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チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23

2014 DEC 11 18:18:37 pm by 東 賢太郎

 

この曲の出だしはクラシックに縁がなかった人でもきっとどこかで耳にしたことがあるでしょう。テレビCMで最も使われるクラシックのひとつですね。

この冒頭のメロディー、すごく魅力的なんですが二度と出てこないのですね。最初のころはここが大事で後の方はどうでもよかった僕としては、吉永小百合が最初の5分だけ出てあとは端役ばっかり出てきておしまいの映画みたいで、おい、金返せとまではいわなくてもこりゃなんなんだという食い足りなさは甚大でした。

だんだん物を覚えてきて、あの部分は「序奏」だったんだということを学びます。序奏部というのは落語の「つかみ」みたいなもんです。お笑い芸人が観客を引きつけるために最初に放つ軽いギャグもそうです。本ネタじゃないですからね、だから二度と出てこないのです。

ところがこの協奏曲の「つかみ」はいきなり本ネタかと思うパンチ力です。プレゼンでいうなら、いきなりスクリーンにどっかーんとポルシェの写真が出て「これ新車です!」なんてかまして「おお、いいね」と聴衆をうならせたところで、「ところで、当社のラーメン大魔王ですが・・・」なんてきて、おい、ポルシェはどうなったんだ?そういう感じですね。

そのせいでしょうか、この作品、初演を依頼して献呈しようとした大ピアニストのニコライ・ルビンシュタインに「不細工で演奏不可能だ」とボロかすに言われてしまいます。不細工はそういう意味ですね、形が悪い、たぶん。しかし演奏不可能とは・・・。

ただ、楽譜を見るとそれもわかるような。序奏に続く飛び跳ねるような快速の旋律が第1主題です。それから序奏部のカデンツァ(中間部にそんなものがあるんです)、このへんは素人はもうお手上げです。アクロバットのようでプロでも曲に負けてる人は大勢います。要は弾けるか弾けないかですね、「体育会的」な要素が演奏の印象をほぼ決めてしまいます。

僕はこれを7回演奏会できいています。ギレリスの最後の演奏はブログに書きました。しかしそこそこ良かったのは05年の小菅優ぐらい。やっぱり運動神経とパワーで図抜けてないと楽しめないのです。このことは最後に書きますが、ロシアのピアノ・コンチェルトというのはラフマニノフもプロコフィエフもそうですが、とにかく音が大きくてffで鋼鉄みたいな強いタッチの音が出ないとだめです。小菅さんは大健闘でした。

これは思い当たる話があって、先日ある方が「ロシア人と握手するとね、痛いんだよ。熊みたいにゴツくてでっかい手で思いっきりギュッとくるからね」といっていました。「プーチンはどうでした?」ときくと「熊だった」そうで「メドベージェフだけ例外で、小さくてふにゃっとしてて女みたいだった。あれは珍しい」とのこと。

ラフマニノフもギレリスもリヒテルも、見るからに熊でしょうね。それがパワーだけでなく抜群の運動神経でコントロールされる。だからああいう強くて巨大なエネルギーがあって、それでいて軽いところは羽毛のように軽い音が出せる。この協奏曲はまさにそういう剛柔重軽のタッチを各種取りそろえていないと弾けないように思います。

そうしてだんだん大人になってくると、この曲はあそこより後の方が実はいいんだということに気がついてきます。僕は第1楽章の第2主題が大好きです。ロシアは行ったことがありませんが、冬の平原の雪景色が浮かびます。この協奏曲が作曲されたのは11月から2月の間。なんとなく冬の音楽のように感じます。

tchaikovskyPC1

哀感のある絶妙の和声がついていてチャイコフスキーだなあと感じますが、ストラヴィンスキーの「火の鳥」につながる和声でもある。やってみる派なのでもちろんこれを弾いてみてそういうことを発見するわけです。しかし、これシンプルに見えますが、ピアノ的にどうも弾きやすくないんですね。g.b.es.bなんて、アルペジオとはいえ手は熊でないとなあという感じがします。

この第2主題の副主題でこういうメロディーがヴァイオリンに出てきます。

tchai

民謡風ですがなんともあったかい。as-esの空虚5度のドローン風バスがのどかで、でもどこかなつかしい郷愁があって、どういうわけか僕は可愛がってもらった祖母を思い出すのです。

第1楽章で僕が最も素晴らしい瞬間と思うのは展開部の第388小節でsfのティンパニのh音でホ長調に転じる部分です。そのhのオスティナート・バスにのってオケとピアノが三連符のかけあいをしながらぐんぐんと高潮していく様はこれも天才的である交響曲第4番の第1楽章展開部、そして悲愴の第3楽章(マーチ主題の前)の先駆けです。

ちなみにこの協奏曲のモスクワ初演でピアノを弾いたのは作曲家タネーエフですが、彼はこのホ長調の入りで管弦楽がsfからすぐにpに音量を落すのに次の小節でピアノがfffで入る原典譜のバランスを校訂者が勝手にmfにしたりpppで入るピアニストがいることを厳しく批判しています。ここを原典どおりいくのが下記のオグドンです。

第2楽章は民謡そのものの鄙びた主題で始まりますが、中間部(第59小節)で突然にPrestissimoになるやピアノの目もくらむスケルツォ風のアクロバットになる。ここを見ると、チャイコフスキーのピアノ語法が楽器を自在に軽々と弾けることを前提としていることがわかります。やがてヴィオラで民謡風の旋律が出るがこれは弟と一緒によく歌ったフランスの古いシャンソン「俺たちゃ楽しまなきゃ、踊りと笑い」からとったそうです。

第3楽章はロンド形式。どことなく7年前に作曲されていたグリーグの協奏曲の終楽章を思わせる激しいリズムの旋律はウクライナのベスニヤンカという踊りの歌。実に元気がいいです。さて、大変重要な第2主題です。どことなく民謡調です。ファがひとつだけ出ますが5音音階的な旋律であり、おしまいの2小節のミソレーレミドーラドソーは完全に5音音階です。

tchaiko2

そこで第1楽章の冒頭のあの「つかみ」のテーマをもう一度見てみます。同じ3拍子であることにご注目ください。

tchaiko1

第3小節に出てくるファとシが耳に残り、特に繰り返し部分で3小節目のバスfに対して旋律のg♭(これがファに相当)の不協和(そうきこえないか)が強烈にアピールするのでイメージしにくいのですが、終わりの方はソーレーミソーレレミソーミラソレーと完全な5音音階なのです。ベースは東洋的な五音音階なのにそのファの不協和が非常に西洋的に響くことがこのメロディーのえもいえぬ魅力の源泉といっていいかもしれません。

この音階はファ(第4音)とシ(第7音)を抜いたヨナ抜き音階といわれ、童謡、民謡、演歌などに多いものです。たとえば「赤とんぼ」「象さん」「上を向いて歩こう」「北国の春」「昴すばる)」「木綿のハンカチーフ」などです。「君が代」もシが一度だけ出ますがそうです。西洋でもスコットランド民謡の「蛍の光」がそうだし、ドヴォルザークの新世界の「家路」もそうです。人なつっこくて耳に残る、特に日本人のハートにはぐっと迫るものがあります。

この協奏曲のエンディングは第3楽章第2主題を全管弦楽とピアノが一体となってfffで高らかに歌い上げますが、ミソレーレミドーラドソーの土くさい5音音階が冒頭のあの「つかみ旋律」の5音音階にコラボして聞こえるように思うのです。つまり、確かにあれは二度と出てこないのですが、最後の最後にその「影武者」が登場してブックエンドのように全曲をきちっと挟んでいます。

この曲を聴いて、ああよかったと満足できるのはそういうことだと僕は解釈しています。ソナタ形式にとらわれるから「序奏部が異常に大きい」と見えるのであって、これを「ブックエンド形式」と命名したいぐらいです。この元祖はベートーベンの交響曲第3番「エロイカ」です。バン、バンとEs-durが2発。あの曲は終楽章が変奏曲であり、もしエンディングが5番のように長々としていたら均整感を損なったでしょう。そしてチャイコフスキーは自らの遺書となった悲愴交響曲で、ロ短調の静寂の暗闇で全曲をバインドしています。

さて、演奏です。

まずこの曲に興奮し、打ちのめされてみたいという方。そういう入り方が普通でしょう、よろしいと思います。となると、抜群の運動神経の人のライブということになります。定評があるのはこのおふたりでしょう。

マルタ・アルゲリッチ/ キリル・コンドラシン / バイエルン放送交響楽団

587マルタさんの手が熊なみかどうかは知りません。たぶん違うと思うのですが、熊の手の男どもをなぎ倒す壮絶な演奏であり、ライブですから終楽章の入りなどミスタッチはあってもそれを補って余りある満足感を約束してくれます。本稿で難しいと書いた部分はすべからく煌めくような強いタッチで弾かれ、きき惚れるのみ。彼女のプロコフィエフの3番をカーネギーホールで聴きましたが、恐山の巫女もかくやの神憑り状態(失礼)はその場にいないと感じにくいです。本盤はマイクを通してそれがそこそこ体感でき、デリケートな部分も美しく、コンドラシンの伴奏も大変レベルが高い。総合点で優勝を争うものであることはだれも異論がないのではないでしょうか。

 

ヴラディミール・ホロヴィッツ / ジョージ・セル / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

019演奏技術というのはこのぐらいになるとマイクに入る入らないの問題を超越します。トスカニーニとの録音も有名ですが、さすがの暴れ馬も義父は怖かったのかこれに比べると借りてきた猫。どうせならやりたい放題、セルとの殴り合い風情のこれでしょう。細かい音型はオレ流で弾き崩しでもなんでもあり、デリカシーなどどこ吹く風。第1楽章第1主題、軽々飛ばすピアノに木管がついていくのにやっと。第2楽章中間部のあ然とするうまさ!超快速の重音のパッセージなのにピアノが悲鳴をあげるほど鳴りきっている。素人でも誰でもわかる。簡単です。ピアノがうまいんです。こんな人は人類史上あとはフランツ・リストぐらいだったのではと僕は想像しています。

ただこのタイプの演奏というのはここまで弾けてナンボのもの。捨てるものも多く、成功すればセンセーションですが未達だとただの安物に終わります。だから終始安全運転路線の人がたくさん出てきますが、それだとなんでわざわざこれを弾くの?ということになる。指揮者、オケにとっては客が呼べていい曲ですが、ピアニストにとっては有名な割に難しい、リスクが高い曲と思います。

僕がこの曲で大切にしたいのは第1楽章第2主題と第2楽章に若いチャイコフスキーがこめた抒情の表現です。特に前者。ここでなにも感じていないともう家に帰ろうかと思ってしまう。そういうのに限って第3楽章は快速で飛ばし、オケは軍楽隊みたいになります。そこまでのヘボの免罪符になるだろうとばかり。そして最後は演歌みたいに五音音階を安っぽく泥臭く歌い上げ全員が汗をぬぐう。

そんなものにブラヴォーなんかが飛び交うのは僕には到底堪えがたく、だからこのコンチェルトの実演はよほどの期待がない限り行きません。しかし残念なのは、そういうチープな演奏が跋扈するので「曲が安物なんだろう」というイメージが出来ている気がすることです。そうではないということを知っていただくために、もう2種類の録音について書いておきます。

 

ジョン・オグドン / ジョン・バルビローリ/ フィルハーモニア管弦楽団

984オグドンは1962年チャイコフスキー・コンクールでアシュケナージと優勝を分けた名手。昨今はこの曲で技術的問題を一切感じさせないピアニストも多いですが第1楽章第1主題を重戦車みたいにばりばり弾いてしまう人が多い。オグドンを聴いて下さい。そして肝心の抒情的な部分。同第2主題の止まりそうになるデリカシー、高音のきらめき、そしてバルビローリの葦笛のようなオーボエの愛らしさ、木管から紡ぎだすマジカルな響き! 終楽章は決然としたティンパニの一撃で入りますが決してあわてず騒がずスコアのポエジーを引出し、コーダの入りでフルートとチェロの対旋律をきっちり浮き出させてぐんぐん盛り上がる様は至芸。本当に良い音楽を聴いたという満足感で満たしてくれる大人の演奏です。こういう路線に満足しない人はアルゲリッチに、そしてその方向の極点に位置するホロヴィッツにいくしかない。この曲においてはその価値は認めつつも、僕は当盤に代表される方向において曲の真価が認知されるのではないかと考えております。

 

ユージン・イストーミン/ ユージン・オーマンディー/ フィラデルフィア管弦楽団

最後に本命です。まずお断りしますが、この録音は廃盤です。ディスクは手に入らないでしょう。音の冴えないネット配信でしか聴けません。しかしながら、これはスタジオ録音の完成度をもちながら何度聴いてもくめども尽きぬ喜びと最高の満足度のある真に驚くべき名演です。

欠点は2つあって、先に指摘した「第1楽章展開部の第388小節でsfのティンパニのh音でホ長調に転じる部分」の入りがやや速めであるうえオケの p が強すぎで憧れが不足するのと、なくもがなである第2主題の弦のレガートとポルタメントですが、どちらも指揮者の問題です。ピアノは一貫して最高であり、オケもそれ以外は全曲文句のつけようなし。その第2主題前後や第2楽章のピアノの詩情の素晴らしさは、あのリパッティのグリーグに匹敵すると言ってもいい。

速い部分、例えば第1楽章カデンツァ、第2楽章中間部の羽毛のような軽いタッチは一切曲芸にならず、天使が空にまいた金粉のよう。終楽章ロンド主題の2拍目を強調した跳ねるようなリズム、これが舞曲だという本質!ffの鳴りきった強靭なタッチ、第1楽章の難しい第1主題まで歌える技術!ホロヴィッツのようにピアニストのメカニックを感じさせない、まさに天衣無縫とはこのことでこっちのほうがもっと上であります。

それは近年のコンクール優勝者の演奏につきまとう、flawlessness(傷がない完璧さ)に第一義的目的があると感じる技術とは決定的に違う何ものかです。この演奏のピアノはあえてクリティカルに細かく聴けば微細な傷があります。しかし、そういうものを問題にする次元には決して成立することのない何か、チャイコフスキーやブラームスはきっと自分でこういうピアノを弾き、耳にしていたのだろうと思われる性質のものがある。

この曲のピアノ譜の難しさ(ブラームスの2番もそう)はそう書かないと出ない音を作曲家が欲したからそうなっているわけで、どうだ間違うなよ、完璧に弾けよなんてことは彼らはいっさい要求してないと思うのです。だからflawlessnessを大事と考える音楽教育は、ビジネスをやろうというのにいきなりコンプライアンスからはいるのと同じぐらい馬鹿げていて、本質を外した、はっきりいって間違った教育だと思います。

イストーミンはツアーに専属の調律師を連れていたそうですがこのピッチの良さは顕微鏡レベルでの調律の妙があるに違いなく、フィラデルフィアO.の管楽器奏者がそれに微妙に反応して最高級のピッチと美音で同化しているという魔法のような瞬間が続出、おそらく指揮者でもどうにもならないようなもの、音を出している音楽家同志の化学反応がこの演奏のファンダメンタルズをつくっていると感じます。演奏家の本能と音楽家魂を刺激するソリスト。僕がユリア・フィッシャーのメンデルスゾーンにきいたものと近い。こういう記録は稀有なものです。

それは優れた室内楽演奏と同様、リスナーに「くめども尽きぬ」音楽の喜びを与えます。アルゲリッチ盤、ホロヴィッツ盤は一期一会の記録として永遠の価値がありますが、録音として何度も賞味されるに足るかは疑問です。冒頭に「スタジオ録音の完成度をもちながら何度聴いてもくめども尽きぬ喜びと最高の満足度のある真に驚くべき名演」と書かせていただいたのはそういう意味です。どんな曲であれ、そんなレコードは世の中にそう多く存在するものではありません。

2年間フィラデルフィア管の定期会員だった30年前にオーマンディー指揮でこの協奏曲を聴きました。ピアニストがこの水準にはなくオケからこんな音は聴けませんでしたが、当時はこのオーケストラは良い時はたしかにこういう音でした。最近はもう別な楽団になっているようです。本稿のためにこれを聴き、あまりの素晴らしさにたて続けに3回聴きました。そんなことも、もうあまりないのですが・・・。これはピアニストの方にこそぜひ聴いていただきたい。こういうピアノを弾けば(コンクールで評価されるかどうかなど委細関わりなく)、世界は間違いなく感動します。

なぜなら、どういうわけか、こんなピアノはもう世界のどこでも聴けなくなってしまったからです。何が違うのか?教育なのか技術的なことなのかは知りません。でも決定的に異なり、もう聴けなくなった何かが存在するのです。こう文字にすると言いたいことが無機質になります。先週、屋久島で食べた生命力ある島野菜の強い味と、東京のコンビニに並んでいる色と形だけきれいに整った野菜の味の違いといった方が適確でしょう。僕ら音楽を聴きこんでいる聴衆はそんな野菜には食傷気味なのです。

既述のようにこの録音が驚くべきことに廃盤であり、バナナのたたき売りみたいにオンラインで300円で売られている。それをテクノロジーの恩恵だと喜ぶべきなのかどうか。お蔵入りするよりはましですが、どこか寂しいと感じるリスナーは僕だけでしょうか。音楽のネット配信普及が進み、日本は音楽産業の売り上げに占めるCDの比率がダントツ世界一だそうです。

音楽が「コンテンツ」としてお手軽な商品化する。するとそれを書いた人、演奏した人の才能や努力への敬意など軽々と吹き飛んでしまいます。我が国でCDがまだ売れるのは、その風潮に組みしない、本当に良いものはモノとして大事に所有していたいというリスナーが多いからではないか、という一抹の期待はもっています。

演奏というのは瞬時に音として消え去ります。しかしそれを録音したものは人間の高度で知的な営みを刻んだ記録として残りますし、なかでも本当に優れたものは作品自体がそうであるように「文化」として永く伝わるものなのではないでしょうか。しょせん音は音だ、モノじゃない。でもそれをモノとして大事にしたいという気持ちが文化を支えるのじゃないかと思います。

「いまさら名前も忘れられたようなピアニストの演奏なんか売れないよ、それなら少々へたでも若いイケメンか美人でしょ」というなら、それはもう本質はセックス産業にも通じるもののある芸能界の軽薄な消費文化とかわりがない。そうやって音楽作品がゲイノーのだしに使われることに僕は大きな抵抗があることは何度も書いてきたとおりです。しかし作品と真摯に向き合った記録として永遠の輝きを持つもの、それはまぎれもなく文化だと確信しております。

文化は皆が守らないと継承されません。この録音が300円で手に入ることは経済的にはまことに結構なことですが、300円の価値しかないとみなされてそうなっているのだとするなら、演奏の記録が文化だという概念はすでに腐蝕しつつあるのではないかと懸念を抱く次第です。世界中が、売る方も買う方も、クラシック音楽の真贋を見極める力が著しく落ちているということかもしれません。コンビニの野菜ばかりで育てばそういう舌になってしまうのです。

野菜のおいしさを次世代に伝える意味でも、供給者である演奏家の方々に大いに期待したいものです。

 

(補遺、2月11日)

ヴァレンティナ・カメニコヴァ /  ジリ・ピンカス /  ブルノ国立フィルハーモニー管弦楽団

59270年スプラフォンの録音。チェコの田舎で普通にやっている演奏会の風情が好きです。カメニコヴァ(1930-89)はウクライナはオデッサ生まれ。第2次大戦でシベリアに逃げているのでユダヤ系でしょうか。ネイガウスの弟子で結婚後の後半生はチェコに移民しました。僕は彼女のショパン、モーツァルト、ベートーベンが好きで愛聴しています。地味だが素晴らしいピアノ。著名ピアニストの派手派手しい演奏、空しい完全なだけの演奏が茶番に聞こえます。こういう滋養あるピアノこそ伝統に根ざした本物であります。オケも地味、録音も地味でなんらスターダムに登る要素なしですが、耳の肥えた人にはわかるものがあるでしょう。

 

 

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