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フォーレ ピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115

2019 NOV 5 1:01:29 am by 東 賢太郎

今年は少々落ち着いた気持ちで秋を迎えられるのは、自然体でのスタンスで仕事が板についてきたからだ。これまでは日本シリーズが終わってしまうと「野球ロス」で空しかったがそれもない。

5年前の10月にこういう物を書いた。

クラシック徒然草-秋に聴きたいクラシック-

いまはこう思う。秋にふさわしいって、まさにフォーレじゃないか。

ガブリエル・フォーレ(1845-1924)はその真価が最も高位にある少数の作曲家に属し、かつ、そのことが最も知られていないひとりに属し、母国を除くなら、彼があるべき評価を得ている国はイギリスのみである。僕はロンドン滞在時代に頻繁に演奏会に同行した、顧客であり友人でもあった紳士にそう教わった。

プライド高い英国人の身贔屓を割り引いても、今でもそうかもしれないと思う。ドイツ系の演奏家がベルリオーズ、サン・サーンス、フランク、ドビッシー、ラヴェルを手掛けることはあってもフォーレは少ない。それは彼に交響曲や大規模な管弦楽作品がなく、劇場向きの音楽よりも歌曲、室内楽、ピアノ曲に多作であることと関係があり、ともするとサロン音楽家のイメージに矮小化される愚に陥ってしまう。さらにオルガニストとして出発した彼の作曲法は、ショパン、モーツァルト、ワーグナー、シューマンの影響を経て初期にはシシリエンヌやパヴァーヌなどロマンティックで滋味あふれる旋律を持つ小品を生み出しているものの、中期以降はモノクロの音調で多様な転調を見せる内省的な作品が増える。

我々はドビッシー、ラヴェルによってフランス近代音楽の幕が開いたという認識を持っており、それに「印象派」という本質とずれのある絵画史の概念を “誤って” 援用し、「印象派以前、以後」というステレオタイプな区分けをしているのである。それゆえに、”ドビッシー以前” と認識されているフォーレは19世紀フランスの古典的なロマン派の残滓を残した時代遅れの保守派というあいまいで確固としない場所に置かれることとなり、”誤りの 印象派に eclipse される” 結果となっていることが過小評価の原因の一つだ。

印象派絵画が光と色彩の芸術であるとするなら、フォーレの後期の作品は印象派と呼ばれて不思議でない。ただし、ここで特記すべきことは、フォーレは楽器の音色による効果を音楽の重要な要素と考えていなかったことだ。ケクランらに自作のオーケストレーションを任せたことでわかる。楽器法は単なる自己満足か、作品に創造性のないことを隠すためのものと考えていたフォーレは、パリ音楽院の生徒にグロッケンシュピール、チェレスタ、木琴、鐘、電子楽器の使用を控えるよう指導していた。我々が印象派とイメージするドビッシー、ラヴェルの色彩(colour) を感じさせる管弦楽とは遠い感性の人であり、これが“誤りの 印象派に eclipse される” 原因となっている。

ではフォーレは「光と色彩の芸術」を何によって表現したのだろうか?それは和声だ。彼は師であったグスタフ・ルフェーブルの著書「和声法」(1889)に則って、従来は不協和音とされていた和音や解決しない非和声音による光と影の彩色法を使うことで、誰とも異なる音楽語法を開拓したのである。初期の曲は主調が明確だが後期に至ると頻出する転調によって複数の主調があるかのようになる。ただそれは多くがエンハーモニック(同名異音)を基点としたような内声部からの転調で、延々と続くメロディの起承転結をぼかしてしまう意外さはあるが他の作曲家が用いるように劇的ではなく、屋外での陽光の移ろいのような朧なものだ。それをフォーレは音色より重視した。

「高級な」という日本語はあいまいだが、英語ならhigh-grade、sophisticatedとなる形容詞を音楽につけるとすると、僕にとってフォーレの後期の曲はそれだ。高級であるにはいくつか要件があって、美しいのは当然として、犯し難い気品、そして何より、難攻不落な謎が背後に感じられなくてはいけない。すぐお里が知れるのはチープなビューティーであってすぐ飽きる。高級な宝石は組成の理由も知れぬ不可解な色と光彩の美を発散するし、高級な料理や菓子はレシピや製法がネットで知れ回るようではいけない。そこに理屈は存在しないが、人はそういうものにgrade、sophisticationを感じるようにできている。そして、そのことは僕においては音楽の謎がスコアを見て解決してしまう程度ではいけないということになる。

そう考えると、楽器法が謎かけをする体(てい)の音楽を下に見て、音楽の本質に深く関わる和声で色と光彩を思考していたフォーレのスタンスはもっともである。アーロン・コープランドがフォーレをフランスのブラームスと評したのは、その高級感のあり方が和声に根ざす点では同意だが、フォーレはより比重が大きい。ピアノ五重奏曲第2番ハ短調作品115の第3楽章(以下、Mov3)の、秋の夕暮れの陽光が森の木々の陰影を織りなしながら時々刻々と移ろってゆくような玄妙な和声の揺らぎは他の音楽から聴いたことのない驚くべきものだ。楽器5つのスコアはいたってシンプルに見えるが、すぐ現れる転調、というか、調性が変わったという事なのかそれが本来のメロディーであったのかわからないような揺らぎという物に幻惑され、夢の中のような蠱惑的な謎の迷路をたどり、長いコラール風主題による宗教的な安息に到達する。

Mov2は目にもとまらぬアレグロ・ヴィヴォで、主調は変ホ長調であるがのっけからラが♮に変位して調性がわからないまま謎の疾走となる。ショパンのソナタ2番の終楽章を想起するが、2番目の楽章に不意にこれが襲って来る謎のインパクトは計り知れない。Mov3に比肩する和声の迷宮がMov1である。この楽章の素晴らしさは和声だけではなく、構造面にもある。3つある素晴らしい主題のどれが第2主題かという詮索は些末でソナタ形式の3主題構造はモーツァルトにもいくつも例があるのでどうでもよく、ポイントは各主題が順次現れ展開する様で、フーガ風になり、音型が伸縮して小節線を越えて組み合わさり、再現してコーダに至る前に再度複雑に展開する重層構造を持っていることだ。その効果は圧倒的である。Mov4はピアノが前面に出て全曲をまとめる。この楽章だけは先行する3つの楽章の高級感にやや達しない観があるが、それでも立派なピアノ五重奏曲の締めくくりとして完璧な充足感をもたらしてはくれるものだ。

もうひとつ特徴を付け加えると、Mov3が四分の四拍子である以外は四分の三拍子で書かれている。拍節感は概して希薄で譜面を見ずにそう気がつくことは困難だが、フォーレはそれを変拍子で記譜することはない。この保守性と革新性の混在は、調性音楽の外観を保持しながらストラヴィンスキーやミヨーが試みたような複調ではない方法のまま既存の調性概念を超えたこととパラレルに感じられる。この驚くべき音楽はドビッシーが没した翌1919年に着手され21年に完成しており、マーラーの交響曲第10番(1910-11)の10年後に現れた。「月に憑かれたピエロ」(1912)、「春の祭典」(1913)、「中国の不思議な役人」(1919)、「ヴォツェック」(1921)と同期する空気の中で書かれ、和声音楽がトリスタンと異なる路程で行きつくことのできる別の惑星が存在することをドビッシー以外の人間が示したという意味で真に革新的なものだ。ショパンが作曲していた頃に生を受けた人間が書いた音楽として、それが20世紀の音楽への連続性を覗かせることを示す最後の作品であり、彼をドビッシーにeclipse される存在とする思い込みは誤りであることがわかる。これ自体が信じ難い音楽だが、難聴で、しかも高い音がより高く低い音がより低く聞こえるという病の中でこれを書いたフォーレの量り難い天才に最高の敬意を表して稿を閉じたい。

 

ギャビー・カサドシュ(pf)/  ギレ弦楽四重奏団

素晴らしい演奏。何がといって、5人の奏者が和声を完璧に “理解” して見事な音程で弾いていることがだ。フォーレが書きこんだMov1,3の音符の凄さをストレートに知覚させてくれる意味で他の演奏を圧倒しており、僕のような聞き手は耳に入ってくる音のいちいちに興奮をそそられる。プロだから当然?いえいえ、それがいかに困難かはyoutubeでご確認できる。Mov2におけるロベール・カサドシュ夫人のピアノも目覚ましく、もっと録音を残してほしかったとつくづく思う。録音が古くさく楽器音がヴィヴィッドに前面に出てくるのは好き好きだが、僕は表面的な美しさよりも音楽の本質的な美を味わいたい。

 

ジャン・フィリップ・コラール(pf)/  パレナン四重奏団

僕はこれで覚えた。決して悪くないが弦楽四重奏がやや後退したように聞こえるアコースティックで、非常に精妙に書かれたMov1、3の和声の味がギレ盤ほど聞こえない。ピアノ五重奏のバランスの難しさで実演はこっちに近いが、あまりこだわらずに平面的に楽器を並べたギレ盤が2Vn、Vaのうまさで引き立っているのは皮肉だ。コラールのピアノは上品、パレナンQはロマンティック寄りであり今となるとホールトーンの中で融け合うように綺麗に丸めた和声はMov3は少々ムード音楽に近い感じがしてしまい、フォーレが求めたのはこれではないだろうという気もする。全曲のまとまりは良い。

 

ローマ・フォーレ四重奏団

元イ・ムジチのコンサート・ミストレスだったピーナ・カルミレッリ率いる五重奏団。フランス系の演奏だと往々にしてわかりにくいメロディーラインが遅めのテンポでポルタメントがかかるほど切々と歌われるのが愛情の吐露だろうかとてもいい。いっぽうで和声の知的な理解も深く、近接した音程の内声の活かし方はそうでないとこうはならない。技術的に弱い部分もあるが、なぜかまた聴こうという気になる謎を含んだ演奏だ。

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