米国放浪記あとがき-若者に贈る僕の三原則-
2014 SEP 4 0:00:20 am by 東 賢太郎

米国放浪記を書きながら、あの激動の23日間を再び辿れたのはなにより新鮮でエキサイティングな体験でした。まるでタイムマシンでもう一度あの旅に出かけたようで、先の結末はわかってるのにワクワクしてしまうのに驚きました。ブログを途中から読んだ人から 「アメリカに行ってたんですね」 と電話があり、いや実はということになりましたが、そういいながらまるで先週ロサンゼルスから帰ってきたみたいに興奮しているのですから妙なものです。
今回ほど日記というものの威力を思い知ったことはありません。もちろん旅の記録として写真もいいのですが、もしあそこに写真があったら電話の主もそうは思わなかったでしょうし、僕自身も文章をすべて「過去形」で書くことになっていました。それは37年も前の日記を書き写すだけの退屈な作業になり、1回のブログで終わったと思います。しかし書くうちに、不思議なことに記憶がどんどん蘇ってきて写真に頼る必要が全くなくなってしまったのです。
皆さんに37年前のグランドキャニオンや記念写真をお見せしても意味がないということもありますが、それ以上に、それを「過去形」にしてしまうのが僕の中で無理になりました。あたかも第九交響曲を、もうなん百回も聴いているのに昨日聴いて再び感動しているようなものです。そんなときに、中学時代に初めて聴いたときの感想を、それはそれで大きなものではあったのですが、書いてみようというのはかえって難しいものです。
あの旅は僕の中で第九と一緒で37年間ずっと鳴り続けてきたものだったのです。だから22歳だった僕の人格や人間としての骨格形成に関与してきたに相違なく、人生で最もインパクトのある旅行だったと思います。あれ以来、気が遠くなるほどたくさんの旅行をしましたが、あれほど毎日のことを細かく生き生きと覚えている旅はないのです。可愛い子に旅をさせてくれた両親に感謝の言葉しかありません。
ただ記憶の有無でいえば、残っているのは強烈に印象に残る情景やイヴェントが多くあったからで、そうでない部分は37年の歳月なりに記憶がきれいに消去されています。日記に書いているのに記憶がぜんぜんないというのもあります。空想は書きたくなかったのでこれはけっこう苦労しました。でも、ないものはいくら頑張っても出てこない。そこだけぽっかり空いたホラ穴みたいに忘却の暗闇に飲み込まれているのです。
そこで悟ったことは、つまり、思い出せない部分はもはや 「なかったこと」 になるということです。ブログに書けないんですから、もう存在しないんです。写真があればいい?違います。同じことです。アルバムに貼ったスナップ写真を見たって、それは撮った瞬間の景色にすぎません。そこで笑っている僕が友達と何を話し、何を考え、何が可笑しかったりやりたかったりしたのかは10年もたてば大概わかりません。写真や動画をたくさん撮って安心するのはかえってホラ穴に飲み込まれる危険があるのです。
そう気がついて僕はあの旅行、1977年の8月のことですが、その前後の7月と9月に何をしていたか考えてみました。そして何も覚えていないことを知って愕然としました。もう見事に 「なかったこと」 なのです。いや、ひょっとして22歳だったあの年の8月以外のすべてが僕にとって 「なかったこと」 なんじゃないか?いや、そうなると大学生活の4年間だって・・・。なんだか寂しい話になってきます。
だからあの旅行に行って良かったというのは、楽しかったばかりではなく、1977年の8月が僕にちゃんと 「在った」 ことを実感させてくれることでもあります。それは僕が死ぬ直前まで在ります。ありがたいことです。この歳になると、ひょっとして人生の最後にそうやって「在った日」 が多いことこそ幸せな人生なのではないかとさえ思えてきます。お金や名誉なんかよりそっちのほうが大切なんじゃないかと。
僕の救いは、それでも手帳に簡略にその日のことを書きつける習慣が若い頃からあったことです。「学食 カレー食う 図書館」、こんな程度ですがないよりましです。これは少年のころからそうで、紅白歌合戦で何時何分に誰が何を歌ったかまで克明に書き、零時の時報と同時に「いま零時」と書き込まないと年が明けた気がしない変な小学生でした。
そうやって刻一刻と年をとっていき、だんだん自分が「できないこと」や「なれないもの」が判明してくる、それにいちいちおびえて、どうしたらそれが増えないかを真剣に悩む子でした。野球選手、天文学者、医者、次々とノーが出ます。その運命のくびきに対抗するには、受け身ではだめだという結論にだんだんとなりました。自分から反撃して不意打ちしてそれをぶち壊す必要があるという風に。
結果的に、このアメリカ旅行こそがそれだったのだと思います。僕の性格からして、大企業に就職してサラリーマンなどというのは、できないもの、なれないものが出尽くして最後に残った出がらしみたいなものです。結局力及ばずそれになってしまったわけですが、なってからもそうじゃないだろうという衝動はいつもマグマみたいに心の奥にくすぶっていました。
あの旅行は、裸一貫で食っていけるという、何の根拠もないですが、でも誰にどんな根拠を示されても揺るがない強い自信をくれました。ひ弱だった僕をタフな男にしてくれたのです。それがあの異国での強烈な経験の数々なのです。異国。これです。日本一周を何回したってそうはなれません。言葉も人間も文化も習慣も違う異国でこそです。
どうしてか?アイデンティティーが皆無だからです。僕らは世間に甘やかされた東大生でしたが、そんなものは米国では微塵の価値もないことを思い知りました。そもそも二十歳やそこらで心の中に建てたプライドという家などたかが知れています。そんな家を一生後生大事にしてリフォームして生きるより、二十歳で一回ぶち壊して更地にした方がいいのです。その方が長じてもっと立派な家が建てられます。
もっと立派な家を建てる方法。それは簡単です。それこそが、僕があの米国放浪から学び取ったエッセンスなのです。
①日記をつけなさい
②自分の頭で考えなさい
③思いっきり遊びなさい
これだけ。これが若者に贈る僕の三原則です。
①日記は「書く」ではなく「つける」のです。スケジュール帳みたいにただ事実を連ねるなら写真と変わりません。事実を書き、それについてどう思ったか感じたか、喜怒哀楽の感情、感動、願望、失望、意見、不満、自己評価、そういう主観的なことを多く記すことです。それを書くというのは昼間の自分を夜の自分が第三者目線でクールに描くことです。この訓練はあなたが将来に困難に直面した時に冷静に対処する力になります。そして、その日にあなたが生きたという存在証明にもなります。
②「自分の頭で」が大事です。ノウハウ本を読むのは禁止です。そんな本に書ける程度のことで解決できるものは人生ではどうでもいいのです。哲学者ショーペンハウエルはノウハウ本どころか読書は馬鹿になるからするなと言っています。正確には、読書は他人の頭で考えてもらうことだ、自分の頭で考えろということです。書いた他人が馬鹿ならあなたはもっと馬鹿になる。読むなら人類史で優れた部類の知性を持つ他人の本にしなさいということ。要は読むなら古典を読めということです。そうすれば人生で迷った時に自分で判断できるからノウハウは不要です。書いてお金儲けをするためだけに必要になります。
③は頭がいい秀才ほど困難な課題です。遊ぶということが分かっていないからです。分かっても「思いっきり」ということが分かりません。中途半端に遊ぶのは時間の浪費なのです。何が「思いっきり」か?自分の頭で考えて下さい。遊ぶことでしか学べないことがあります。遊びの方が世の中の原理や掟をすっきりと示してくれることがあります。それをつかみとれるほど一所懸命に遊ぶということです。学校で学問から学べることは人生のほんの一部でしかないのです。
あれっ、勉強しなさいがない?勉強は当たり前のことです。そのうえでこの三つをやるのです。日々そうしてごらんなさい。あなたの人生は必ず劇的に変わります。三原則を旅に出てするのはもっといい。10倍もいいです。どうしてか?三つとも自然にやることになるからです。旅行日記はつけたくなるでしょう?明日はどこへ行こうか、何を見ようか、何を食べようか、いくら出費できるか?自分の頭で考えるでしょう?そもそも遊ぶために旅行に来ているのでしょう?
旅はすべてが経験です。世の中に出れば、頼れるのは知識ではなく経験です。旅は、体はもちろん頭も強くします。良く、ではなく、強くです。勉強では鍛えられない部分が強くなるのです。強い頭を持つこと。メンタルタフネスを持つこと。これは将来、人生や仕事で苦難、困難にぶつかった時にどんなことよりもパワーの源になります。すべて、僕の経験です。でも昔の人の経験でもあります。「かわいい子には旅をさせよ」、この言葉には千金の重みがこもっているのです。
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藤田伊織
9/5/2014 | 9:52 PM Permalink
私は東さんの1977年のあと4年後に妻と一緒に半年間アメリカに行きました。1981年の1月、ワシントンに着いたら氷点下15度で、外に出ると頭がきりきり痛くて往生しました。私は着いた日から毎日、仕事で出かけて、英語で四苦八苦しているのに、妻はホテルで一日寝ていて、私が帰ると夕食はどうするの、というので、私も寝込みそうになりました。ホテルのカフェで適当に食事をするのですが、レストランに行く元気がなくて、ひもじくて。そのうちやっとスーパーみたいなところを見つけて、「TVディナー」と入手して、ホテルと言ってもキッチンと居間付きで、オーブンがあったので、そこで暖めて食べました。美味しかったです。何で「TVディナー」というかというと、TVを見ているあいだに、ディナーが用意できるということでした。要するに、アルミフォイルのプレートに、いろいろ盛りつけられていて、オーブンで温めるだけ、ということです。でも、美味しかった。それと、レーガン大統領の就任式があって、アメリカが再起する時期でした。
東 賢太郎
9/6/2014 | 12:53 AM Permalink
81年というと僕がウォートンに入学する前の年ですね。氷点下15度の寒さよくわかります。フィラでは-20度まで行き、教室まで5分外を歩いただけで手がかじかんで字が書けませんでした。家内が来てくれるまで半年はひとりで寮生活でしたが、毎日自炊のラグーソースかけスパゲッティで栄養失調気味でした。勉強がきつくて地獄の日々でしたがなつかしいです。遊びと勉強は、僕はアメリカでやりました。