Sonar Members Club No.1

since September 2012

満員電車のっちまえ族

2020 FEB 1 20:20:54 pm by 東 賢太郎

僕はそのひとりであった。中学から12年ほどお世話になったから、そこそこ筋金がはいっている。往復3時間、トータルするとほぼ丸1年間を満員電車で過ごした計算になるからだ。

小田急線も中央線も朝夕は殺人的だった。座るなど論外であり、吊革(つりかわ)につかまれただけでラッキーと思うも束の間、線路のカーブで物凄い圧で後ろからのしかかられ、慌てて手をついた窓ガラスがしなって割れそうになり、仕方なく座っている人の上に倒れこんで御免なさいなんて都会ではあるまじき光景が展開する。押しくらまんじゅうという遊びがあったが、あの状態のまま右に左にジェットコースターみたいに振り回され、足を踏まれ、見知らぬ人の汗と体臭と息にまみれる。人間事と思えぬ地獄の3時間であった。

あれに乗ると何かいいことがあったろうか?ない。というより、それを考えたことも疑問を持ったこともない。東京都下の鶴川に住んでいた僕にとって満員電車は家具のように生活の一部であり、敷かれたレールの上を当たり前のような顔をしてやってきた。レールの先の霞みの遠くのほうには大学、就職という名の駅があるらしかったが、さらにその先はというと終着駅は名前も見えておらず、やがて時がたってそのあたりまで来たつもりがいつの間にかレールは途切れていたから何を保証してくれたわけでもない。満員電車は「嫌だろう?のりたくないだろう?でも多勢に無勢というぞ。長いものには巻かれるんだ。のっちまえば楽だぞ楽だぞ・・・」と何者かの声が潜在意識下で聞こえている気もするが、それ以前に家具である。「満員電車のっちまえ族」の第一の特徴である。

海外勤務になったのがどれほど福音だったか。あれに乗らなくていいというのは、僕にとって英語ができるようになるよりもボーナスが倍になるよりも価値があった。ロンドンでも1年ほど地下鉄通勤をして、時間帯によってはそれなりに混んではいたが、ぎゅー詰めでドアが閉まらぬ事態のために乗客の背中や尻を押す達人を配備した駅というものはなかった。世界で初めて地下に鉄道を走らせた彼らはそれをトンネルの形状からチューブと呼ぶ。僕は丸っこい穴からにゅっと出てくるモグラを連想していたが、東京に初めて来た英国人は満員電車を目撃して convoy(護送車)と形容した。

こういう電車は東南アジアにもある(写真はタイ)。日本もかつては貧しかった。しかし、G7にまで昇りつめ世界3位のGDPを誇る国になっても、50年前と変わらぬ姿で存在している満員電車なる空間はいったい何なのだろう?何を意味してるのだろう?お考えになったことはあろうか?それがNOであることが「満員電車のっちまえ族」の第二の特徴である。

インドやタイの一人当たりGDPが今の日本なみになれば、こんな電車に好んで乗りたい輩は素直に消えているだろう。素直に存続している日本は世界でも稀なる国であり、満員電車はそれを象徴する特異な空間というべきなのである。それは、日本語という世界でも特有の粘着質の言語と文化が強固なグルーとなって人々が結合した、日本国なるスペクトラムの内にしか存在しない、ある種の宗教的スペースである。毎朝6時すぎにあれに乗り、死ぬほどの苦行を共にすると、何という安心感が得られたものだろう!俺は私はがんばっている、レールに乗っている。そういう見知らぬ人々が、私もあなたも日本人だね、それわかってるよ、だからここにいるんだよね、お互いにいやだけどね、ああ疲れた、やっと到着だ、でもこれが人生だ、まあ辛いけど今日も頑張ろうと、貴重な時間と忍耐を人質に差し出して日々の生活の安堵をいただく。

それはお正月、神社へ出かけて願をかける初詣という安らぎの儀式のデイリー版のようなものなのだ。我々は西欧の原理、呪縛、科学や法律や数式や合理主義の衣をまとって日々生きている。ああ面倒くさい、鬱陶(うっとう)しい。世の中そんなもんで動いてね~よ。その衣を、お賽銭を投じてえいっと脱ぎ捨てるのだ。その瞬間、やさしい和の心をもった神様が現れて願いをきいてくださる。理性ではそんなはずはないだろうと思いつつも、真剣にお願い事を心に唱えると安らぎの気持ちがいただける。お札や破魔矢や熊手を買っておみくじを引いて、ああ、日本人でよかった、やるべきことをやった、これで今年も安心だ!日枝神社がどんなに凄まじい雑踏になろうが、立ちんぼで1時間待たされようが構わない、むしろありがたい。行った神社がガラガラでは御利益がない気がする。「満員電車のっちまえ族」の第三の特徴である。

ドイツに赴任して何年目かの一時帰国休暇で東京の地下鉄に乗った。たしか水天宮のあたりだから半蔵門線だったのだろう、真っ昼間なので車両はガラガラである。すると隣りに座っていた幼い娘がきょろきょろしながら「ねえパパ、あの白くて丸いものなあに?」と上の方を指さした。

言われて吊革をまじまじと眺める。初めて見た娘の疑問はもっともと思った。無数の輪っかが空中に延々と、まるで陸軍の隊列みたいに寸分の狂いなく一直線に並んだ光景は美しい。しかも、たしかに白い。七五三の飴みたいに、ぴかっと真っ白なのだ。ニューヨークの薄汚れたサブウェイを見慣れた眼からすると、こういう場にあるのは甚だそぐわしくもない穢れを知らぬ純白ぶりだ。この宗教的空間の欠かすことならぬ神具である。

ああ日本だと思った。こういう眼になっている。吊革の印象は僕の変遷してしまったビジョンと感覚の象徴であり、日本国のあらゆる物事についてすべからく、自覚はないけれど、僕は知らず知らずそんな眼で眺めるようになっている。だからもはや満員電車のっちまえ族ではない。日本人と思って同意を期待され、想定外のリアクションに驚かれてきたに違いない。16年海外で毎日英語で仕事したのは重い事だった。それをバイリンガルとか、そんな目線で語ることは無理で、僕の思考回路をDNAとするなら塩基配列の一部に英語回路が組み込まれてしまっている。正確に説明するには英語の方が楽だし、英語の方がぴったりの形容詞があったりするし、こうして書いている日本語もたぶん英語回路から出ていたりするのだろう。

といって、僕はそのことを正確に理解できる人は塩基配列の一部に英語回路が組み込まれている人だけだという悲しい事実も知っている。それは遺伝や育ちや学歴や職歴でどうなるものではない、英語人になって10年もしないと脳の神経回路は変わるものではなく、そうでない回路がいくら性能が良くとも概念的な理解や想像では把握できない。だからそうでない人に理解を求めようということもない。平成、令和と日本はどんどん昭和離れし、近頃は女子が昭和のオジサンをカワイイ!と愛でる時代だ。いずれその世代は「満員電車のりません族」になってテレワーク(在宅勤務)が常態化し、満員電車の人口密度は緩和されるのだろうが、決して「のっちまえ族」が滅亡するわけではない。塩基配列に何ら変わりはない「新型のっちまえ族」が日本の大多数派として出現するだろう。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

Categories:______世相に思う, 新型コロナ・ウィルス, 若者に教えたいこと

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊