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米国放浪記(4)

2014 AUG 29 23:23:15 pm by 東 賢太郎

 

子供は反省しない

グランド・キャニオンでの野宿の寒さを昨日のように思い出しながら僕はいまぞっとしているが、日記の中の僕らはちっとも怖気づいていない。のんきにノース・リムを見物して、何のことか今やわからないが「甘いメシ」を食い、砂漠で遊ぶために「インディアンハット」を買いこんでから「豪雨の中100キロで飛ばし」、昨晩に苦労して南下したくねくね道をジェイコブ・レイクまで北上している。これがまた至極危険だ。先日もサンディエゴで日本の大学生が運転を誤って事故死した悲しいニュースがあった。赤いプリマスがエンコしてくれて神に感謝するのみだ。

モーテルというのは車がないと成り立たない米国社会で、通りすがりのトラベラーが泊まるいわば東海道の宿場の木賃宿みたいなものだ。こういう自然の要衝のような奥まった景勝地を通りすがる者などないからそんなものがあるはずない。いま大人の僕はそう思うが、この時はタコ糸の切れた無知な子供だ。この旅程でも日記を寝る前に毎日つけていたが、書いてあることといえば、初めてみる物珍しさから面白かった米国人の風貌や他愛ない出来事の無邪気な顛末ばかりだ。砂漠の日没や星空やオレンジ色の大峡谷を見た感動の言葉はない。その景色をありありと思い出して感動しているのは今の僕なのだ。

ラスベガスへ

「フランケンにいちゃんのところでガス」を入れ、「ロッジで***な(書けない用語)ねえちゃんのところでハンバーガー」を食べ、僕らは一路89号線をラスベガスへ向かった。「170km出した」上に途中で「砂漠のインディアン・シリーズ」をして遊んでいる。シリーズというからには何度もやっていたのだろう、昨夜の大失敗の反省のかけらも感じられない。そこからは道のせいなのか交通事情のせいなのか「平均時速110km」とある。170kmからは大幅減速ではあるが、それでも制限時速55マイルを20キロオーバーなのだ・・・。そして日が暮れた。

予想外のことで驚く

ラスベガスを飛行機で訪れるとたぶんこの感動はわからないから一度はお薦めしたい。フロントガラスの向こうに無限に続く漆黒の闇のなか、一直線のハイウエイが少しづつ星空に向かって登っていく。丘のてっぺんを超えると、行く手の眼下にそれまで見たこともないまばゆい光源が忽然(こつぜん)と現れる。百万個の宝石をちりばめた巨大なシャンデリア。ラスベガスの全景だった。うわーっと驚きの一声を発した僕らは黙りこくるしかなかった。スピルバーグの映画だってこんなものは絶対に出来ない。暗闇の底からぽっかり浮かび上がる不夜城。これほど驚異的なシーンは以来一度も経験することなく還暦を迎えようとしている。

このことを一言も記していない我が日記をいま読んで、これまた大変驚いている。ふと思い出したものがある。モーツァルトが子供のころ、イタリア楽旅でナポリからポンペイに観光に行った時に書いた手紙だ。ベスビオ火山の噴火で瞬時に街ごと埋もれた悲劇は当時から知られていたのだ。遺跡が今ほど発掘されていなかったのは割り引くとして、彼がそこから母親に送った手紙にその風景描写やそこから受けた感動のようなものをぜんぜん記していないのをずっと不思議に思っていた。天才と比較など不遜は承知だが、ああ子供は万国共通でこういうものなのかと思った。当時の僕よりモーツァルトの方がずっと子供ではあったが。

バクチの戦果

ネオンがまぶしい夜のラスベガス!カジノを渡り歩いて夢中で遊んだ。当時クレジットカードはまだない時代で僕らの持っていたのは現金とトラベラーズチェックだ。それが全財産ですったら終わりだから無謀なことはしなかった。時計がない。閉店がない。これが最高だった。時間なんか関係なく遊びたい人、金を手に入れたい人がいる。それを認める国家的なメンタリティーがある。これが自由主義、資本主義の根っこなんだと思ったかどうかは覚えてないが、ラスベガスで嗅いだあの空気は後の価値観に影響したと感じる。ホテルに帰ったのは朝の5時だった。

翌朝、とても昼までにチェックアウトはできず「誰が(延泊をフロントに)言いに行くかジャンケン」してまた寝ている。起きたのはついに午後4時である。日記は恥ずかしくも「ウルトラマンを見る!!2次元怪獣ガバドン」を大書している。米国のTVでやったのが珍しかったのだろう。「きのうのところで化け物的ステーキ」を食べ、もう一晩勝負にくりだしルーレットで結局「12ドル勝った」。丸2日ぶっ通しで遊んでこれは我ながら評価できる。これが嵩じて後にアトランティックシティやロンドンやアムステルダムでカジノに入りびたることになる。泊まったフレモント・ホテルをネットで調べたら部屋代は33ドルだ。当時と大差ない。カネがなかったくせに「チップ」を置いて出ているからサービスが良かったのだろう。

やけどをする

翌日10時、「ハムのハンバーガーとミルクシェーク」の朝食をとって出発しサンフランシスコを目ざすことになった。「郵便局」とあるので家に絵葉書を送ったようだ。「ジェットコースターのような道」をまた他の車を抜きっこしながらデス・バレーの近くまで行って28ドルのモーテルに泊まった。まだ日暮れ前だ。場所は書いていない。たぶんアマーゴサ・バレーあたりだったろうがラスベガスからは200kmも走っていないところで、ずいぶん控えめな移動だ。カジノ疲れと腹痛で無理するのをやめたからだ。つまりデスバレー行きは予定したわけではなかった。ガイドブックには「冬行く場所、夏は危険」のようなことが書いてあったからだ。

たしかに、モーテルのあたりですら凄まじい暑さで、乾いた風が顔に当たると「目ん玉が熱い」!眼球に神経があるなど知らず、これでひと騒ぎになった。僕は部屋のキーをどこかに落とし、H は370ドルをどこかに落とした。いかにカジノ遊びと炎熱地獄でへろへろになっていたかわかる。ところが7時ごろに「少し涼しくなったぞ、やるか」とフロントでラケットを借りてテニスを始めてしまう。サンダルは脱いで素足でやった。部屋に戻ってじゅうたんを歩くと、どうも足の裏が変だ。見て驚いた。ヤケドで水ぶくれになっていた。テニスコートの表面がちょっと熱かったが、外気があまりに熱いので気にならなかったのだ。食事の後、バーでフェニックスから来たおじさんとスクリュードライバーを酌み交わし、「星を見て」「天文の話」をして寝た。若さというのはすごいものだ。

死の谷に立つ

翌日、僕らはガイドブックがお薦めしないデスバレーなる、これまた地球ばなれした場所に勇気を出して行った。盛夏の8月13日、よりによって真っ昼間の炎天下にそこへ行くのがいかに命知らずなことか、それは何時間も走って対向車が1,2台しかなかったことが雄弁に物語っている。昨日のやけどは無理もない。デスバレーは調べると地表温度は93.89度Cを記録したことがあるそうで1年間雨が降らなかった年もある灼熱の谷だった。観測史上最高気温は56.6度Cで、この日、気温は50度Cぐらいは優にあったのではないか。というのは、車を停めて一歩踏み出した瞬間に熱気で頭がふらっときたことを最後に、そこからの記憶があいまいになるからだ。

一言でいえば、ここは金星だ。ザブリスキー・ポイントを南下する。巨大な塩水湖が干上がった、見渡す限り、地平線の彼方まで真っ白な塩の海である。恐る恐るそこに足をふみ入れると、塩はザラメ雪みたいにザクザクしていて靴が埋まる。やや水分がある。水たまりもあって、目を凝らすと、得体のしれない虫がうようよ泳いでいた。そこの地名はバッド ウォーター(飲めない水)といい、ゴールドラッシュ時代、のどをからした西部開拓者の落胆と怒りをうかがわせる名だ。この地点は西半球最低点の海抜マイナス85mであり、岩山の崖の上の方に海面の印がある。ここから米国最高点である標高4418mのホイットニー山のあるシエラネバダ山脈までたった200kmしかないという異常値の塊のような所だ。

デヴィルズ・ゴルフコースという場所もある。悪魔でなければここでゴルフはできないという意味だ。開拓者たちはどこでもゴルフ場を造るあのイギリス人だったんだろうが、悪魔だって夏はここではやりたくないだろう。とにかく、そこにどのぐらいの時間いてそれ以上何をしたか何の会話をしたか、記憶も記録もプッツンと途切れている。車に戻ってエンジンをかける瞬間だけよく覚えている。電撃のような恐怖を感じたからだ。もし初日のあの時みたいにかからなかったら・・・・、僕らは確実に死んで半日も発見されなかったろう。それほど人っ子一人いなかったのだ。老プリマスじゃなくて命拾いと何度も書くが、アメリカ西部はそういう所だ。昨日は凍死しかけたと思ったら今日はあわや激暑で昇天だ。いったいなんてところだ!

フォードLTDⅡは力強いエンジンの爆音をとどろかせた。ゴーッというクーラーの冷気にあたって、僕らはノアの方舟に乗せてもらった気分だった。

 

(続きはこちら)

米国放浪記(5)

 

 

 

 

 

 

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