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ユリア・フィッシャーのモーツァルトを聴く

2020 JUN 25 1:01:03 am by 東 賢太郎

コンサートがないのでyoutubeを見てますが、ユリア・フィッシャーさんがモーツァルトのヴァイオリン協奏曲を語ってます。

1,2番はバロック的で3,4,5番はベートーベン世界に移行しつつある。モーツァルトがというよりコンチェルトという世界が移行していく時期に書かれた作品だ。同じ作曲家の曲をチクルスで通して弾くと同じ弾き方になりがちだが、モーツァルトの場合は曲ごとに弾き分けないといけない。最も注意深さを必要とする作曲家で、私は曲をすぐ覚えられるがこの5曲はそうはいかなかった、という趣旨を語っています。

余程のモーツァルト好きでなければ1,2番を諳んじていることはないでしょう。普通は3,5番なのです。こういう背景をふまえて、彼女は「ともすれば1,2番は学習者用の作品と思われていますが、私は子どもの時に3,5番しか弾かなかったので幸いでした」と述べています。こういうものの言い方は非常にハイレベルな知性と自信が無いと高慢に思われるだけでなかなかできません。僕が彼女に惹かれているのは、それが口だけでなく音にも出ているからだろうと、今回ビデオを見ていてそう確信しました。

性格なので致し方ないのですが、僕は知性を感じない演奏家は総じてだめです。まったく聞く気もしない。テクニックを素材として表現すべきは知性だと思ってるからです。どっちが無くても音楽になりませんが、テクニックで終わってる人が実に多いのはそれで満足する聴衆の責任でもある。譜面を伝統に照らして的確に読むのはテクニックの内です。そんなのはあたりまえである。そこからが演奏家の創造の世界であり個性の発露です。それが演奏の出発点といってもいいでしょう。

第2番ニ長調K.211です。

第2楽章は出だしが調までドヴォルザークのチェロ協奏曲第2楽章と全く同じで、中間部で魔笛に通じるナポリ6度がきこえます。第3楽章の出だしはピアノ協奏曲第21番 K.467の終楽章に顔を出します。そういうことまで見通して弾いているかどうか、会ってみた彼女はイメージ通り実に聡明そうな女性でしたからどうでしょう。まあいずれ学ぶでしょう、そうでなくても。

彼女は「注意深さを必要とする(彼女の英語で「attentiveであるべき」)」音楽に向いてますね。俗にいう回転がものすごく速い人で、抜群の記憶力と技術で人の2倍の速度で処理しながら絶対にミスしないし、苦労してできたという感じがなく、ひょいひょいとやってしまう。ワタシ失敗しないのでを地で行く人です。普通の演奏家が弾くだけで大変そうな高速の運指の場面でも一つひとつの音符に「注意」がこもってるのがひしひしと伝わる、それも神経質にでなく「楽興をのせる」という風にです。演奏を見るとわかりますが、音楽を心から楽しんでますから機械的に陥らないのです。

僕はクラシックファンは基本的には知性的と思っていますが、日本ではどういうわけかすぐれて「反知性主義」なところがあります。精神性、こころ、深みという言葉で形容される形而上的要素が必須とされ、欠いていると凡庸だと烙印を押され、それならば譜面を逸脱した狂乱の爆演の方がましだという風潮です。これは大きく間違っていますが、通ほどその傾向がある。通になるには何がしかの知性は必要ですが、その人が反知性主義であるという分裂がおきる文化は奇妙ですらある。

一般論として、左様な分裂の誘因として代表的なものは宗教による洗脳でしょう。通の教祖である昭和の評論家が精神性、こころ、深みを教義として広めた。僕自身「レコ芸」主筆クラスの評論で知識を得ましたが洗脳もされました。ただ、欧米に長く住んでその教義が英語、ドイツ語にならないことも知りました。ではあれは何だったかというと、結論だけ書きますが、評論家が通になるに至った自分の趣味の表明だった。それはそれで貴重な理解の土台にさせていただきましたし、英国、ドイツの通人と一緒に数多の演奏会を聴いて、日本の著名評論家各人の好みのベースの類型も理解しました。

趣味とは人の数だけあって要は好き嫌いなのです。「精神性」は洋物の鑑定に書いておけば反論されない、いわば業界の符牒としてのお墨付け用語だった。「この古伊万里は塗りに味がありますなあ」の「味」に相当する通だけがわかると認知された和風基準です。洋物を和風に味わってはいかんというのではありません。彼らはれっきとしたインテリ、知性派ですが、敗戦で和風知性を凌駕された米国知性への強烈な侮蔑と反感があったと思う、そこが問題でした。それイコール科学であり唯物論的知性だから、形而上的、非物質的知性に基軸が振れた。その象徴が「精神性」というワードであったと解釈しております。すぐれて終戦後的、昭和的な智の性向であったでしょう。

僕自身その空気を吸って育ちましたし非物質的知性に深く引かれる性格を持っていますが、まずは唯物論的知性で無用な澱を洗い流してみようという行動原理を持ってもいます。むしろ後者が強い。だから昭和的な智の性向は「澱」だったと気づき、自然と思考回路から完全に除去されました。その土台のうえに築かれたのが僕の音楽嗜好だったということです。嗜好は意図と無縁に醸成されるものですから食べ物や異性の好みに似ます。本質的に100%我が儘なものであり他人と違って当然であり、他人に押しつけるものでもありません。したがって、僕は彼らにおける精神性のような宗教ワードは忌避しますし、書いたことのご判断は読み手の知性に委ねることしか致しません。

僕がなぜユリア・フィッシャーの演奏が好きかというと、単に好みだからであり、それはなぜモーツァルトが好きかという問いの答えでもあります。モーツァルトに精神性のようなものなどかけらも感じないし、求めもしないし、彼は簡単でなかった人生その場その場で立ち現れた難事に抜群の回転の頭脳と天性の楽観性で立ち向かい、切りぬけた。その「あっぱれ感」がたまらず好きで、応援団であり自分の人生来し方に投影もしている。彼の音楽をどう演奏してほしいかについては、もう50年の歳月を経て確たる自己基準ができていて、それに照らして彼女の演奏姿勢は(出した音というよりも)とても共感するものがある。それが彼女の、テクニックから先の創造であり個性の発露と思うのです。

以前にもご紹介しましたこのビデオ、改めていいなあと思いました。ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364の第1楽章です。いかに楽しんでるかご覧ください、彼女の楽興がヴィオラに乗り移り、オケ全体にも電気のように伝わってます。

1分33秒あたりからオーケストラがクレッシェンドするワクワク感。モーツァルトですねえ。1分49秒でフォルテの頂点に達したと思うと1分57秒からまた不意に静まってあれあれと思うと、2分14秒からソロのふたりがピアニッシモで、聞こえるか聞こえないかぐらい、獲物に近寄る猫みたいにひっそりとユニゾンで入ってきてだんだんクレッシェンドします。なんていう効果だろう!

作曲当時、鍵盤楽器(ハープシコード)は音の強弱が出せず、オーケストラもフォルテとピアノの交替はあってもこんな「音量のグラデーションをつける」という発想はありませんでした。聴衆はびっくりしたでしょう。こんな新奇なことをモーツァルトもひょいひょいとやってしまう。ロッシーニはクレッシェンドの効果を盗んだし、ベートーベンは彼なりの劇的なやり方で第5交響曲の終楽章へのブリッジに使っています。

ユリア・フィッシャーさん、モーツァルトに会わせてみたいですね、ひょいっとできちゃう天才同士で何か起こりそうだ。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

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