で1、2番と一線を画しており、交響曲のエロイカに相当するものです。だからそれを感じさせる魂をえぐるような重い表現を僕は求めます。モーツァルトではないものが指揮者に求められています。
ピアノのタッチも同様です。作曲当時の楽器はまだモーツァルトのものと同じで音域がせまく、膝でペダルを押し上げる仕組みの「フォルテピアノ」でした。ところが楽譜を出版する1804年になってさらに広い音域を誇るエラール社のピアノを入手すると、さらに高音域を書き加えた新バージョンを並行して印刷したのです。彼の向上心、挑戦意欲が分かります。おざなりにきれいで上手いピアノの出番などないのです。彼のパッションを満たし、彼が聴けばきっと満足するだろうというピアノを僕は求めます。
難聴の苦難を乗り越えるにあたって彼が友人たちに宛てた手紙に何度も現れる言葉が「neuer Weg(新しい道)」です。彼はそこに新しい道があればそこに進まないことはないという人でした。僕がベートーベンを好み、尊敬し、心の糧にしているのはそれに強く共感するからです。因習的なものに満足せず常に前へ進む衝動!彼はそれによって絶望を克服しました。まさに、この3番を書いていた頃のことです。この名曲を聴くにあたって、そのようなことを心にとめておかれてはいかがでしょうか。
スビャトスラフ・リヒテル / クルト・ザンデルリンク / ウィーン交響楽団
このザンデルリンクのずっしりした重みと意味深い表現は僕の知る中ではこの曲で最右翼のオーケストラ演奏でしょう。第1楽章はこういう表現でなくてはベートーベンにならないという強固な主張があります。そのオケにがっしりと支えられた全盛期のリヒテルのピアノの輝きは見事であり、エラールの先に作曲者が求めていたものを見る気がします。僕は今は亡きザンデルリンクを1度、リヒテルを3度ライブで聴きましたが、個性が異なる両者の組み合わせは夢のようです。
同系統の演奏ではなく、毛色の違うものをご紹介しましょう。
アルトゥーロ・ルービンシュタイン / ヨゼフ・クリップス/ シンフォニー・オブ・ジ・エア
この録音のLPをロンドンで買った時には狂喜しました。オケの何という自発性のあるレスポンス! リヒテル盤とは対極的な軽妙さながら音楽性満点であり、ツボを知り尽くしたクリップスの指揮はトスカニーニが振っているのではと思うほどのメリハリを見せます。ルービンシュタインのピアノは深みには欠けますが変幻自在のラプソディックな味わいはベートーベンでは聴いたことのない新鮮さであり、それが全盛期の冴えまくった技巧で堪能できます。終楽章は速めのテンポでライブのような愉悦感をふりまき、とにかく明るい3番なのです。これにブーを飛ばす人はいるだろうけど、音楽を楽しめるということでは抜群の演奏であり、僕の愛聴盤となっています。
エミール・ギレリス / クルト・マズア / ソビエト国立交響楽団
これは全集で僕の大学時代に(おそらく76年12月)にライブ録音されたもの。なにか異常な熱気に満たされたオケの前奏が残響の多いホールに響きわたり、ギレリスのピアノがこれまた鋼鉄のタッチといわれた硬質の響きを聴かせます。僕は最晩年の彼をロンドンで聴きましたし、ベートーベンのピアノソナタ録音を愛聴しますが、この協奏曲の全集も特別の位置を占めるものです。最も男性的なアプローチとして広く聴かれる価値があると信じます。
ダニエル・バレンボイム / ラースロー・ショモジ/ ウィーン国立歌劇場管弦楽団
名前を伏せて聞かされたら、まず誰も21才の若手の演奏とは思わないだろう。バレンボイムはすでに一級のアーティストであった。素晴らしい指回りと軽めで粒立ちの良いタッチが抜群に心地よいばかりか緩徐楽章の深みもある。バック(ウィーンPOと実体は同じオケ)がまた良く、指揮に特色はないが全く過不足ない魅力的なサポートだ。後のクレンペラー盤の重みはなく、あっさり系の3番だがこのうまいピアノに何の文句があろう。しかも古い割に録音が良く、僕が愛好しているCDだ。
アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ / カルロ・マリア・ジュリーニ / ウィーン交響楽団
1番と同じくジュリーニのウィーン響が腰の重みあるドイツ流の音で支えながら、ミケランジェリの硬質で透明なソロがラテン的な味を添えており、一風バランスの違った高貴な3番になっている。第1楽章のテンポはじっくり構えて遅めに設定され、緩徐楽章も遅くてソロはラプソディックなモノローグという風情すらある。終楽章は普通の速さになるが、力むことなく歌うように流れ、ピアノの澄んだタッチが生き、深刻さや悲痛さより詩的な印象が残る。このなにか気高いものに触れたという感じはとても好きだ。
(補遺3Oct 17)
ルドルフ・ゼルキン / レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
僕は保有LP、CD等のリストを詳細に手書きで作っていて、この演奏のカセットを米国で持っていた記憶があるのだが記載がない。当時は記憶力には自信があったがどうしてないか不明だ。米国からロンドンの転勤のどさくさで紛失したのか?ともあれこれは筋肉質で聴きごたえある演奏だ。明快な録音でゼルキンの絶頂期が聞けるし第2楽章の薄暮の世界は一聴の価値がある。バーンスタインの伴奏もテンポが良くてだれない。もはや歴史的名盤の仲間入りだが、このご両人をライブで聴いている僕も62歳なんだ。
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