「小保方氏に見るリケジョとAO入試」再論
2014 APR 20 20:20:09 pm by 東 賢太郎
にたくさんのアクセスをいただき驚いています。ここで論じたのは学生の選別法でした。サラリーマンを30年もやると、どういう学生が入社後に伸びたのか、それは資質なのか教育なのかなど外的知見は増えるし、自分自身そして同級生のその後など個人的知見もある程度整います。その知見が今後役立つか否かは世相の変化にもよりますから確証はありませんが書いておこうと思いました。
拙文で「読み書き算盤がベース」とし、だから「算盤(数学)を省くのは愚策」としたのは一つの結論です。そこでもう一歩議論を進めてみます。では国立大方式が万能なのか?という問いです。
世には「東大・京大生が読む・・・」「東大式・・・」が溢れています。「アメリカでは今・・・」「・・・が全米で大ヒット」に似たキャッチコピーです。では東大式はないのか?あります。試験というものがきわめて苦手だった僕が浪人して発見したことがあります。東大入試の国語や社会科の論述問題には試験官が期待しているあるパターンが存在するということです。それが何かはそこに鍵があり、それを見つけてそれに添っていわば「いい子ちゃん」になって回答すればいいのです。よく東大入試は知識ではなく事務処理能力だといわれますが、それはちょっと本質を外しています。
つまり東大式というのは一見複雑なものを記号化、整理体系化して相手の期待するパターンに合わせて短時間にコンパクトに提示することです。事務処理能力は必要条件にすぎず、いい子ちゃん能力のほうが必要十分条件に近い。これに気がつくといい点が取れます。「いまでしょ先生」の林修さんの著書を読むと彼も数学で文Ⅰに入り予備校でもはじめは数学教師だったのが現国に転向したそうですが、おそらく彼も僕がいう所のいい子ちゃんの法則を発見されたのではないでしょうか。
いきなり脱線しましたが、その能力が最も発揮できる場所こそ役所でしょう。何にでもいい子ちゃんになるためには自分の考えは不要です。コロコロ入れ替わる大臣の国会答弁などそうでもなければ書けるものではありません。わざと難解にした役所言葉で敵方を煙に巻くのは逆に悪い子ちゃんになればいいのだから全く同じ能力の裏返しです。一言でいえば、右か左かはともかく体制順応力、体制翼賛力が非常に高いのが東大力の特色です。
こういう能力にばかり長けた人がSTAP細胞はおろか相対性理論を発見するなど程遠い話でしょう。体制翼賛的でない京大の方がノーベル賞が多いのはわかる気がします。こういう入試をしている限り、所詮3000人も入れる大学である東大がエリートはおろかエリートの母集団であるかどうかすらわからず、時代の潮流によってはむしろ疑わしくすらなると思うのです。
朝日新聞社の新卒に東大がゼロだったそうです。朝日がネット時代の潮流から外れたのか?ネット発信という経験を1年半ほどしてみるとそれはあるかもしれないとは思います。しかしエリート予備軍であるならばそういう時代こそ骨のある新聞記事を書いて指針を示そうという者がいてもいいのではないかとも思う。どうもDeNA、グリー、サイバーエージェントの人気というのは、ネット時代にそれをするならそこだという志の高い現象ではないような気がするのです。
安定志向で役所と銀行そしてネット系というあまりに目先的な選択に抜け目がないことに「自分の考えがない」という東大生(特に文系)の特質を感じます。欧米に追いつき追い越せの時代のエリートはそれでいいですが、追いつく対象がない時代にそれでは国家はやがて進路を見失うでしょう。国立大方式が万能なのか?そうではないからこういう現象が起きると思います。より正確には、それが消去法的にはベストですが大学教育で補完しないとエリートは生まれないということです。
フランスのグランゼコールはフランス革命後に新統治機構を担う人材を速成するために、つまり明治政府が国立大学を作ったのと似た背景でできましたが、大学ではなく少数精鋭の国家統治専門家養成機関として進化しました。日本のいかなる大学のいかなる学部もそのように機能しているものはなく、もはや国家にエリートが必要という常識すら存在しません。それが「坂の上の雲」の明治時代との差なのです。第2次大戦後の国際関係においてはエリートの存在は核保有の有無と同じほど国家の命運を左右します。集団的自衛権もいいのですがそれを正面から論じないこと自体、与党にエリートがいないということなのです。
自分のことを引き合いに出すのはあまりにまじめに勉強しなかった大学時代の懺悔でもあるのですが、僕が本当に財産に思うのは浪人時代の受験勉強だけです。その貯金で食ってきたといってよく、大学で習ったことや学歴で今があるという実感はほとんどありません。ひょっとして入学を辞退するか中退するかして何かビジネスをしたらもっと大きなことができたかもしれないとすら思います。
何がいいたいかというと、学校が100%人をつくる訳ではないということです。田中角栄のような人もいます。彼の総理秘書官をした元外務省の大物官僚で白州次郎と親交があったK氏に「どんな人でしたか?」と質問すると、こう教えてくれました。済州島の先に油田が見つかって日中韓の権益争いになり、それの確保のために予算をつける重要性を外務省の役人と帝国石油が何人も官邸に行って角栄さんに分厚い資料で説明したそうです。何時間か説明をじっくりと聞き、そして彼が発した言葉は「いくらいるのか?」ではなくて「ほんとうに(石油が)出るの?」だったそうです。「なんと掘ったらやっぱり出なかったんです(笑)。そういう人でした。本質を見抜く目がすごかったですよ。」 こういう人に学校はいりません。
本質を見抜ける人こそ、大学を首席で出た人よりもエリートにふさわしいのです。国として的を得た判断を下せるからです。そういう人が大将にふさわしい。そんな人を教育でつくれるかどうか?難しいかもしれません。松下政経塾から幸之助のような人が出てこないように。しかし王将は無理でも飛車、角、金、銀ぐらいはできるでしょう。グランゼコールであるフランス国立行政学院(ENA、エナ)は官僚も出しますがシラク、ジスカール・デスタン、オランドなど大統領、首相も輩出しています。二世議員が一概にいかんとは思いませんがエリートというのは熾烈な競争を勝ち抜いてなんぼというものではないでしょうか。国益のために競争させるべきです。そのために東大、京大、早慶あたりに日本版グランゼコールを創るべしと思います。
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