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僕のライフワーク(田中平八と真崎甚三郎)

2020 OCT 3 9:09:11 am by 東 賢太郎

だいぶ前に先祖の “天下の糸平” こと田中平八のことを書いたところ、お読みになられた親戚の方から丁重なメールをいただきました。ありがとうございます。

信州の駒ケ根、伊那、飯田を訪問したのは前々職にあったころ、ただ一度です。2006年の秋だったでしょうか、当時、SBI証券副社長でした。伊那支店長に案内されてゆかりの地を回りましたが ”糸平さんの子孫” と紹介されるや何処でも恐縮するばかりの歓迎をいただいたことを覚えています。連れて行ってくれた支店長に、この場を借りて深謝します。

宿は高遠の温泉旅館にとりました。著名な桜の名所ですが秋もよろしく、湯も食事も堪能しました。高遠は武田勝頼の弟である仁科盛信が籠城し織田信忠軍に滅ぼされた激戦地です。勝頼が天目山に敗死してから武田一族は天下に流れ、高遠にほど近い信州赤穂村(現・駒ケ根市)に隠れて藤島を名乗ったのが平八の十七代前だと早乙女貢著「天下の糸平」(文春文庫)に書かれています。メールをくださったのは、その藤島様でした(平八の幼名は藤島釜吉)。

メールによると「来年の渋沢栄一大河ドラマにつき、駒ヶ根地域おこしで駒ヶ根シルクミュージアムで天下の糸平パネル展を行っておりその関係でいろいろと関係者が聞きに来ます」とのこと。行きたかったです、テレビに疎く知りませんでした。健在だったころ叔父が仕切って、母方一族郎等で平八の墓がある横浜・良泉寺、伊藤博文筆の ”天下の糸平”の石碑がある墨田区の木母寺へ参ったりしてましたが、世代が変わるとそれもなくなって寂しく思っていたところでした。

田中平八(1834~1884)は横浜開港と同時に英国人相手に生糸の商売をし、両替商、東京証券取引所発起人、銀行家でありましたが、僕もそれらの業務で家族を食わせてまいりました(ただしまったくの偶然の成り行き)。いまも何の疑問もなくそれをしており、特に外国人と株式取引をすることは、好んで選んだわけではないですがやっていて楽しくて仕方ない天職の域に感じます。

僕は平八の姉の玄孫でDNAは16分の1ですが、学者、官僚タイプでなく根っからの商人であること、それも彼とまったく同じ証券、金融の道で自分の腕一本で食ってきたという自負はございます。渋沢栄一は、彼を古川市兵衛、三野村利助と共に「財界における3傑」と評し、「いずれも無学でありながら、これほど非凡の才能を備えた人を見たことが無い」と評したそうですが、お言葉ですが僕はビジネスの現場で学が必要と思ったことは一度もありません。

平八の生涯は資料が潤沢とは言い難く、評伝はどれを見ても同じことが書かれています。稀代の相場師と喧伝されていますが、商売は仕入も販売も相場でありそれに長けていたのは当たり前です。伊那の農家の三男坊にとって出世のための蓄財のいち手段にすぎずそれが職業のように書かれてしまうのはおかしい。彼は政治家とつながってはいましたが権力に執着は見られず、熱海の水道・電話線を私財で架設するほど財を成し東証の大株主でも銀行のオーナーでもありましたが、座った公的ポストは東京米商会所頭取ぐらいでした。ポストで人を見る日本において評価が定まりにくかった原因はそこにありましょう。

藤島様とは来年にお会いし、 “天下の糸平” の系図や資料を共有させていただき、事績を彼と同じビジネスの目で評価し、できれば何か書き残したいと願っています。これともうひとつ、我が祖母・真崎ミカと2・26事件の陸軍大将・真崎甚三郎のつながりを調べることがライフワークです。

伊藤博文と太平洋戦争

本性は職業軍人的な理由(二・二六事件)

 

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