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クリーヴランド管弦楽団を聴く

2018 JUN 8 19:19:19 pm by 東 賢太郎

プロメテウス・プロジェクトと銘打たれたクリーヴランド管弦楽団(以下CLO)ベートーベン(以下LvB)交響曲全曲演奏会(フランツ・ウェルザー=メスト指揮)のうち1,3,5,8,9番を聴いた。関心はジョージ・セルおよびクリストフ・フォン・ドホナーニによる全曲のクオリティの高さ、ブーレーズの春の祭典のオケであることによる。このオケは89年にロンドンでドホナーニによるマーラー5番を聴いただけだからほぼ初めてといえる。3番は天覧演奏会であったことは既述した。

まずは、何度も申し訳ないが、サントリーホール(以下SH)の悲しいアコースティックにつき書かざるを得ない。席は常にSのどこかであり、何十回もここで聞いただろうが、ピアノリサイタルは別としてオケに関して音がいいと思ったことは一度もない。ご異論はあろうが僕は欧、米、香港に16年住み世界の代表的ホールはほぼ全部聴いた。逆にウィーン・フィル(VPO)、チェコ・フィル(CPO)など本拠地での音を知っている世界の代表的オケをSHにおいて聴きもした。その結論をCLOが塗り替えなかったというのが今回の3回の演奏会の結論だからどうしようもない。

SHは音が上方に拡散し楽器の位置が明確にわかる(形状はどことなく似るベルリン・フィルハーモニーは一見そうなりそうだがならない)。残響はあるがブレンドが不十分で低音も拡散してよく鳴らない。僕はフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックの弦の鳴りとブレンドが悪く低音が「来ない」アコースティックに辟易して2年間も我慢を強いられたが、多くの指揮者があそこで鳴らすのに苦心した文献がある。SHはそれをそのまま体育館に持ち込んで残響をつけたようなものである。今回ウェルザー=メストはコントラバス9本で臨んだがまだ足りない、というより、ブレンドという音響特性上複雑な問題だから12本にしたところで浮いてうるさいだけで解決はしなかったろう。

舞台で指揮者、奏者にどうきこえるのか不明だが、音が遠くまで行かない不安があるのではないか。だから旋律をゆだねられる第1Vnを高音域で歌わせようとなればホール特性、増強した低弦のふたつに対抗する必要から知らず知らず強く弾く傾向になるのではないか。ところがこれが問題だが、奏者の位置がわかるという特性はVn奏者個々の音が分離して聞こえることであって、ピッチのずれやヴィヴラートの揺れ(物理の言葉を借りるなら「位相」の変化)がクリアに聞こえてしまい、図らずもの強めのボウイングで増幅される。奏者個々人は気づかないだろうし指揮者の耳にどうなのか是非伺ってみたい。僕の想像だがそう考えないと説明がつかないほどここのVnの高音域のffはきたない。弦が売りであり、世界の耳の肥えた人が100年以上もそう証言してきたVPOやCPOの弦でもだめだったのだから僕にこの仮説を放棄する理由がない。CLOも同様だった。

それはもちろん演奏側の責任ではない。米国のメジャーはどこもそうだが個々人の音量が大きく敏捷性も高い。カーチス音楽院の学生の技術は大変に高度だったが、あそこの上澄みレベルの人がメジャーオケにいるのだから当たり前である。木管の木質の、特にクラリネットのベルベットのような美音が大きく響いたが隣りのファゴットは唖然とするほど聞こえないなど、これもホールの音響特性の何らかの欠陥と思われる不満もあったが、時にミスが目立ったホルン以外はメジャーの貫禄を見せた。テンポはアレグロは速く、5番はかつて聴いた最速級だ。LvBの交響曲の新機軸のひとつにコントラバスの書法があるが、9本で一糸乱れずのハイテクで広音域を飛び回る大活躍を見ればビジュアルでも圧倒される。しかしそれがあの快速だと「体育館」の残響でかぶってしまうのも困ったものだ。

また、指揮者がタメを一切作らず、むしろ伝統的には伸ばす音符を短めに切り詰めるものだからいつもフレージングが前に前につんのめる感じになる。これが快速と相まって興奮を生む図式なのだろうが、セルやドホナーニはそういうことがなく、ウェルザー=メストの個性とはいえあんまり大人の演奏様式と思わない。彼はLvBを人類に火を持ち込んだプロメテウスになぞらえた説をプログラムノートで開陳している。確かにLvBは音楽に火を持ち込んだが、仮にそうだとしてもそれは動機があっての結果であって、LvBがそうせざるを得なかった身体的理由(心理的動機)の方に重点を置いている僕にしては、あのテンポは皮相的に思える。それなら難しいこと抜きに音楽的快感に徹したカルロス・クライバーに軍配が上がるし彼は5,7番というそのアプローチがあっけらかんと活きる曲で真骨頂を発揮したが、4、6番では落ち、僕の心理的動機説で重要な2,3番はついに手を付けなかったことは逆に評価する。商業的動機と無縁だったクライバーは音楽に正直な男だったのだ。

CLOの8番はセル、クーベリックの名演が耳に焼き付いておりこれが聴きたくて来たようなものだが、まったく大したことなかった。ウェルザー=メストはプログラムで8番の重要性を力説しており、そこにおいては100%支持する。しかしオケは十分にうまかったが、指揮者の芸格が違うという印象しか残っていないから僕は彼とは主張が異なる、気が合わないということなのだろう。9番はソリストがこれまたボディが米国流超重量級で微笑ましい、あそこに日本人が並ぶとしたら力士しかない。米国人はつき合えばすぐわかるが、何であれ強い人が大好き、万事が強さ礼賛、strong, strong ! というわかりやすさである。第2楽章のティンパニ・ソロの5回目も強め、歓喜の歌のVc、Cbによる導入もあっけなく強めと誠に陰影を欠き、対旋律のFgは楽譜にない2番を重ねるのはセル盤の唯一の欠点で、それが理由であれは聴かないが、ちゃんと踏襲されていた。米国で第九は年の瀬のお清め感、お祭り感などとは皆目無縁なのだ。

いつも思うのだが第九でソリストばかりいい格好をするのはどうも違和感がある。そうなってしまう曲だからということにすぎないのだが、4人が歌っている時間は10分もないだろうに、あそこで当然のごとく一人で喝采を浴びてそりゃそうざんしょという態度をとれない人はきっとオペラ歌手に向いてないんだろう。そう思うと野球のピッチャーもその傾向は否定しがたいが、さすがにこの曲は10対8ぐらいの打撃戦でなんとか勝ってあんたお立ち台に立ちますかみたいなものであって、少なくとも僕はむずかしい。

すると、舞台上でふと目についたのだが、ヴィオラの後ろの方で弾いていた白髪のおじいちゃんであった。立ち上がって楽器をもってこちらを向いて軽く一礼する、そのけっして目立たない地味な笑顔と姿がすばらしく素敵で格好いいのだ。男前であるとかそういう部類のことでは一切なく、権威めいた威圧感などまったくなく、家庭では良きパパであったのだろう、ひょっとしてセルの時代から人生をヴィオラとともに誠実に生きてこられたんだろうなという味がじんわりとダンディであって、タキシードとボウタイが似合う。どんな性格俳優だって及ばない、人生がにじみ出た外見だけで心から敬意をいだいてしまう、ああこりゃあすごい、ああやって年を取りたいもんだ。

 

クーベリックのベートーベン3番、8番を聴く

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Categories:______ベートーベン, ______演奏会の感想

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