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「個の時代」と「自由人」(訪問者200万人に寄せて)

2018 JUL 11 1:01:58 am by 東 賢太郎

おかげさまでブログの訪問者数が200万になった。といってそれがブログの題になるほどの意味があるかというと、数字というのは示されると気にはなるのが人間の習性だということが自分をダシにわかってきたということだ。仮に道を歩いていて突然に「おめでとうございます、あなたは今日ここを歩いた129人目の人です!」なんてくす玉でも割られたら、きっと一日中、なんで129が大事なんだろうと悩むに違いない。

何か面白いことを書かないと数字は増えないのかもしれないが、しかし、不特定多数が読者だから何を書くと面白いかは実はわからない。インスタのように写真ではなく文章だし、ツイッターと違って長くてややこしいものであるのだから、筆者自身たまに昔のを読みかえすと頭が錯綜してきて睡魔を呼んでしまうことがある。ということから察するに読者は相当に辛抱強いか頑強な読解力があるか酔狂であるはずである。

筆者はそのどれかというとまぎれもなく酔狂人であって、ジャンルを問わず、どうしてそんなのが好きなの?というものだらけだ。そういうものをトータルにみて「趣味(taste、テースト)」と呼ぶわけだが、ある人がどういう人かというのは無意識にテーストで判断されていることが多いから一応の注意が必要である。しかし世界の潮流としてはLGBT(性的少数者)のような微妙なものに至るまで個人の尊厳として認容される方向であり、男の子でも心の在り方次第でお茶の水女子大学は入学を認めると聞くし、「個」としての人間の独自性を隠して生きるより開示してしまった方が本来の自由な人生だろうという考え方が市民権を得つつあるように思う。自分はそれに肯定的な人間であり、そう生きたいと願っている者だ。

ブログを書くぞと言い出した6年前、そこに姓名、素性、経歴を明かすことに家族から大反対があった。プライバシーよ、危険でしょ、恥ずかしいし等々。そこでこう言った。「お前たちどこの誰かわからん者の朝飯の写真なんか見たいか?文章なんか読むか?今はどこの誰かわからん者が専門家で本を書く時代だ、そんなのより俺の方がましだぞ」。これはこっちの責任だが、幼いころに忙しくて家にいなかったから彼らは父親を良く知らない。「SNSで内輪でちょちょろなんて俺は全然興味ない、だからFacebookなんかは一切やらないよ。俺の看板はブログになるんだ」ということで開始した。

伝統的に控え目を良しとして個性を押し殺す日本人は、だからテーストを開陳したがらない傾向があるが、それが良くないとまで主張する気はないが、欧米人や中国人にとって没個性的が良いという価値観はまったくないということは書いておきたい。そういう欧米・香港で客商売で16年を過ごしたことで自分が非日本人的になったとは思わないが、人間本来の自由な人生をまっとうしたいと強く希求するようにはなった。しかし、そうやってテーストが形成されたというわけではなく、テーストは元来が遺伝的で生まれつきの形質であって、それを隠すのが美徳とはぜんぜん思わなくなったということだ。

例を挙げるなら、僕は蕎麦屋で毎回「かき玉うどん」を注文するが、まず一切かき回したりせずにたたずまいを慎重に吟味し、やおらトロミに白ネギを少しずつひたして全部食べ、次に玉子を形を崩さないように、やはりトロミと一緒に丁寧にすくいとって熱いうちに全部食べる。その美味は芸術的とも和の食文化の粋とも言え、そう感じることこそが僕のテーストであり、この調理法を発明した人に対する敬意はモーツァルトに対するものといささかも変わらない。さてそこまで約10分のお楽しみだが、この時点で丼の中はトッピングのない、何の変哲もない凡庸な素うどん状態になっており、「ああ、またやってしまった、またこんなまずいのを食わなくてはいけないのか」とそれを注文したことを必ず後悔するのである。

それでも次回はまたその誘惑に乗って「かき玉うどん」を注文するのであり、蕎麦屋というのはとてもアンビバレントな存在に陥っている。だから本来は「かき玉うどん」は5杯ほど注文してトロミと玉子だけ5回食してごめんなさい、ごちそうさまでしたと店主に謝って終了するのが究極かつ理想の食べ方なのであって、そこまではまだやったことはないが、ではトロミだけ頼みこんで出してもらえばいいかというとそれではいけない。「うどん」はどうしても必要であって、残留物になるだけだからどうでもいいようなものだが、では「そば」でいいかというと、温かいそばというのは残ると特有のお湯っぽいにおいがあって、玉子の最後の方の風味がそれに邪魔されてどうもうまくないのである。これを子供時代から飽くこともなく、蕎麦屋に行けば誰の前でも半世紀もやっていて妙な目で見られているので少々の引け目はあった。

ところが香港に赴任してなるほどと思うことがあった。上海蟹である。お客さんと食事に行くと、カニは足を食うものだと思っていたら彼らは大きめのメスの5,6杯を片っ端からばりばりと開き、味噌だけ音をたててすすっておいて足は手もつけず、全部ぽいぽい捨てるのである。あっという間のことであり、なにか汚ならしいし勿体ないとも思って一度足をほじくって食べたら、みっともないからやめろとたしなめられてしまった。何千億円も資産のある華僑の大富豪たちにしてお世辞にも上品な作法とは言い難いが、彼らはきっとかき玉の5杯ぐらい「何が悪いんだ」と是認してくれるに違いないし、そういうテーストを見せたところで変わり者と人間の評価を下げることもないし排除もされないだろう。

そんな卑近な目線から米中の貿易摩擦問題を見るとこう思う。1兆円の資産があるトランプが好物のハンバーガーをほおばるのを見ていかがなものかなんて米国人は誰も言わない。2兆円はある習近平はああやって堂々とカニをたらふく食って中国の一般人民はうらやましいと思っているに違いない。技術漏洩?米国に留学して技術を覚えて中国に持ち帰って起業して何が悪いの?うるせえ、ならWTOなんか脱退したるわい!両者の食いっぷりの共通点は下品なことだけであって、テーストを見れば合意なんかに至るはずない。僕の「かき玉うどん」も下品だが、あれを二人にふるまってあの精妙な最初の10分の和の食文化の粋をアプリシエート(appreciate)するなどと考える経験的思考回路は到底持ち合わせていない。資産でいえばサラリーマン社長である安倍首相は次郎の鮨で好感を持ってもらえるなどと考えるのはやめた方がいい。

ああいう連中と丁々発止やっていくには、俺はこういう人間だ(It’s me.)、お前が何といおうとこうやるぜ、なぜ?俺がそうやりたいからさ、とやるに限る。プーチンにしたって金正恩にしたってフィリピンのドゥテルテにしたって、このクソ野郎と思うほどそうやってるのを皆さんご覧になっている。日本の首相がそうできないのは核保有してないからでもあるし米国の属国から脱していないからでもあるが、没個性が美徳などという国際社会で一文の値打ちもない思い込みをお坊ちゃんの2世3世政治家が脱却していないことも一因なのである。そのことと武士道に発する奥ゆかしい日本男児の在り方とは何ら矛盾はない。へこへこアメリカさんにお追従するサムライなどありえないわけで、思いっきりテーストを丸出しにして「これがサムライだよ、知らなかったの?」ぐらいかましておけばいいのである。

ブログに何を主張しようと憲法が保障する言論の自由のうちだから5年と9か月好き勝手を書かせていただいてきた。そのご評価が200万という数字ならうれしいことだが音楽に偏ったきらいがあるし、書いた曲は筆者固有の心を映し出す鏡だとして書く意味があったのであってそれ以上でも以下でもない。バックナンバーを読みかえすに2013~15年のあたりは文章に気合が入っていて書くのが楽しかったことをうかがわせるが、あの気力も体力も視力もあんまりなく、書き残している作品には申し訳ないがインセンティブがわかなかったということはそんなに好きでもないということだ。

音楽においてはどうしても書きたかったが音のサンプルがないと伝わらない内容というのはいくつかあって、去年は舞台でハイドンとモーツァルトに加えて「ビートルズとモーツァルト」をピアノでご説明するつもりであったが時間切れだった。音楽というのは長いつきあいだから分かり易いので題材として頻繁に使ってきたが、それが本旨なのではなく、そういう部分に神経が行くことが筆者のテーストであって、音楽に限らず政治でも人生観でも相場観でもネコ観でも女性観でも武士道でも哲学でも野球でも資産運用でも「かき玉うどん」でも、全部がそのテーストに支配されている。その事実は自分固有の脳の働きだからオンリーワンではないかと思って生きてきた。

誰であれ自分の存在がオンリーワンなのは太古の昔からそうである。しかしそれを「個」(individual)と認めるまで人類は何千年もの歳月を要したのであり、ついに西洋に勃発した市民革命を経て「個の時代」を獲得した。「自由」というものは自由主義国家に住むから自然にあるのではなく、自分が個となることを自覚して初めて得られる果実だ。自由気ままに時を過ごし、食い、遊び、井戸端会議をし、セックスをするのはまぎれもない動物への退化であって、「自由人」という人類史の帰結としての存在とは程遠いものだ。誰しも一人で生まれ一人で死んでいくのであって本来が個であるのだから、一人であることを孤独という言葉で否定的なニュアンスで語るのではなく、どんなに幸せな家庭や友人があっても、やはり人間は孤独なのであり、その自覚を積極的に人生に取り込んでエンジョイする。それが何千年もかけて、先達が命を賭して我々に与えてくれた遺産を生かす自由人という生き方であり、それが許される時代に生まれたことを心から幸福と思う。

 

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