ドビッシー 交響詩「海」再考
2015 MAY 23 0:00:49 am by 東 賢太郎

自然の風景というと我々日本人には山、川、海は定番でしょう。なかでも海は、「海は広いな大きいな」「我は海の子」なんて懐かしい唱歌もあれば(僕は嫌いでしたが)、我が世代には加山雄三やサザンもありました。男のロマンをかきたてるものを感じるという文化ですね。
ところがクラシック音楽は川(ライン、ドナウ、モルダウ、ヴォルガetc)の音楽はあっても意外に海は少ないですね。ユーラシア大陸の北辺は氷結した海であり、南辺の地中海はカルタゴやイスラムと闘う辺境だった。ロマンをかきたてる存在ではなかったのではないでしょうか。海岸線の長さランキングで日本は世界第6位なのに対し、イタリア15位、フランス33位、ドイツ51位というのも関係あるかもしれません。
ドビッシーが「海」を書いたのは、ですから西洋音楽の視点からはやや特異と思います。彼は8才の頃にカンヌに住んで海を見たはずですが、この交響詩は単にその印象を描写したものではありません。彼は「音楽の本質は形式にあるのではなく色とリズムを持った時間なのだ」という哲学をもっていました。この曲における海は変化する時空に色とリズムを与える画材であり、それはあたかもクロード・モネが時々刻々と光彩の変化する様をルーアン大聖堂を画材に33点の絵画として描いたのを想起させます。この連作が発表されたのは1895年、海の作曲が1905年。ドビッシーはこれを見たのではないでしょうか。左が朝、左下が昼、右下が夕です。
これをご覧になった上でこのブログをぜひご覧ください。2年半前のものですが特に加えることはありません。
ドビッシー 「3つの夜想曲」(Trois Nocturnes)
「色とリズムを持った時間」!モネの絵画というメディアが33の静止画像だったのに比べ、ドビッシーの音楽は25分の動画です。それも情景の変化を印象派風に描くのではなく、音楽の主題を時々刻々変転させて時間を造形していく。それによりほんの25分に朝から夕までの時間が凝縮されます。第1楽章コーダの旋律が第3楽章コーダで再起し、音楽の時間は円環系に閉じていますが、それはモネの絵のように同じ情景を見ているという感情をも生起させるのです。
交響詩「海」はどの1音をとっても信じ難い感性と完成度で選び置かれた奇跡の名品です。全クラシック音楽の中でも好きなものトップ10にはいる曲であり、これが完成された英国のイースト・ボーンの海岸にいつか行ってみたいと望んでいる者であります。
ブログに書きました、僕のアイドルであり当曲の原点であるピエール・ブーレーズの旧盤(ニュー・フィルハーモニア管弦楽団)です。
ウォルター・ピストン著「管弦楽法」にはこの曲からの引用が14カ所もあり、その幾つかはドビッシーのオーケストレーションの革新性を理解させてくれます。たとえば、第1楽章、イングリッシュホルンとチェロ・ソロのユニゾン(ブーレーズの6分52秒から)が「1つのもののように混り合い、どの瞬間においてもいずれか一方の方が目立つということがない」(同著)ことをMIDI録音した際に確認(シンセの音でも!)しましたが、その効果は驚くべきものでした。
これまた予想外に溶け合うイングリッシュホルンと弱音器付トランペットのユニゾンもあり、不思議な色彩を生み出している。まさに「時間に色をつけている」のです。第2楽章のリズムの緻密な分化と変化、それに加わる微細な色彩の変化と調和!音楽史上の事件といっていいこの革命的な筆致の楽章に「色とリズム」が時間関数の「変数」としていかに有効に機能しているか、僕はこのブーレーズ盤で学んだのです。
ブーレーズはyoutubeにあるニューヨーク・フィルのライブ映像で細かい指揮はしてないように見えるのですが鳴っている音は実に精密に彫琢され、それでいて生命力も感じる。そして魔法のような管弦楽法による色とリズムの調合がいかに音楽の欠くべからざる要素として存立しているか。オケのプレーヤー全員が指揮から学習した結果なのでしょう。極上の音楽性と集中力を引き出している指揮者の存在感。凄いの一言です。
他のものは譜読みが甘くほとんど心に響くものを感じませんが、これはいいですね。ポール・パレー/ デトロイト交響楽団の演奏です。指揮者の常識とセンスと耳の良さを如実に表しております
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Categories:______ドビッシー, ______ブーレーズ, クラシック音楽

中島 龍之
5/23/2015 | 1:07 PM Permalink
前回、「海」を聴いたのは東さんのブログでしたから2年半前だったのですね。その時は北斎の浮世絵の印象イメージが強くてあまい興味もてませんでしたが、今回また聴いてみると朝、昼、夜の海の顔が想像できて少し面白くなりました。また1年すると違って聴こえるのでしょう。
東 賢太郎
5/23/2015 | 7:11 PM Permalink
中島さん、ありがとうございます。これは1,2度聴いてもなかなか良さがピンとこない曲ですね。やはりまず良い録音で音色を楽しんでいただきたいです。youtubeのPC再生のような音では真価がぜんぜん分からないので、ぜひ一度ライブに行ってみて下さい。お分かりになると思いますよ。
西室 建
5/24/2015 | 4:23 PM Permalink
うーん、そうか。ドイツ・オーストリアと海洋文化そのものが無いんだな。
しかも往時の海洋文化そのものも、冒険海賊のようなものと思えば理解できるか。
東 賢太郎
5/24/2015 | 7:14 PM Permalink
たぶんそうだろう。だから独墺仏は陸軍だけど古代から海で戦った西葡蘭は航海術もあった。伊はローマ帝国だから両方あった。英だけは別種で、これはそもそも海賊だから海軍が先だ。船で他国を収奪するという出稼ぎに忙しかった国は音楽創作や哲学はプアだ。伊だけ例外だが独墺で発展した音楽とは異質だ。哲学は独墺だ。クラシック音楽は発祥は伊だけど独墺の哲学的思索文化と交わって内陸部で新たな進化を遂げた。山と森と川の文化だ。だから海はあんまり出てこない。カンツォーネ「海に来たれ(Vieni sul mar)」なんて有名だが、こういうイタ物のオーソレミオ系統のお気楽な歌とベートーベン、ブラームスは別種の音楽だよ。日本はどっちかわからんが硬派インテリは前者を馬鹿にする傾向がある。小生もカプリ島の青の洞窟で船頭のオッチャンが歌ったのだけはいいと思ったが、基本的にまったく興味がない。日独伊三国同盟はそもそも無理だったな。