「小保方氏に見るリケジョとAO入試」再論
2014 APR 20 20:20:09 pm by 東 賢太郎
にたくさんのアクセスをいただき驚いています。ここで論じたのは学生の選別法でした。サラリーマンを30年もやると、どういう学生が入社後に伸びたのか、それは資質なのか教育なのかなど外的知見は増えるし、自分自身そして同級生のその後など個人的知見もある程度整います。その知見が今後役立つか否かは世相の変化にもよりますから確証はありませんが書いておこうと思いました。
拙文で「読み書き算盤がベース」とし、だから「算盤(数学)を省くのは愚策」としたのは一つの結論です。そこでもう一歩議論を進めてみます。では国立大方式が万能なのか?という問いです。
世には「東大・京大生が読む・・・」「東大式・・・」が溢れています。「アメリカでは今・・・」「・・・が全米で大ヒット」に似たキャッチコピーです。では東大式はないのか?あります。試験というものがきわめて苦手だった僕が浪人して発見したことがあります。東大入試の国語や社会科の論述問題には試験官が期待しているあるパターンが存在するということです。それが何かはそこに鍵があり、それを見つけてそれに添っていわば「いい子ちゃん」になって回答すればいいのです。よく東大入試は知識ではなく事務処理能力だといわれますが、それはちょっと本質を外しています。
つまり東大式というのは一見複雑なものを記号化、整理体系化して相手の期待するパターンに合わせて短時間にコンパクトに提示することです。事務処理能力は必要条件にすぎず、いい子ちゃん能力のほうが必要十分条件に近い。これに気がつくといい点が取れます。「いまでしょ先生」の林修さんの著書を読むと彼も数学で文Ⅰに入り予備校でもはじめは数学教師だったのが現国に転向したそうですが、おそらく彼も僕がいう所のいい子ちゃんの法則を発見されたのではないでしょうか。
いきなり脱線しましたが、その能力が最も発揮できる場所こそ役所でしょう。何にでもいい子ちゃんになるためには自分の考えは不要です。コロコロ入れ替わる大臣の国会答弁などそうでもなければ書けるものではありません。わざと難解にした役所言葉で敵方を煙に巻くのは逆に悪い子ちゃんになればいいのだから全く同じ能力の裏返しです。一言でいえば、右か左かはともかく体制順応力、体制翼賛力が非常に高いのが東大力の特色です。
こういう能力にばかり長けた人がSTAP細胞はおろか相対性理論を発見するなど程遠い話でしょう。体制翼賛的でない京大の方がノーベル賞が多いのはわかる気がします。こういう入試をしている限り、所詮3000人も入れる大学である東大がエリートはおろかエリートの母集団であるかどうかすらわからず、時代の潮流によってはむしろ疑わしくすらなると思うのです。
朝日新聞社の新卒に東大がゼロだったそうです。朝日がネット時代の潮流から外れたのか?ネット発信という経験を1年半ほどしてみるとそれはあるかもしれないとは思います。しかしエリート予備軍であるならばそういう時代こそ骨のある新聞記事を書いて指針を示そうという者がいてもいいのではないかとも思う。どうもDeNA、グリー、サイバーエージェントの人気というのは、ネット時代にそれをするならそこだという志の高い現象ではないような気がするのです。
安定志向で役所と銀行そしてネット系というあまりに目先的な選択に抜け目がないことに「自分の考えがない」という東大生(特に文系)の特質を感じます。欧米に追いつき追い越せの時代のエリートはそれでいいですが、追いつく対象がない時代にそれでは国家はやがて進路を見失うでしょう。国立大方式が万能なのか?そうではないからこういう現象が起きると思います。より正確には、それが消去法的にはベストですが大学教育で補完しないとエリートは生まれないということです。
フランスのグランゼコールはフランス革命後に新統治機構を担う人材を速成するために、つまり明治政府が国立大学を作ったのと似た背景でできましたが、大学ではなく少数精鋭の国家統治専門家養成機関として進化しました。日本のいかなる大学のいかなる学部もそのように機能しているものはなく、もはや国家にエリートが必要という常識すら存在しません。それが「坂の上の雲」の明治時代との差なのです。第2次大戦後の国際関係においてはエリートの存在は核保有の有無と同じほど国家の命運を左右します。集団的自衛権もいいのですがそれを正面から論じないこと自体、与党にエリートがいないということなのです。
自分のことを引き合いに出すのはあまりにまじめに勉強しなかった大学時代の懺悔でもあるのですが、僕が本当に財産に思うのは浪人時代の受験勉強だけです。その貯金で食ってきたといってよく、大学で習ったことや学歴で今があるという実感はほとんどありません。ひょっとして入学を辞退するか中退するかして何かビジネスをしたらもっと大きなことができたかもしれないとすら思います。
何がいいたいかというと、学校が100%人をつくる訳ではないということです。田中角栄のような人もいます。彼の総理秘書官をした元外務省の大物官僚で白州次郎と親交があったK氏に「どんな人でしたか?」と質問すると、こう教えてくれました。済州島の先に油田が見つかって日中韓の権益争いになり、それの確保のために予算をつける重要性を外務省の役人と帝国石油が何人も官邸に行って角栄さんに分厚い資料で説明したそうです。何時間か説明をじっくりと聞き、そして彼が発した言葉は「いくらいるのか?」ではなくて「ほんとうに(石油が)出るの?」だったそうです。「なんと掘ったらやっぱり出なかったんです(笑)。そういう人でした。本質を見抜く目がすごかったですよ。」 こういう人に学校はいりません。
本質を見抜ける人こそ、大学を首席で出た人よりもエリートにふさわしいのです。国として的を得た判断を下せるからです。そういう人が大将にふさわしい。そんな人を教育でつくれるかどうか?難しいかもしれません。松下政経塾から幸之助のような人が出てこないように。しかし王将は無理でも飛車、角、金、銀ぐらいはできるでしょう。グランゼコールであるフランス国立行政学院(ENA、エナ)は官僚も出しますがシラク、ジスカール・デスタン、オランドなど大統領、首相も輩出しています。二世議員が一概にいかんとは思いませんがエリートというのは熾烈な競争を勝ち抜いてなんぼというものではないでしょうか。国益のために競争させるべきです。そのために東大、京大、早慶あたりに日本版グランゼコールを創るべしと思います。
ネーメ・ヤルヴィのシベリウス2番を聴く
2014 APR 20 0:00:43 am by 東 賢太郎
今日はN響Cプロをききました。座席は一階中央10列目右寄りで、低弦がわずかに強めに聴こえる位置ですが、このホールはそのほうがいいです。グリーグ「ペールギュント組曲1番」、スヴェンセン交響曲第2番が前半で、ここまではまあまあでした。ペールギュントはあえてこれを聴こうということはないので実演は初めてです。「朝」は意外にオーケストレーションが厚い(厚すぎる?)という感じがしました。アニトラの踊りでは弦が良い音で鳴っていましたし、好演だったと思います。
2曲目のスヴェンセンは期待しましたがどうもメリハリの薄い平板な音楽で、部分的に美しいものの和声の起承転結にあまり説得力を感じません。第1楽章のリズムやフォークダンス風の楽想の利用などシューマンのライン交響曲を意識した感じもしましたが才能の差はどうしようもありません。1番の方が初々しくて好きであります。
さて後半は今日のメインです。シベリウスの交響曲第2番に涙が出るほど感動いたしました。久々にいただいた音楽のパワーに酔い、ここ数日の疲れが吹っ飛びました。今まで、70年のジョージ・セルの東京ライブを聴いた人に嫉妬していましたが、この演奏を聴けたことでもうそれから解放されるでしょう。
ネーメ・ヤルヴィはずいぶん録音があって我が家のCD棚にも相当あります。BISレーベルのシベリウスはCDというフォーマットが出たての80年代初めに「ダイナミックレンジが広いので音量に注意しないとスピーカーを破損する可能性があります」というウォーニングが黒いジャケットに書いてあったのが懐かしい。彼の録音は450タイトルだそうで、カラヤンやオーマンディーもびっくりの新記録じゃないでしょうか。
息子のパーヴォがやはり指揮者で出てきて、僕は確か98年ぐらいに出張で行ったロンドンで聴きました。そのときの牧神の午後への前奏曲がとても良くて、あれはかつて聴いたその曲の最高の演奏として今でも記憶に残っています。だから息子のイメージが先行していて、親父のほうはライブは今日が初めてでした。
シベ2のテンポはCDとほぼ同じで第1楽章冒頭から早めです。以前に シベリウス2番のおすすめCD(その2)に書きましたがそれは作曲当時の生き証人であるカヤーヌスのテンポに近いのです。これもそれに近いテンポのポール・パレー盤と父ヤルヴィの旧盤を僕が1,2位として好んでいるのはそこにある通りです。その演奏が眼前で聴けたのは最高の喜びでした。
指揮者は大別して2タイプあります。君臨型と仲間型です。校長先生型と生徒会長型といってもいいでしょう。前者はトスカニーニ、セル、ライナー、チェリビダッケ、ムラヴィンスキーなどですが時代に合わないせいでしょうかほとんどトキなみの絶滅危惧種と化しています。去年聴いたアントン・ナヌートにかろうじてその残り香を感じましたが、父ヤルヴィにもそれがぷんぷんしていて、まずそれにうれし涙であります。
僕は仲間型、生徒会長型の指揮者は不満なのです。パワハラでオケから訴訟されそうなカミナリ親父でないと指揮なんてできないんじゃないかと思わせるほどトスカニーニやムラヴィンスキーの演奏は素晴らしい。オケに「気」がピーンと張っているのです。「いいね」を連発してオケをのせるタイプ、そんなのは映画やアダルトの監督ぐらいはできるだろうがあの怜悧なカミソリみたいな緊迫感は絶対に出ないでしょう。とにかく近年、コンサートでそういうものを感じたことがないのがその何よりの証拠だと思います。
今日はそれがありました。ヤルヴィの指揮棒は胸から肩ぐらいまで小さくしか動かず、(おそらく)アイコンタクト、それから体の動きで指示しているように見えました。どことなく映像で見たR・シュトラウスの指揮姿を思い出します。それがほんのまれに大きめの指示が出たりします。終楽章のニ長調でドレミシドレ・・・の全奏でF#の和音を作る瞬間のトロンボーン、チューバにそれが出るなど彼が音楽の流れに何を重視しているかわかって非常に面白かったです。
CDもそうですが金管のffは強めで大層メリハリがつき、ティンパニのトレモロも荒れ狂います。これがうるさくなく、こういう曲なのだという説得力があるのが不思議です。特に第2楽章はその白眉で大変すばらしかった。金管、ティンパニに対しチェロとは完全に独立して動くコントラバスが浮き出て聴こえることでスコアが立体的に鳴るというのは初めての経験であり、なるほどそうだったのかと納得です。第3楽章中間部のオーボエに独奏チェロがからむ美しい部分もそうです。
終楽章も基本的にインテンポで外連味がなく、小さい動作のままで激することなくオケだけが過熱していく様。これぞ君臨型!!将校が大軍を率いるようであり、ナポレオンの行軍かくやという光景であり、これぞ男の憧れ。ただただ「格好いい」のです。女性指揮者も活躍する時代になり、それとともに生徒会長どころかオトモダチ型まで現れた今日この頃、76歳のこわもて親父が「気」の支配で振る指揮棒には絶対に男にしかない権力の光が灯っていました。
音楽は姑息なギアチェンジやら減速して安っぽい盛り上げを狙うような手管は一切なく、堂々と王道を進んで最後のDの和音に登りつめ、ヤルヴィはその全力で鳴らされている音を両足を一歩前に進めて断ち切りました。いや、この重み、すごいものです。2番はこういう曲なんだという威厳ある意志とメッセージにオケがコントロールされているようで、当方もいつもは気になる弦の美感やらバランスの良し悪しなど意識からはじき出されていました。
久々に出会った本物中の本物。今日はシベリウスだけで大満足です。
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結果責任とストックオプション
2014 APR 19 0:00:42 am by 東 賢太郎
前回に評価を下げる5つの法則(Five rules to lose your job)を書きました。その中でも最も致命的にだめなのが「逃げる」です。逃げれば結果は出ません。上司が求めるのは結果ですから、できない理由がどんなに立派でも意味はありません。だから、自分が「やる」と言った以上は何があろうが結果を出す責任があるのだと考える人にしか大事な仕事はまかされません。
野村ではお客様から頂いた注文を書く伝票を「ぺロ」と呼んでいました。支店で投資信託などを1か月単位で募集するときに、課長さんに「今日時点の自分の募集見込み金額は**円です」と毎日申告します。これを毎日増やしていきます。課長は全員の申告数字をベースに課の目標をどう達成するか管理します。これはノルマだからショートすることはありえません。万一、誰かの申告数字が虚偽だったり未達成になったりすると課全体の計画が崩れますから全員に怒られます。
この「申告したけどできませんでした」というのを「空(から)ぺロをきる」といいました。これをやってしまうと当時の野村では問答無用で大罰点がつきました。2度もやろうものなら回復不能なほど信用失墜して「あいつはダメ」といわれ、3度やれば左遷という感じでした。課単位で達成率を競争してますから人事部の評価以前に仲間から失格の烙印を押されて二軍落ちしてしまうのです。
この「空ぺロ」=人でなしという恐ろしい掟が今も生きているのかどうか知りませんが、そこで鍛えられた僕はビジネスにおける信用とはそういうものだとたたきこまれました。企業は手形が不渡りになると潰れますが、まさに空ぺロはそれと同じで、野村は企業経営のプレッシャーをいきなり教えてくれたようなものでした。この修羅場を新人時代にくぐり抜けているから僕はサラリーマンを辞めて起業する自信があったと思います。
この掟は野村に限らずビジネスでは非常に大事です。僕はこれを「スナイパー能力」と呼んでいます。ゴルゴ13やジェームズ・ボンドが「すいません、ダメでした」と頭を掻くシーンはないのです。たとえば小保方さんには美点が一つあって、もし彼女が上司にネイチャーへの論文掲載を何らかの理由で期待されていたとすると、彼女はそれをやり遂げてしまいました。やり方はともかく「空ぺロをきらなかった」わけです。やった行為は理由は何であれ僕は絶対認めませんが、ともあれやりきってしまう気質は言いわけを探して逃げる人よりはビジネスマンとしては数段上であります。
ということは「やる」と言うか否かが決断です。できないと思ったら事前にできないとはっきり言うことが大切です。ここで上司との間で「ボタンの掛け違え」があるとお互いが不幸になります。「やる」と宣言するためには準備が必要で、客観的な目でその仕事と自分の能力を見比べることです。どんなに魅力的な仕事でも、自分の力を超えると思うなら断るか、「ここまでならできます」と正直に申告しておくべきでしょう。
できるとやるは同じではありません。できてもやりきれないこともあります。大きな仕事ほど「心のエネルギー」が必要で、それをチャージして始めることが重要です。インセンティブがそれに当たります。ストック・オプションは成果報酬で、成果に比例してチャージされる電力も増えますから有効とされ、多くの日本企業が活用しています。ただしこれには経営側で留意すべき点があります。
97年のダボス会議で僕は当時GEの大経営者として世界的に有名であったジャック・ウエルチ会長のブレックファースト・ミーティングに出ました。そこで彼が力説したのは「組織プレーができる人にインセンティブを与える」ことです。この組織プレーとは日本的な意味と少し違っていて、学ぶ組織(learning organization)というものです。知恵は現場にあるというのが彼の哲学ですが、そこから得た知恵を独り占めして稼ぐスタントプレーヤーには彼はストック・オプションを与えません。知恵を組織で共有して「学ぶ組織」にする者にだけ与えると言ったのです。
これは目から鱗でした。もちろんオプションは役職や年次で一様に与えるものではありません。また、いくら与えても株価が上がらなければ、つまり与えた成果(=業績)が経営者の見込み通りに出なければオプションはただの紙切れになって誰も幸せになりません。したがって、ストックオプションは「業績連動報酬が欲しくない人(現金が欲しい人)」、「与えても業績に影響度の少ない人」に与えるのは効果を最初から放棄するようなもので、「我こそは株価をあげられる」と挙手する者のうち「学ぶ組織」にできる者に集中して与えよ、そうすれば全員が幸せになるとウエルチは説いたのです。
業績を出す=株価が上がる、ということですから、まずそれを「やる」と宣言する者から真の「スナイパー」を選別しなくてはなりません。そしてその中から組織を大切にしてノウハウを出し惜しみなく共有できる度量のある人をさらに選別します。その人を中心に、官僚主義を排し、「学習する文化」を作れと彼は言いました。当時僕は42歳の若僧でしたがこの考え方にはとても感心し、以来「空ぺロなし」と同じくビジネス成功の基本原理だと信じています。このことは「ウェルチ、GEを最強企業に変えた伝説のCEO」(ロバート・スレーター著、日経BP)に詳しく書かれています。
SMCの閲覧数13万超え
2014 APR 18 1:01:59 am by 東 賢太郎
ここ一週間ほどでSMCの閲覧数が急に増え、1日で1万7千を超える日もありました。同じ日だと延べではないので、その日は1万7千人が読んで下さったということです。日本雑誌協会による発行部数の統計によると「新潮45」が22,734、「Voice」が25,867、「中央公論」が30,000ですからSMCは3日でこれらを抜いてます。
スタートからの約1年半の合計閲覧数は13万を超えました。期間が違うので単純比較はできませんが「AERA」が118,900、WEDGE(ウエッジ)が138,664、「サンデー毎日」が106,847というところです。最も多い所で「文芸春秋」が約50万、「週刊文春」が約70万です。
「実名と顔を明かして書く」、「商売抜き(単なる趣味)」というポリシーは継続いたします。他人の目を気にしておためごかしを書くぐらいなら書く意味も必要もありませんから、思うことをストレートに書くスタンスも継続いたします。
ひとつだけお断りしますと、このたび某社様の顧問を正式に拝命することになったため、上場企業でもある同社に関わることは一切触れられなくなります。それ以外は変わらずやって参りますので、引き続きよろしくお願い申し上げます。
評価をダウンできる5つの法則
2014 APR 15 1:01:16 am by 東 賢太郎
先日のこと、友人と飲んでいて人材の使い方の話題となった。僕は最大で約500人の部下がいたことがある。そうなると直接の人事評価はおろか名前を覚えるのも記憶力が及ばず、評価は大部分を部長職にゆだねて自分は部長以上の評価をすることになる。直属の部下として自分が直接に人事評価を書いたのは120人ぐらいが最大で、それ以上はちょっと難しいというのが実感だ。
120人の評価を書くということは、書かれる側としては120分の1しか見てもらえないということでもある。だから、そういうことに敏感な部下はあれこれ手を打ってくる。しかし自分ではそういうことを上司にしなかった人間なので思うところもあり、そういう部下を見て人間というものを良く学ばせてもらった。結論としてわかったのは「良い人材」とは定義がないが「ダメな人材」はそれがあるということだ。
もっとわかりやすく言おう。就活などで「当社の求める人材」というのを目にすると思うが、あれは嘘だ。婚活に置きかえればわかる。「私の理想の相手」の条件を10個書いてみたらいい。そんな男性や女性がいますか?そうではなく、ほとんどの人は「これだけはダメだ」というのがあって、それが少ない相手を選んでいるだろう。ゴルフならOBラインがあって、フェアウエーならラッキー、その内側ならラフでもまあいいやというのが現実ではないか。
つまり「当社の求める人材」とは「当社が採用したくない人材」の裏返しなのだ。それが特定の会社の個性や好みではなく、どの会社でもだめだというところぐらいまでは最大公約数として定義ができるように思う。もしあなたが自分の世間での信用を下げたいと思うなら簡単だ。パンツ一丁で道を歩けばいい。会社という場にはそれと同じぐらい明確に「評価をダウンできる5つの法則」がある。若い方へのささやかな教訓としてそれを書いておきたい。
評価をダウンできる5つの法則
1. 逃げる(Dodge, evade)
2. いきなりNOと言う (Instantly say NO to any request)
3. 言い訳を探す (Find pausible reasons for your failure)
4. 窮地で相手を批判する (Criticize your partner in a predicament)
5. お世辞を言う(Flatter)
1、は最も効果的な方法だ。「やります」と言っておいて結局やらない。3日で「できませんでした」と言う。試みてみるができそうもないとああだこうだ言って逃げる。こうすれば上司から大事な仕事を任されてしまう心労を確実に回避することが可能である。この逆は簡単だ。やると言ったことは何があろうと最後までやりぬくことである。
2、上司やお客さんに何かを「できませんか?」と言われて「無理です」、「私の担当ではありません」と答えることだ。3回もやれば仕事が来なくなることに成功するだろう。いい答えは「やってみます」である。「やります」と言うと1.が問われる。全力でやってみて不首尾でも構わない。ただし「全力」が問われる。ふりだけだと1.と同じことになる。
3.「やりたくない」、「できそうもない」、「失敗した」という場合にあれこれ口実を探して言い訳することだ。友人によるとこれがうまい若手が増えているらしい。これに上達すればサラリーマンの達人にはなれるが、あなたの会社がまともならそれに正比例して仕事は減っていくだろう。
4.一般に逆切れとも呼ばれる。めったにないことだが緊迫した会議の場において散見される。自分が窮地にあると無用に知らしめた上に相手を怒らせるという2重の効果があるから必殺技でもある。うまくいけば仕事だけでなく失職にも成功するだろう。
5.これはちょっと判断が難しい。上司のタイプを見極める必要があるがその簡単な方法がある。その上司が自分の上司にそうしているかどうかを観察すればいい。ヨイショマンだった場合はヨイショしないこと。そうでない場合は歯の浮くようなお世辞を言うのが最も効果的だ。
上司というものになった人間で「1-5があれば是非その部下を登用したい」という人がいれば、その人がさらに登用される可能性は限りなく少ないので上司と思う必要はない。もしその上司が長く上司級のポストにいるなら、「評価をダウンできる5つの法則」が正しくあてはまる上司と考えてほぼ間違いない。従って、1-5のどれにも当てはまらないようなサラリーマンになれば、あなたは非常に高い確率で登用されるはずである。
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メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64
2014 APR 13 18:18:45 pm by 東 賢太郎
たとえばメンデルスゾーンの協奏曲では、ホ短調のスケールを音の粒をそろえて弾けなければなりません。この協奏曲の第一楽章の三連符のパッセージをうまく弾けている演奏をめったに聴いたことはありません。
-ルッジェーロ・リッチ(千歳八郎著『大ヴァイオリニストがあなたに伝えたいこと』)
ヴァイオリン協奏曲の最高の名曲をあげよといわれたら、さんざん迷ってこれにすると思います。モーツァルト、ベートーベン、ブラームス、チャイコフスキー、シベリウスをさしおいてです。それほどメンデルスゾーンは天衣無縫、完全無欠の美を誇る女王のような存在であり、もう何百回耳にしたかわかりませんが死ぬまで聴き続けて飽きる気が一切しない最右翼に位置する音楽であります。つまり無人島の一枚の候補ということになります。
そういう曲ですから、チャイコフスキーやシベリウスを弾かない人はいてもこれを弾かないヴァイオリニストというのはちょっと考えられません。これが出だしの独奏の楽譜です。弦のさざ波とピッチカートにのって独奏が有名な節を歌います。
これは簡単に聞こえますが、実は持っている29種類の演奏のうち満足できるのはあまりありません。ハイフェッツのような天才でもピッチも感性も合わず、この節を弾く人になりきれていない印象があります。音程がだめな人、最初のタータがタ、タになる人、後半でリズムが甘くなる人、オケに先走る人。これをうまく演奏するのは至難の業ということがわかりますし、それが曲頭に準備もなく出てくるのだから。
書かれたのはベートーベンの死後16年たった1844年ですが編成はベートーベンと変わらず、いやバス・パートがチェロ、コントラバスに分離していないですからむしろモーツァルトまで後退しているといっていいでしょう。ところが、パガニーニばりのソロの名技と拮抗する終楽章の木管などリムスキー・コルサコフのお手本になったかと思わせるほど目覚ましいものであり、それでいながら、終楽章をソリストの見せ場にするあまり曲想が1,2楽章に比べて安っぽくなるという協奏曲のトラップにはまっていない。そうして、また同じ言葉を使わざるを得ないのですが、それでいながら、全曲が終わった瞬間の感動の大きさと興奮は圧倒的なもので、これでブラヴォーが飛ばなければよほど技術に問題があったということでしょう。驚くべきクオリティの音楽であります。
第1楽章の第2主題。ト長調の主和音を3オクターヴ下ってソロがヴァイオリンの最低音のg(ソ)の開放弦を長く伸ばします。この長のばし音で静寂の中に持続性と緊張感を作る方法は第2楽章の入りにも現れますが、ベートーベンの皇帝協奏曲から来たものです。この太くて良く鳴る音にフルートとクラリネットが乗った混ざり具合は前回書いたスメタナ「モルダウ」の入りの部分(そこはヴィオラですが)を思わせる「良く響く」楽器の組合せの発明といえましょう。「真夏の夜の夢」にも素晴らしい例がたくさんありますが、メンデルスゾーンは音色の化学者としても一流です。
そして古典の衣装に盛りこまれたロマン派につながる和声の流れ。下の楽譜は第2楽章と終楽章を結ぶブリッジですが、ピアノの弾ける人はヴァイオリンを歌いながらこの伴奏を弾いてご自分で味わってごらんなさい。赤枠の部分のたった2つの和音!ヴィオラのe(ミ)!滋味にあふれたこの譜面をいま読んで、心に音が鳴って、そして僕はもう涙を流している。
以前のブログにこの曲はフランクフルト近郊のバート・ゾーデンで書かれ、我が家は1年間その隣り村に住んでいたことを書きました。左は旧友の斉藤さんが6月に行って撮ってきて下さった、その時メンデルスゾーンが滞在してこれを書いた家の写真です。僕は毎日、この前を車で通勤していました。楽譜のブリッジ部分はここの空気の匂いがします。赤枠のような音はそういう風に、触れれば壊れるほどデリケートにやってもらいたいのです。
ヘンリック・シェリング / アンタル・ドラティ / ロンドン交響楽団
冒頭ソロの素晴らしさで僕はシェリングを最高位に置きます。禁欲的で清楚でありながら感情がぎっしり詰まった嫋(たお)やかな歌いまわしはバッハ、ベートーベンを得意としたシェリングにしかできない味なのです。きりりと引きしまっていて第3楽章でソロと見事な競奏をきかせるドラティの伴奏ゆえにこの旧盤を上にします。ドラティは幸いなことに晩年にロンドンでブラームスを聴くことができましたが本当に良い指揮者で独欧系の音楽をもっと録音で残してほしかったものです。その第1楽章です。
ヘンリック・シェリング / ベルナルト・ハイティンク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
こちらは76年盤です。冒頭の素晴らしさは旧盤と甲乙つけがたく、こちらのほうが大家の風格がありテンポもゆっくり目です。楽譜にない装飾音も旧盤と同じです。とにかくシェリングの音程に対する潔癖さと控えめなロマンをただよわせた歌の美しさはただただ素晴らしく、作曲家に対してと同様の心からの敬意を表するしかありません。ハイティンクもそのアプローチに協調して、終楽章はむやみなあおり方はしません。芸人のようなソリストが興奮をそそるのとは対極で、作品そのものがくれる感動をじっくり楽しむ大人の演奏です。
ユリア・フィッシャー/ イヴァン・フィッシャー / ヨーロッパ室内管弦楽団
冒頭ソロでシェリング盤に対抗できるのはこれだけです。トータルに見ても最高の名演の一つであり、この曲のヴァイオリン演奏としてはシェリングの金メダルに僅差の銀と思います。この演奏についてはこのブログに書いてありますのでくり返しませんが、ぜひ広く聴いていただきたいと思います。ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流
ミシェル・オークレール / ロベルト・ワーグナー / インスブルック交響楽団
1943年に19歳でロン・ティボー・コンクールに優勝し、早々に左手の故障で引退したフランスの元天才少女の39歳での演奏です。技術で押すタイプではなく併録のチャイコフスキーの細部はかなりいい加減な部分もあるのですが、それにもかかわらず不思議な魅力があり捨てがたい逸品です。細身の音でしとやかに楚々と開始して、歌いまわしと音色にクールな気品と色香がある。オケの伴奏はまったくマイナーな楽団と指揮者とですがこれがドイツの田舎色があってけっして悪くなく、終楽章コーダのライブさながらの興奮は実に素晴らしいものです。
ナージャ・サレルノ=ソネンバーグ / ジェラード・シュウォーツ / ニューヨーク室内交響楽団
ローマ生まれの女流です。冒頭は大きなヴィヴラートでごまかされた感じですが、第2主題の入りをこんなにテンポを落とす人もなく、この曲のロマン派寄りのアプローチとして聞かせます。第2楽章の感情移入は男では恥ずかしくてここまでできないのではという没入ぶりであり、終楽章では一転して男顔負けの立ち回りとなります。じゃじゃ馬っぽい演奏ですがこれをライブで聴いたら彼女に一本負けしたに違いなく、上記ブリッジ部分などもよく感じていてこの曲の抒情的な部分の良さがよくわかるでしょう。
トランペットも吹く彼女がTVショーで第3楽章をピアノ伴奏で弾いています。ちょっと荒っぽいがこのエネルギーには圧倒されます。これが協奏曲でなくヴァイオリンソナタであってもトップを争う名曲だったなあと発見があります。
ウォルフガング・シュナイダーハン / フェレンツ・フリッチャイ / ベルリン放送交響楽団
1915年ウィーン生まれで5歳で公開演奏をした神童だったシュナイダーハンは後にウィーン・フィルのコンサートマスターになります。だからというわけではないが音程に細かい気配り、フレージングには慎ましさがあり、冒頭の折り目正しい歌は正統派中の正統派でありましょう。ソネンバーグがロマン派寄りの現代歌舞伎ならこちらは古典です。ただ、地味なだけかというと決してそうではなく、第2楽章の芳醇な歌の高揚などウィーン・フィルの弦を聞くようでもあり、フリッチャイのオケがそのテーストに見事に同期している。まさしく素晴らしいヴァイオリン協奏曲演奏であります。
お知らせ
Yahoo、Googleからお入りの皆様。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/
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小保方会見とサラリーマン能力
2014 APR 12 14:14:01 pm by 東 賢太郎
小保方氏の会見をyoutubeで見た。これまで4つ書いた本件に関するブログの中身を変更する理由はまったくない。
一言でいうと、こういう人がサラリーマンで出世するのだ。その道では大変な能力である。この人が直属の部下だったらけっこう恐ろしい。核心である「故意の有無」の質問のぼかし方、逃げ方など見事な手腕で98点ぐらいあげられる。立派な女優だと言っている人がいるがちょっとちがう。女優はアドリブがないからとっさに危険を察知して不自然でないそぶりでするりと逃げたり、次のセリフをその場で考えてしゃべりながらタイミングよく泣いたりする能力はいらない。サラリーマン道の大家はそれができる上に女優の演技力も持っているからずっと格上なのである。
僕は昔の会社でこういう部下を一人だけ持ったことがある。ただし男だが。あることがあった時に彼は絶妙なタイミングでさめざめと泣き、大いに驚いた。それが軟弱な涙ではなくいい男泣きの感じが出ていた。それが恐らく演技であることを僕は見抜いていたが、皆の目もある手前慰めに回るしかないほど迫真の演技であった。サラリーマンの天才というのはいるのである。しかもそれが女性だったら?男だから僕はこの部下の嘘を見抜いていた。しかし・・・。あまり自信はもてないと彼女の会見を見て思った。
だから嘘とまでいう自信はない。もし嘘なら、ノートは研究の秘密です、200回も成功してますというあの口調からむしろ演技というよりも確信犯という可能性を考えねばならない。人を殺しちゃいました、でも悪いと知りませんでした、だから悪くないんですワタシ、というのがそれだ。嘘(改ざん)とされるよりその方が罪が軽いと考えているかもしれない。あの会見を見て、200回?どうしてそんなにきれいな数字なの、どうしてそれが今できないの、と何か変だと思った人でも悪くないワタシの論理に引きずられて同情票に回った人は多いのではと推察する。
STAP細胞がそのうち見つかる可能性は誰も否定できないだろう。科学の品位を落とす例えかもしれないがUFOもそうだ。「見ました」と堂々と、しかもいかにも見そうな飛行機のパイロットや宇宙飛行士にでも主張されれば、たいていの人間は嘘だろうと思いながらもたじたじするしかない。それを知ってのあの堂々とした物言いだとするなら、それはポーカーや麻雀などで時として有効なギャンブラーのブラフだ。それができるとするとサラリーマンなら達人の域にある。
これ以上彼女に関心はないが、問題なのはサラリーマンの天才は必ずしもビジネスの天才ではないことだ。むしろそうでない場合がほとんである。ところが権力者を籠絡する天才はやがて権力を持って松食い虫みたいになり、やがて松は枯れる。だから権力者は松食い虫の演技を見抜く眼力が必要である。ビジネスの能力は、ほぼ、本質を瞬時に見抜く能力に近いと僕は思っている。人たらしの能力とは別物であり、そんなものはせいぜい営業部長どまりの能力にすぎない。
科学者の世界は知らないが、権力が発生するところ必ずサラリーマンは出現する。サラリーマンに権力を与えてうまくいくのは役所だけである。
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はんなり、まったり京都2014(その2)
2014 APR 12 12:12:40 pm by 東 賢太郎
皆さん京都へ行ってなにを京都らしいと感じるかはさまざまだろう。僕の場合、霊気である。オカルト的な意味ではない。ここには千年にまたがる人間の「気」が蓄積している感じがある。「つわものどもが夢のあと」と歌うなら、つわものの数は何百万人だろうか。霊気というのは京都以外の寺でも感じるが、ここは寺社だけではない。木屋町通りのどこか1㎡でも掘り下げれれば源義経と坂本龍馬の足跡の化石ぐらい出てくるだろうと、そんな感覚をそこかしこで持つことができるという意味での霊気というものだ。
例えば、この写真は鴨川にかかる松原橋から我々の宿(左から3番目の町屋)をのぞむものだが、この橋は秀吉がそう命名するまでの名は五条橋であり、弁慶と牛若丸が戦ったあの橋である。
それを渡るとすぐ宮川町であり、お茶屋さん街となる。去年もお世話になった「しげ森」さんはそこにある。この風情からしてもう別世界だ。
玄関には舞妓、芸妓さんたちの名が。彼女たちは15歳からここに住み込んで1年たったらまず舞妓になる。無給だが着物も稽古もすべてお茶屋のお母さん持ちだ。20歳をこえると芸妓になり自分で客を取れるようになる、つまり独立自営業者になれる。
ここで懐石をいただいて遊ぶ。最近は女性客が増えているそうで、席にあがる前にビデオルームで基礎知識を教えるVTRを見せてくれるから初めてでも大丈夫だ。写真は伝統お座敷遊び「トラトラ」のお手本を見る皆さん。
ここで独占していたお二人、小ふくさん(右)とふく苗さん(左)が翌日の京おどりの舞台に立つ。これが正調の楽しみ方である。もちろん踊りだけ見てもいいし充分見応えはあるのだが、舞台にいる2、30人の別嬪さんのうちに知っている人が混じっているというのは味なものだ。
はんなり、まったり京都-泉涌寺編-
2014 APR 10 18:18:23 pm by 東 賢太郎
泉涌寺(せんにゅうじ)をご存知の方はあまり多くないのではないでしょうか。僕は天皇家の氏寺が京都にあるときいたことはありましたが、名前は覚えていませんでした。
この寺を知ったのは「逆説の日本史2」(井沢元彦、小学館文庫)です。「扶桑略記」に記載された「天智天皇暗殺」説は興味深く、天皇家の菩提寺に、天武~称徳の位牌がないことをこの本で知りました。井沢氏によると唐が白村江戦勝後に朝鮮半島支配を図り(つまり新羅討伐の戦略を展開し)、それに呼応して新羅に半島を追い出された百済王族である中大兄皇子(天智天皇)が唐と連合軍を作ることを画策。それを阻止するべく親新羅の大海人皇子(天武天皇)が山科で天智を暗殺したとしています。教科書の日本史とはかけ離れた説ですが、僕は通説よりも説明力を覚えます。
4月5日(土)の朝、始発で京都へ向かった江崎が8:11に到着。いっぽう平等院まで同行した三田が結婚式仲人のためソウルへ戻り、我々は東山の泉涌寺に向かいました。そこで今度は中村が合流。笑顔でお迎えいただいた和尚様にご挨拶して境内へ入るとまず楊貴妃観音堂へ案内されました。なぜ楊貴妃が?鎌倉時代にこの寺の僧が中国の宋にわたり仏舎利(仏の骨)を所望したそうです。何度も断られましたがやっともらえることになり、その際に航海の安全守護のために楊貴妃観音像もついてきたそうです。仏舎利は公開されていません。和尚は見たそうですが歯の部分のようでかなり大きかったそうです。

そこから参道の坂を下ると、盆地の底のような位置に仏殿があります。登るのは多いですが下るのは珍しいですね。ここには運慶作とつたわる阿弥陀、釈迦、弥勒の尊像がありそれぞれ過去、現在、未来にわたって人類の平安を祈るという構図になっています。
仏舎利は舎利殿の舎利塔にあります。入れていただきましたがここの名物は「鳴龍(なきりゅう)」でしょう。 天井に狩野山雪筆の龍の絵が描かれているのですが、その下で手
を打つとびりびりという音が聞こえるのです。ここから御座所へ移ります。ここは両陛下はじめ皇族方の御陵御参拝の際のご休憩所であり、現在も使われています。ここも中を全部見ました。右の写真はその庭園で、桜も紅葉も早いそうです。たしかに京中ではほぼ満開なのにここでは桜はもう見えませんでした。塀の向こう側の山に歴代天皇の御陵があります。
さて奥の奥に移ります。写真はありませんが霊明殿です。戦前ここは立入禁止であり現在も関係者しか入れませんが入れてもらいました(梶浦のおかげです)。ここに歴代天皇の御位牌が並んでいますが、確かに天武系の天皇はぽっかりと抜け落ちています。下の系図をご覧ください。霊明殿にお名前があるのは聖徳太子尊像-天智-光仁-桓武であり、太子以前もなければ第40代天武-第48代称徳も欠落しています。天皇家の氏寺なのに何故と思われるでしょうが、ここは天皇の氏寺ではなく「天皇であるファミリー」の氏寺です。だからファミリーが血縁でないとする場合は入っていない。和尚に聞くと、「それは私共は何とも申し上げられません。ご指示に従っているだけです」とのことでした。そうであるならばこれが天皇家の見解なわけです。非常に興味深い。
まず斉明(皇極)天皇は天智の母ではないということです。では天智(中大兄皇子)とは何者なのか?斉明の目の前で蘇我入鹿の首をはねた乙巳の変とはなんだったのか?なぜ天皇でもない聖徳太子が(だけが)天智の上にいるのか?
これを知っただけでも日本書紀は天武、持統によって歴史をねつ造した書であるという説は支持できます。以下自分の考えですが、蘇我氏は本来の天皇(日本国王)であり聖徳太子は蘇我氏の業績を象徴する架空の人物であった。蘇我氏の名前、蝦夷、馬子、入鹿は動物名の蔑称にされており、皆殺しにした人物の書いた書記のねつ造と思います。その皆殺しは扶余から亡命して来た百済人の天智による入鹿殺害(大化の改新=クーデター1)によって実現しました。そしてその天智を天武が殺しました(クーデター2)。
泉涌寺の位牌の有無によれば、現在の天皇家はおそらく百済人であった天智の末裔であると認めています。彼はクーデターで王位を奪った者です。だから彼が始祖になっており神武も応仁も位牌はありません。先祖と思っていないのです。天智のひ孫である桓武の母、高野新笠も百済の武寧王の子孫であることは今上天皇が「続日本紀にその記述がある」と述べられています。そして、平家は「桓武平氏」と呼ばれますから百済系です。一方、源氏の武将に「新羅三郎義光」という人がいます。平氏が百済、源氏が新羅であり、日本で代理戦争となったのが源平の合戦であると僕は思っています。
それから明治天皇の墓所はここにありません。伏見桃山陵にずっと大きな墓があります。強硬な攘夷論者だった孝明天皇を伊藤博文らが暗殺し(クーデター3)替え玉に立てた大室寅之助という南朝系の長州人が明治天皇という説があります。そう思います。言うことをきく傀儡天皇をたてて薩長が好き放題やるのが新政府の青写真であり、その結果日清日露戦争で好き放題が嵩じて第2次大戦に至ったとみることもできましょう。「坂の上の雲」は好きな小説ですが、クーデター3が日本国の末路を大きく変転させたかもしれず司馬遼太郎の史観だけで近代史は語れないと思います。
国家の首長を殺して政権を奪うクーデターは世界ではいくつもありますが、万世一系とされるわが国でも最低3度は起きている可能性があります。天智以前はもっとあったかもしれません。泉涌寺ではそうした様々なことが頭をよぎり、特に御位牌が所狭しと安置された霊明殿には圧倒され、その感じはその後も一日中残ったほどです。日本最大のパワースポットといって過言ではなく、一度は訪問する価値ありと思います。一般には奥まで入れないようですが、ご興味がある方はSMCを通してお願いすることができるでしょう。
(こちらへどうぞ)
コイの季節
2014 APR 8 21:21:18 pm by 東 賢太郎
広4×巨1の圧勝で単独首位。ちょっと出来過ぎの感じですが今日は文句なしのナイスゲームでした。阪神、DeNA戦で爆発した巨人打線を野村が抑え込んだこと、一岡が2三振をとって1イニングを無難に無失点、そしてマシソンから堂林が代打で2ランを放りこんだこと。最高に気持ちのいい試合でした。
8回に永川が高めのフォークのすっぽぬけを松本にうまく当たられて(わざとに見えないが間違いなくわざと、痛くない、プロの高等技術)1塁に出しましたが、2回牽制して3度目で刺しました。策に溺れてイケイケ気味になっていた松本にもうないぞと思わせて釣りだした、これもプロの高等技術でした。
アンダーソン、ロペス、村田と大当たりだった3人を野村がスライダーとシュートでうまく揺さぶって抑えました。びびってカウントを悪くして甘くなって打たれていたDeNAの投手とはものが違います。ピッチャーはやはりコントロールがすべてですね。
東京では地上波放送がないので見てませんがドラフト1,2位の大瀬良と九里が順調に行けば20勝近くは期待できるかもしれません。巨人にFAで取られた大竹は10勝しても10敗の投手なのでこの2人の先発がいればよく、1イニングで確実に三振のとれる一岡のほうが有難いのです。
サードは新人の田中が入って小窪、松山との激戦区になりました。堂林のザル守備だった去年までとは大差です。セカンドの菊池は運動神経で他を圧しており、顔つきも良くなって巨人の坂本といい勝負の存在感になりましたから内野が引き締まったのは実に大きいです。投手の気持ちが違います。そしてサードを追い出された堂林が代打で2本も本塁打を打つ成長を見せています。うまく回転しています。
外人は左のキラと右のエルドレッドが3,4番に並んで重量感が出ました。エルは去年より当たるようになっている感じです。これで盗塁王の丸、連続出塁記録の広瀬がセンター、ライトで定着すればけっこう強そうですね。打線の穴はキャッチャーの石原だけなので今年は巨人とも戦えそうです。
しかしカープは東京では報道されません。内海の危険球退場が先だったりする。5回のピンチで村田を併殺、ロペスを三振に取った野村の芸術的ピッチングなどかけらも書かれないです。これじゃあまともな野球ファンは育ちませんね。まあ恒例だったコイの季節と思われているんでしょうが。









