ワガママであることの功罪
2014 APR 26 15:15:20 pm by 東 賢太郎
先日、畏友の写真家齋藤清貴氏の弟子、中條未来(ちゅうじょう みく)さんの個展に行って、気に入った一枚を買わせてもらいました。一見なにげないバルセロナ市街の光景なのですが、そこにはヨーロッパの雑踏の空気とざわめきが在ってとてもいいのですね。あえて白黒というセンスがまた気に入って、音が聞こえてくるように感じたのです。
僕が撮るといえばスマホ写真がせいぜいですが、ここだと思ってシャッターを押して出来が良かったことは一度もありません。けっこうたくさん撮っていて、それも自分がいいと思って撮っているんだからそれはないだろうと思うのですが、プロの写真を見てしまうとダメです。3日もたつとどうしてこんなつまらないものを撮ったのかと不思議に思い、 1か月もたつと情けないことに被写体がなんだったか忘れていたりもします。写真は正直者で、シロウトの自己流がそのまま出てしまうのでしょう。自分のワガママがいかに世間では通用しないかを映す鏡のように見えてきました。
こういう経験をすると、ひょっとして、ここだと思ってしゃべったり書いたりしていることもそんなものじゃないかという気持ちになってきます。3日たつとどうしてあんなことをと思い、1か月もたつと・・・ということかもしれません。仕事上の発言に衝動的ということはあり得ませんが、私生活ではわかりませんし、こうして公開してブログを書くようになって、書いたものは写真のように残りますからだんだん不安になってきます。最初の方のブログはそれが全然なく、今読んであまりのワガママぶりにこれはひどい消したいというのがいくつかありますが、それも今となっては我が歴史の一コマであり残しております。
幸か不幸かあるいは人がいいのか、僕は嫌いな人というのが思い当たりません。仕事で対立してこの野郎となったのは何度もありますがそれはその人の言ったことやとった行動が嫌いなのであって、その原因は良く考えると当方にあったりするので、その人物まで嫌いというのはまずありません。罪?を憎んで人を憎まずを地でいっています。ただ言葉が下手で直球のみなので相手を傷つけていることがたぶん多く、それを言っちゃあ終しまいよというのを何度も言っています。かなり後でそういう人にバッタリ会って、こっちはそれを忘れていて、というのはそれがなければ君はいい奴なんだけどなあということで投げた一球だけのビーンボールなんでよりが戻ったということも多々あります。
だから基本的に去る者追わず来る者拒まずで生きてきています。それでも一応一線で生き残っているのは、妙な話ですがずいぶんとワガママをしてきたからで、自分の争えない性格上結果的にそれが成果を出す鍵でした。ワガママであるというのは僕が仕事上も含めておつき合いしたことのある方、特に女性ほぼ全員に言われたことでありますが、言い訳になりますが同じワガママでも僕はあまり利己的ではなく基本的に利他的なのです。利己的な人は権力欲や独占欲が強く権利意識が強いと思われますが、僕はそのどれも関心がありません。会社時代にいやいや権力をたくさん持たされたからもうたくさんです。とにかく人に笑顔になってもらうことや助けたりものを教えたりが好きであり、そうありたい願望からワガママになっているのは誠に勝手ながら事実です。利他は自分が満足した状態にあって、なにより自分が強くないとできないのです。
ネコ型の人間ですから他人から支配されるのが最も嫌いなのはいつか書きました。だからサラリーマンはのっけから無理であり、自分を支配できる人間は自分だけなので自分のルールで結果を出すのが唯一の成功パターンです。悪戯(いたずら)も野球も受験も証券業もささやかながらそれで結果を出して来ました。ただあまりにささやかなので満足していない自分がいて、その自分がそうでないものを求めてやまないので起業しています。だからこれからそれをやるつもりです。自分の実像はブログでもう世に晒していますし、それをお読みいただきワガママも飲んでいただいての挑戦ということになると、これは僕には逃げ道がなく沽券に関わる問題なので失敗は自分が許しません。去っていない人たちはひょっとすると僕より賢くて、そういう人には気がつかずに支配される運命にあるのかもしれませんが。
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