いい子にしてるのよ
2017 JUL 3 0:00:53 am by 東 賢太郎
小さいころ、妹とふたり私学の成城学園だったものだから生計が厳しかったのだろう、母は皮手芸を教えて僕らの食費の足しにしていたようだ。休みの日も「じゃあ行ってくるからね、いい子にしてるのよ」と僕らを家に残して、教室のある二子玉川に車で出かけていった。
お金がないんだとは子供なりに気づいていたが、待っているのはやっぱり寂しかった。待ちぼうけのお仲間だった黒猫のチコは、壁越しに響いてる母の愛車のエンジン音を覚えてしまった。夕方になってそろそろ帰ってくるかなというころ、その音を真っ先に聞きつけたチコが「アオ〜」と鳴くと、あっ、ママだと喜び勇んで妹と玄関に飛んでいったものだ。
母が亡くなった朝、僕は病室の長椅子に丸まって仮眠していた。その日が9泊目だった。看護師さんたちの慌ただしい声と血圧計のジーという音で目が覚めるや、すぐにご家族を呼んでくださいと指示が飛んだ。母はそこから3時間がんばってくれ、みなに看取られて静かに逝った。目の前がぐるぐる回って、気がつくと母の胸に突っ伏してぼろぼろ涙がこぼれていた。
あれからちょうど一カ月となる6月29日午前10時25分をアメリカで迎えることになるとは夢にも思わなかった。そして、今も僕はサンフランシスコのホテルにいてこれを書いている。あのまま看病が続いていたら、この仕事はどんなに有望で大事だろうと断わっていたからここにはいなかった。
意識するなといっても無理だ。それは当地では6月28日の午後6時25分ということになる。あわただしいスケジュールの中で、シリコンバレーにあるフレミングというステーキハウスでの会食中にそれはやってくる運びになった。仕方ない、ひとり黙祷をしたいので同僚に事情をことわろうと口を開いたその矢先だ。
何ということか、声が出ないではないか。ちょっと風邪ぎみではあったがこれには動転してしまった。座っている席が大きなテーブルの真ん中で一番奥だったものだから閉所恐怖症によるパニックのおそれも感じてしまう。とっさに席を替わってもらい、Y君に「おいこりゃ明日だめだ、プレゼン、代わり頼んだぞ」とかすれ声を絞り出した。しかしデレゲーションのヘッドがしゃべれないなんて洒落にもならない。すっかり弱気になってしまった。
いつ寝たのか、恐れていた翌朝がやってきた。目覚めるとやけに体が軽い。時差ボケはあるが快調だ。こわごわ声を出してみると、普段の声だ。よかった。9時からの会議は予定通り僕が真ん中でやってうまく運び、3人の仲間に感謝だ。Y君は野村で苦楽を共にした後輩。営業で僕が出来ないことをできる唯一の男だ。S君は株式運用・分析の達人で頼みの綱。M君は3年で司法試験合格という東大法学部で年1人出るかどうかという俊英の若手弁護士でスタンフォードのMBAでもある。全員が米国留学、業務の経験あり。手前味噌ながら最強のカルテットと自負してどこからも異論は出ないであろう。
今回はノーベル物理学賞のN教授の事業資金調達をソナー・アドバイザーズがお手伝いするための準備だ。シリコンバレーはFacebook、テスラー、Google、Appleなどがひしめく米国のベンチャーの聖地だが、そこにラボを構える教授の会社も社員70人中20人がPh.D.(博士)だ。朝9時から6時間ぶっ通しで、教授を筆頭とする幹部の皆さんと喧喧諤諤やったらすっかりウォートンスクールMBAの20代の自分に戻った。声のことなんか忘れていたからきっと出ていたのだろう。
思えばあれは母が亡くなったその日の午後のことだった。斎場の霊安室から家に戻ってきて、なお茫然自失だった。急に朝からそういうことになった自分がよくのみこめていない。すると「いいお天気よ、外で陽にあたって少し休みなさい。お母さんと交信できるわよ」と家内が椅子と毛布をテラスに用意してくれた。交信という言葉が心に響き、やおら陽だまりに出て空を見上げてみると、一面見渡す限りのブルーにいちどもみたことのない不思議な形の雲がかかっていた。
それは富士山の方から空の半分も覆わんほどのスケールで左右に悠然と広がっていた。見えるか見えないかぐらいの早さでこっちに向かってきているみたいで、巨大なエイかマンタが後方に美しい幾筋もの尾ひれをひいてゆったりと北に泳いでいくような様であった。しばし唖然と見とれていると、それは徐々に形が朧となってきて、僕の頭上を通り越したあたりからやがていつもの変哲のないちぢれ雲に戻っていった。
写真を撮ろうと思ったが、やめた方がいいという気がしてきて、そのまま椅子に横たわって一部始終をじっと眺めていたわけだ。するとエイの右下あたりに月がうっすらとあったのに気がついた。下弦の月かな、随分と細い三日月のようで、これは昔から僕の主観の中では攻撃のシンボルであるのだった。
母は教室に出かけていくみたいに、じゃあ行くからね、いい子にしてるのよと言い残してあちらに行ったように思う。何が母のいい子なのかはつかめなかったが、どんな悪戯をしでかしても叱らなかったのだからあれでよかったのだろうし、今だってきっとこれでいいのだ。いつも困るとそう信じて乗り越えて、僕は知らないうちにここまで来た。そんなに信じられる安堵というものを、ほかのどこでいただけるだろう。
どこまで行くのか知らないが、それはその時だ。これで自分の中で何かが大きく変わってしまった気がする。やがて父もいなくなったら日本にいる必要もないかなと思うが、そうなった時のことは結局自らが決めたということではなく、なるべくしてなってしまったということになるだろう。ただ、ひとつだけすでに心のなかで確認したことがあって、それはあちらの世に行くのがちっとも恐くなくなってしまったということだ。
(ご参考)
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Categories:______海外出張記, 自分について
中島 龍之
7/6/2017 | 4:07 PM Permalink
お母様との思い出、私も自分の母のことを思い出して読ませてもらいました。亡くなられたことを知らず失礼しました。ご冥福をお祈りします。私の母が亡くなって20年が過ぎますが、大分の病院で亡くなった母を家のある福岡に運ぶ途中の大分道から見た青空と雲を背景にした由布岳が今でも目に浮かびます。まだ頼ってるのかもしれませんね。
東 賢太郎
7/6/2017 | 6:48 PM Permalink
中島さん、ありがとうございます。四十九日まで静かにしているつもりでしたが、なにしてんのアメリカ行きなさいと言ってる気がしまして、行ってみたら少し気分が晴れました。
独楽
7/9/2017 | 10:44 AM Permalink
心より お悔やみ申し上げます。
小津安二郎の映画を見たような すがすがしい後味の エッセイを読ませていただきました。
実は 当方 夫を 昨年10月に見送りまして お書きの最期の文章の心境が まったく同感です。最も失いたくないものを失ったあとの 「軽さ」を 日々味わっております。
どうか 悲しいときは 無理されずに。
Tom Ichihara
7/7/2017 | 5:24 AM Permalink
御母堂の逝去にお悔やみ申し上げます。
齢を重ねても母親の存在は大きなものですね。
小生の母親は6人の子供を残して高校2年生の時に亡くなりました。
それから半世紀も過ぎましたが未だに母親の面影が常に脳裏に焼き付いています。
東 賢太郎
7/7/2017 | 10:16 AM Permalink
市原さん、ありがとうございます。おっしゃる通りと思います、高2でなくされたお気持ちはいかばかりだったかとご拝察申しあげます。こちらは88でしたがながく認知症でした。だから亡くなったら魂が自由になって昔に戻って、ますます存在が大きくなったかな(笑)。無私の愛情ってなにより深いですね。
東 賢太郎
7/9/2017 | 12:10 PM Permalink
独楽さま、いただいたお言葉ありがたく心に刻みます。ご主人様のご逝去をお悔やみ申し上げますとともに、最も失いたくないものを失ったあとの 「軽さ」、そのお気持ちを共有しております。
僕もこのエッセイを書けるようになるまでにひと月かかりまして、それも気晴らしもかねてアメリカに行って気分転換が少しできて、最後の日にやっとなんとかなりました。
行くのも大変だったんです。飛行機恐怖症なのにこんな状態ですからね、何があるかわからず精神安定剤をたくさんもらったり眼医者に行ったり(どうしてかお分かりにならないでしょうが)、そうしたらその恐怖で出発日が近づくと今度は眠れなくなって・・・
逃げるのもつらいですね。