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クラシック徒然草-庄司紗矢香のヴァイオリン-

2014 FEB 18 19:19:32 pm by 東 賢太郎

 

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流 | Sonar Members Club No 

このブログにコメントをいくつか頂戴したのでどうしてかなと思って調べてみると、SMC経由ではなく直接インターネットからこのブログを検索された方だけで1750人おられました。「ユリア・フィッシャー」でググるとwikipediaの次、なんと2番目にそれが出てきて、原語の「Julia Fischer」で検索しても2番目です。こうなるとフィッシャーさん自身の目にもとまるかもしれないし、応援団長みたいな気分です。

彼女のヴァイオリンは大好きなのですが、ただし、あのブログはもともとそういう意図で書いたわけではなくyoutubeを聴いた感想を自分が忘れないようにという程度のものでした。まだ実演を聴いたわけでもないし・・・。そうしたら偶然にグリーグを見つけてしまい、がぜん彼女がもっと好きになってもう一度ヴァイオリンを聴いてしまい・・・という風に出来上がったことを覚えています。面白いことが起こる時代になったものです。

ところで、そこに「ミ」の音の話を書きました。僕のミとシのこだわりはアメリカで1年間チェロを習った時にできました。初めはどうにもうまく取れません。先生のは抜群にきれいなのにどうしてだろうと・・・。それはたぶん自分の楽器がピアノとギターという平均律で転調がお手軽にできる分だけ自然音階の本当の美しさを犠牲にしている楽器だったからだったと解釈しています。平均律は自由な転調を可能にするための人工的音階であり、ドラえもんなら「ラクラク転調マシーン!」なんて名前をつけそうです。本当はチカチカ点滅している蛍光灯が残像現象で目をごまかして「ずっと光っている」ように錯覚させているのと似ています。自然光の方が、当たり前ですが自然であり目に優しいのです。

音楽を「歌う」という表現がよくされますが、僕はピアノで「よく歌っている」という評論家のコメントがどうもピンと来ませんでした。ところがチェロを弾いてみて分かったのです。歌というのはヴィヴラートがかけられるかどうかというよりも、ミとシのようにそのメロディーの背景となっている和声の流れに沿って自在に自然に音のピッチ(高低)を変えられることで生まれるのではないかということを。

もう少し説明が必要でしょう。整数比から求めた自然な音程を純正音程と呼びますが、平均律のミとシは純正音程より高いのです。ところが、例えばですが和音がドミナント⇒トニックと行く場合のシ⇒ドというメロディのシはチェロならある場面では平均律より高めにとってその和音の流れをより強調したり感情をこめたり聴き手に予感させたりという高度な技が発揮できるのです。そうやって「旋律に感情を乗せる」、つまり歌うことができるのです。ここで書いている「歌う」とは、僕の感覚でいえば「和声に深く共感する」もっと露骨にいえば「それにエクスタシーを感じる」ぐらいに書いてしまっていいでしょう。

つまり、この2音を高くとったり低くとったりで、平均律楽器には真似のできない微妙な感情表現、こころの移ろい、切々と訴える人間らしさや恋心のようなものを表現できる。これが「歌」と言われているものの大きな要素となっている感じがするのです。それができるから弦楽器は熱く歌えます。そしてピアノはこの表現手段を決定的に欠いています。だから弦楽器ができる歌というものを単音楽器のピアノができるということはないのです。「良く歌っているピアノ」というのはあたかも奏者がそうしたいという気持ちが明白でそれが聴衆に伝播している状態を第3者が描写したということにすぎず、物理的にはそれがレガートであれ音の連鎖の漸強漸弱であれ、音高(ピッチ)のズレというものには到底かなわないものだと言うしかありません。そのためにピアノ音楽は「ピアニスティック」と後世に呼ばれることになる表現方法を獲得して進化しました。人工音階は人工なりに独自の美があるのであり、それに初めて気がついてそのエッセンス、結晶を抽出した人がショパンだったといっても大きくは間違っていないと思います。

もうひとつ加えますと、モーツァルトは自身がヴァイオリン、ヴィオラの名手でもあり、常に歌手の声を念頭に作曲していたと思われます。ピアニストでもあった彼はもちろん僕が気づいたようなピアノで書く平均律メロディの限界、調性や和声変化に則してメロディの構成音をズラすことができない限界を知っていたはずです。早くにピアノ協奏曲の筆を折ってオペラに集中した理由はここにある気がいたします。これは終生ピアノで思考していたベートーベンとは対照的であり、彼には管弦楽スコアですらピアノ的に発想して書いたような部分があります。ベートーベンがモーツァルトと違って旋律の美しさではなく音楽の構築性を主眼に作曲し、声楽には目立った成果がない理由はそこにあるかもしれません。彼の交響曲のピアノ版はそのままピアノソナタとして聴けますが、モーツァルトのそれは異質なものとして響くのです。

話が飛びましたが、その平均律でミとシを覚えていた僕がサンサーンスの「白鳥」を弾くと、このメロディーがト長調でドーシーミーラーソードー・・・でいきなりシとミがあって、それをちょっと高めにとってしまう感じ。ピアノとはそれで合うんですが、どうもチェロとしては違うんじゃないのという気がだんだんしてきて、これが何度弾いても気にいらないのです。美しくない。ユリア・フィッシャーの「音程の良さ」を上記のブログに書きましたが、彼女の耳の良さはあれだけピアノで平均律の音楽をしていながら、ヴァイオリンを持つと弦楽器世界の音階、音程で鳴らすことができる、そういうことへの賛辞のつもりでした。

そのブログを読み返していて思い出した演奏家がもう一人います。庄司紗矢香さんです。この人のヴァイオリンは非常に不思議で、音があるべき高さでピタッと収まるという意味では音程はあまり良くありません。ところが音楽には説得力があるのです。こういうミとシの取り方が僕はしたかったのかもしれないと思います。ヴァイオリンという楽器の世界の内部で音程、音階が自己完結していて、オーケストラの独奏部として溶け込むというよりも「別個の小宇宙」を作っている感じとでもいいますか、次の和音へ向けて音を取っているので鳴っている時点で合っていないというか・・・感覚の問題でうまい言葉が見つかりませんが。

論より証拠、youtubeで聴いてください。まずチャイコフスキーから。いかがでしょう?素晴らしい演奏です。

ユリアとは全く別の美点が彼女のこの演奏にはあるのです。それはソロ楽器としてのヴァイオリンという楽器がもっている他のどの楽器にもない特質、つまり聴き手の感情をばらばらにかき乱して熱く訴えかける力を強く感じさせる点です。それは例えばG線の激してねばりのある鳴らし方や高音部の陶酔感のある歌、そして汚い音になることに頓着もないボウイングは時に激してごしごしした感じなのですが、それらがぐいぐい心に入ってくる。テミルカーノフも彼女の「濃い演奏」にのせられています。

ユリアは器楽的であり彼女の弾き方で立派なカルテットや合奏団ができますが、庄司はプリマドンナの集まりが合唱団にはならないように、そういうイメージがもてません。この楽器のソロだけが発揮できて合奏にすると消えてしまうもの。そういう魔性があるのです。彼女が優勝したのがパガニーニ・コンクールというのもうなずけます。第2楽章のヴィヴラートのきいた中音部の歌など、けっして僕の好きなタイプではないのですが、ここまで思い切り歌われると魅力に押し切られますね。お茶漬け風味の多い日本人には非常に珍しい、こってり系の強い個性を持った人です。

今度はブラームスです。これもyoutubeにあります。こんなに歌いまくって熱くて骨太のブラームスも珍しい。ここでも音程をはじめとする細部のアーティスティック・インプレッションはユリアより落ちます。しかし彼女は軽率に弾き飛ばして音をはずしている凡庸の奏者と違い、強い共感とパッションが先に立って一音一音に魂がこもっているのが表情から見てとれます。第1楽章カデンツァから終結までの魂が天に上るような恍惚のドラマ!涙が出ました。重音でも歌って歌って粘り気のある音で押しまくります。こぎれいでピッチの合った音を出そうなどという策は一切なく体当たりの真剣勝負。実に見事です。アラン・ギルバートという指揮者もいいですね。北ドイツの頑固者の集まりみたいなオケが心服していい音楽をつけていることも注目です。日本の女の子が彼らを向こうに回して堂々の立ち回り。あっぱれです。何人が弾こうとこれは天下に誇れる最高のブラームスですね。

(こちらもどうぞ)

ブラームス ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品77

 

 

 

 

 

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