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我が家の引っ越しヒストリー(1)

2021 SEP 23 22:22:13 pm by 東 賢太郎

片づけ、掃除、旅行のパッキングには明らかにうまいへたがある。誰でもできると思う人が多数派だろうから、普通にできる多くの人と、とても下手くそな少数の人がいるということかもしれない。どうして自分が下手なのかはわからない。小学校ではボーイスカウトの子供版(カブスカウトという)に入っており、キャンプなど実地で色々教えられたはずだが、それでもだめだった。教室の掃除では女の子に邪魔物あつかいされて苦手意識が焼きつき、そのまんま大人になってしまった感じがある。

ちなみに引っ越しというものは片づけ、掃除、パッキングの複合競技みたいなものである。生まれてこのかたそれを21回も挙行したというのは、だから大変なことだった。はじめの5回は国内移動だったが、結婚して海外へ出てからの16回、とくに子供ができてからの11回は大作業だった。ピアノも12回移動しており家が大きくなるにつれ雪だるま式に荷物が増えてくる。その帰結である今の家ではついに僕のものだけで4部屋分にもなってしまった。しかし偉そうなことは言えない。すべては家内が取り仕切ってくれたからだ。

日本人の生涯の平均引っ越し回数は3.04回(国立社会保障・人口問題研究所、2018年)だから僕はすでに7倍もやったことになる。21回のうち国内は9回で、子供のころ親が引っ越したのが3回、転勤が3回、香港から帰国して借家が2回、ついにマイホームに移ったのが1回だ。日本の移動はどうということはないが、残りの海外12回に尽きぬ苦労と思い出があるのは海外族か商社マンならわかってくれるだろう。転々としたからマルコ・ポーロかジプシーの域である。ちなみにやっぱりそうだったモーツァルトは14回引っ越しをし、人生36年の28%が旅先だったが、僕は36才時点で29%と彼を上回っている。

ここまでの人は海外にもあまりいないが、東インド会社の社員や英国海軍の軍人ならありだろう。アガサ・クリスティーの小説には中東、アジアに赴いた考古学者や軍人がよく出てくるが、あの感じである。植民地がたくさんないとああ自然にはならないが、当時のノムラの海外拠点は当地で圧倒的にドミナントな存在で、言い方は悪いが植民地の司令官みたいなものだった。そのせいか大人になるにつれ僕はだんだん英国人の気質や哲学に共感を覚えるようになった。実体験なのだから気取っているわけではないし、ロンドンに6年いたからというわけでもないのだが、世界各地で長い時間を過ごした五感がそうさせるのかと思う。

さて、本稿は引っ越しのドタバタを主題に海外で住んだ家をふりかえろうというものだ。ひとつの家に長くて2年、つまり1,2年で悪夢の引っ越しになるのだから気ぜわしかったが、今だから書ける楽しみがいっぱいだった。海外に留学したり勤務するとまず不動産屋に頼んで貸し家を自分で探すわけだが、こいつは骨が折れるけれどもエキサイティングな作業なのである。なにせ海外の家はでかい。若いみそらには豪邸で、あちこち見て歩くだけでも楽しい。それを新居に選ぶワクワク感を12回も味わえたんだからジプシー万歳だ。

シェアルームにて

始めは留学である。当時、野村證券には留学は単身者のみという規則があったが、辞令が出てから人事部に無断で結婚してしまった。さんざん部長に叱られ「いいな、おまえ、許してやるけど半年は単身で行くんだぞ」と厳命され(注)、仕方なく学生寮でアメリカ人とルームシェアする羽目になった。部屋は壁で分かれていたがドアがなくカーテンだ。相棒はハーバード卒の秀才でいい奴だったが女を連れこむのにはまいった。しかもこっちは片づけ、掃除の劣等生でベッド以外は滅茶苦茶。自炊など到底無理で栄養失調気味である。英語はわからんし勉強は地獄で、こりゃかなわんということで秘密裏に3か月で家内を呼んでしまった。

つまり再び人事部長命令を破ったことになるが、情報が漏れていたかどうかはともかくお咎めはなかった。そこでまず夫婦用の学生寮であるグラッドタワーに移った。しかしいまひとつ代り映えせず、さらに引っ越したのが学校に近いローカスト・ストリートにあるフェアファックスというアパートである(写真)。百年たってそうなおんぼろだったが中庭があるのが良かった。10階建てのレンガのファサードは立派で、10階の景色の良い角部屋があいていた。これが趣味に合った。映画で見知ってあこがれたアメリカの住まいは大いに気に入ったのである。この写真、当時とかわってない、40年も前なのに今そこにいるようだ。ここが東家のスタートになったことは子孫には伝えておかねばならない。

Fairfax Apartments

なにせマックが買えないぐらい生活は劇貧状態だったが、さっそく家内と古道具屋で100ドルの品の悪いガラステーブルやランプを思い切って買ったりした。それが高級品に見えていたのだ。思えば部屋のお隣さんはメイフラワー号のピルグリム・ファーザーズの末裔のお嬢さんだったし、そう安アパートというわけでもなかったかもしれないが。近くのアクメというスーパーで買い物し、週末は教会の黒人霊歌で目がさめ、家内の作る日本食を目あてにクラスメートがガヤガヤ集まって酒宴となる。現・日本産業パートナーズ社長である畏友・馬上英実(当時

古澤巌

は興銀)はじめメキシコ、インド、ケニア、スイスの連中など国際色豊かであり、ゲームで盛りあがり僕がギターでビートルズを歌いまくった。仲良しだったヴァイオリニストの古澤巌も我が家の常連でこの家でモーツァルトの3番の協奏曲を弾いてもらっている。とにかく、若かった。卒業してここを去るときに、荷物を送りだしてがらんとしたリビングがとても寂しかったのを覚えている。

 

(注)「いいな、おまえ、許してやるけど半年は単身で行くんだぞ」

こう言われて会社に送り出され、家族、友人たちが成田で見送ってくれ、最初に入ったのがコロラド大学のエコノミック・インスティテュート(語学学校)だ。そこで早々に予期せぬ大事件がおこる。それがこれであった。

野村證券・外村副社長からの電話

我が家の引っ越しヒストリー(2)

 

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