モーツァルトの20番コンチェルトはなぜこんなに怖いのか?
2018 AUG 2 23:23:34 pm by 東 賢太郎
東 賢太郎様
はじめまして。
シニアではないので、コメントするべきか、悩みましたが、モーツァルトについて調べていましたら、こちらのこの記事にたどり着きまして、コメントいたしました。
実は1年前、私もずっと感じていた「モーツァルトの20番コンチェルトはなぜこんなに怖いのか?」という長年の問いに向き合うべく、大学の卒業論文(通信で、哲学科です)を書こうと思い、ネットを調べていましたら、この記事を見つけました。
自分なりの結論では、この恐ろしさの正体は、宗教的なものに面した時の恐怖の一種で、魅惑と戦慄という「ヌミノーゼ(オットーの『聖なるもの』より」という感情ではないか?ということにしたのですが、同じことを感じておられる方がいた!と、驚きと嬉しさを感じました。
今後、モーツァルトのほかの記事も、読んでみようと思います。
モーツァルトの紹介と現代性についてのブログをやっています。
興味がありましたら、ご覧いただけると嬉しいです。
https://ameblo.jp/mozartism/ 堀ミゲル
堀ミゲル様
はじめまして。コメントをありがとうございます。「クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-」は2014年のブログなのでコメントを受け付けていないようで、それにもかかわらずメールをいただきましたことに感謝もうしあげたく、ここに掲載させていただきます。
シニアでなくても大歓迎ですよ。堀さんが『ずっと感じていた「モーツァルトの20番コンチェルトはなぜこんなに怖いのか?」という長年の問い』(!)に年齢など関係ありましょうか。
さっそくブログも読ませていただきました。ハイドンさんを見送って、「そうでしたか・・・。あの時、無理にでもロンドンに行っていたら、どうなっていたんでしょう。考えずにはおれませんね・・・」 なんていいですねえ、僕もそのテーマで書いてますよ。モーツァルトの音楽に強い感受性を示されているの、うなずけてしまいます。
ヌミノーゼという言葉は初めてで勉強になります。とりあえずネットで調べてみると一条真也さんという方のブログにオットーの「聖なるもの」について解説がありました。大変すばらしい。この概念はもやもやとして説明しにくかったものを明かしてくれそうです。「聖なるもの」は明日買って読んでみます。
「クラシック徒然草-モーツァルトは怖い-」にジュピターの第2楽章のこの部分を引用したんですが、赤枠の部分も怖いですよ。
この部分の出てくる直前のところが、下のブログで明らかにした、「ハイドンがジュピターから引用した部分」なんです。
去年その部分をライヴ・イマジン管弦楽団演奏会の前座でピアノでお示ししましたが、本当に聴いていただきたかったのは赤枠部分です。ハイドンがあえて「そこ」を選んだというのは、きっと怖さに気づいたからだと思います。
K466の怖さに気づかれた堀さんに敬意を表します。2014年前後に書いたモーツァルトのブログは自分でも気に入ってますのでお読みいただければうれしいです。最近は仕事づくめでなかなか音楽の時間がとれませんが、堀さんのように大事なところを共感していただける方がおられると書こうかなという元気が出ます。またご連絡くださいね。
東賢太郎
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
Categories:______モーツァルト
堀ミゲル
8/6/2018 | 12:00 AM Permalink
東様
ブログで取り上げてくださってありがとうございました。
とても嬉しかったです!
K466に感じられるヌミノーゼですが、私の感じたところでは、キリスト教的なものから来たのではなく、この曲が作曲された直前に入会しているフリーメーソンの儀礼的な雰囲気(つまり宇宙の真理の光のようなもの)に感じるヌミノーゼ感だと思います。
オットーは『聖なるもの』の中で、モーツァルトに言及はしていませんが、読めば読むほど、モーツァルトの曲にも適用されるのではないかな~と考えています。
ご紹介してくださった、ジュピターの2楽章ですが、確かにそうですね!怖い怖い!
しかし、K466とは恐怖の種類がほんの少し違う気もしました。聖なるもの、というよりは、もっと幽霊的なもの、地に沈み込むような、時空が一瞬歪んでどこかに連れ去られるような、黄泉に誘われる怖さを感じました。
モーツァルトには、さまざまな種類の「恐怖」を感じます。
そして東様が指摘されたように、まさに「穴」「空洞」「虚空」「真空」的な、覗くと怖い穴、のようなものを、ずっと私も感じてきましたので、同じビジョンを見させるモーツァルトのデーモン的な力に、ただただ驚くばかりです。
ハイドンの98番コンチェルトも、今度チェックしてみようと思います。
東 賢太郎
8/6/2018 | 8:57 AM Permalink
「時空が一瞬歪んでどこかに連れ去られるような、黄泉に誘われる怖さ」、堀さんお見事な表現です、ピアノの指のメカニックでは流れの一環で自然なんですが、それが則を超えて時空が一瞬歪んでしまう。2小節後にはハ長調にこともなげに戻りますが、その「こともなげ感」を醸成するインパクトのあるホルンのドの繰り返しに意味、というよりも、確信犯的なものを感じます。
「フリーメーソンの儀礼的な雰囲気(つまり宇宙の真理の光のようなもの)に感じるヌミノーゼ感」、これまた卓見ですね。同感です。彼がフリーメーソンであったことはフランス革命前夜の人であったというコンテクストにおいて、非常に重要です。フィガロはメーソンを経由して彼が嗅ぎとった革命思想への共鳴を主題とするオペラです。
フランス革命=メーソンではありませんが、革命時のパリのメーソンの74%は一般市民であって、諸説ありますが少なくとも革命の揺動要因ではあったメーソン思想がパリ市民に広まっていたこと、市民(非貴族、非聖職者)階級であり反体制思想に敏感であったモーツァルトにモチベーションを与えたことは無理ない想像の範囲内と思います。
ヨーゼフ二世が政治利用の意味もあってメーソンを認め、貴族はもちろん市民の支持すらあったわけではないウィーンでフィガロを売り出そうという試みには「則を超えてしまう危機感」が伴ったことは、これも無理ない想像の範囲内と思います。これがヌミノーゼとなってK466、K491となって現れたというのは魅力的な仮説ですね。
ハイドンにこういう怖さはありません、少なくとも僕の知る限りでは。シューベルトですね、あるのは、でも一瞬の怖さ、洞(ほら)ではないですね、もっとトータルな怖さであって、それは彼の病気と関連があると思います。ベートーベンはモーツァルトの洞を知って、きっと畏怖して、彼の耳疾による精神疾患の領域で、感じるものを現したと思います。しかし音楽としては別のものでした。
モーツァルトはあらゆる意味で、最も怖い、最も異質な音楽を書いた人でした。