Sonar Members Club No.1

月別: 2017年1月

一般人の男性が?

2017 JAN 31 17:17:31 pm by 東 賢太郎

中野でタクシーが電柱に激突し、ドライバーとけが人を助けた男性がそのまま立ち去ったというのでニュースになっている。表彰したいので名乗り出てほしいそうだ。

むかしバスを待っていたら道の反対側の歩道で自転車でもろに転倒した人がいて、頭を打ったように見えたので大丈夫ですかと助け起こしたら無言で走り去った。いろんな人がいるんだなと思ったが怪我はなかったようだ。べつに助けておいて無言で去る人がいてもいいんじゃないかと思うが、そうでもないんだろうか。

TVを見ていたら「一般人の男性が」と報じているが、その一般人ってのはいったい何だ?じゃあ特別人てのがいるのか、それは誰のことだ?とっさの善行をした勇気ある男性たちがキャスターのねえちゃんごときに「そのへんの人」あつかいされているようで、甚だ不快である。

怪我人の救助に誰である必要もないし、この男性は表彰されたりテレビに出たくてやったわけでもないから立ち去ったのかもしれない。むしろ自分はそういう種類の人間ではないという意思表示だってありえるのであって、一般人が有名になれるのにどうしてという報道は不遜だ。

消防庁が表彰をしたいというのは役所の仕事としてはいいことと思うが、善行に対価や報酬はないと考える人がたくさんいるのが日本の美徳だと海外に16年もいた僕などは常々感じている。人は表彰されたいものだ、テレビに出たいものだ、そうでなきゃ変だという思い込みがあるようで報道姿勢に非常に違和感をもった。

 
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世界一の人を出したい

2017 JAN 31 11:11:52 am by 東 賢太郎

新奇なものはないと書いたが、日曜日に近くのファミレスでミーティングをした企画は興味を持った。

去年12月末からスタートしているオンライン動画サイトNEXTYLE  TVに出演してくれた腕のある若者たち、料理家、タンザニア壁画の画家、映画監督、リフティングの名人、劇団員、揚げパン職人、くちびるアート画家、チアリーダー、ダンサーなどを集めてパーティーをやって撮影するので、そこでオーナーの僕と彼らで丁々発止の座談会をやってくれというものだ。

世界に出たい、一流になりたい熱い人たちばっかりを厳選して出演してもらい、僕は次世代のスターだからネクスター(NEXTAR)と名づけている。そういう若者が無条件に大好きである。出演交渉で断る人もいるらしいが不憫なもんだ、そういうツキがない人は追うな、出てくれた人はそれだけ縁があって強運だと言っている。座談会、いいね、みんなの話を聞きたいからワインぐらい飲んでやろう、思いっきりホンネでね、何きいてもらってもいい、本気で答えるよ、と伝えた。

ネクスターから世界一の人を出したい。彼らがその夢をかなえてくれるなら本気で支援するし、人間を鍛えるし、僕と会って普通で終わってもらっても困る。気に入ればもう子供みたいなものだ。いまの10人が100人、200人になるだろう。そうなると、なんか爆発的に凄いことがおきる気がしてくる。

 
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男は借金をすべし

2017 JAN 31 1:01:12 am by 東 賢太郎

男は借金をすべしと思う。理由は二つある。一に、僕のような怠惰な人間が必死に働くようになる。二に、いくら借りられるかで自分の世の中での評価を思い知るからである。

会社をやめてすぐのこと、某銀行がポンと2億5千万円借してくれた。要は失業者になったのだからそれが僕の裸一貫のプライスだったわけで、55才にもなってよくぞとこれだけはちょっと誇らしく思っている。

それで好きに家を建て、好きな事業を始め、必死に苦労してやっと返せる段になるとどうも刺激がなくなる気がするのは困ったものだ。会社も無借金は善ではない、レバレッジがかけられないのは経営に先がないあかしでもある。

自分は怠け者だがネコ科ゆえ好きなものには徹底的に貪欲なハンターである、いやそのはずだった。ところが男は城を建て安寧に家族を守って還暦にもなると満ち足りてしまうのだろうか、どうもいけない。最近、牙をなくしている。

何が効くのか知らないが、心のことはむずかしい。怒りかな、そういえば最近怒ることもなく、いいターゲットだった女党首もふがいない矮小な存在に埋没してしまった。後援会入って応援でもしないといけないか。

新奇なことはなくなって何事もあんまり関心を引かない。興味がないというのはどうしようもない精神の墓場であって、豪勢な食卓にもきれいな女にも心がちっとも反応しないのは非常にまずい。

やっぱり10億円ぐらい借金するしかないのか。

 
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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)

2017 JAN 30 2:02:18 am by 東 賢太郎

たしか朝比奈の著書に、指揮者が振りたくない名曲として田園とラインがあがっていました。どちらもエンディングがそっけなく聞こえるからです。たしかに運命のくどいばかりのそれに比して田園はあっさりですし、シューマンの1,2,4番に比してラインは簡潔な終わりですね。

それは田園、ライン、どちらも自然を満喫する交響曲であるためです。楽しかった遠足です、解散!の前に先生の説教やら「良かっただろ」のだめ押しは不要なのです。

これはライン第5楽章のうきうきする主題です。

leben

fp からの弾むような第2主題はライン地方の民謡、「So leben wir, so leben wir alle Tage」です。それをおききください。

これを知ったうえで4年前の僕のブログ、

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第5楽章)

を読み返していただければ、シューマンが第5楽章に抗いがたい愉悦感の下地をしっかりと織り込んでいることがお分かりいただけると思います。この曲は喜びのエネルギーを内に秘めているのです。それを開放すればシューマンの心の喜びは聴き手にまっすぐ伝わります。指揮者が余計なことをすればデリケートなそれは無残に壊れます。

僕がなぜコーダのアッチェレランドを蛇蝎のように嫌っているか、理屈ではないのですが、細部をリサーチすればこうして理由があることもわかってまいります。エンディングがそっけなく、キーが鳴りにくい変ホ長調でもある。指揮者は何かやりたくなるだろうし、マーラー版で壮麗に化粧をし、地味なエンディングは加速でブラボーを取る。しかし美人に化粧はいらないわけで、厚化粧を必要としているのは指揮者のほうである。別に実力不足は構わんのですが、そのだしに最愛の音楽であるラインを使うのだけはやめてくれよと嘆願するのみです。

フルトヴェングラーのように曲を大掴みに俯瞰して作曲家の意図の方向にデフォルメをかけるタイプは、シューマンに聴き手を誘導するメッセージがなく、自然への賛美と喜びを共有しましょうというだけなものだからすべきことがない。彼がラインを手掛けなかったのは大指揮者の証明でした。その彼を師と仰ぐバレンボイムは全集を作るためでしょう、振ってしまって下記のようになってしまった。必然ですね。今後もできるだけ聴いて、だめなのは本ブログにボロカスに書くことになるでしょう。

朝比奈の挙げた理由からでしょうかラインを演奏会で聴く機会はあまりありません。僕は3回しかなくてジンマン(チューリヒ・トーンハレ)、ヤルヴィ息子(N響)、マリナー(同)です。マリナーがあまりに素晴らしくて忘れられません。第1楽章は自分でシンセでMIDI録音して、原典版でしっかり鳴ることは自分の手で確認してます。これは結構出来が良くて満足で、やはりラインを愛する長女が気に入ってくれてます。

ハンス・フォンク / ケルン放送交響楽団

654やや弦が荒くテンポが速いが原典版スコアの地味な音色が好ましいです。マーラー版のスコアは持ってないので原典版を見ての限りですが、63小節の木管の対旋律のホルンの重複はなく、432小節の第1,2ヴァイオリンのd、e♭の短2度はそのまま。シューマンのスコアへの敬意を感じます。下手だから俺様が直してやるなどという不届き者が決まってアッチェレランドするコーダも盤石のテンポ。いいですね。

 

クリストフ・フォン・ドホナーニ / クリーブランド管弦楽団

200x200_P2_G1809805Wマーラー版でないのは評価。しかしドホナーニのオケの鳴らし方はブラームスやシューマンでも1,4番向きで各楽器群のソノリティがリッチで外交的あり、63小節はむしろホルン重複がないと物足りないという悲しいジレンマを感じます。オケをこうマーラー風に鳴らす後期ロマン派の視点からシューマンの管弦楽法が冴えないという流派が出たわけで、それは元から視点がおかしいというしかありません。第2楽章は明るくてお気楽。終楽章コーダは過剰な加速がないのはいいが陽気丸出しのトランペットが興ざめ。

 

ール・パレー / デトロイト交響楽団

71bDUCIk-rL._SL500_付点音符を弾ませ弦のボウイングによるアクセントを明確にしながら快適なテンポで豪快に始まる。ホルンの補強あり。コーダは加速まったくなく立派です。第2楽章もスタッカート気味の弦は結構だがアンサンブルがずれる。第3楽章冒頭は対旋律の音程があやしい。第4楽章はケルン大聖堂の暗さと湿度が不足。終楽章の出だしはオケの明るさが生きるがタッチが軽く陽気すぎてなじめない。とくに聴きたいとは思いません。

 

 

ダニエル・バレンボイム / シュターツカペレ・ベルリン

838強いパッションで開始。おそらくマーラー版に近い。このオケはウンター・デン・リンデンの歌劇場で聴くと古雅な良い音がします。ここでは弦の fが荒く無用な金管、ティンパニの強奏がうるさく美質が出ず。中間楽章もデリカシーを欠き、第4楽章の終結のティンパニ強打など論外でこの人なにを考えてんのと言うしかない。終楽章はテンポがぬるく愉悦感なし。ここでもおかど違いで音程の悪い金管、打楽器に閉口。コーダの加速とお祭り騒ぎは失笑しかなし。彼は日本人にブルックナーはわからんとのたまわったらしいが彼にラインがわかることもないだろう。

 

エドリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

boult

ロンドンで89年に買ったCDでなつかしい。史上最速の第1楽章でしょう。いったい何がおきたんだと驚くうちに一陣の風のように過ぎ去ります。ところが第2-4楽章は普通のテンポで文句なし。ラインのエッセンスを掴んでいます。終楽章がまた速いが史上最高ほどではなく、この愉悦の気分は決して曲の精神から逸れてはおらず、納得します。両端楽章、この速度ではアッチェレランドのかけようはありません。かけられるよりは速すぎの方が僕はずっとましです。

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)

 

 

シューマン交響曲第2番ハ長調 作品61

 

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N響/下野竜也 の名演

2017 JAN 29 9:09:08 am by 東 賢太郎

指揮:下野竜也
ヴァイオリン:クリストフ・バラーティ

マルティヌー/リディツェへの追悼(1943)
フサ/プラハ1968年のための音楽(管弦楽版╱1969)
ブラームス/ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77

前半は二つとも初めての曲でした。第1曲のマルティヌーは「1942年にナチ親衛隊によって住民が虐殺され、強制収容所に連行され、村ごと焼き払われて地図上から姿を消してしまったリディツェという村のための追悼曲」で「プラハ北西15キロほどのこの村は、ナチの親衛隊長で、ユダヤ人絶滅作戦を策定したラインハルト・ハイドリヒをチェコ空軍有志が暗殺した事件で、暗殺部隊をかくまったことへの報復として抹殺された」(プログラムより)。

こんな壮絶なことが行われたのかと絶句。我が国はこのナチと同盟を結んだとはいえ、杉原 千畝、樋口 季一郎のようにユダヤ人を救済した人物までいました。日本軍に近隣国で戦時を超えた行為があった可能性は完全に否定はできないですが、日本民族の底辺にある倫理観、生死観からいかなる民族であれ絶滅作戦のごときおぞましき狂気まで共有したはずはなく、同列に論じられるのもかなわないと再認識であります。

悲痛に半音引き裂かれるような和声で開始し、重さと暗さが支配。それが深い祈りの和声と交差して天に昇華していくさまは心の奥底まで響きました。ぜひこれを聴いてみてください。

第2曲は1968年、プラハの春のソ連軍による弾圧でワルシャワ条約機構軍の戦車が街を蹂躙した事件に対する作曲家フサの怒りの表現でしょう。金管、打楽器、鐘など凄まじい音圧で迫り圧巻の音楽でありました。

下野竜也を絶賛したい。これだけ意味深いプログラムで打ちのめしてくれる指揮者がいま何人いるでしょうか。不断の好奇心をもって勉強を重ねないとこれだけの活動はできません、N響(コンマス伊藤亮太郎)もそれを受け止めましたね。つまらない外人呼んでくるなら下野を何度でも聴きたい、それほど気迫のこもった高い精度とボルテージの演奏でした。

後半はクリストフ・バラーティ の独奏でブラームス。この曲は僕にとって大事な音楽のひとつです。バラ―ティの感想は難しい。まず音の木質の豊潤な美しさはトップクラスと思います。1703年のストラディ「レディ・ハームズワース」で、僕が聴いたうちではアナスタシア・チェボタリョーワがメンデルスゾーンを弾いた絶品の中音域に唯一匹敵するもの。アンコールのバッハ(無伴奏のパルティータ3番  ガヴォットとロンド)はいつまでも聴いていたいレベルでした。しかしリザベーションがあります。

それを説明するにはテニス。昨日見ていた全豪オープンの準決勝、ナダル対ディミトロフ戦でナダルが接戦を制しましたがディミトロフは本当に惜しかった、最終セットのバックハンドの精度が低かったゆえ何本か落としたレシーブのリターン、あれさえ決まっていればフェデラー戦もいけたんじゃないか。それですね、バラーティに言いたいのは。彼の場合、音程です。

ほんのちょっとした、それも決めの音じゃないからいいじゃないかという声もあるでしょうが、僕は精度を書いて無頓着に感じてしまう。惜しい。それだけの素材だから求めたくなるのですが・・・。第2楽章アダージョは非常に良かったですね。遅い部分は文句なしで体質に合ってます。名器の美点が引き出されて、楽器もこういう相性の良い奏者にめぐりあえば幸福な音を出します。

第1楽章のコーダ、夢の中を天に登るようなppですね、最高の聞かせどころですからね、あそこは欲を言えば下野にもうすこし粘ってソロを引っ張って歌わせてほしかった。彼は性格がいいんでしょうか合わせてしまってバラーティもあんまり自己主張をしないタイプのようで残念ながらあっさりいってしまった。まあ良しとしましょう。

最高のコンサートでした。

 
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常識人はカモ

2017 JAN 27 18:18:12 pm by 東 賢太郎

ショーペンハウエルの「本を読むと馬鹿になる」というのは自分の頭で考えなくなるという意味です。まったくその通りであって、現代はさらに「テレビを見ると馬鹿になる」と付け加えるべきでしょう。

トランプ関連のTV報道だけは面白いので見てますが、まず就任演説の直後にこう思いました。

そして自動車発言はこう思った。

このおっさんに100億円ぐらい株買わせてみたいなとわくわくしますね。彼は民営化した国営企業の手練れの雇われ社長で国営時代のやり方、お行儀良さや品格や儀式典礼なんてくそ喰らえなんです。それに欠けるという路線の品評は「猫がお手しない、大丈夫か」と言うぐらいばかばかしい。キミ、世の中カネだけパワーだけってもんじゃないだろう?でも一兆円稼いで世界の操縦桿にぎった男にそれ言っても虚しいですね。

メキシコに壁?選挙用のホラだろ?ブラフはホラでもいいんです。唯一の違いは怒らせたら本当にやることです。できないし怒りもしないのはホラです。日本の民主党政権マニフェストは歴史に残る恥ずかしいホラでした。ホラがバレたら二度とブラフが効きません。ビジネスなんてカッコいいもんじゃなくって、これ、ケンカの常識ですね。

壁作るぜ、払えよ、さもなくば関税20%だ。首脳会談、いらねえよそんなの。来た来た。海外ビジネスでケンカしてきた人ならおわかりです。TVのコメンテーターは体張った勝負の経験ゼロのインテリなんで、銀行員が株屋のコメント品評するみたいなのばっかり、僕などデジャブというか懐かしくてほっこりしますね。ビジネスの掟は成功した者が問答無用で勝ち、口だけの評論家は無価値、それだけ。ああいう番組見てたら本当に馬鹿になるだけです。

この、体を張ってない人、ケンカしたことない人の解説が僕らの感覚でどう聞こえるかをご説明しましょう。

ショーペンハウエルほどの頭脳があれば別ですが彼らにあるわけないし、我々だってそうもいかないんで「普通の頭の人が本を読んで勉強しすぎると常識人になってしまう」ぐらいに言い換えたらいいですね。「常識」というのは本や教科書に書いてあるし、家や学校で教わるし、ないといじめられるし、あれば世渡りに支障ない便利なものです。しかも自分の頭で考えてあみだす苦労なんか皆無です。しかし、資産運用の世界でいうなら、常識だけで生きている人、つまり常識人はカモの代名詞なんです。

なぜかお分かりですか?常識人は「常に多数派」なんです。教科書通りの方々だから当然ですね。しかし投資で多数派が勝ち続けることは絶対にありません。常識人はいつもほぼ同じメンツで、10人のゼロサムゲームでいつも8人が勝って非常識派の2人が負け金をはらい続けるなら反対側にベットする負け組不在になります。相場というのは反対側にベットする人、つまり売りなら買いがないと値がつきませんが、値が必ずついているということはその仮定がおかしい。即ち、常識人が勝ち続けることはありません。

非常識派、少数派についても同じことは言えますが、多数派の裏をかけば1回のベットに対するリターンがめちゃくちゃでかいわけですね、だからそれを狙い撃ちすることに命をかける天才ハンターは知恵を絞って集結します。ロボット運用などとわけのわかってない人にいわれるAIによるアルゴリズム取引はその典型です。常識人は何に対しても命なんてかけない普通の人だからこそ常識人なんであって、ワザやら情報力やら以前の問題ですね、そもそもモチベーションでかないません。長くやればほぼ撃たれて負けます。

では自分は素人だから投資信託やファンドラップを買おうとなりますね、常識的には。成長株ファンド、高配当株ファンド、バリュー株ファンド等々いくらでもあります。一応「プロが運用します」「だから儲かります」という表看板になってる。しかしそんなにプロならそのファンドマネージャーは自分で独立して運用するんです。仮に他人の資金を集めても、自分も自分の運用するファンドを買いますよ、だって自信あるんだから。もちろん僕も自分の作ったファンドに自分で投資してます。あまりに当たり前ですが。

日本で「資金運用者求む。ファンドが損しても貴方は一銭も損しませんが、ファンドが儲かっても貴方の給料は変わりません、自分が投資する必要はありません」という求人に応募してくる人に海外で運用者として通用するプロは一人もいません。それは「サラリーマン契約」ですからね、そこから資産1500億円のマイケル・ジョーダンや年収70億円のロジャー・フェデラーなんか出るはずないんです。

面白いですよ、そういう求人をしますとね、安定志向でプレゼン上手の公務員・大学教授タイプが7割、博打打ちが2割、詐欺師が1割というところが相場になります。日本の運用業界のファンドマネージャーはほぼサラリーマン契約ばかりだから、必然的にその7割のタイプばっかりになるのです。その人たちはTVで専門家、学識経験者といってる人たちと同じ人種ですね、このタイプこそ高学歴の常識人なのです。

前述のとおり常識人はカモなのだから、サラリーマンが運用してる投信はほとんどがクズです。だからラックだけでしか儲からない。そこでやめればいいのに業者の口車で分散投資ですよとあれもこれも買ってしまう個人投資家はカモのカモなんです。色んな投信を買えば買うほど個性が薄まってそれはインデックスに近づいていき、全部買えばほとんどTOPIXや日経225と同じものになります。それならETFを買えば手数料はほぼタダなのに、高い運用管理報酬をふんだくられてなんのこっちゃになるのです。

高い本代や授業料を払って多大な時間を犠牲にして立派な常識人に育つ。投資信託をたくさん買いそろえてインデックス投資してる人とおんなじですね。TVは政治にせよ経済にせよ非常識な発言は排除するからきわめて没個性的で、それを装ってオピニオンを誘導もする。そんなのを毎日見ていれば確実に立派な馬鹿になります。

若者のTV離れは「面白くない」、「興味ない」が多いそうですが、「大人は嘘をいう」もけっこうあるそうです。子供は鋭いのですね、まだ常識に染まってないからでしょうね。彼らに大人気の動画、「はじめしゃちょー」はホンネで小学生にも受けているらしく、現にこれを僕に教えてくれたのは社員の小学生の娘さんです。読者の年代は誰もご存じないでしょうが試しにご覧ください。

くだらないと思われますよね、でもこれはTVではできないでしょう。この人はyoutube閲覧数第1位で、この動画1本の閲覧数が370万なんです。僕が4年書いたブログが全部で66万です、大谷の打撃を見た中田みたいなもんで書くのがあほらしくなります。この人はユーチューバーとして食っていて広告料で年収1億円以上ときいてます。どうして?別に驚きません、フォロワーの子供たちは10年後に自社製品の消費者になるからです。

ちなみに、テニスのフェデラーの年収70億円はスポーツ界の世界4位ですが、そのうち賞金は8億円だけで残りは広告料収入なんです。プロを称する高学歴インテリサラリーマンの評論家やファンドマネージャーと、はじめしゃちょーと、どっちがフェデラーに近いですか?

常識人はカモ、ご記憶ください。

 

(ご参考、本稿の実例です。これは大統領選挙の直後に書いたブログですが、今でもほとんど修正は不要です。当時、常識人、マスコミがこんなことを言っていましたか?)

トランプは何をするか

 
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カルメンが生き残った理由(今月のテーマ インテリジェンス)

2017 JAN 26 12:12:49 pm by 東 賢太郎

昨日は次女と新国立劇場のカルメンでした。何度聴いてもいいですね。ホセのマッシモ・ジョルダーノは演技力もあって後半はよかったかな、ミカエラの砂川涼子は健闘でした。オケの東京SOはいい音が出てましたね。前から4列目で美しい舞台も楽しみました。

娘たちは幼稚園のころからオペラやバレーへ連れて行ってるのですが、今もこうしてきいてくれるのはうれしいことです。彼女は魔笛、ヘンゼルとグレーテル、白鳥の湖、くるみ割り人形なんて子供向きから、ボエーム、コシ・ファン・トゥッテ、イエヌーファ、エレクトラなんて大人物まできいてます。ワーグナーは寝るだろうということで、ヴェルディは親父がきらいで外して申し訳なかったが、これからは自分の趣味で聴いてください。

さて子供の時にきいたのをどこまで覚えてるかというときっと忘れるんですね、筋もややこしいし長い曲だからとうぜんです。僕は初めてオペラを観たのはメトロポリタン歌劇場のタンホイザーだからもう27才でした。ところが先日に野村くんがプレートルのブログにくれたコメントで、一橋中学で音楽の授業でカルメンを全曲聴いたとありました。

car完全に忘れてましたが、家にカルメンの抜粋のEP盤(右)があって不思議に思っていたんです。なんで買ったのかなと。EPはごまんとあって、ベンチャーズ(小4)に始まってお袋が買ったと思われる渡哲也「くちなしの花」(73年、高3)なんかもある。中学ではまだLPは買っておらず、ひょっとして音楽の授業でcar1「前奏曲」が気に入って買ったんじゃないか?という気になってきたのです。僕はこの前奏曲が大好きでイ長調に0.3秒だけ出てくるつなぎのC#(!)、そしていきなりぶっ飛ぶCのコードは今でも頭をぐしゃぐしゃに錯乱させる効果があります。ボロディンがそうだったように、当時、転調には異様に反応してしまう子供だったです。

だんだんほんのりと思い出しつつあって、カルメン鑑賞は何回かの授業に分けていて、森谷先生の「今日は第2幕です、ここでホセがこうして」みたいな解説があったような。あれ中3の受験前じゃなかったのかなあ、なんとなくですが、勉強で疲れてて、とにかくぼーっとオペラ聞くだけって授業が続いて楽ちんで、先生親心だなあなんて勝手に思った気がするんです。

昨日は始まる前に娘にすじを教えて、これはリアリズムのはしりのオペラなんだ、おとぎ話じゃないからね、カルメンはひねたアバズレ感がないとね、エスカミーリォはホセを出しぬくイケメンじゃなきゃ変だろ、顔じゃないよ声だよ。それを通らない低いバスでやるの、なかなかいいのいないんだ。ミカエラはビゼーが中和剤で入れた役だ、何で入れたかわかるか?アバズレが主役なんてダメなの、当時のパリじゃあ。ソプラノふつう主役でしょ?カルメンはメッツォなの。ハバネラはね、初演の女が練習でごねたの、もっといいの書いてよって、それで他人のメロディーをパクったんだ、でも歌手のゴネ得はねモーツァルトでもしょっちゅうあったよなんてことを教えます。

そしていよいよ前奏曲の前に、「カルメンができたのは鹿鳴館より前のころだよ、そこから150年近くもどうして世界で大ヒットしたのか理由を考えながら聴きなさい」と伝えました。次女は外資系のマーケティング部門にいるのですが、何でも考えさせる題材にはなるのです。

帰りにショーペンハウエルの「馬鹿になるから本を読むな」も教えました。本は読んでいるようで結構だが、それは他人の頭で考えてもらっていることでもあるのだ。その結末だけ何万覚えても実社会では何の役にもたたんよ、数学の公式だけいくら丸暗記しても難しい問題は歯が立たなかっただろ?あれがどうやったら攻略できるかって、攻略本じゃなくね、自分の頭で考えるんだよ。しかも実社会の問題は正解がないんだよ、条件もその場その場で千差万別だ。自分の頭で考える訓練をしていないと解を導くなんざ到底無理だ。でもみんな解いた気になってんだ。そうやって人生ができていくの。いい方にも悪い方にも。

その解こそインテリジェンスなんだよ。それを導く能力があれば何しても食っていけるし勝ち抜けるよ、保証してやるさ。みんな口で言いたくないけどな、資本主義は食えた奴が勝ちなんさ。武士は食わねどの人はそれでいいけどな、口は左翼、財布は右翼ってのがいっぱいいるんだ。たいして食えてもいない奴の本なんか読んでどうすんの?捨てなさいそんなの。インフォメーションはど~でもいいの、ググればその場で出てくるでしょ、物知り博士なんか食えないんだよ、それこそ人工知能に一番早く食われるさ。学歴や職歴で食えると思ってる奴は考えなくなるからね、東大出てたってね、これから最もダメなタイプだ。

なんてことを言うわけです。過激すぎてブログに書けないことも多いので、でもそれが世の中のまぎれもない真実でもあるんで、まあボケる前になるべく教えとこうということです。カネを残すより知恵を残してやった方がいいですね、遺産は食いつぶしたら終わりだがそこからは自分で食えないと寂しい人生ですからね。

はい、カルメンが何で150年生き残ったかは解釈がいくつかあるよね。世界のどんな田舎へ行ってもオペラといえばカルメンぐらいは返ってくるね、凄いことだよね、じゃあどうして?

 

 
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クラシック徒然草《ニコライエワの平均律クラヴィーア曲集 第2巻》

2017 JAN 25 1:01:06 am by 東 賢太郎

ギターでは出せない和音があると知ったのは高1の時でした。それはストラヴィンスキーの火の鳥の終曲です。どうしても自分の手で鳴らしてみたかったのです。仕方なく小遣いを貯めて1万円以上する指揮者サイズの原典版オーケストラスコアを神保町の洋書店で買って、その部分の音符をピアノで弾いてみてわかったのです。

そこからしばらく見よう見まねで練習し、弾けたのはバッハのインヴェンション1番と火の鳥終曲だけでした。それがきっかけでピアノはすごいということに目覚め、自分でハノンをやっていい加減な指使いでモーツァルトやベートーベンも適当にさらったりしました。

結局、習ってないわけですからそれ以上は上達せずです。ただ、だんだんそうするうちに自分は弾くことより音楽の構造分析の方に興味があるということがわかってきました。長調が明るい、短調が暗いと感じるのはなぜか?そんなことが解明できないのだから第九を聴いてどうして人が感動するのかなど遠い道のりです。それを解明したいと思ったのが音楽にのめり込むきっかけでした。

オーケストラスコアをピアノ譜にリダクションしたり、ピアノ的な眼で見るというのが面白くて熱中し、シンセでオーケストラを演奏するようになりました。ダフニスとクロエの夜明けが相当音を落としてもそれらしくピアノで弾けることに感動したし、そういうことを通して楽曲のストラクチャーや和声構造がわかるようになって音楽がちょっと違う次元で聞こえるようになったかもしれません。

ピアニストにはハマりました。彼らは演奏家であると同時に指揮者でもあります。つまり自己完結した完璧な音楽家です。指揮者がどう音楽を作りたいかはオーケストラという他人の手を借りてしか音にできませんが、ピアニストはどんな複雑な曲でも自分だけの手で思うままに表現できます。その人のソウル(魂)にふれるという意味で、大変完成度の高い表現形態であることに惹かれました。

畏敬するピアニストは何人かいますが、ピアノ演奏の深遠さを学んだのはタチアナ・ニコライエワのバッハ平均律クラヴィーア曲集 第2巻です。

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これはなにか犯し難い人間の尊厳を漂わせ、ひたすら高貴な音で訥々と綴られた一編のドラマなのです。バッハがどうしてこんなに生き生きと歌えるのか、レガートで弾けるのか、オーケストラのようなソノリティが出るのか、現代のコンサートグランドのバッハでどうしてこんなに深みのある低音が響くのか?高度な技巧なのにまったくそれを感じさせない。聴くたびに何かいただいて、少しだけバッハの精神に近づけるような気がする僕には特別の存在です。

51s-QrQq3EL._SX347_BO1,204,203,200_若いころショーペンハウエルの幸福論をむさぼり読んで人生が少しだけ分かった気になった。いまや恥ずかしいばかりの甘酸っぱい思い出なのですが、それでも「本はばかになるから読むな」、「孤独こそ人生の理想の姿」など僕の精神にストレートに入って深く影響する言葉が残っているのは驚くばかりです。ワーグナー、ニーチェ、R・シュトラウスが傾倒した哲学はとくに難解ではなく、「腑に落ちる」から残ったのだと思います。ニコライエワの平均律はどこかそれに似て、お腹にずしっと響いた感じでしょうか。

 

なぜ第2巻かといって意味はなくたまたま聴いていただけで、第1巻も同等に素晴らしい演奏です。音楽に人生を求める必要はありませんが、ピアノ音楽の深みを知る意味ではこれはショーペンハウエルの滋味に似たものがあります。

 

 

J.S.バッハ 「ゴールドベルク変奏曲」

 

 

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シューマン交響曲第3番の聴き比べ(4)

2017 JAN 24 1:01:41 am by 東 賢太郎

フルトヴェングラーのブラームスに話が飛んでしまったのは、ラインを聞き進むとほとんどの演奏がテンポの問題で暗礁に乗り上げてしまうからです。テンポを論じるとどうしてもフルトヴェングラーを引き合いに出さざるを得ません。

スコアをシンセで演奏してみて、テンポ設定とフレージング、アーティキュレーションの難しさを体験しました。管弦楽といえども演奏するものは「歌」です。歌というのは音楽の醸し出す意味や感情にそった呼吸の脈動であり、音の漸増・漸減があり緩急があって言葉の発音がある。テンポはそれらを 統合した結果、最も自然なところに落ち着くべきものと感じました。テンポが先にあって、それに他のものを合わせるというものではないということをです。

例えばallegro  moltoと指定があるがそのテンポで演奏したその音楽に共感が持てない場合は歌として呼吸が合いません。自分の持つパルスと音楽のパルスが共振しません。するとそのしわ寄せが上記のパーツのどこかに物理的に出て、説得力のないオーラの薄い演奏になってしまいます。

ベートーベンのメトロノーム問題が好例です。ベーレンライター版ですごく速いテンポになって、「共感はしないがオリジナルです」という主張の指揮者による演奏は、博物館の資料としては、あるいは好事家のコレクションとしては価値があるでしょうが、奇天烈な速度のコーダで終わる第九のようなものを僕はあんまり歓迎はしません。

これはあくまで主観ですが、フルトヴェングラーのブラームス交響曲は1番と4番なのです。そしてそれはテンポに深く関わっておりましたことは前2回の稿で書かせていただきました。それを導き出した彼のテンペラメントが1,4番に合っていたということと思われます。特に1番の52年盤については既述の通りですが、しかし、2番となると一転してこう感じました。

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(1)

僕は別にフルトヴェングラーのファンではなく、ブラームスのファンです。彼の書いた音楽の崇拝者であって、ファンとして「こう演奏すべし」があって、それに近ければ是、遠ければ非というだけです。彼は2番にはうまく共振できていないという結論になりました。

一方、シューマンについてはテンペラメントの合う1番、4番しか残しませんでしたが賢明な判断でした。2番の歪んだ狂気の軋みは彼に似合わないし、3番に至っては彼の秘術、至芸の通じる部分はどこにもないでしょう。

 

以下、すべてyoutubeで音を聴けます。

ルネ・レイボヴィッツ / インターナショナル交響楽団

51Y9BqcRMiLスコアにマーラー以上の改竄があり、第1楽章のせっかくの良いテンポがコーダで瞬時に崩壊するのはがっかりです。再三の指摘ですが両端楽章のコーダに欲求不満を覚えてか加速する指揮者が多くいます。マーラーを始祖とし、肥大化した後期ロマン派のオケ目線から「シューマンの管弦楽法は下手くそ」とする人たちと源流を一にします。レイボヴィッツのベートーベンの読みが同じアプローチで一貫しているのは評価するのですが、時代がシューマンまで下るとワーグナーに発したブルックナー、マーラー路線とクララ、ブラームス路線の分岐の起点がやってくるのであって古典派のようにはいきません。

 

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

4148MOPwOML僕にはテンポが遅いのですが、盤石でゆるぎないラインの流れです。深々したオケの響きがなにかを語りかけ、意味深く神判のように鳴るティンパニに宗教的なものさえを感じる不思議な第1楽章。細部まで一点もゆるがせぬ神経で支配する彼の世界です。実に濃い。コーダの雄大なこと!テンポの不満を言うこちらが稚拙に感じてしまう。第2楽章も遅く、スケルツォでも舞踊でもないレガートの美しい絶対音楽。第3楽章はさらに遅い、春の森の陽だまりの夢想。第4楽章はテヌートのかかった各声部のまとわりが教会にこだまする交唱。こういう音の作り方、只者でないです。終楽章、やや遅めですが第1楽章と同様にこの速度でないと見えない音楽あり。コーダに向けて熱と密度が上がりますがテンポはそのまま。感服。こういう器量がない指揮者が曲の終結感に自信が持てず、アッチェレランドをかけるのです。マーラー版ではないが彼なりの変更があります。

 

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー / エストニア国立交響楽団

789オケの音がシューマン的ではないが理想的なテンポで開始し、インテンポのまま第2主題に至っても揺らぐことなしです。エネルギーもテンションも見事であり、非常に満足感あるコーダで締めくくります。但しスコアはかなり改変あり。踊れる第2楽章を経て深みある第3楽章へ。ここは録音が貧しくて惜しい。第4楽章は金管の音がやや異質ですが重たい時が流れています。一転、明るい終楽章はやや弦が荒い。速すぎず良いが、このテンポだと第2主題でやや緊張を欠くようです。コーダもほぼインテンポで僕は満足。おそらくこれは多くの人を満足させないでしょうがこの指揮者のスコアの読みの深さは何を聴いても敬意を覚える水準にあります。

 

トマール・マーガ / ボーフム交響楽団

チェコ出身のドイツ人マーガの名前は懐かしい。オケが二流ではあるがティンパニをアクセントに気骨あるインテンポで通した立派な第1楽章です。スコアはオリジナルのようで中間楽章もロマンに背を向け淡々と進みます。終楽章もなんの細工もないが、管が厚みを欠く分ティンパニがモノを言い、充実のコーダに至って何の不足もない満足感を与えます。こう書けているスコアを二流の感性とテクニックで味付けして出す。素材の味がわからぬ二流の料理人だが、そもそもそういう人がどうして料理人をしているのかが僕にはよくわかりません。

 

ひとつ面白いものを。第4楽章をオルガン編曲した人がおられます。

この楽章を宗教的と書く意味を感じていただけると思います。J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻第24番ロ短調の前奏曲、聞こえてきませんか?

(ご参考)

シューマン交響曲第3番変ホ長調作品97「ライン」(第4楽章)

 

(こちらへどうぞ)

シューマン交響曲第3番の聴き比べ(5)

 

 

 

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フルトヴェングラーの至芸の解明(その2)

2017 JAN 23 13:13:51 pm by 東 賢太郎

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フルトヴェングラーの指揮は「即興重視で厳格な練習はせず棒も不明瞭」というイメージが固定化しているように思われます。毎回ノリが違っていて、いざやるまでわからないぞ、でも燃えた時は凄いぞというニュアンスですね。理知的な人間を嫌う日本では彼のスタイルはトスカニーニの機械的に対し人間的とされ、人間味=義理・人情という思考回路で浪花節的な人気さえ得ている印象がありました。ドイツ人は日本人に似ている、一緒に戦った同胞と思ってくれているという、事実とかけ離れた片想いにどこか通じたものを感じます。

前回書いた箇所のテンポや音量の一糸乱れぬ劇的変化がその場の「人間的な」思い付きや即興でできるはずはないのであって、彼は周到な計画と練習であれをやっています。もしそこに即興的な要素があったとすると、それは弾いている楽員やひょっとして彼自身もがそれを即興と感じながら演奏しているというパラドキシカルな現象が起きていたかもしれないということにすぎません。

彼はわざと棒を不明瞭に振ってアインザッツがきれいに揃わないようにしたそうです。おそらく奏者も聴衆も「即興を聴いている」と思いこませるためです。彼が日本人の大好きな「理知的でないおおらかな人」だからそうしたのではなく、非常に理知的な人であってベルリン・フィルという一流オケはそう振らないと縦線が揃ってしまい即興風にならないという計算からです。

そうやって今日は練習にはなかった「何か凄いこと」が起きているという緊張感がオーケストラに走ります。それが聴衆に音だけでないオーラとなって伝わります。客席にいた多くの音楽家、カラス、アシュケナージ、カラヤン、バレンボイムらが称賛したように、今度はそれを受け取った聴衆の期待がオーラとなって舞台にフィードバックされる。それが混然とあいなってあの尋常でない興奮を生んだのではないでしょうか。

目の前で創造行為が行われている「一期一会」に人が酔い、会場に満ちた空気は色が変わる。チェリビダッケが自身の演奏の録音を拒んだのは会場にいないとシェアできない空気の存在が音楽の音楽たる必須の要素と考えたからですが、それは彼の弁によれば崇拝したフルトヴェングラーの演奏会にそれを感じ取っていたからです。つまりそこにはそれが「在った」のでしょう。

ストラヴィンスキーとフルトヴェングラー

ストラヴィンスキーとフルトヴェングラー

 

フルトヴェングラーは作曲家であるため「音楽」を記号に封じ込めきれないことを悟っており、スコアという記号から作曲家の「スピリット」を読み取る姿勢が徹底していました。それは厳格な練習によるメカニックなアンサンブルで得られるものではなく、創造行為への参加によって現れる「演奏家と聴衆の醸し出すオーラ」が生むもの、チェリビダッケ曰く「超越的でメタフィジック(形而上的)なもの」という哲学であって、彼はそれを醸し出す類いまれな精神と技術を持った職人であったというのが僕のイメージです。

 

フルトヴェングラーのブラームス交響曲第1番の「痺れる箇所」の2つ目ですが、第4楽章の比較的後ろの方、第2主題が再現する直前の部分にございます。

その個所にいたる数小節(273小節から)を、よく聞こえる第1ヴァイオリンの譜面で示します。e-d#-e はこの楽章冒頭に提示した音型で ♪♪♪♩ の運命動機とリズム細胞を共有しており、この部分で暗示的に執拗に繰り返して興奮を高め、第2交響曲の冒頭主題にもなっていくのです。運命だよという暗示をこめながら。下のビデオの42分10秒からです。

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音楽は苦しみの色を見せながらもぐんぐん興奮の度合いを高め、ff(marcato、音をはっきり弾け)に至ってついにアルペンホルン主題が顔を出し、「頭欠けリズム(8分休符で強拍をずらす)」で息も絶え絶えの様相になる。そしてとうとう N の ff で音楽は減七和音の苦味ある絶頂に至り、アルペンホルン主題を絶叫するのです。この楽章の、いや全交響曲の感情のピークはここにあると言って過言でないでしょう。

アルペンホルン主題はクララの誕生日祝いに書いた旋律である、千回もキスを送りますと書き添えて。なんと意味深長なのだろう。僕はこのヴァイオリンの譜面を眺めているだけでブラームスの気持が何となく心に浮かんでしまう、彼はクララと叫んでいるのです。

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ff で叫んだわずか2小節後に p にまで一気に音量が落とされる。これも異様である。ああ、ここはブラームスのトリスタン前奏曲なんだな、ここに至るまでの興奮の道のりはそういうことだったんだなと大人の理解をしてます。もちろん真偽はわからないし、ブラームスという用意周到な人がそんな風に見透かされるへまを犯すとも思えない。しかしフルトヴェングラーの演奏はそういう風に聞こえてしまうのです。

上掲スコアがヴァイオリン譜に続きます。

ここでどの指揮者もテンポも落とします。しかしフルトヴェングラーの落とし方は尋常でなく、アルペンホルン主題(クララ主題)をやさしい憧憬をこめて慈しむように歌いながら、もういちど mf を経て f に感情が高まります。心臓の高鳴りのようなティンパニの律動を伴いながら・・・。

そのドミナント(g)を p でたたいていたティンパニがトニック(c)を f でたたく印象的な瞬間は、シューマンの3番の第1楽章展開部でやはりティンパニが p のドミナント(b♭)からトニック(e♭)を f で打つ、まさに天才の筆による陶酔的な場面(271小節、第1主題がロ長調で回帰する前)とそっくりです。ここに夫のシューマンが顔を出している。しかし音楽はまた静まっていき301小節の第2主題の直前で完全に停止してしまう。

フルトヴェングラーの至芸はこの部分なのです。

シューマンであるティンパニをくっきり大きめに叩き、それが弱まると音楽は後期ロマン派の森の中をどんどん遅く、小さくなって、愛への希求を訴えつつ身も溶けるような深淵に到達します。やさしく愛を語りながら体は弛緩して完全停止してしまう。もうエロティックとしか表現できません。フルトヴェングラーはそう解釈したわけです。何度聴いても僕はここでノックアウトを食らいます。

このアルペンホルン主題は楽章の構造からすれば序奏に現れただけの、正規の家族である第1、第2主題からすれば「他人様」の存在なのです。他人である人妻への誕生日祝いに書いた旋律である。それが再現部になって第1、第2主題の間に衝撃的な登場をし、有無を言わさぬ存在を示して全曲のピークを形成する。

変でしょう?

僕のように理屈好きの人間に、死んだ後にでも気づいてもらいたかったのだろうか、やはり理屈っぽかったブラームスはそう語りかけている気がします。いやいや、でもソナタじゃないんだよ、キミ、それは考えすぎだよという迷彩もほどこしながら。

第4楽章になぜ展開部がないのか僕は長年わからなかったのですが、ははあ、そういうことですかね、ドクトル・ブラームス、さすがですねなんて思ってもいるのです。21年かけて書いた初の交響曲。緻密に構想して43才にしてとうとう発表したブラームスですが、彼の伝記からもそんな隠喩が秘められていて不思議ではないと考えています。

このアルペンホルン主題による痺れるドラマ、いかがですか?フルトヴェングラーの解釈がそうだったかどうかは知りませんが、他の誰の演奏もこうは聞こえず彼のだけが僕を打ちのめす音楽となっているのは、ブラームスの意図を、真相を、ぐさりと突いて共鳴しているからではないかと感じるのです。

62243上掲のビデオは前回と同じく僕が最も評価するBPOとの52年盤(右)ですが、ほかのオーケストラ(VPO、NDRSO)との録音もコンセプトはまったく同じです。フルトヴェングラーの至芸は即興の結果ではないのです。ただNDRSO盤は「愛の完全停止」がほんの少し短いなど他流試合だからかどこか煮え切らない観があります。こういうことは即興というよりライブの面白さでしょう。

 

クラシック徒然草―フルトヴェングラーのブラームス4番―

シューベルト交響曲第8番ロ短調D.759「未完成」

 

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