幻燈辻馬車を見る
2013 NOV 17 2:02:06 am by 東 賢太郎
芝居はロンドンと帝劇で2回見たはずだが、恥ずかしながらそれが何だったかほとんど覚えていない。文学的なものは弱い。だから今日のがちゃんと見た初めてだ。そんな程度であれこれ書く自信はない。ちなみに同行した西室兄はきのう歌舞伎、今日が芝居で明日が能楽だ。こういう道楽もんには太刀打ちできん。
こんなに舞台が近いの?まず驚く。さっきN響を聴いてきていわゆるハシゴなんで、こりゃやる方も緊張するわなというのが第一印象。客席との一体感がなかなかいい。真っ暗になると世界が変わる。みんなで違う世界に入りましょという感じが新鮮である。
筋はどろどろしたものだが西室いわく山田風太郎の原作はもっとそうらしい。会津藩と越後、戊辰戦争、西南の役、明治維新と自由民権運動という興味深い時代設定でありいろいろ考えるものがあった。歴史の波にもまれる女を主題にしつつカネと権力におぼれる男を対比させたストーリーと思料。
京都のおどりもそうだったが、知っている人が出るのはいいもんだ。早野さんのお竜がなかなか出んのでちょっと気持ちがゆるんだが、後半はじっくり見た。芝居をやる人は「気」があるなと思う。とても良かった。
昔、成城の初等科に「劇」という時間があった。これもぜんぜん興味なくてほとんど覚えていないが、動物劇みたいなのでカラスだかスズメだかの端役をやらされた。舞台の右手から出たことと拍手をもらってうれしかったことしか覚えてない。
そういう教育をいただいたのに劇も能も狂言も歌舞伎もオペラもうとい。劇場型人間でない。それでも今日はなんとなく楽しそうだなと思った。来年何しようと考え中だが、ひとつ楽しみができた。
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西室 建
11/17/2013 | 2:55 PM Permalink
道楽者とは過分な称号に恐れ入るが、ナニ本人も明かしているようにN響を楽しんだ帰りに芝居に来たのだから似たようなモンだ。歌舞伎・芝居・能(面をつけない仕舞なのだが)を続けて見ると比較演劇論なんぞを捻り出して見たくなる。
幻燈辻馬車は風太郎晩年の明治シリーズの長編で、負け組みの恨みが下敷きになっている。どうやって舞台にするのか興味があったが、大幅に登場人物を減らし、逸話を端折り脚本にしていた。
仕舞というのは摺足で円を描く舞いで、どれだけ真円に廻れるかが上手い下手の見分け方になる。あとは止めの間。
歌舞伎については既に書いた。この3つを俯瞰してみると、
芸術性 能→芝居→歌舞伎(歌舞伎を芸術とは思わない)
思想性 芝居→能→歌舞伎(「秘するが花」が良く分からん)
大衆性 芝居→歌舞伎→能(芝居の観客に若い人が多かった)
商業性 歌舞伎→芝居→能(スポンサーにもよるのだが)
といったところか、反論歓迎します。
芝居は型が無いから、音響・照明・映像も組み合わせられる。幻燈辻馬車もスクリーンを使ったシルエットが効果的だった。
唯一つ苦言を呈したいのが、5人位俳優が出てきて進行の口上をユニゾンで語るのだが、ありゃちょっと。
ところで、事業欲の塊 東 大兄は見終わった後、舞台プロデュースに興味を示し出した。全く恐ろしいエネルギーだ。
早野さんは上手くて綺麗でした。
早野 ゆかり
11/24/2013 | 2:09 PM Permalink
ひゃ~~~!!!西室さん、有難うございます。
仰る通り舞台芸術には、制限がありません。無限では無いにしても、発想次第で色々な表現方法の可能性を秘めています。
あのコロスは、日々特訓でした(笑)
西室さん、舞台台本執筆デビュー期待しています。
どうぞよろしくお願い致します。
早野 ゆかり
11/24/2013 | 2:42 PM Permalink
東さん、有難うございました。
小劇場はお客様の反応がこちらにはっきり伝わりますので、一体感があり、好きです。
対して、次回の『ハムレット』は、地方公演中心ですが2000人前後の客席数の、大きい劇場が多いです。その時は発声も肉体表現も変えなければお客様に届きません。
ロシア人の奇才ヴェリャコービッチさんの演出ですが、出演者全員が殆ど出ずっぱり、音楽とムーブメントの多い、ハードな演出です。是非いらして下さいませ。よろしくお願い致します。