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いかがなものか野郎

2019 JUL 6 15:15:23 pm by 東 賢太郎

チューリヒでは会社でソフトボールのチームをつくった。野球場はないからソフトということだが、アメリカと違って現地の人がやらないし選手もいないだろう。気乗りしない。しかも僕はゴルフに忙しいのだ。ところがどういうわけか社員の方が日本企業のリーグ戦やりましょうと盛り上がってしまっていて、僕のニューヨークでの話は聞いていたろうしいま思えば社長へのソンタクの一環だったのかもしれない。知らないうちに立派なユニフォームができて、しかたなく監督をひきうけた。

野村スイスは当時日本の証券会社の海外ビジネスとしてそこそこ収益源だったスイスフラン建て債の引受拠点だから組織は大きく、年間起債額は1兆円もあって野村は総勢約150名と日本の銀行・証券の最大勢力を誇った。チューリヒが本店で、ジュネーヴ、ルガノと販売のための支店が2つあって支店長も置いていた。「ソフトをやるぞ、チューリヒに出てこい!」と週末に日本人は全員集合の号令がかかるわけだが、思えば大変なパワハラ監督であった。日本人だけで30人以上だからチームは2つ、3つできてしまう。練習になって皆の実力を見ないとレギュラーが決められない。ここでノックをかましてみる。ひとり5本で1軍が決まり、もう10本でポジションが決まり、打撃練習でひとり10発打って走って打順が決まる。そんな感じで即決で代表オーダーが決まった。

素人のソフトはタマが遅い。右が思いっきり引っ張るのでショート、サード、レフトが華でみんなやりたい。思い出したが大学の体育でソフトがあり僕は不動の4番ショートであった。この時も血が騒いでしまい、40才でショートはちょっとキツイから「俺がレフトな」となって誰もだめなんて言えるはずなく、3番を打った。野村というのは体育会出身が多く金融界において運動の偏差値はかなり高かった。スイス・トーナメントは銀行、証券、保険チーム相手に連戦怒涛の圧勝でV9の巨人なみだった。ただニューヨークのあの時とおなじで体育の先生が中軸でおられる日本人学校は強豪であり練習も積んでいる。そちらも勝ち進んでついに決勝戦で当たってしまった。

僕はチューリヒ日本人学校運営委員長という公職の身でもあり「委員チョ~、生徒も見てるのよぉ~負けないとあとでお仕置きよぉ~」なんて校長先生からおそろしいヤジもいただいたが、選手たちどこ吹く風で元気溌剌。結局この大会唯一の僅差であったが優勝してしまった。胴上げされたのは人生で一度だけこの時で、上下左右の感覚が飛んでしまい天が雲がぐぐっと近づいてきて不思議な景色だった。その後、ソフトボール運営委員会で野村さんは強すぎる、チームAとBにするべきだと分割案も出たらしい。

この年、東京の部店長会議でスピーチをしろといわれ、壇上で仕事のほうはそこそこにこのソフトボールの話をアドリブでしたら、熱が入ってたのだろう大喝采となってしまった。1996年のことだったが平成という時代も野村證券もまだいい時代だったのだ。常務が「東、今日の原稿俺にくれないか」と来たが、「事前にスピーチ原稿を提出しなかったのは開闢以来お前だけだ」と企画室に怒られていたぐらいでそんなのはなかった。そうやって丸裸で勝負するスタイルを受け入れてくれる先輩がたくさんいたから僕は野村を選んだし、生きてもこれた。そうでなくなってきたのは世紀が変わったあたりからだろうか。

しかしそれは野村一社の話でなく世の中すべての流れだったのだ。その悠久の移り変わりのなれの果てなんだろうか、いまや野球の応援歌に「お前」はいかんらしい。部下はぜんぶお前だった僕は女性の部下を初めて持った時についに勇気をもって**さんを導入したわけだが、++くんは絶対になかった。女性の上司は経験ないが東くんより呼び捨てかお前がいい。僕にそれという感覚は女性には持ちにくいはずだ。「くん」は年齢が上とか、人事発令上の権限者であるとか、仕方なく上にいる者の権威をまとった上から目線を感じてしまう。そういうものが大嫌いで、逆になんでこんな奴に命令されるんだ、倒してやろうと思ってしまう性格なんで、僕の上に立つとしたら女性を捨てた実力者しかありえない。幸いいなかったが。

男であっても僕が「東、お前」でついていった少数の人とそうでない大多数の人がいる。お前がクンになる人もいるがその方の品格の問題だから構わない。人事権で上に乗ってるだけのについていったことは開闢以来一度もない。長にある人が「東、お前」でくる、つまり自分も裸でぶつかってきて、それを見て、元から裸であるこっちが何らかの敬意を持つかどうかなのだ。それを僕はソフトボールで監督というものを初めてやって、なるほどと思った。野球というものを、その勝ち方を僕は知ってるわけで、それはやればみんなわかるわけで、だからついてきてくれて集団の士気が上がってひとつにまとまる。忖度でもヨイショでもなく男の子の勝利の雄たけびで自然に胴上げしてくれる。スイス3拠点が団結したという手ごたえを僕は職場よりグラウンドで感じたからそれを部店長会議で話したし、それを「神聖な場で遊びの話などいかがなものか!」なんて輩はまだいなかった。

いまなら「休日出勤ですよ、組合員の時間外勤務手当はどう処理するんですか、出張費、交際費は無理ですよ」なんてアナザーいかがなものかが出てくるだろう。うるせえ、みんなこの勢いであした100倍稼ぐんだ、お前はだまってろ、で当時の僕は終わってただろう。喝采してくれた部店長もそうだったろう。それが昨今の会社の内情を聴くとそういうものはもうかけらもないし、ある意味ふつうの上下関係のいい会社である。僕が新卒で入社試験を受けても絶対に落ちただろう。いかがなものか野郎がウンカのようにはびこったのはその後だ。僕は完全な体育会系武闘派であり、秀吉の号令一下で文禄・慶長の役で奮戦し、朝鮮へ行きもせず秀吉に「いかがなものか」の讒言を吹きこんだ石田三成を関ケ原以前にぶち殺そうと企てた七本槍みたいなものだった。僕は彼らよりも執念深い。実際こいつは絶対に許さないというのがいて、ずっと後々にある機を得てきれいに成敗した。

「いかがなものか野郎」は太平の世になった徳川時代から跋扈を始める大嫌いな人種だ。秀吉の世まではそんなのはいても武士でないのだから表舞台に出ようもなく、我が藩の存続のためにお考え下されなんて老中に諭されて考えてる殿なんてあっという間に滅ぼされてたのだ。それは殿が戦さ経験がないからであって、訳が分からないからいつも側にはべって比較的に利発なそいつの言う事をつい聞いてしまう。戦地で日々体を張って戦ってる武将はそんなことをする暇もチャンスもないから讒言にいいようにやられてしまう。徳川家康の偉かったのは、自身が誰の側近でもなかったからそういうダニに等しい讒言野郎がいることを良く知っており、戦場に「伍」の幟(のぼり)を立てた騎馬隊をそこかしこに走らせレフェリー(審判)にしたことだ。女に化粧させて虚偽もありえる首実検だけではなく、「伍部隊」の目撃情報も参照してフェアな論功行賞(人事評価)を行った。関ケ原の戦いで、「伍」の幟は撃ってはならぬという敵味方なしの戦場ルールもあった。それが政治をうまく運ぶにいかに大事かは封建時代の武将たるもの皆が了解していたのであり、それを知って合戦の見方が大きく変わった。

「いかがなものか野郎」は戦争なき江戸時代になって戦場ルールの衰退とともに出現したソンタク、ヨイショだけの宦官野郎の元祖である。主君の汚名をそそぎ、仇敵の首を取って仇討ちを果たし、自ら割腹してお家に忠義を尽くした四十七士の忠臣蔵は江戸の太平の世になってから1世紀を経て起きた事件だが、それがなぜ歌舞伎にまでなってこれほど江戸人の心を揺さぶったか?戦争がないのだから武士は公務員化しており抜刀して切りあうようなことはもうなくなっていたからである。武士はこうあるべきだよね、いまじゃもういないけどさ。つまり忠臣蔵は江戸時代の「走れメロス」なのだ。そんな人はいまやいないから道徳の教科書に載るのであり、君らは違うんだけどできればこういう人になろうね!という教えが学校教育としてレゾンデトールを認められるのである。事実、忠臣蔵を崇め尊ぶ江戸のサラリーマン侍を武闘派のままの薩摩侍は笑って馬鹿にしていたらしい。文化部系のもやしみたいな秀才が運動会で頑張ってるね程度に見ていたのだろう。

僕はふりかえればサラリーマン街道においては石田三成になっていればよかったし楽だった。でも秀吉にあたる方がいなくなってしまったし、逆にその時から逆風になってしまった。それでもいいヨットのスキッパーならジグザグにうまくレースを生き延びただろうがそういうのは下手だし良しともしなかった。物産の上海支店長だった祖父が何かは知らないがケンカして辞めて王子製紙の役員になった。その血は間違いなく引いてそっくりなことになってるし、長崎の祖母は陸軍大将を出した家だし武闘派も仕方ない。やっぱりサラリーマン上司を長いこと我慢するのは無理だった。「いかがなものか野郎」は木を枯らす害虫であって世の中にいらない。政治家も野党の演説は見事にそれだらけだ。でも、僕は誰からであれ、自分にネガティブな意見は聴く。実力のある人は、かつて僕の命を狙った敵であっても評価するし三顧の礼で引き抜くかもしれない。それは性格云々ではない、なぜなら、戦国武将はそうしないと生き延びられないからだ。

 

野村證券・外村副社長からの電話

 

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