ブラームス 交響曲第1番ハ短調作品68
2014 MAR 16 11:11:07 am by 東 賢太郎
昨日は本当に久しぶりにブラームスを聴いた。交響曲第1番を大好きなシャルル・ミュンシュで。僕は彼の交響曲4曲だけでLP、CD、テープを合計397枚もっている。横浜の鉄道模型博物館の原さんもすごいが、ブラームスに関しては僕も負けない。
それなのにどうしてご無沙汰だったのか。以前に書いたがモーツァルト・ブラームス・サイクルというのが僕にはあって、モーツァルト家に行っているときはブラームス家はお留守になるし、その逆も同じことになる。ところが今はモーツァルト家に入りびたっているという感じもないから、自分の中で何かが変化したように思う。やっぱりアラカンかな。
ブラームスとブルックナーはライバルだったし作風は対照的で、お互いのシンパたちが相手を認めず仲が悪かった。ところがご両者とも肉団子が大好きで、ウイーンの「赤いはりねずみ」(Zum Roten Igel)という同じホイリゲ(料理屋)の常連だった。お互い顔を合わさないようにしていたが、友人が仲をとりもって一度だけ2人を同じテーブルに座らせたことがある。「私はいつもこれだ」「私もだ」「この団子こそが我々の共通点でしたな」で会談は終わったらしい。
この話は大好きだ。一家言を成した男とは実にこういうものだ。こういう人達でなくてはああいう交響曲が生まれてくるイメージなどとうてい持てない。余談だが佐村河内という男はこういう雰囲気をうまく演じていたと思う。髭も効いていた。だから皆だまされた。女なら相手を無視はできても何か目や口で空気に反応するだろうからこういう逸話が残ると思えない。自分というものがある男はというと、爬虫類みたいに無反応なのである。
どうして大作曲家が男ばかりなのか、理由はいろいろあろうが、この逸話はある一面を雄弁にもの語っているように思う。女性に叱られるのは覚悟の上で書くが、ブラームスもブルックナーも、まさしく「男の音楽」なのである。男のためのではない、男のサイドからのという意味である。女性にわからないとまではいわないが、ユニセックスなショパンやリストみたいな音楽とは水と油の要素があると強く感じる。
この2人がオペラに目もくれなかったのは興味深い。男だけのオペラはない。モーツァルトはオペラで女性を描くのがうまかった。ショパン、リストがピアノで熱狂させたのも女ばかりというイメージである。一方、お二人の女声への音楽は禁欲的だ。私生活においても、ブラームスは年上、ブルックナーはかなりの年下の女性好きだったが、2人とも結局独身だった。ブラームスの年上の人はクララ・シューマンだった。先輩の奥さんだ。
交響曲第1番の第4楽章に出てくるアルペンホルンを模した主題は、クララの誕生日を祝う手紙の中で「高い山から、深い谷から、君に何千回も挨拶しよう」という歌詞が付けられている。ブラームスはこの曲を作るのに21年もかけているのだ。この真摯さ、入念さ。真剣になった時、男はコピペなど絶対にしない動物だ。化粧までする最近の男はどうだか知らないが、あまたある音楽の中でも、この曲は男というものの本質、本性を抉り出したような存在なのである。
僕が最初に覚えたブラームスの交響曲はこの1番だ。高1の時に買ったミュンシュ/パリ管のLPだった。 ちっともいいと思わなかったが、カラヤン/ウィーンPOの千円盤が出たのでまた買い、だんだん耳になじんだ。そして決定打となったのが大学2年の年に出たフルトヴェングラー/ベルリンPO(52年2月10日ライブ)である。体に電気が走り、僕のブラームス遍歴はその日から始まった。
所有する103枚のうち三ッ星がついているのは上記フルトヴェングラーとベーム/VPOの79年東京ライブだけ。二つ星はミュンシュ/BSO、トスカニーニ/PO(52年9月29日ロンドンライブ)、クレンペラー/ケルン放送O(55年10月17日ライブ)、ギーレン/BPO(78年ライブ)、カラヤン/BPO(87年盤)、カラヤン/BPO(88年10月6日ロンドンライブ)、スクロヴァチェフスキ―/ハレO、朝比奈隆/大阪PO(94年11月9日ライブ)、ボッシュ/アーヘンSOだけだ。
フルトヴェングラー/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(52年2月10日ライブ)
ブラ1の原像となった強烈なインパクトをもらった演奏である。76年に新譜で出たLPはこのジャケットではないが音も良く、至宝を手にした喜びがあったことを思い出す。どこがどうというレベルの演奏ではなく、初めてアテネでパルテノン神殿の柱を見上げた時のような偉容と均整感に圧倒されるばかり。第1楽章や終楽章の個性的なテンポ・ルバートは楽譜にないが、それがないともの足りないほど曲想にぴたりと決まっており、全曲を高所から俯瞰した必然を強く感じる。フルトヴェングラーの全録音の中でも1、2を争う名演中の名演であり、この曲が好きな人、これからを聴こうという人には迷わず一聴をお薦めする。
シャルル・ミュンシュ / ボストン交響楽団
パリ管との新盤の世評が高いがどう聴いても弦が薄い。管が明るすぎる。ドイツのオケと比べてもわからないなどと書いている評論家がいるが、どんな装置で聴いているんだろう。このボストン盤はちゃんと再生すればボストン・シンフォニーホールの特等席の音がする。最高にブラームスらしい音だ。演奏も新盤にまったく遜色なく、フルトヴェングラーの陰影はないがさらに剛直でストレートな表情が加わるのが素晴らしい。男のブラームスである。
朝比奈隆 / 大阪フィルハーモニー交響楽団(94年11月9日ライブ)
堂々たる開始。ティンパニーが効きテンポはかなり遅い。主部も同様で、ここぞという箇所のffの打ちこみは最高。第2主題はさらにテンポを落としてロマンティックだが辛口だ。展開部はオケが先に行きたがるが許さず、その遅さだからこそ生きる「運命主題」を叩きつけてなだれこむ再現部クライマックスの爆発は見事。第2楽章はオケの限界が出てしまい第3楽章の最後の減速はだれるなど気持ちはよくわかるがどことなく素人くさい指揮でもある。終楽章も走らない。一歩一歩大地を踏みしめながら要所で切る見栄。古臭いと言わば言えという頑迷さすら感じる。金管コラールのルバート!こういうことをマゼールのような人がやれば鼻につく芝居にきこえるだろう。そうならないのはシャイな男ブラームスを無骨に描こうというこの親父さんの頑固な執念と不器用さが、人為的なあざとさを感じさせないからだ。誰にもお薦めする演奏ではないが、彼の思うブラームス像に僕のように共感する人にはわかってもらえるだろう。
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ブラームス ピアノ協奏曲第1番ニ短調作品15(原題・ブラームスはマザコンか)
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