Sonar Members Club No.1

月別: 2016年12月

2016年の演奏会・ベスト5

2016 DEC 31 21:21:43 pm by 東 賢太郎

今年は忙しくてN響、読響ともかなりすっぽかしてしまいました。行ったなかでのベスト5ですが、以下の通りです。

1位

加藤旭:合唱曲「くじらぐも」(メイク・ア・ウィッシュ演奏会)

2位

ビゼー:歌劇「カルメン」(C・デュトワ/N響)

3位

コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35(五嶋 みどり/カンブルラン/読響)

4位

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 (ユリア・フィッシャー/M・ヘルムへン)

5位

フィンジ:霊魂不滅の啓示 作品29(下野 竜也/読響)

 

以上どれもインパクトのある演奏でした。1位の「くじらぐも」ですが、この演奏会のすぐあとに16才の作曲家、加藤旭さんは亡くなりました。この日初めて、僕は真っ白な気持ちになって、音楽を愛する心は曲を通してまっすぐに聞き手の心に伝わることを教わりました。

僕の音楽を愛する心もつよいです。そのおかげで4年間こうしてブログを書き続けることができました。お読みいただいている皆様にも、その力で何かが届けばうれしいです。本年は思うところあって年初から4月まで執筆を休止しましたが、それでもアクセスが増えたのがやめられなかった理由でした。

愛情は死ぬまでつづくので、ブログもそれまで続くと思います。本年も拙文に貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。よい年をお迎えください。

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バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

2016 DEC 30 18:18:52 pm by 東 賢太郎

この時期になると第九よりも聴きたくなる思い出の音楽がある。

浪人生だった頃のこと、数学を満点取らないと文Ⅰはあぶないという強迫観念があって、最も恐れていたのが正月から2月の入試直前の調整失敗だった。4問完答(満点)なら合格確実、2問だと文Ⅱ、文Ⅲは楽勝、文Ⅰは微妙というのが模試のデータである。2問完答はほぼ100%、3問は70%の自信があった。

それだけ文系他教科はダメだったわけで色弱でなければ理系にいってそれなりに幸せだったかもしれないが、息子を見てると文系で良かったと納得したりもする。いまでしょ先生の林修さんをTVで見ていて、彼も数学で文Ⅰのくちらしいが、こういう僕より頭のいい人に現国を教わっておけばもっと楽だった。

選択肢は現役の時から目の前に3つあった。①文Ⅱか文Ⅲに下げる②1問捨てて3問完答をねらう③満点を狙う、である。何を勘違いしていたのか①がどう考えてもリーゾナブルな戦略だった。実力はその辺だし一応同じ大学には入れるのだし、そこまでして法曹にもなっていない自分が本当にアホに思える。

しかし崖っぷちで性格が出て①は一顧だにしなかった。とすると②か③だ。同じに見えるが全然ちがう。100分の試験時間で4問だと各25分、3問だと33分で8分差がある。3問完答の能力がある人がさらに解く速度を1.32倍にするというのは理系でも上位の方になるレベルと思われ、ハードルは高い。

しかしその0.32の分を英国社のかさ上げで稼ぐ自信はなく、数学の時短の方が確実という判断をして③を選択したわけだ。といって、野球の球速と同じでそのレベルまでいくともう練習して速くなるというものでもない。当日の調子が大きいのである。だから正月から2月の入試直前の調整に入念の神経を使ったのだ。

そこで何をしたか。年末からバルトークを毎日がんがん鳴らしていたのである。もう勉強は他人より余計にしてる。それで負けることは絶対にない。本番で錆びつかないようにアイドリングして頭に油をさしておこうということだった。その効能がいちばんあったのがカルテットの6曲であり、とりわけ4番である。

それが何故かをスコアから分析するのは困難だが一応の手がかりはある。

機能和声的ではないが正確なピッチで鳴ると4パートの縦線に不思議な和声感が得られ、動機はリズムと音程に明確な性格が与えられその有機的生成の過程が形式美という横線の美点を添える。言葉にするとややこしいが、要は、楽曲のミクロの構成パーツが縦横から眺めて「美しい」のがズバリと耳に来る。

楽章構造的にはアーチ型シンメトリーで第1楽章と第5楽章、第2楽章と第4楽章が、真ん中の第3楽章が3分割されて両端が第1,5楽章に近親性を持つという造りになっているが、これはマクロ構造であってズバリとは来ない。先日のブログに載せたジャガー・ルクルトのロゴに似て、遠目に眺めていると書いてない部分が見えてきて正三角形をしているという風情だ。これがまた「美しい」のだ。

その両方が複合して4番の不可思議な美を構築している。

バルトークが封じ込めた美というものはパーツのそれではない。きれいなメロディーが出てきてうっとりということはかけらもないのである。数学の美を語るまでの資格は僕にはないが、少なくとも嫌いでなかったのは美しいと自分なりに思っていたからだ。それと同じものをバルトークにも感じるのであって、ジャガー・ルクルトの時計の造形にも感じてしまう。

それはガウスの1-100の足し算や、もっと本能の次元とおもわれる黄金分割比の長方形などにも感知するどこか「陶然とする魅惑」であって、ゲージュツなどという高尚なことではなく、どういう顔や体のプロポーションの女性が好きかということに余程近いのである。

それが入試直前の調整で「肩を軽くして球速を増す」ことになったというのはどなたもわからないと思うし僕もよくわからないが、本当だ。おまじないだっただけかもしれないがとにかく結果はほぼ③が達成だったからだ。

全然関係ないが、家族はみな猫好きだが「おまえたちは子猫がかわいい。猫好きのプロレベルにほど遠い」となる。子供なんかなんでもかわいいのだ、そんなのが猫好きでもなんでもない。猫チャンネルを作っても僕は子猫はいらない。きれいなメロディーはそれとおんなじで音楽美の要件でも何でもないのである。

素材の世俗的な美をダシにしないのは晩年にその万物の真理の道へと進みこんだベートーベンの直系の音楽であり、旋法、音程、リズムパターン、特殊奏法、構造を素材として組み立てられた有機的複合体である。この一切の無駄なく切り詰めた凝縮感が僕の数学の短文・難問好きのセンスにぴったりだったのだと思う。

以前に6曲まとめてのブログとしてディスクを紹介したので、今回そこには書かなかったものを。

 

ジュリアード弦楽四重奏団

51lgfjwclel-_sx355_3種類あるが最近僕は創設メンバーによる最もラディカルでストレートな1回目を好んでいる。鋭利な刃物の切れ味ながら熱い。高速で走り抜ける第2楽章の狂気の白熱は筆舌に尽くし難く、神秘的な第3楽章のチェロ、第4楽章のピッチカートの一音一音にも渾身の気がこもる。終楽章も後の録音の精緻さより荒々しさが原色で出ている。ハンガリーのカルテットには聞かない尖鋭なリズムとエッジがバルトーク演奏の様式を刷新した記念碑的演奏だ。

 

ハンガリー弦楽四重奏団

bartok_sq_hungary5番の欧州初演をしたカルテットである。音色に暖かみがあり、既述のファイン・アーツと並んで最も和声感が得られる演奏である。ジュリアードの先鋭さはないがローカルな味わいがいい。第2楽章の繊細で羽毛を思わせるな音色は美しくポルタメントも意味深く響く。第3楽章は神秘感よりも土臭さと自然の息吹があり、先日に西表島でヤマネコを探して真っ暗な田んぼを歩いた静寂をふと思い出した。必聴盤。

 

 

タートライ弦楽四重奏団

mi0001023123LP時代、共産圏だったハンガリーの団体が国営レーベルのフンがロトンに残した古典的録音である。民謡を演奏するように自然でリズムもフレージングも手の内に入っている感じがするが、終楽章の野性的なメリハリは技術的にはやや甘いもののいい。いきなり尖鋭なジュリアードで入るよりもこういう音楽的で温和な表現の方を好む人はいると思う。

ヴェーグ弦楽四重奏団

v4870僕の好みは新盤(72年)。柔らかく馥郁とした感触の4本の弦が絡み合う様相は魅力的だ。バルトークから指導を受けたシャンドール・ヴェーグによるハンガリーの団体だが表現はこれぞ本家だの自信に満ちている。第1楽章で弦チェレに通じる部分が浮き彫りになるなどバルトークのエッセンスを嚙分けた練達のアンサンブルで、余計な力みがかけらもないのがかえって凄みがある。

ロックになっているがなかなか面白い。

(こちらへどうぞ)

大学受験失敗記

ジャガー・ルクルトのレベルソ

 

 

 

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来年やること(脳内の具現化)

2016 DEC 30 0:00:59 am by 東 賢太郎

僕はSPレコード時代をおぼろげに記憶する最も若い世代に属するだろう。

レコードとは記録でありLPとはlong playingの略だ。何を基準にlongかというとshort playing(SP)なのだから、塩化ビニール円盤を既存の78 rpmよりも低速(33 1⁄3 rpm )で回して長く録音できる技術ができてから既存がshortとなり、できたほうが相対的にlongとなった。中途半端ですぐ消えたが45rpmのEP(extended playing)も現れた。

SPからLPへの切替えが移行でなく進化ととらえられたことはshortという命名でわかる。記録時間の短い方を選好する人はいないという否定的ニュアンスの命名であり、さらにLPフォーマットの中でモノラルからステレオへの進化がおこるとSPはほぼ消えてしまった。進化の完了である。

勝者であったLPが今度は凌駕される様はメディア進化における弱肉強食のドラマである。それはextended long playingではなくCompact Disc(CD)なる違う視点とコンセプトからの命名を受けた素材もサイズも色も異なる円盤によって成し遂げられた。本移行はもはや進化ではなく淘汰であった。

いま世界でおきている最も重要な変化はBrexitでもトランプの出現でもない、ITによる既存概念の淘汰だ。目に見えない。見える人にだけ見える。これは全産業のみならず生活レベルでもおきており、技術の進化は人間の本質をも変えている。これはアナログ的変容である進化でなく、デジタル的な淘汰である。

野村くんがメンバーになってくれてSMCの展望は面白くなりそうだと西室と話した。僕はメディアを作るのが夢だ。本業は冷徹なビジネスだがこっちは遊び心オンリーでやりたい。収益を追っては創造できない面白いものが世の中にはあって、カネは使えば消えるがそれは残る。若者に元気も与える。

夢は実現しないから夢であり、いつまでたっても脳内現象に過ぎない。だからリアライズ(具現化)したい。その技術は僕にはないからそれを持った人たちに集まっていただき、夢を具現化してもらいたい。それは僕の脳をリアルなモノで表わすことになり、メディアの淘汰の波に乗る。

オンリーワンに価値があると人は言うが、人工知能(AI)が2048年に全人類の脳の処理能力の総和を超える。誰もが「いいね」を押すものは総和に限りなく近いものを作ろうとする努力だからAIに負ける。しかしAIは僕の脳は作れない。永遠にオンリーワンであり続けられる。

今日、このことを僕の会社の責任者に指示した。ぶっとんだことに聞こえたろうが、それで良くて、そんなに簡単にのぞけるはずはない。

ということを今日、銀座の新太郎さんで寿司をいただきながら長女に教えた。社員の皆さんにどこまでわかっていただけるかで成果は決まる。

 
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日本の教育がBecause I’m stupid.である話

2016 DEC 28 18:18:05 pm by 東 賢太郎

きのうは取引先と忘年会がわりのランチをしたが、ニューヨークで証券営業をした方の失敗談?が面白かった。お客さんから日本株の発注がWhy don’t you buy~と電話で来たが、それが買ってくれという意味とわからず他社に取られてしまったという。

そうですか、僕もロンドンでI would’t mind accepting your offer.と来てわからなかったですよという話になった。同じ意味だが英米でこうもちがう。僕は米語を覚えてロンドンに赴任したが、それをしゃべるとIt’s a sort of English,  Ken.とお客さんにやんわりたしなめられた。それは英語じゃない、英語「みたいなもん」だ、クィーンズをしゃべんなさいというお薦めだ。

英国で僕がKenになるのには半年かかった。それまではMr.Azumaだ。ドイツだとあなた(you)のSieがうちとけるとduになるが、そんなものである。すると人間関係はがらりと変わるが、こればっかりはミスターの関係をいくら続けていてもわからない。それが正論かどうかはともかく、発音を直してくれた英国人はKenになったから親身にそうしてくれたのである。

かたや米国だと会って5秒(自己紹介)でKenである。米国での人間関係の特質を一言で表すとなればこれをあげる。一面浅はかだが、誰とでも付き合いますよと心を開く姿勢はポジティブで、これはこれで好きだ。5秒たってもMr.~でいくとI would’t mind ~みたいだし、エレベーターで目があってニコッとしない奴みたいに見られそうだ(日本ならニコの方が変態だが)。かたや、英国のアッパーにWhy don’t you buy~は僕はとてもはしたなくて言えない。難しいものだ。

学校ではみなさん大方が「Whyと来たらbecause」と教わっただろう。だからWhy don’t you ときたらBecause~という基本英文700選かなんかの構文を頭が条件反射で探しにいってしまい、何も出なくなる。出るわけがない、買ってくれと言ってるだけなんだがこれを意味どおり「どうしてお前は買わないんだ?理由を述べよ」なんてとってしまうと、「はあ?」だ。そして気まずい沈黙となる(電話だからとても白ける)。そこで構文通りに思いつく文章はBecause I’m stupid.ぐらいだ。

これが今度は算数の話に飛んだ。小数の足し算で答えが9であるところを9.0と書いて減点になった有名な話だ。数学のノーベル賞であるフィールズ賞受賞者の森 重文先生が「なるべく簡略に答えよという条件があればそうですが、そうでないならばおかしいですね」とTVで言っていた。

もっとひどいのは、直方体の体積は縦・横・高さの順番で式を書いて掛けないと答えは合ってるのにバッテンらしいことだ。絶句である。これで×を食らった子は何を反省すればいいんだろう。「構文通りだ、よろしい」と Because I’m stupid. に〇がついてるぐらいにstupidである。

こういう教育で、我が国は皆勤賞で遅刻もしないが仕事もできない人間を大量に作っているような気がしてならない。いや僕ごときがそんな不遜なことを言ってはいけないだろう。森先生はガウスが1から100までの整数の合計を足す順番を変えて求めた例を引いて、「こういう発想が育ちませんね」とやわらかく否定された。

紋切型の掛ける順番⇒ガウス、とパッと類推する。数学は解法の類推力(似たもの探し力)を鍛えてくれる。これは問題解決の道具が豊富ということを意味するから実社会でビジネスで非常にパワフルな能力である。相手がそういう思考をできる人かどうかもすぐわかる。そうでない人には飛躍になるから説明がめんどうくさいが、そうしないと理解されないからそのための別種の説明方法があることを学ぶ必要がある。その簡素で無駄のない美しい解を森先生はTVで即座にエレガントに披露されたというわけだ。

次女はインターナショナルスクールに通ったのは小学校だけだったが英語は僕よりうまい。それほど子供時分の教育は大事である。掛け算の順番にまで注意して〇をもらいましょうと教えることに何の意味があるのか、物事はもっと単純な本質によって決められるべきと思うし、そうなれば教育のクオリティはいい学校に入るだけがモノサシではないという結論に行き着くだろう。よくいわれることだが、問題解決力、特に答えのない問題のそれだという意見に賛成だ。

 

わかる人、わからない人

 

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クラシック徒然草《いま一番好きな第九》

2016 DEC 28 0:00:38 am by 東 賢太郎

「年末の第九」なる世界に類のない国民行事は、まだクラシックがそんなに人気がないころのオケ団員の正月の餅代稼ぎだったという説をどこかで読んだ。それによれば、合唱団は主にアマか音大生であって、家族親戚が聞きに来るだろうから満員御礼が読めるということだったようだ。欧米で第九は何度もコンサートにはかかったが、年末だったことはむしろ一度もない。

昔はテレビっ子だったし3ちゃんやFM放送でも大晦日の第九を聴いてた。だからこれを聞くと第2楽章の終盤でもう今年も終わりかあと思いはじめ、第3楽章の中盤あたりで「ゆく年くる年」の行者の火渡りのシーンなんかが頭にジワリと浮かんでくる。第4楽章の歓喜の歌が過ぎたあたりになると時計を見てウンあと15分かと心のカウントダウンが始まり、そして恐るべきことに、画面いっぱいに映し出されたどこぞのお寺の鐘を和尚がゴ~ンとつく音が浮かんでくるのである。

なんじゃこりゃあ?

4月に聴いても9月に聴いても除夜の鐘がゴ~ンだ。パリで聴いてもウィーンで聴いてもゴ~ンだ。かんべんしてくれ。こうやって僕はいっとき第九が大いに苦手となった。聴くときは昔流儀とイメージが被らないように、新奇なところに耳が行くベーレンライター版を選んで聴いたりした。第九のブログを書いたあたりまでは少なくともそうだった。

ところがわりと最近、ヨゼフ・クリップスのCDを聴いて非常に感動したのだ。これはおふくろの味だと。そして3月17日にこう書き足すことになった。同じ文章で申し訳ないが再録する。

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ヨゼフ・クリップス / ロンドン交響楽団

08_1104_01 (1)クリップスはJ・シュトラウス、ハイドン、チャイコフスキーなどに記憶に残るレコードがある。この第九は、一言でいうなら、僕の世代が昔懐かしい、ああ年の瀬のダイクはこういうものだったなあとほっとさせてくれる雰囲気がある。アンサンブルは甚だ雑駁だが何となくまとまっており、ほっこりとおいしい不思議な演奏だ。それはテンポによるところが大きく、とにかく全楽章やっぱりこれでしょという当たり前に快適なもの。管楽器、ティンパニがオン気味だがどぎつさはなく、歌は合唱の近くにマイクがあってまるで自分も合唱団で歌ってるみたいだ。そのうえソロ4人がこんなに一人一人聞きとれる録音は珍しいがこれが音楽的に満足感が高く、なんとはなしにオケ、合唱と混ざっていい感じになるのも実にいい。ぜんぜん知らないソプラノだが音程はしっかりして僕の基準を満たす。5番の稿にも書いたがベーレンライター全盛の世でこのCDを耳にすると、1週間ぐらい海外出張して戻った居酒屋のおふくろの味みたいだ。練習で締め挙げた風情や、うまい、一流だ、すごい、という部分はどこにもないが、本物のプロたちがあんまり気張らずに自然に和合して図らずもうまくいっちゃったねという感じ。しかし全楽器の音程がよろしく、フレージングの隈取りも納得感が高く、耳を凝らして聴くと音楽のファンダメンタルズの水準は大変高い。指揮のワザだろう。こういうのを名演と讃えたい。

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今も聴きなおしたが気持ちはいささかも変わらない。クリップスの1-8番は僕には生ぬるいが、どういうわけか9番だけ琴線にふれるのだ。このなんとも快適なテンポと味付けは僕らがなじみ始めの頃にウィーンなどで普通にやっていたものと思う。だからだろう日本人の演奏もこれに近かった。クリップスはロンドンのオケで普通にそれをやり、普通なのは第1楽章で一生懸命弾いているが弦と金管のアンサンブルが甘かったりホルンが二度もとちってるのでわかるが、それでもうるさい客を黙らせるオーソリティーを感じる。

クラシックがクラシック足り得るのは僕はこういう演奏によると思っているのであって、フルトヴェングラーのバイロイト盤みたいにコーダを超音速でぶっ飛ばしてエクスタシーをあおったり、メンゲルベルグみたいに急ブレーキでのけぞらせたりしてくれなくても、ベートーベンの天才のみで僕らは十二分に究極の音楽的満足を得られると思う(終楽章の入りだけピッチがゆれるがこれは我慢)。

ゴ~ンはないの?ある。でもそれもふくめておふくろの味になってしまった自分がいるということのようだ。

 

 

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血をサラサラにする装置

2016 DEC 26 1:01:35 am by 東 賢太郎

もう日付が変わったが、きのう25日は社会人の娘たちにクリスマス・プレゼントをもらった。それから昼に長女と、施設にいる両親にプレゼントを届けに行った。父は11月に椅子から落ちで背骨を折ったがすっかり回復しており、認知症の母も元気で安心した。施設の方々のあったかさも心からありがたく、見舞いに行ってこんなほっこりした気持ちになったのは初めてだ。近くのホームセンターでノイに玩具をたくさん買って帰宅。すごい喜びようで、ネコだってクリスマス・プレゼントはうれしいのだ。

毎年楽ではなかったが今年は特につらく、蓄積疲労はちょっとやそっと寝たぐらいで解消しそうな気がしない。神山先生に相談したところすぐにこれをやれということで、米国シリコンバレーの再生医療企業であるBiomobie社製の「血をサラサラにする装置」を買ってきていただいた(値段はかなり高いが)。この会社、例のDNA二重らせん構造の発見者ワトソン・クリックのノーベル賞生理学・医学賞メダルをオークションで$2.27 million (約2億6千万円)で落札したことでも知られる。

bio

 

製品名はBioboostiという。玉子ほどの大きさだが特殊な電磁波が出て両手両足に10分間ずつ1日2回当てる。年をとると赤血球同士がくっついてきて脳、心臓に小さな血栓を作りだす。それがやがて梗塞になるそうだ。

 

横から見るとまるでUFOだ。電磁波は下部から出る。

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それが赤血球を本来のばらばらの状態に戻す様子は血管をスキャンするとリアルタイムで見られる。サラサラとはその状態をいう。米国FDAはもちろんEU、中国でも当局認可を得て売られている。

 

 

日本はこういうものは概してオクテだ。厚労省がリスクを取らないだろうし、死亡原因2位3位の心臓病、脳卒中の薬が売れなくても困るかもしれないから?認可がない。中国で買ってきていただくしかない。まだ1週間だから効果の自覚はないが、半年使っている先生いわく当初は睡眠の質が変わってきて、とにかく深く眠れるようになるらしい。

僕のような尋常でないストレスをかかえる事業をやっているとこういう世界の最先端秘密兵器も必要になってくるが、それでも、昨日の娘たちのプレゼントや両親の元気な顔の方がジワリと体にしみてきて疲れを吹っ飛ばしてくれる効能が大きいかなあと思う。それは頭で考えても想像してもわからなくて、自分の体の声がそう言っている。

(参考)

当社で調査中のベンチャー3社

 

 
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500人のサンタクロース

2016 DEC 25 11:11:09 am by 東 賢太郎

プライベートでは逆風の吹く2016年だった。特に8月からは何か一つぐらいと日記を見返したがいいことがない。仕事が前半から不調であり、あがいてもだめだった。外部の協力を得て11月から一気に盛り返して帳尻だけはあったものの運だけだ。林からリカバリーの寄せがチップインしてパーというようなもの。

それがほぼ今年のすべてで、親父の前立腺癌がうまいこと消えたのがいちばん良かったことぐらいで出来事ランキングといって他に特に書くようなことはない。だいたいが、プライベートなどあまりなかった気もする。

中村が亡くなったことが重い。同期というのは普段は意識しなくても、こうなると格別の存在になる。中学の親友を二十歳のときに亡くしたが、あのころはまだ自分に無限の時間があってこそ救われたのだ。

そのことがあって、自分を整理しようという気持ちの種が植えられたかと思う。元から物欲はほぼ失せている。自分の納得いくように諸事かたをつける、これが残った最大の欲かもしれない。

TVで500人のサンタクロースの話を見た。施設の子や難病の子にたくさんのプレゼントが届く。子供たちの目がきらきら輝く星みたいだ。「サンタさんなんて僕には来ないと思ってた」・・おいおい来てないはずないんじゃないか。

わくわくして眠った翌朝、僕の枕元には模型の電車がそっと来ていた。それがOゲージというどうしても欲しかった大型のものだから、「わ~、これがわかるなんてサンタさんってすごいね~」と大声をあげたように思う。子供はひとりひとりそれぞれのやりかたで親にプレゼントを返す。

 
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ルロイ・アンダーソン「トランペット吹きの子守歌」

2016 DEC 24 18:18:46 pm by 東 賢太郎

ここに書いた事情でルロイ・アンダーソンはみんなX’masの曲と思っていました。

フランク・シナトラの「ホワイト・クリスマス」

実は全然ちがうのですが、僕の中では「そりすべり」=クリスマスであって、そうなると幼時のすりこみというのはどうしようもないのであって、いまだにこれを聞くとツリーとかプレゼントとかが浮かんでしまうのです。

A Trumpeter’s Lullaby(トランペット吹きの子守歌)であります。こんな素晴らしい曲が初見で弾けるやさしさって、ある意味貴重じゃないでしょうか。そういうのがほとんどない僕にとって人類の文化遺産です。

leroy

それではみなさん、Merry Christmas!

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ショパン「24の前奏曲」作品28

2016 DEC 24 2:02:37 am by 東 賢太郎

mi0003822406ショパンの演奏会から遠ざかって久しいが、僕は彼の音楽を等閑視しているのでも忌避しているわけでもない。満足させてくれる演奏家に出会わないからだと思っている。いや、いなかったわけではなくて、85年5月にロンドンのバービカンで聴いたミケランジェリ、同じく88年ウィグモア・ホールのペルルミュテールによるバラード全曲はショパンの何たるかを聴いた。しかし彼らは遥か旅立ってしまい、それ以来これぞというのがないのが現実だったということだ。

94年3月のフランクフルトでのポゴレリッチのスケルツォ全曲。存在感はあったが何か違う。かたや現代はというと今回のショパンコンクール本選はくまなくチェックしたがどうにも小物感、小手先の作り物感が否めない。選ばれた人たちにしてそうなのであって、ということは世界中で弾かれているはずのショパンはもれなくそういうものなのだということになってしまおうが、この程度の浅い音楽にわざわざ金と時間を費やして聴きに出かけるまでもない、CDに残っている往年の巨匠の名演奏を家で楽しめば十分であるというのが僕の結論だ。

そのことは何もショパンに限った話ではない。昨今は当初に演奏困難とされた現代曲でもポップス並みに軽々と手慣れた演奏がなされていて、一応の完成度と引き換えにモジュール化した平板な規格品を得た印象がある。レンガ造りのはずの家が小綺麗なプレハブ住宅になったようなもので、こんな立派な外見の家がこの値段で建ちますよ、ウチの工務店も捨てたもんじゃないでしょうというデモの場になってしまった観すらある。聴衆のほうも手軽なスポーティでポップな快感をそこに求める。申しわけないが、そんなものにつきあうほど僕は暇人ではない。

ショパンの音楽はおそらくもう百年以上も前からそれが連綿着々と進んでしまっていて、素人でも弾けてしまう気安さも手伝ってサロンの余興に近い扱いも大いにされたろうと思われる。ペルルミュテールの演奏会はまさに19世紀のパリのサロンの陰影を感じて非常に驚いたものだが、何千何万と開かれたアーティストのたまり場、サロンに招かれて最上級の腕前によるバラードを聴いたという印象だった。良くも悪くも、ショパン自身がサンドとの出会いではからずもそういう場、ソサイエティの住人となりその音楽が凡庸の手垢に染まる素地はあったということも実感する。

そうやって現代にいたると、そうした場での素人芸までふくむ雑多で多くの先人によって成型されたプレハブのモジュールピースが細部に至るまで見事にできあがっており、ショパンを弾くことはそこからどう少々のズレを盛り込むか腐心するという音楽の本質とはまことに関係の希薄な競争に参加することだと見えなくもないのである。しかし一方で彼の音楽は非常にロマンティックであり、彼の時代にそんな音楽を書いた人は誰もいないという点において真のパイオニアなのであって、彼の美質の本質はそこにあることを見逃してはならない。

それは感情にまかせてどうにも弾けてしまう要素があるということだ。細部の解釈論云々よりも全体をどう把え、感じ、それをどんな感情の色あいで伝えるかがものをいう比重が大きいのだ。バッハなら演奏者がその日どんな気持ちでいるか、悲しいことがあったか天に昇るほどうれしいかは演奏にまず出ようがないが、ショパンの音楽はそれが出てしまうのではないかと思う要素を多分にふくんだ史上最初の音楽だと言ってもいい。そうやって演奏者の人となりや人生がうっすらと透けて出る。そこに僕は醍醐味を覚えるのであって、だからショパン演奏というのは巷のなよなよしたフェミニンな綺麗事というイメージとはかけ離れた実相を持つもの、演奏者が全人格をかけるべき格闘技に近いものであると僕は確信している。

そういう観点から「前奏曲作品28」に話を進める。

ショパンはピアノの詩人といわれるが、これを作曲したマヨルカ島に持っていった印刷譜はバッハの平均律クラヴィーア曲集のみであったらしい。各12音に長短調で24の小品を書くという構想はそこに源泉があるのだろう。自由なファンタジーと形式や規律という縛りという二律背反が生んだ名品として作品28と第3ソナタは双璧と思う。前者はロシア人のラフマニノフ、スクリャービン、ショスタコーヴィチの前奏曲集につながったと思われるが、僕はドビッシーの24曲からなる前奏曲集への霊感を呼び覚ますものとなった可能性に関心がある。

ショパンは平行短調をはさみ五度上昇というシステマティックな曲順で24曲を一本の縦糸で結んでいるが、では全体が曲集として何かを表現しているかというとありそうで漠としている。しかし24番目のニ短調、この嵐のような音楽が世にも恐ろしい最低域の二音の3連打で幕を閉じる、この衝撃的な作品が単独で演奏されることをショパンが想定したとはどうにも思えないのだ。

それに耐える行程が23のどっしりした物語の手ごたえでなくして何だろう。僕はロアルド・ダールの「あなたに似た人」という短編集の読後感をいつも思い出す。内容云々についてではない。この本はご存じのかたも多いと思うが、15の短編から成るのだがその題がついたものはひとつもない。各編に何の脈絡もない別個独立の作品集なのだが、全部を読み通してみて初めてちょっとブラックな特異な味がずしりと舌に残るという代物である。

前奏曲作品28はそんな風に例えられるような全体観の明確な意図と調性設計をもって、そう聴かれるべく書かれた作品集だと考えている。その題がついたものはない、つまり前奏曲である必要もない24の短編集なのではないかということだ。そうでなければ、24曲を聴き終えて得られる交響曲を聴いたようなどっしりした充足感は説明できるものではない。

彼は標題音楽を一切書かなかったという理解は非常に重要と思う。この24曲は絶対音楽として起草したが、その各曲がそれぞれ聴く者に様々なイマジネーションを与え、その末に、フランスにおいて、標題はあるが純然たる標題音楽ではないというドビッシーの前奏曲という新しい形態がやってきた。その二つの曲集は後世のフランス現代音楽だけでなくストラヴィンスキーにまで遺伝しているが、その彼の音楽もロシア以前にまずフランスで有名になったのである。

この化学変化がドイツ語圏ではなくフランスでおきたということが面白い。彼がパリに住んでそこで亡くなったというだけではない、ウィーンにも住んだのだから、ラテン世界に何らかの親和性があったのだろう。血という言葉は軽々しく使いたくないが、ここではやはり彼の父親がフランス人であったことを想起せざるを得ない。そして母親はポーランドの貴族の娘だ。ドビッシーに共鳴するラテン的な感性とスラヴの貴族の血。僕の直感だが、ショパンを紐解く二つのキーワードはそれだと思う。詩人というのはもっともらしいが、大きく違う。

pre僕が前奏曲作品28に親しんだのは大学時代にFM放送を録音した79年のエフゲニー・モギレフスキーの東京ライブだ。下宿で夜中に何度も聴いて何と素晴らしい曲かと感涙に浸った。演奏も聞きごたえ十分でこのテープは今や希少品だ。エリザベートコンクール優勝者なのに以来さっぱり名前を見なくなった彼はどうしたんだろう?

レコードもアルゲリッチ、アシュケナージ、アラウと持っていて我が収集履歴でも赤貧だった初期から聴きこんでいた曲だったと思う。長年の間アルゲリッチがベストと思っていたが年とともに好みは変わるもので、今になると若さにまかせた勢いは魅力あるがフォルテ部分が荒く、熟成度やきめ細やかさに不満が残り技が耳についてしまう。アシュケナージは見事な技巧で丁寧に紡いだ文句ない美演、アラウはロマンティックな深みのある大人の表現で捨てがたいが、どちらもどうしてもというまでではない。

r-5981859-1410090948-9916-jpegより僕の琴線に触れる演奏としてまずホルヘ・ボレを挙げたい。俗世間のきかせどころにこれ見よがしなものはかけらもなく、微妙な強弱を伴うテンポの揺れと間は自然な呼吸のまま楽に弾いているがにじみ出る人間性が比類ない。これぞ19世紀の伝統に根差した大人のダンディな味だ。おそらく長い年月をかけて若いままにぶつかって弾いてきたのだろう、男の格闘の末にたどり着いた完熟、ゆとりの表現に感服である。

 

ショパンは3種のピアノを持っていたが「気分のすぐれないときにはエラール、気分が良く体力があるときは、プレイエルを弾く」と言い、前奏曲作品28を作曲したマヨルカにはプレイエルを届けさせた。「プレイエルは高音にいくほど音量が小さく、高音域へいくに伴って、クレッシェンドが書かれてることがよくありますが、これは音を大きくするという意味ではなく、プレイエルのピアノで弾く前提で、高音域に移行しても同じボリュームを保つためにクレッシェンドで弾くという意味」(浜松市楽器博物館)だそうで楽譜を見ると確かに24番などそれが書いてあり納得だ。この譜面はプレイエルで音に変換すべく書かれている証拠であり、スタインウェイならそれを逆変換して弾かねばならないわけである。

170x170bbヴォイチェフ・シュヴィタワ(カトヴィツェ音楽院ピアノ科教授)がそのプレイエル(1848年製)を弾いている。ピッチが低く一聴すると地味だが、鍵盤が軽く繊細で柔らかく僅かなタッチに千変万化する表現力とシンギングトーン(歌声のような伸び)をもっていたことがこの演奏でわかる。音域ごとでもタッチの強さ、深さによってもまるで万華鏡のように変わっているのであって、これでこそ各曲の曲調によるメリハリがつきショパンの意図した曲順のインパクトが明確に伝わってくるではないか!前奏曲はこういう曲なのだと目から鱗が落ちる。演奏も楽興に満ち大変すばらしい。

さて「ドビッシーに共鳴するラテン的な感性とスラヴの貴族の血がショパンを紐解く二つのキーワード」と書いたが、ロシア系の強靭な音やドイツ系の重めの音で弾いた前奏曲は、少なくともショパンの意図からすればずいぶん的外れなものであることがわかる。上記シュヴィタワがフランス的なあっさり味のプレイエルで体現したのが前者だとすると次に後者、高貴さを添える演奏はないだろうかと思ってyoutubeを探すとこれに当たった。フランスのエリアン・リシュパン(ELIANE RICHEPIN 、1910-1999)である。

知らなかったが調べるとマルグリット・ロン、アルフレッド・コルトー、イヴ・ナットの弟子である。非常に興味深いことだが彼女はドビッシーにおいて世評が高かったようだ。フランスの感性と高貴さが理想的に交差しているのである。そう、彼女のこの前奏曲は高貴という以外に言葉を寄せつけない。これがショパンであるかどうかは問わない、なんて素晴らしい音楽を聴いたかという感慨しか残らない。

全く危なげのない72才と思えぬ指の回り。この美しい楽器は何だろう(プレイエル=コルトー、エラール=ロンだが)?こういうものだと納得するテンポ。どの曲を聞き終えてもじわりと体の芯に暖かいものが残る。何かに包みこまれたような深い満足感。クリスタルのような高音の痺れる美しさ。触れると壊れるほどデリケートなピアニシモ。荒々しい低音パッセージはffもレガートで粗暴でうるさくならず常に品格を保つ。すべてにわったって高貴なのだ。至福の時であり何度でも聴きたい、こんなことはない。

このLPかCDは何をもっても入手したいが、どうも難しそうだ。こうやって古くて良いものがどんどん視界から消えていく。新しい演奏家の活躍は大歓迎だしその演奏もそれなりに耳にはしているのだが、こういう本物中の本物をクラウドアウトするにあたっては容貌や胸のあいたドレスの貢献度も多大であろうとまじめに思っているから、僕はショパンの演奏会に10年も行っていないのである。

 

クラシック徒然草-悲愴ソナタとショパン-

 

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ジャガー・ルクルトのレベルソ

2016 DEC 23 0:00:26 am by 東 賢太郎

ロンドンの金融街シティをサヴィル・ロウの老舗仕立て屋ギーヴズ&ホークスのスーツを着てチャーチを履いて闊歩するともう気分はにわか紳士だ。まったく柄にもない、今思うと田舎の成り上がりもんで恥じ入るばかりなのだが、服装の流れで自然とウォッチが欲しくなった。留学を終えて赴任したばかりの二十代だ、給料なんて二束三文である。そもそも米国ではマックも食えなかったのにチェロを大人買いしてなけなしの貯金は使い果たしていた。

シティのはずれにあった宝石屋マッピン・アンド・ウエッブは入るだけで敷居が高かった。おそるおそるのぞくと、お目当てのそれは凛と涼しげな風情でケースの中から柔らかい高貴な光を放っていた。僕はその姿をコヴェント・ガーデンで見た魔笛のプログラムにブロンド美女と一緒に写っていたおしゃれなアドで知ったのだ。絵にかいたような一目惚れである。1985年のことだ。

jaegerそれはジャガー・ルクルトのレベルソなるリバーシブルのウォッチであった。このメーカーはスイスのル・サンティエに16世紀に逃げてきたユグノー教徒末裔のルクルトがパリで海軍の時計を製造していたジャガーと創始した最高級の時計メーカーで、400の特許を持っている。二人のイニシャルが合わさったロゴ(左)が見えない正三角形を成す造形センスが象徴するようにデザインも抜群にいいのだが、それよりもなぜ僕として数あるスイスのブランド時計屋で最高級と評したくなるかというとメカと補修に対する偏執狂的なまでのこだわりが感性に合うからだ。

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例えば右はアトモスという置時計だが動力は何もいらない。はるか後にスイスで入手した際に「1日の気温差が1度以上あれば動きます」というので「じゃあ南極でも動きますか」ときいたら「ええ、凍らなければ」だ。「で、何年動きますか」「200年」ときてそれ以上質問が浮かばなくなった。あれからとりあえず20年だが、たしかに問題なく動いている。マニアックな名器だ。

さて初めて足を踏み入れたマッピン・アンド・ウエッブで柄にもない大人買いをしたのはレベルソのピンクゴールドだ(下がその表と裏)。ポンドが250円のころで円ベースで70万ぐらいだった。昨今この時計はそこらじゅうで有名になってしまって面白くない。ことに芸能人に人気らしく嵐の誰それもご愛用らしいが、当時は誰も知らず飲み屋で裏返してみせると瞬間芸にはなった。同じころに東独August Förster社製のアップライト・ピアノも買ったもんだから家計は火の車だったろう。こういうことで好き放題やって家内には面倒をかけっぱなしであったが、こうやって常に背伸びをして生きてきたから背はちゃんと伸びたんだということにして許してもらっている。

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レベルソは僕の人生で背伸びの第一歩であったから特に思い出深い。掘ってもらったイニシャルのKAは息子も同じだから与える。まあしかしこんなのは序の口で、その後ポルシェより高いオーディオ、箱根のでかい地面を経て家の建築へとつづく。誤解を避けたいが余資があったことなどない。いつも買ってしまってからどうしようと焦り、その最たる家はデフレのさなかに年収**年分の大借金を背負うというファイナンス専攻のMBAにあるまじき事態を伴った。この性格は何があろうと変えられないからあのままサラリーマンしてたら即死だったと思うとぞっとする。物体として買いたいものはもうない。次はたぶん会社かなという新年を迎えそうだ。

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