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僕が聴いた名演奏家たち(オイゲン・ヨッフム)

2018 DEC 2 21:21:14 pm by 東 賢太郎

1983年にフィラデルフィア、1986年は1月にロンドン、12月にアムステルダムでのことだったが、最晩年のオイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日 – 1987年3月26日)の欧米でのライブ演奏に接することができた幸運を音楽の神様に感謝するしかない。彼はドイツ王道のレパートリーを二キッシュ、フルトヴェングラー、カイルベルト、ベームらと同様に19世紀の演奏解釈に深い脈絡のある伝統と格調高い様式で演じ、眼前で体感させてくれた。あの経験なくして僕のモーツァルト、ベートーベン、ブルックナーへの理解が現在のようになることはなかったろう。いわば双葉山、大鵬、北の湖の巨峰の列であって、こういう格の人の音楽を聴いてしまっていると、昨今の相撲界と同様で誰が出てきても小物感が否めなくなってしまう。加えて、日本はホール事情の問題がある。「本場の巨匠」やオケが来ても、ウィーン・フィルもドレスデンSKもチェコ・フィルも、あれでは彼らに出稼ぎ感覚になるなと言っても人間だから難しいだろうと思う。ギャラも食事もホテルも客席も。僕はひとりでドイツの歌劇場を普段着でめぐっていたが、モーツァルトやワーグナーやR・シュトラウスがああいう風に日本のホールで鳴るとは到底信じがたい。双葉山、大鵬、北の湖は地方巡業でなく国技館で観ないといけないのである。

ちなみに、事情は後述するが、ヨッフムはフルトヴェングラーの葬儀の際にベルリン・フィルでモーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」(K.477)を演奏し(ハイデルベルク聖霊教会)、生誕百年記念演奏会をフィルハーモニア管弦楽団で振っている(ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール)。この人の演奏を聴くというのは司祭の典礼に列席する趣で、ヨッフム自身が儀式めいた重みを漂わせたということではなく聴衆と舞台の音楽家たちの醸し出す深い敬意がどの名演奏家の演奏会とも違う雰囲気を作っていた。

初めて聴いたフィラデルフィア公演の印象は鮮烈だった。ただし、上述の文脈からすればこれは出稼ぎの地方巡業だ。しかし、なにせ定期会員だったフィラデルフィア管弦楽団の演目が指揮者ムーティーの好みかドイツ物が少なく、会場の音響もデッドで僕の趣味からほど遠く、ヨッフムが連れてきたバンベルグ響のオール・ベートーベン・プロは選曲も音もまさに天の福音だった。レオノーレ3番が鳴るや否や、ああこれだ、これぞドイツの音だと電気が走り、ピアニストのベロニカ(令嬢)が4番の協奏曲を弾いたがインティメートな好ましさがこれまた脳天を直撃し、これを毎日でも味わいたいとないものねだりの渇望に襲われてしまう。7番はVnのボウイングにいささか驚いたが、砂漠のオアシスの如しで楽の音が五臓六腑に染み渡るとはこのことだった。このオーケストラは後にフランクフルトのヤーレ・フンダート・ハレで何度も味わって至福の時を過ごさせてもらうことになるが、この1983年10月9日を思い出さないことはなかったように思う。外国でいくつの演奏会に足を運んだか数えようもないが、これほど待ち望んで満ち足りたものはひとつもない。ヨッフムは大学時代に買ったギレリスとのブラームスPC、カルミナ・ブラーナのイメージが強くベートーベンは認識がなかったが一気に僕の中ではドイツ物の巨匠の地位になった。

 

ロンドンに赴任していた3年後にヨッフムがロイヤル・フェスティバル・ホールにやって来た。フィルハーモニア管弦楽団がゆかりの深かったフルトヴェングラーの生誕百年演奏会にロリン・マゼールを呼んでいたが、体調不良でヨッフムが急遽代役になったのである。その旨がプログラム右上に記載され、ヨッフムから「急なことで準備の時間がなく、予定されていたブラームスの交響曲第2番をモーツァルトのジュピターに差し変えることをご了解いただきたい」ともある(僕としてはブラームスを残してベートーベン7番を変更してほしかったが)。面白かったのはフィルハーモニア管でも7番第4楽章第1主題の第1Vnを各プルトがスラー有りと無しに分かれて弾いたこと(この効果はLPOとの録音ではよく聞き取れないが)。ヨッフムのジュピターは良かった記憶がある。81年にウィーンフィル定期演奏会の初日で振ったライブ録音(下)があるが、こちらもかように素晴らしい演奏になっている。

この年、ザルツブルグ音楽祭の最中にカール・ベームが逝去し、9月20日のオープニング公演はヨッフムにゆだねられた。最初の「フリーメイソンのための葬送音楽」の最後に1分間の黙とうがありそれも録音されている。彼は期せずしてフルトヴェングラーとベームの生誕百周年と追悼を任された指揮者となったが、ウィーン・シュテファン大聖堂におけるモーツァルトの命日ミサ典礼も指揮しており(1955年12月5日)これは僕の生まれた年だ。

最後にヨッフムを聴いたのは1986年12月4日木曜日、底冷えのする真冬のアムステルダム・コンセルトヘボウでのことある。僕はロンドン赴任時代にオランダの投資家も担当しており、月に一度はオランダに出張していた。ところが丁度この頃にアムステルダム現法に日本人担当者を置くことが決まり(オランダは膨大な年金の運用資産があり野村にとって重要なマーケットだった)、その引継ぎで後任を紹介する出張の折にこれを聴いたのだ。

これはヨッフムの生涯最後のコンサートでもあったようだが、僕にとっても生涯忘れがたいコンサートになった。「ようだ」というのはTAHRAの解説にin his last but one concert on 4 December 1986とあるからで、とするとこのCDの演奏は12月3日のものということになり、CDの記載は「3&4 December」だから2日間の録音を編集したものだが3日がメイン(少なくともこの解説者はそう思って書いている)ということになる。僕が聴いたのは4日で、だからそれはヨッフムの生涯最後のコンサートであったということになるのだろう。

聴くほうも集中しており疲れていたが、足がおぼつかず階段を登れなかったヨッフムが最後の力を振り絞ったアンコールが終楽章とは驚いた。ヨッフムはスコアにない金管を増強(記憶ではHr4,Tr3,Trb3,Tuba1)していたが、そうしないと奏者は肉体的負担が大きく終楽章のコラールが天界に響き渡るほど豪壮に鳴ることはない。彼らには受難だったかもしれないが、オーケストラにとってもヨッフムにとっても、もしかしてこれが最後という思いはあったと思料する。そうでなければこんな音楽は生まれないだろうというほど稀有な演奏で、こういう質のものは「聴く」という言葉では浅く、「参加する」「体験する」とでも書くしかない。ヨッフムはこの3か月後に亡くなった。

TAHRAのCDはコンセルトヘボウの音響を見事にとらえており、あの日の情景がよみがえる(彼の顔をちょうどこのビデオの写真の角度からみる位置の席であった)。

この演奏のCDはそこかしこで絶賛されているが異論はない。よい装置でかければ「体験」を実感していただけるにちがいない。

 

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