Sonar Members Club No.1

月別: 2017年4月

アドレスを変更いたします

2017 APR 30 14:14:39 pm by 東 賢太郎

4月2日に投稿いたしました「5月7日のコンサートのお知らせ」のブログにて、お申し込み用としてお知らせしました

azuken3024@tulip.ocn.ne.jp

のアドレスに手違いが生じており、せっかく頂戴したメールを拝見できておりませんでした。それが発覚したのが昨日ということで大変な失礼をしてしまい、ここにお詫びを申し上げます。上記アドレスは閉鎖して今後は使用いたしません。

把握できた方には昨日にメールを送らせていただきましたが、万一それがなかった場合は、下記のアドレスへ一報ください。至急手配をさせていただきます。

azuma.smc@gmail.com

本アドレスはSMC読者様用として新たに設けました。今回のチケットの件だけでなく、ブログに対するご意見などなんでもお寄せいただければ幸いです。

 

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世界のうまいもの(その10)-兄夫食堂のソルロンタン-

2017 APR 29 13:13:47 pm by 東 賢太郎

昨日たまたま昼前に赤坂でひとりになって、普段は必要ないスーツを2日も着ることになって肩がこってしまった。僕の業界はカジュアルなんでネクタイなんか年に何回かなというほどです。サカスの近くに兄夫食堂という知る人ぞ知るコリアンのB級名店があるんですが、これしかないなということでふらっと足が向きます。疲れをとるには最高なんです。

ここ、ランチは安くて7~800円でいけますが食べたことないのでお味は知りません。何度も行ってるのにどうしてってことですが、ソルロンタンしか頼んだことないのです。昼でも1650円だから店員さんが申しわけなさそうにしますが、いいから作って、それと生ビールねってことになるんです毎度毎度。

香港時代に全アジア担当だったので証券市場のあった国はくまなく行きました。食事もそれなりのをいただいたわけですが、広東、上海、コリアンが結論として僕のランキングで3大美食でありました。これは日本だと「中華」「焼肉」ってウルトラ・アバウトなことになってしまうのですが、それってフレンチもイタリアンもハンバーガーも「洋食」ってのといっしょです。

中華は中国がそうくくるんで料理だってそう思い込んでしまいがちですが、明らかな多民族国家ですからその数だけ味覚があります。上海育ちの神山先生が貴州料理は初めてだったなんて具合で、そんなのは驚かないわけで、では上海料理って何ですかというと、僕は会社特権で香港の江蘇省・浙江省同郷會に特別入れてもらってそこで覚えた味こそがそれとしか書けないのであって、しかもその両者も互いに微妙に違うのです。

そういうものを舌の奥底で実感してしまうと、モンゴル人や女真族がやった時代も中国なんだから台湾はもちろん琉球も朝鮮半島も日本列島も中国でしょというノリの源泉はわかってくるんで恐ろしい。『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』 (ケント・ギルバート著)は面白い本でそれを儒教の悪しき側面と明快に書いていてなるほどと思わせますが、宗教だ教育だ以前に食という本能に根差した部分にすでにそれは歴然とあります。

焼肉がコリアンフードというのも決して間違いではないが、ひと昔まえの田舎のアメリカ人が、日本人は家で毎日鉄板焼きやって奥さんはエビのしっぽ飛ばしがうまいと思ってた、ロッキー青木は日本人だよねといわれて違うともいえないんでうなづく程度のもんです。ソウルで饗応されると焼肉は出てこないし我々がバーベキューと呼んでるものの感じにむしろ近い。食べたいと言わないと食べられないし、日本式をイメージすると違う。僕の分類基準だともう別の食膳です。

兄夫食堂のソルロンタン

雪濃湯(ソルロンタン)は辛くない乳白色の牛骨スープで骨や各部位の肉、舌、内臓を大きな鍋に入れて水で10時間以上煮立てるので家庭では調理が難しいようです。日本人の感覚だとそういうものは値が高いのですがまったくの大衆食であり、香港の食文化を観察して思ったのと同じことですが韓国も外食の方が安くて早くてうまいということがある。日本でのマックやファミレスという固有の市場は日本にはなかった隙間にできたことがよくわかります。

ソウルは何十回出張したか見当もつかないですが、ソルロンタンに関する限り兄夫食堂は僕が経験した限りソウルのどこよりうまいというのは、そこまでご説明すれば実は大変なことだというのがご理解いただけるでしょうか。

赤坂っていうとコリアタウンのイメージになって久しいですが、クオリティにおいて横浜の中華街といい勝負でしょう。寂しいなんて人もいるが僕は利便性を評価しますね、住むわけもでないし、まずい日本飯屋ばっかり並ぶよりずっと有難いでしょう。モンゴルだらけの大相撲もそうですが競争こそ成功の母ですね。並みいる競合店をさしおいて評判をとってる店のレベルは非常に高いのです。

かたや和食ですが、バブル時代の証券会社の使いっぷりは半端じゃなくて赤坂、紀尾井町界隈の高級料亭は接待の名所でした。競争なし。おばあちゃんの芸者が出てきて料理もたいしたことなくて、そんなので百万も取るんだから世も末だと思ってたら軒並みつぶれちゃった。皇居の地価がカリフォルニア州より高いなんていってた時代です。そういう勘違いの値段をバブルというのですね。

兄夫食堂は儲かってるんだろうけど値上げはなく、店もお世辞にもきれいじゃなくてB、C級のまま。地に足がついてますね、それで競争に勝てるっていう自信といい意味でのこだわりを感じる。商売はそれが王道と思います。投資をするんであればこういう会社を選ぶことです。殿様の見栄みたいな米国進出でアメリカ人に騙されてボロ会社を高値掴みするのとは対極的、プロの経営です。

 

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モーツァルトはポール・マッカートニーである

2017 APR 26 1:01:14 am by 東 賢太郎

某人気企業に内定したという人と話してたら、「モーツァルトはきいてみたいけどクラシックコンサートはちょっと・・・」といいます。「そんなこと言わないで、5月7日に豊洲でジュピターやるからどう?」とおさそいすると、「ジュピターなら知ってます」だ。「それならあなた、ちょっと努力すればザルツブルグ音楽祭で堂々とお姫様できるよ」と申し上げるとホントですかと目が輝く。

「ホントだよ。そういうのはね、やったもん勝ちなの、どうしてワタシが ? なんて言ってると一生そういうワタシで終わります。敷居が高いなんて思ったら損。だってモーツァルトは当時の売れっ子シンガーソングライターで、言ってみればポール・マッカートニーなんだ。ポップスに敷居ないでしょ」。

かように「クラシック=お堅い、音学、音が苦」のイメージは日本人の間に根強いのです。僕自身、音楽の教科書で面白いと思った曲は一つもなく、そんなのをさも「美しげ」に全員で歌わなくてはいけないあれはファシズムでした。「美しい」ってのは個人的な繊細な感情であって、ぜんぜんそう思わないものを賛美されてもカルト教団にしか見えなかったのです。

いっぽうで音大生の子と話すともう見事に自分の楽器のことしか知らない。政治経済など世事に関わる知識の欠如は百歩譲るとして、他の楽器のコンチェルトや交響曲もほとんど興味ない。パソコン教室の生徒とはいわないがそっちもカルト教団化してますね。カルト同志でやってればクラシック人口なんて増えるはずもないのです。

「モーツァルトを聞くとIQが高くなる」「牛の乳が出たり植物が育ったりもする」なんて真面目に信じられるのはカルトの秘儀で誰もわかってないからこそ。そういえば小学校のころビートルズは「不良の曲で聞くと頭が悪くなる」なんて声があったしどっちもどっちだ。僕には「朝だ元気で」より「Good Morning,Good Morning」のほうがいい曲でしたが。

「父はビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を毎晩聴き、ポール・マッカートニーさんにファンレターを書いていました」と語ったのはお堅いクラシックで我が国を代表する作曲家であられる武満徹の娘、真樹さんです。

すごいことですね、僕もポールの大ファンですがさすがにファンレターは負けます。その代りジュピターの第2楽章をピアノで弾いて、ここのところですね、

(譜例1)

A7、D7、G7、C7、F なんてコード進行、セブンスが4つも続いちゃってすごい! ぶっ飛んでる。それも A から F なんてサージェント・ペパーズとかルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンドじゃないかなんてひとり悦にいってます。

この直前の和音は C ですから、のちにベートーベンのトレードマークとされる3度の転調が直感であっけなく書かれてるし3拍子を3+3でなく2+2+2のへミオラにしてる。だからお堅いクラシック正統派路線でも「和声とリズムの迷宮に誘い込む」なんて真面目な人が書いててもよさそうなんですが、こういうことでモーツァルトが天才だという論評は見たことがありません。

我々はいろんな音楽を(それこそビートルズを)聞いてるのでそのプログレッションに不感症になってますが、当時は聞きなれなかったでしょう。だからこそハイドンは交響曲第98番で追悼としてここの目立つコード進行をコピーしたのだと思います。

しかし、それに続くここですね、2小節目までフルートも忠実にコピーしてますが3小節目(f のところ)になるともう絶句ものだったのか、してません。

(譜例2)

ハイドンの辞書にこういう音はのってないのであって、彼はぎょっとしたと思います。それもそこでクレッシェンドして聞かせどころにしちゃってるぞ、物凄いやつが出てきちまったなと。嫉妬したのは彼であってサリエリではなかったかもしれません。

楽譜の部分をぜひ聴いてみてください。上のほうが2分24秒から、下が2分37秒からです。

えっ、なんでもない、普通に聞こえる?

そうなんです。その通りなんです。だからビートルズとおんなじなんです。

 

 

(ご参考)

譜例2のクレッシェンドの部分のオーケストラスコアです。最初の8分音符、フルートの入る f の8分音符の2か所で第1オーボエと第1ヴァイオリンが短2度でぶつかっており、後者ではさらに第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリン、および、バスとヴィオラ・第2オーボエが(別々の)長7度でぶつかっています。

後者が昔から変な音に聞こえていて、ひょっとして間違いじゃないかと気になってモーツァルトの自筆譜ファクシミリを見たのです。

間違いなわけはなかったですね。ごらんの通りで、crescendo を思いっきり書いてるわけだし。フルートだけが先に f で入ってメロディーっぽく聞かせ、裏の不協和を巧みに「隠し味」にしてるわけで、しかしながらその割にヴィオラの縦線がバスとそろってなくて、彼の音の思考回路はまことに不可思議であります。

 

(補遺、22 june17)

ライヴ・イマジン演奏会(5月8日)のレクチャーで僕がファツィオリで弾いたのが、ジュピター第2楽章の楽節(上掲、「譜例1」の前後)とハイドンによる98番第2楽章の引用部分でした。そこの和声進行と同じのがルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイヤモンドにあるんです。そっちも弾いて話はビートルズに飛ぶ予定だったのですが、舞台の袖からマネージャーさんの「お時間です」のサインが出て断念。モーツァルトとビートルズは魅力あるテーマと思います。

 

(こちらへどうぞ)

Abbey Road (アビイ・ロードB面の解題)

 

 

 

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モーツァルト「ジュピター第1楽章」の解題

2017 APR 24 1:01:23 am by 東 賢太郎

5月7日のプログラム・ノート(ライヴ・イマジン祝祭管弦楽団演奏会)ですが、ジュピターのことを書くスペースがなくなりましたので私見をこちらに書いておきます。

モーツァルトの交響曲第41番ハ長調をジュピターと呼んだのはザロモンといわれます。太陽系で一番大きい惑星で、夜空で一番明るく輝いて見えるのが木星(ジュピター)でありザロモンは交響曲の中でそう位置づけたわけです。

今になっても僕はこの曲をそう呼ぶことに違和感はありません。聴き終わるといつも、何か偉大なものに包みこまれた満ち足りた気分になっています。天体の運行の如く目には見えない力、宇宙の調和のようなものを感じるのです。

宇宙の調和にジュピターの名はなんともふさしいと思います。では、それが何によってもたらされるのか?もちろん楽譜に書いてあるわけですから調べてみればいい。本稿はジュピター第1楽章を俯瞰して皆さんとその秘密をご一緒に考えてみようというものです。

 

 

提示部

冒頭、いきなり提示される第1主題は強と弱のコントラストを持った2つの部分から成ります。フォルテ(以下 f )で「ド」が3回奏されます(1)。

一瞬の空白(休符)を置いて、アリアのような旋律がピアノ(以下 p)でつづきます(2)。

(1)はリズム要素、(2)は旋律要素として曲全体を形成します。(2)のすぐ後に続くこの楽節(第1ヴァイオリン)(1’)は、

(1)の長前打音(ここは3連符)を第2ヴァイオリン、ヴィオラが担当し、以後様々なパターンに分化はするものの、曲のリズムの骨格が(1)より派生していることを示します。この部分は管楽器によるリズム動機(3)、

によって和声付けがなされており、これはセレナータ・ノットゥルナ(K.239)、交響曲第36番「リンツ」に使用されたリズムです。

フェルマータでいったん停止すると(1)(2)が p で再現(確保)され、木管が別の動機を重ねます(4)。

これは交響曲第38番「プラハ」の第1楽章第1主題です。

そこにホルンがハ長調のトニックを重ねます(5)。

次に3回目の(1)が堂々とト長調の f で出て(4)(5)が華やかに伴奏します。(2)は10小節に拡張され、(3)を従え、チェロ、ファゴットの対旋律を得て旋律的展開をします(6)。オペラの重唱を想起させます。

次いで(1’)と(3)が締めくくった所で第1主題提示が終わります。

第2主題は第1,2ヴァイオリンの重奏で p で始まります(7)。この半音階移行による主題の前半は第3楽章に逆行形で使われます。後半は(3)のリズム動機の派生です。これも第1主題同様に2部仕立てになっていますが静、動と順番は逆です。

(6)の後半が展開してバスに(2)が現れると第1ヴァイオリンがこの動機を弾きます(8)。

これは第4楽章の冒頭で c-d-f-e のいわゆるジュピター主題が出た直後に、それを引き取る動機の素材として使われます。

終止して全休符をはさみ、嵐のようなハ短調のトゥッティが鳴り、ハ長調からト長調に転じて(6)を変形したさらに華麗な重唱に至ります(9)。これも第1主題の(2)から派生したものです。

音量は sf に至りヴァイオリンのシンコペーションと相まって提示部で最も興奮の高まる部分でしょう。

不思議なのは第2主題として現れた(7)がここでは全く使われないことです。むしろ下降音型に替えて同じト長調の第3楽章の冒頭に使われ、終楽章冒頭のジュピター動機の提示部分を暗示します。(8)と同じく、この第2主題部分は終楽章へのブリッジとなって全曲の統一感を形成する結果となっています。

(9)が p で静まるとチェロのアルペジオを伴奏にブッファ風の第3主題がト長調で出ます(10)。

この主題の後半に重要な動機が現れます(11)。これもまた(2)の派生動機です。

第3主題の展開はなく、これが G-Em-C-D# という魔笛に頻出する和声進行を伴って最後は堂々たるトニックとドミナント交代を3度繰り返して提示部が終わります。

(1)は交響曲第38番「プラハ」の第1楽章冒頭にも(音価は違うが)使われ、ユニゾンで開始というパリ聴衆の好みを斟酌した第31番の作法に倣います。38番も41番もウィーン以外での披露を念頭に置いたのかもしれません。
(1)という旋律的要素がない主題を交響曲の冒頭に置く手法をベートーベンはエロイカと運命で使いました。前者はジュピターと同じく楔を打ちこむ如きリズムの骨格要素として、後者は一歩進めて全曲構築のピース(基礎素材)として。

 

展開部

木管のユニゾンによる g – f – b♭- e♭のブリッジで平行移動して変ホ長調になった第3主題(10)で開始します。

変奏は(11)によって始まり(3)が伴奏します。ここからト短調、ヘ短調、ハ短調を経てイ短調と転調を繰り返し、ヘ長調で(1)が(4)の「プラハ主題」を伴って登場します。これはハイドン流の「偽の再現部」でニ長調、ホ長調を通って ff で(1)がヴァイオリンで10小節にわたり変奏されます。

この間、バスは a から半音ずつ下がって e に至り、ナポリ6度を経てト長調に落ち着きます。そして(11)の後半の音形によるオーボエとファゴットの二重奏から(4)の下降音型の導きでハ長調の再現部になります。

ジュピターの約1か月まえに完成した「初心者のための小さなソナタ」(ピアノソナタ第16番ハ長調 K.545 )の第1楽章は展開部の入りが第1,2主題の結尾部動機の繰り返しであり、やがて現れる再現部はサブドミナントのヘ長調であり、ジュピター第1楽章はそれを入れ子構造としています。

再現部

フェルマータまでは完全な提示部の再現です。2度目の確保で(5)がハ短調となってからは調性が変わり、3度目の確保はやはりト長調ですが、第2主題(7)はここではハ長調で現れます。そして嵐のトゥッティはここではサブドミナントの同名調であるヘ短調となりD♭、D♭m、E♭7、Gsus7、G7と転調をしてハ長調に回帰、(9)の重唱となります。第3主題(10)はハ長調で、提示部とは旋律の一部をより華やかに変えながらコーダになだれ込み、ホルン、トランペットの(5)が鳴り響いてトニックとドミナントの連呼による盤石の終結感をもって楽章を閉じます。

 

総括

以上のように、第1楽章は主題が3つ現れ、それらが出るたびに展開されます。第1主題は f 部分(1)と p 部分(2)から成り、従来は第1,2主題の性格対比(男性的、女性的と比喩される)を第1主題の中で行ってしまっていることで両素材を用いた展開が可能となり、主題ごとの「疑似展開部」がすぐ続くという構造となっています。そして各展開が終止すると休符を置いて次の主題提示まで間が空くため聴衆は提示ー展開、休符、提示ー展開という構造を無意識に認識するのです。

つまり、第1、第2主題はすでに直後に展開されているため、本来の展開部は必然的に第3主題の素材を主体に展開することとなり(あるいは第3疑似展開部の拡張が本来の展開部として機能しているとも考えられ)、疑似再現部としてヘ長調で久しぶりに現れた第1主題はその「再現感」が増してトリック効果を増幅するという凝った作りになっています。

上記のようにこの楽章には計11個の動機素材が用いられており、第31番(パリ交響曲)の第1楽章に匹敵する「饒舌」さであります。しかし31番では動機が平面的に羅列されているだけなのに対し、ここでは3つの主題ごとにパウゼで括られた提示部と展開部という有機的なミクロ構造があり、(6)(9)(11)が(2)から派生した近親性の横糸で結ばれているため(それはマクロ的に俯瞰しても気づきませんが)饒舌感は払しょくされて無意識のうちに「密度の濃い統一感」「凝集性」を感知させるという効果が上がっているものと思われます。

さて、第1楽章を分解はしてみたものの、しかしそれだけで冒頭に書いた秘密が解けるわけではありません。ブーレーズが自作に埋め込んで明かさなかった数理的な秩序の如く、聴く者に不可知ながら音楽として神の均衡を感知させるようなものがジュピターのスコアに隠れているのかもしれません。モーツァルトの意識にそれがあったのでなければ、天から降ってきた音を書いたということになるのですが。

武満徹は「作曲は人間と音との共同作業」と著作に書いています。自然界の中に身を置いてじっと耳を傾け、自然の存在である音と自分とが共振して初めて音楽が書けるという趣旨のようです。モーツァルトの耳には常に音が降り注いでいて、それを書きとったものに「宇宙の調和」が包含されており、それが聞き手に伝わって天と共振する。そんなものかもしれません。美というものが原子論で解明はできないように、モーツァルトの美の法則は我々には永遠にわからないものなのでしょうか。

モーツァルト「パリ交響曲」の問題個所

モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551

モーツァルト 交響曲第38番ニ長調 「プラハ」K.504

 

 

 

 

 

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モーツァルト、俳優座、忠臣蔵の芳醇な一日

2017 APR 23 3:03:21 am by 東 賢太郎

きのうは午前9時からライヴ・イマジン祝祭管弦楽団の本番会場での練習(豊洲シビックセンターホール)、皆さまと昼食、そして2時から劇団俳優座の観劇(両国、シアターX)でした。オケは息子、劇は長女を連れて行きましたが楽しんだようです。

ライヴ・イマジンは5月7日のここでのコンサートに向けて練習は順調とお見受けしました。とても楽しみです。このホールは音が良く、300ある座席の最後部まで確かめましたが良好でムラがありません。奏者の皆さんから「届いてないのでは」という声がありましたが、充分届いてます。

このピアノ(ファツィオーリ)は日本に数台しかなく、僕もチッコリーニのリサイタル以来実音を聴くのは2度目ですが素晴らしいものでした。吉田さんのピアノ協奏曲第25番(K.503)はオケにブレンドしてまろやかなホールトーンに包まれ、誠にモーツァルトにふさわしい。ご自作のカデンツァも趣味が良く聞きものです。ジュピターとハイドン98番も指揮の田崎先生のボウイングが徹底し整ってきました。本番当日は開演前に僕が15分ほどお話をさせていただくことになっております。ハイドンがジュピターのどこをどう引用したかファツィオーリをお借りしてお耳に入れようと思います。5月7日は多くの皆さまとお会いできれば幸いです。


午後は早野さんが出演する劇団俳優座公演を阿曾さんと娘で。3-11を題材とした重めで幻想的な話を楽しませていただきました。演劇は何もわかりませんが、人物がみな亡くなった人(おばけ?)でシックス・センスという映画を思い出しながら観てました。役者の技量が問われる設定ですが、さすが俳優座ですね。早野さんは軽めの浮気な女房というかつてない役どころでしたが大女優となると守備範囲広いですね。大変満足。千秋楽お疲れさまでした。

 


両国駅からの道すがらたまたま見つけて、これがここ(本所松坂町)にあったのかと立ち寄ったのが吉良上野介邸跡でした。元禄15年(1702年)「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士四十七士が討ち入りした現場で、この像のすぐ左に「御首級(みしるし)洗い井戸」があります。泉岳寺から戻った吉良の首はこの井戸で清められ、医師「栗崎道有」により胴と縫合、そのあと埋葬されたとのことです。享年62。同い年になってしまいましたね。八重桜が満開でした。合掌。

 


せっかくなので、昭和12年創業のちゃんこ鍋の老舗「川崎」へ。鶏ガラと醤油のシンプルな味はすばらしい。これまた飾らない味わいの樽酒とは相性抜群であり、江戸からの伝統料理はほんとうにうまい。東京の食の奥深さも捨てたもんじゃないと再確認しましたが、京の天皇、公家に対し江戸も将軍がおり世界最大にしてパリの倍の人口があった。100万都市の食文化が貧しいはずはないと思えば納得であります。

 

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高輪泉岳寺にて思う

ファツィオリ体験記

 

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努力は成功の母ではない

2017 APR 21 21:21:01 pm by 東 賢太郎

野球というのは持って生まれた資質がほとんどで、でっかい奴が勝ちというイメージでした。アメリカのスポーツだし、トランプ流の力の支配、俺様主義が似合う。高1のとき僕は身長170センチでしたが、夏の甲子園大会予選の開会式で神宮球場で整列したとき強豪校の奴らと並んでみてうわっでっかいなと思った。それしか覚えてないぐらいビビりました。

広島カープでいまや全国区どころかワールドクラスとなった菊池涼介二塁手が、だから高校入学時に160センチだったと知って大変驚いてます。今時の子の体格だから周囲はもっと大きかったでしょう。それで僕のように圧倒されずにあそこまで行った、あっぱれですね。アメリカ人は彼を忍者と言ったが違う。忍者はたくさんいるんで彼はオンリーワンですからね、牛若丸ですね。

西武の森智哉も公称170センチですが(たぶん70ない)それで大阪桐蔭の4番とは・・。ヤクルトの石川雅規は投手で167センチ、それでプロで150勝というのもすごすぎる。僕などひがみ根性があって、2メートルもある奴が170キロ出そうが場外ホームランかっ飛ばそうがそんなの当たり前と思ってしまうんですが、実力ではねかえした彼らは実に気持ちがいいですね。

かたや38歳で東大に入って待望のマウンドに登った話題の伊藤医師。171センチ。フレッシュリーグで慶応戦に登板。高校で野球経験ない人がやろうと思った志が立派だし100キロ台を出したのも敬服です。遅いと思われるでしょうが女の子だとシニアリーグで鈴木誠也と対戦経験のある173センチの稲村亜美ちゃんで103キロです。アスリートの男性でも部活せずに110はまず出ません。ナックル磨けばいけるぞ、応援したいですね。

持って生まれた資質はどうしようもありません。擬似共産主義の日本の学校教育はそれを否定して「みんな仲よく」だ。そんなの初めから嘘なんだから小・中・高と来てどうも変だとだんだん気がつくんです。そこでやる気をなくしていじめられたり道をそれたり不登校になったり自殺したりする子がどれだけいることか。幼稚園児から「みんな違うのよ」と真実を教えるべきなのです。違うというのは優劣じゃないよという風に。

我が国ではトーマス・エジソンが「天才とは1%のひらめきと 99%の努力である」と言ったことになってますが、原文は

Genius is one percent inspiration, 99 percent perspiration.

であって違う。汗をかかないとひらめきは得られない(それができた者が天才だ)です。これを「ひらめき < 努力」という風に訳して、努力をすれば報われる⇒根性論となるのが日本です。

そうじゃない。「ひらめきを生むかもしれない所で汗をかきなさい」という暗黙の前提があって、「そこでの努力がひらめきによって実を結ぶ確率は1%だけどね、それができたら君も天才だよね」と、二つのことを言っているのです。

「失敗は成功の母」に近いのがおわかりでしょうか。これを「努力は成功の母」と読み替えてしまう教育は「みんな仲よく、努力も仲よく、だから結果は平等に」ということになり、共産主義教育と親和性のある教義に使われてしまうのです。エジソンも苦笑してるだろう。つまり努力と根性で成功できるわけじゃない。そういう嘘にだまされれば使われるだけの人で終わります。

そこからひらめきを得られるかどうか、つまり、それに自分が向いているか、もっといえば好きかどうかということが先だということです。「暗黙の前提」がまず満たされているか?それは自分にも親にも分らないけれど「好きなもんを思いっきりやってみい!」とオトナは言ってやるしかない、それをサポートしてあげるしかないですね。好きでもない所にひらめきが生まれることは少なくともあんまり期待できないだろう。

菊池も森も石川も伊藤医師も、まず野球が好きだった。本人に聞いたわけじゃないが間違いないでしょう。

学校で自分だけ好きなことを見つけて突っ走るのは大変です。下手すりゃいじめにあいます。だから何となく平穏に「みんな仲よく、努力も仲よく、だから結果は平等に」を信じて小・中・高ときてしまう。行先には必ず先生と同級生がいて、教室も机も椅子も万事が整っていてという、世界に冠たる日本の安定したシステムを信じてです。ところがその先にある会社に入ると先生なんかいない、周りは敵だらけ。大企業でさえも潰れて机、椅子どころか給料だって危ない。安定などかけらもない、国際競争に晒されたジャングルのような場所。これからますますそういう環境になるでしょう。

共産主義教育に洗脳されてトコロテン人生で来た子は社会に出て初めて「えっ、そうだったの」となる。そういう子を労働力として集める企業はブラックと呼ばれる。高学歴であっても洗脳されている思想は変わらないから「えっ、一流企業でこんな酷いことやってるの」とびっくりして半沢直樹シリーズが売れたりする。残酷なことですが、企業だって株主がありジャングルで生きのびようと必死なのであって、それを責めるなら国ごと中国か北朝鮮みたいに独裁者を選ぶか共産化するしかありません。それが嫌な方は、それを子供に知らしめていない親であり教育現場の責任なのだということを認めるしかないと考えるのです。

僕が「若者に教えたいこと」のカテゴリーに書いているのは、社会の現実を若者に教えるためにほかなりません。それが「厳しい」とか「冷たい」とかそんなことじゃない。単なる現実です。それを知らしめない、というよりご自分で実社会経験のない多くの教師の方々にはしたくても教えようのない部分を補おうということです。誰の利益にも左右されない立場の人間が経験から真実と思うことをズバリと書いて、次の世代に隠さずに伝えてあげることはオトナの義務と思うのです。

僕は私立、区立、都立、国立、企業派遣といろんな形で教育を授けていただきました。そして親と企業にはお返しはしましたし、それを使ってしたサービスで対価をいただいたお客様にも成果をお返ししています。まだできてないのは区立、都立、国立の税金のところです。区民、都民、国民のお金で勉強したのだから何か返そうというのは、大作曲家に印税払ってないから彼らの名曲の宣教師になるというのと同じこと。人生のバランスシートを考えてきれいにする。それが僕なりのモチベーションであります。

エリートになれということではまったくなく、嘘だらけの社会に翻弄されず自分なりの楽しい人生を送ってねということ。そういう考えの若者が増えれば日本は変な方向に曲がらず、大国に翻弄もされず、必ず強い国になると信じます。前に何度も書いてますが、それが僕の熱い思いだからNEXTYLEでお声をかけた現状19人の若者にそれを直接託してもいます。ぜひご覧になってください、お子様に見せてあげてください。そして何か感じるものがあって我こそはと思う若者は出演してください。それが100人、200人にいずれなると何か渦巻きができる。それまでは生きていたいものです。

 

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SMCと万葉集への思い

 

 
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仕事中の遊びは大事

2017 APR 21 0:00:38 am by 東 賢太郎

昔から仕事中に遊びがはいることがあって、遊びといっても体よく言えばブレークなんですが、単なる休憩ではだめで広い場所に出たくなります。とにかく狭いところが苦手なんで息が詰まってくる。大阪にいたころは外交行ってきまーすと明るく言って中之島公園やうつぼ公園に直行してました。猛暑でもお構いなしに1時間。先輩方はだいたいサテンかパチンコ屋でしたが、僕には広々というのが必要でした。そうして帰社すると集中力がぐっと増すのです。

ロンドンではなんといってもセントポール寺院。これが実に広大な空間で落ち着けるんですね。物音はほとんどなし。たまに誰かの足音がこぉーんとはるか中空にこだましていくと、ああ広いところにいるぞと安心できるんです。そういうことはマイペースのいち営業マンだからできたんで経営者になったら無理でした。だから無用のストレスをためこんでいたと思います。


昨日たまたま仕事を終えて通りかかった旧芝離宮恩賜庭園。江戸初期1678年の老中・大久保忠朝の屋敷の庭園ですが、ふらっと寄ってみると昔のサボってる気分に戻りました。

 

 


 

浜松町の駅前にこんな空間があるというのはいいですね。

 

 

 


 

ソメイヨシノは先週散りましたが、里桜(ふげんぞう)は見ごろでした。

 

 

 

1時間ぼーっとしてましたが、この景色に包まれていると五感に訴えてくるものがあります。竹芝桟橋のほうからかすかに潮のかおりがあって海を感じ、音はなく大気の厚みを感じ時間が止まったかのようになる。頭は空っぽですが身体は感覚が冴えてきます。


 

ふと足元に目をやると、これはイヌフグリというのでしょうか、僕の好きな可憐な花が咲いていました。桜よりこれを見ると春を感じるのです。

 

 

思えば僕は五感を研ぎ澄まして仕事をしてきたので、このサボりの時間は貴重だったことにいま気づきました。オフィスに意味もなくだらだらいて仕事したふりしてたらイヌフグリは気づきませんね。

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「遊びのすすめ」(遊びは戦争のシミュレーション)

「遊びのすすめ」(副題・学問はそこそこに)

 

 

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山路塁審、退場はキミだ

2017 APR 19 21:21:41 pm by 東 賢太郎

こんなひどいジャッジは世にも珍しい。50年野球を見てて初めて、おそるべしだ。永久保存の殿堂入り、いやWBCの世紀の誤診に匹敵するワールドクラスものである。

緒方は現役時代も退場なんてないんだ、ちょっとやそっとで怒る男じゃない。当たり前だ。1回なら目をつぶるけどな、あれを2回つづけてアウトという人は126,932,772人いる日本人で間違いなくキミだけだ。そのうち証拠写真がネットにたくさん出てくるだろう。それ見て眼医者いけよ。

こんなのが2回もあって球場全体が怒りを通り越してシラけてしまった。TV放送なんかシラけムードをどうやってとりつくろうかアナウンサーも解説者も苦労してた。DeNAベンチですらそういう感じで、ラミレスもベイスターズファンも気の毒に後味悪かったろう。こんなアホらしいジャッジがまかり通れば野球なんて面白くも何ともないぜ。見る気も失せるよ。球界全体の不利益である。

人間だからで済む問題じゃない、プロで金取ってんだからな。世の中そんな甘いもんじゃないぜ。広島球団は日本野球機構に提訴すべきである。メジャーと同じくすべてのプレーにビデオ判定を入れるべきだ。

ごらんの通りの渾身のミス・ジャッジだ、もう笑うしかない。

(PS)

それとこれとは別、DeNA今永のピッチングはすばらしかった。山路塁審の応援で1安打完封だが3安打であってもすごい。カープ打線は巨人・高木に始まって昨日の濵口で弱みを握られたと思ったほうがいい。

 
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どうしてワタシがオペラに?

2017 APR 19 13:13:12 pm by 東 賢太郎

僕はワイン好きですが、ウンチクたれる奴が大嫌いです。英語でそういうのをワイン・スノッブ(俗物)と呼びますがちゃんとそういう連中の社会はできていて、ロンドンにいたころ爆笑して読んだ「一流のワイン・スノッブになる方法」という本があって『赤で高級そうなのが出てきて意見を聞かれたら何であれ「It’s big.」と言えば安全である。ただし白でそれは禁句である』なんてどうでもいいノウハウがたくさん書いてある。スノッブを茶化す本なのですが、恥をかかない実用本としてまじめに買う人もいるんでしょう。

フランス料理もおんなじで堂々たるスノッブがいます。パリのタイユバン・ロブションとかアラン・デュカスなんてそれだらけで、料理はお値段なりの味で全然どうってこともない。それがワイン・スノッブの巣窟でもあって、高いのを飲ませてふんだくって連れの女にいかに見栄を張らせてやるかの演出にたけた店だから高級店ということになってる。ジュネーヴやブリュッセルに半分の値段で良心的でもっとおいしい店があります。

オペラにもいるんですね。ザルツブルグ音楽祭なんてオペラのタイユバンみたいなもんで、カラヤン・ウィーンフィルの薔薇の騎士なんて劇場に入っていく着飾った客を見る群衆がわんさかいて貴婦人気取りの女のファッションショーでもあった。女に見栄を張らせてやる代金が乗ってるからチケットは馬鹿みたいに高いし、逆に高くないと女にお値打ち感が見えないから男に売れない商品でもあるのです。

そういうのがいると庶民は気後れして「どうしてワタシがオペラに?」となりがちですが、そんなもったいないことはない。ああいう女はどうせ音楽なんて聞いてないでしょ、ワタシは楽しんでるわと上から目線で見てやればいいのです。モーツァルトは「オペラでは音楽が劇のしもべじゃいけない」と言ってます。音楽がわからないオペラゴーアーはただのスノッブです。

「わかる」というのはアンダースタンドでもコンプリへンドでもなくて、アプリーシエイト。良さを知っている、それでいいんです。良さというのは自分の趣味(好み)であって教科書で習うもんじゃない。だから音楽を楽しむとは実は自分の趣味を知ること、自分探訪なんです。それが「うきうきする曲」でも「悲しい曲」でもいい、なぜならそれが自分だからです。

ところが「わかる」は知識やウンチクからくると思ってる人がたくさんいます。二百年も前の曲は確かにそれがいくらもあります。でもそんなのは音に関係はない。音楽は音だけでできてます。モーツァルトが早死にして可哀そうだから彼のレクイエムが悲しく響くわけじゃない、音そのものが、雄弁に、悲しい、だからそれは名曲なのです。これを聴いて悲しくなれば、それで十分に「レクイエムがわかった」でいいのです。

モーツァルトは原因不明で若死にしたためやたらと同情票が入って、音楽とは無縁な所で都市伝説まみれになってる、僕はむしろそれに同情票を投じます。彼の音楽は同情のしもべでもない。映画のおかげで知らなかった人に曲が聞かれるなら悪くはないけれど、彼がその手の理由で聞かれる必要のある他の作曲家と同列に思われたらあまりの冒涜でしょう。天才は音楽だけによって判断されなくてはなりません。

僕の音楽の趣味はけっこうはっきりしてますが、バッハもシューマンもメシアンも好きです。それがどういうことかというと、例えて言うならワインは品種の味わいが基本でありそれが音楽なら「音」に当たります。葡萄はシャルドネでそれがモンラッシェになったりシャブリになるのであってそれは枝葉です。そしてウンチクは葡萄でなく枝葉に実るのです。同じことで、よく聴きこめばハイドン、モーツァルト、ベートーベンが「同じ葡萄」からできていることがわかります。

バッハの子だくさんやシューマンの自殺未遂やらメシアンの音の色彩やらは、ソムリエ検定試験には必須の知識ですが、鑑賞にはまったくどうでもいいのです。そんなことに時間を割くぐらいなら1曲でも多く聴いたほうがいい。それで面白くなければ自分探訪はハズレだから他のを聴く。そうやって探し当てた「あたり」の曲は一生の友です。それが自分の趣味とわかるから、そういう特徴の曲を集中的に聞けばさらにあたりを効率よく探せます。

クラシック・スノッブになりたい人はなればいいし、それにも一流と二流があって、一流になれればそれはそれで社交には役に立つかもしれません。しかしこれから聞こうという人はスノッブはノイズをまき散らすだけの御仁なので完全無視で、自分の趣味だけを信じ、その曲を誰が何と言おうとお構いなしで覚えるまで聞きましょう。音楽の魅力のエッセンスは音に、それを記号化した楽譜に詰まっています。それを忘れなければクラシック攻略は極めて近道を通れるのです。

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大名演だったルイジ/N響のマーラー巨人

2017 APR 17 0:00:58 am by 東 賢太郎

指揮:ファビオ・ルイージ

ヴァイオリン:ニコライ・ズナイダー

アイネム/カプリッチョ 作品2(1943)

疲れがたまっていて休日のマチネーは眠くなってしまう。敬遠しているのですが昨日の読響が重なっていて止むなく振り替えました。ファビオ・ルイジは名前は記憶があってドイツ、スイスで何だったか聴いてるはずだけど覚えてない。気に留めてなかったのでしょう。メンデルスゾーンの速めのテンポでやや意識が戻るも集中せず。観念して後半のマーラーを迎えました。ところが、これがめちゃくちゃ面白かった。場外ホームラン。何年に一度の快心の一発です。

第2楽章は冒頭のチェロがゆっくり入って加速したり、第3楽章はコントラバスが全員で弾いたりとえっという感じでしたが、緩急自在のテンポでエピソードごとに大きく表情は変転。一時も飽きることなし。一気に覚醒。管楽器ごとにニュアンスと色合いが豊富なばかりか、弦5部も曲想によってそれぞれが自己主張して歌うので音楽がロマンティックに脈打つ。ヴィオラ、チェロは音が違う。ルーティーンで流すところは皆無、すべてのフレーズに血が通い奏者の息づかいまで感じられるという異例さで、何もなければ無難に終えてしまうN響も名演。

手垢のついた伝統の解釈を一旦ふりほどいてというのは誰もが試みることですが、これは聴いていて違和感のある恣意ではなく、ヨーロッパの伝統に根差した新しいスピリットの注入とでもいう感じがいたしました。第1楽章のカッコウの森の深々とした遠近感、第2楽章のホイリゲの雑踏のようなライブ感、第3楽章の軍楽隊はドンチャンと速めに行進してはっとさせ、ハープの「彼女の青い眼が」は白い霧のなかの白昼夢みたいに響く。それぞれ場面場面で11年住んだヨーロッパの懐かしい光景が脳裏に明滅するのには本当に驚きました。

僕にとってマーラーの安っぽくて嫌だと思っていた部分はこういうものだったか、いままで何を聴いていたんだろう?

1番のオーケストレーションは見事で第3楽章で一回だけひっそりとマレットでたたくシンバルの響き一つでも頭に焼きついています。音楽が生き物のように流れるとその効果が色づいて見える。ルイジのスコアの読みはマーラーの意図かどうかはともかく、僕も耳にタコができている1番の再発見をさせてくれました。クラシックはまだまだこういう余地がある。学んだと同時に、頭を芯まですっきりさせてくれました。

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マーラー交響曲第1番ニ長調 「巨人」

 

 
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