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クラシック徒然草-グレン・グールドのモーツァルト-

2014 MAY 5 17:17:54 pm by 東 賢太郎

ゴールドベルグ変奏曲の稿で「人類の箱舟に載せられる録音の最右翼に列せられるもののひとつではないでしょうか」と書いたピアニスト、グレン・グールドの今度はモーツァルトである。

はじめに、僕が精神分裂をおこしていると勘違いされないためにも、僕の人間観を記しておく必要がある。孔子の言葉、「古之聴訟者、悪其意、不悪其人(昔の裁判所では罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかったの意味)」(「孔叢子」刑論)、あるいは、聖書(ヨハネ福音書8章)の「罪を憎んでも人を憎まず」というものこそがそれである。誰かのdeed(やったこと)の考察と、それをやった人間のpersonality(人格)の考察は別なものだという考え方である。

例えば、「悪事を働いたから罪を負わせる」という現代社会において誰もが当然と思い込んでいる社会正義というものも、それ自体は万能の正義ではないかもしれない。正義が裁くべき「悪事」とは何かという定義の問題はここでは論点ではない。何が正義であれ、それは法治国家という近代的統治が成立していて、しかも量刑法定主義が保障されている限りにおいての限られた人工的な正義なのだということが論点だ。法律がそう定めていないなら、人を殺めたからという理由だけで死刑になるという理は、リンゴが木から落ちるというような自然界の定理ではないというのが上記の含意でもある。

余談になるが、そういう立場でものを見る僕として、マスコミによる小保方氏の人格否定的報道や番組は実に見苦しい。僕が彼女のdeedに社会的危機感を覚えることに何ら変わりはないが、それと彼女という人への攻撃や否定とは話が違う。それは正義に反しているとなればその人のしたdeedは何でもかんでも盲目的に「非」とするという、中世の邪教並みの野蛮な精神がすることだ。それが魔女狩りをしたのであり、今もいじめの芽はこういう所に潜む。メディアにそのdeedを放任しながら「いじめ問題」をなくすことは難しい。一方で、逆に、似た改ざんを他の科学者がやっていたとして、それで彼女のしたdeedの危機性がいささかも減じることはない。みんなやってるじゃないかと言ってスピード違反を減刑しようという作戦をとるなら、あの弁護士も中世の邪教徒程度だ。書いてきたように、彼女にそれをさせた教育の質やAO入試制度や組織のガバナンスこそが社会的問題と考える。

ややこしいことを述べて申し訳ないが、他人様の丹精込めた演奏に対してまがりなりにもああだこうだと意見を公にするにおいて、自分の立ち位置を明確に公開しておかないのはアンフェアだろうと思うので書いている。僕は広島カープが100連敗しても、その結果(deed)に怒ることはあっても、カープファンを辞めることはないだろう。熱情ソナタの下手くそな演奏を100回聞かされても、熱情ソナタに辟易することは同じくない。同様に99回下手くそな演奏をしたピアニストが100回目に名演を成し遂げれば、僕はなんのためらいもなくブラヴォーを送る人間である。大事なのは目の前にあるdeedであり、誰がそれをしたかということはクリアーに別問題だという処理を常にするというのが僕の哲学である。

こう書けば、僕がバッハの鍵盤作品を聴くときにまず頭に浮かべるほどレファレンスになっているグレン・グールドというピアニストのモーツァルト演奏を、僕がどれほど毛嫌いしているかをご理解いただける可能性も出てくるだろうか。はっきり書こう。クラシック音楽でこれほどひどい、disgustingなものを僕は聴いた記憶がない。誰もが知っているトルコ行進曲がこうなる。

これを最後まで我慢して聴く忍耐力を僕は持ち合わせない。コンサートでこれに出会えば、他人様に迷惑にならないように万全を期しつつ、僕はそっと後ろのドアから退場することになるだろう。BBCのインタビュー番組でこのソナタの第1楽章を彼は普通のテンポで弾いて「これじゃ僕はつまんないんだよ。異常なくらいスローにして、ブーイングというか反応を仰いで、そうやって信じられないほど聴衆をじらして・・・モーツァルトには悪いがアダージョの指定をアレグレットにして・・・」と語っている。

何のことはない、僕の嫌悪は彼の術中であるわけだが、それが曲の最後に至って何か芸術的な感興を万人にもたらすわけではないということだ。つまんないなら弾かなければいいし、そうなんだけど何かの手管を弄して楽しませてみようという考え方はスマホゲームのプログラマーと変わらない。それで感動する人がたくさんいるのなら耳の肥えた人の多いクラシック界では希少な現象であり、彼のアプリには盲目的信者、つまり彼という人が好きで彼がやったdeedなら何でも是とする信者がたくさんいるということだ。申しわけないが僕にはAKB48で当てた秋元という人のHKT48も売れてしまう現象とダブルフォーカスになる。

グールドにとってモーツァルトのソナタは技術的なフェーズに限っていえば「牛刀をもって鶏を割く」がごときであり、普通に弾いて他人と違いを発揮できる題材でもなければ自分の耳をエンターテインできる素材でもなかったのだろう。それはホロヴィッツやルービンシュタインのような人があまりモーツァルト録音に熱心でなかったことにも重なる。そう、ヴィルトゥオーゾは彼のソナタなどに熱心ではないのだ。ところがグールドはそれを結構熱心にたくさん録音している。どういう風の吹き回しなのだろう。そして、イ短調ソナタK.310のように、彼の耳の要求に合う要素を一部分として含んでいる(その要素が核心を成すものではないのだが)と思われる音楽になるとこういうことになる。

これは彼のゴールドベルクの世界にモーツァルトを招待したものだ。モーツァルトがその招待を楽しんだか?そうかもしれないし、そうでないと言い切る術はない。これを快適な演奏だと感じる人もいるのだろう。そういう方には、この演奏がテキサス州の竜巻のように軽々と吹き飛ばしてしまっているもの、展開部で心の深奥に広がる暗闇の不安や、提示部でそっと琴線に触れてくるやさしい和声といった重大なものが譜面にはひそんでいることをぜひ知っていただきたいと思ってこのビデオをお示ししている。

BBCのインタビューは、彼がコンサート会場の聴衆を意識して演奏解釈をしていたことを明らかにしている。その流儀は落語家が高座へ出てきて、出し物に入る前にまず軽い笑いをとってその日の客の質をつかむのに似る。客質が噺の輪郭を左右するのなら、客なしでマイクロフォンに向かった時、彼がどんなタッチで噺をするのか興味があるところだ。録音したものが唯一絶対のものでないのだから、いったい彼のその古典の解釈はどういうものなのか、録音は語ってくれないということになる。

グールドの初見力は超人的だったそうで、モーツァルトなど鍵盤なしに目で覚えてどんな流儀でも、オーソドックスなウィーン風にでもビデオにあるようにハリウッド風にでも弾けたろう。彼の演奏行為は、そのどれが今日の会場に来ている聴衆を喜ばすかを模索するところから入ったのだろうが、それでは飽き足らず、どうしたら客をじらし、最後は屈服させられるかに賭けるようになってしまったようにも思えてくる。そして、だんだんと、そのどっちにせよ、会場を埋めている聴衆という名の大衆のレベルが、自分にそうやって影響を与え従属を強いるに足る、そして自分の鋭敏な知性とプライドがそれを認容する、というような性質のものとは程遠いことがわかってくる。それに耐えられなくなって、彼はコンサートという場を忌避するようになったのではないか。

こういうモーツァルトを世に残して彼は満足だったのだろうか?僕にとって、彼のベートーベンが(それも一風変わったものだ)ここまで神経を逆なですることはないのも面白いが、それがあの素晴らしいバッハを弾いた同じ人間の演奏であるということの方はもっと不思議である。ひょっとして、あのゴールドベルクだって本当はこのぐらい奇っ怪なものなのかもしれない?などと想像がふくらむ。バッハの譜面は速度指定どころか「フーガの技法」みたいに楽器指定すらないものがあるからだ。

どんなピアノニストだって自身の個性による、解釈という作曲要素が演奏には入っている。グールドの場合それが尋常でないほど大きかったということだろう。彼自身作曲家になりたかったと言ったそうだが、解釈が作曲家の領分にまで達していて、作曲は密室でやるのものだから公衆の面前から姿を消した。あの、二度と耳にしたくないモーツァルトを聞かされたといって、もちろん、僕のグレン・グールドという天才への評価がどう変わるわけでもない。バッハ「平均律クラヴィーア曲集第2巻」をお聴きいただきたい。大バッハとの共同作品かと舌を巻くしかないこんなdeedの前には、どんな理屈も例外も色褪せて見えるしかないだろう。

(こちらへどうぞ)

J.S.バッハ 「ゴールドベルク変奏曲」

クラシック徒然草ーグレン・グールド私論ー

 

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