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我が家の引っ越しヒストリー(6)

2021 OCT 30 8:08:18 am by 東 賢太郎

時は1993年5月17日の月曜日の夕刻。金融都市フランクフルトの中央に位置するアルテ・オーパー(旧オペラ座)の席に、僕はひとり座っていた。

演目はブラームスのピアノ協奏曲1番、2番。この日になんて図星な曲だろう。夢見心地で楽しんで真っ暗な外へ出ると、春めいた空気がやわらかく頬を撫でて幸福だった。これぞ人生最高の日である。「このまま今日という日が永遠に続いたらいいな」。そう考えながらパーキングに向かって歩いていたことを今でもはっきり覚えている。すでに内示を受けていた。その翌日の午前9時に、僕のノムラ・バンク・ドイツGmbhの社長就任の発表があるのだ。眠れそうもなかった。

若い。38才だった。前任者は5年上であり、在ドイツの銀行、証券、保険20数社の社長会では一回り若く、社員数70余名の会社規模はというと日系金融機関で最大だった。生活は一変した。スケジュール帳を見返すと、きっちり翌日から秘書の筆跡に変わっている。気にいっていたケーニヒシュタインの家は残念だったが引きはらい、フランクフルト市内の社長公邸に引っ越すことになった。巨大な庭付きの建物に完全にセパレートされた3つの住居があり、ドイツ有数の州立銀行であるウエスト・ランデス・バンクの頭取邸がそのひとつを占めていた。

Haeberlinstraße 69, 60431 Frankfurt am Main

庭の一部

現法の社長。どういうものかというと、その国の最高経営責任者でありその国の全権大使でもあり、いわばGHQのマッカーサーである。在日米国企業のアメリカ人トップはそう処遇され広尾や白金のでっかい住居に入るだろう。当時のノムラは誰もが認める世界最強の証券会社であり、それ同様のものが当たり前のカルチャーであった。僕が野球でデンバーからニューヨークに呼び出されたのも、たかが野球とはいえ負けるわけにはいかない、ノムラは常に一番なのだという強烈な文化があったからだ。そうすると呼ばれた方も負けるわけにいかず、10年もマウンドに登ってないのに好投して前年度優勝チームを倒してしまう。火事場の馬鹿力だ。全社がその勢いで仕事でも勝っているから株価が上がったわけで、そんな遊びに経費を使うな等のチンケな議論は出ようもなかった。

38才で持たされた社長の名刺も重かったが、こんな豪邸に入れられてしまうとビジネスでも「でかいことをやらなくてはいけない」という目線になる。頑張ってそうなるのではない、人間というのはそう出来ていて、いつの間にか “勝手に” そうなるのである。この日を皮切りにスイス、香港と大拠点でトータル7年間も社長職をやらせてもらったことが、小さなつまらない人間だった僕をフルモデルチェンジしたことは間違いない。ドイツに行って良かった。あの時ノムラをやめないで正解だったのだ。若い人には力をこめて申し上げたい。「人間万事塞翁が馬」だ。それを絵に書いたようなのが、このあたりの僕の人生だ。

ドイツには運転手が2名おり、行き帰りから国内諸都市への出張まで全部おまかせだ。休暇を除くと自分で運転することはなくなった。この年の4月に小学生になった長女を出勤がてらに車に載せて、毎朝学校でおろしていた。ちょうど通り道だったのと安心安全のためだったが、周囲には銀のベンツでご送迎と見えたようで目立ってしまった。次女のほうはまだ3才であり、当地の社長で幼な児がいるのはとてもミスマッチだった。とはいえ社長業はもっとミスマッチなのだからあんまりそういうことを気にする余裕もなかった。

まずは公官庁、大使館はじめ関係各所にあいさつ回りだ。日系の業界団体である金融証券会で紹介されたが、見まわすと各社の社長は50才前後である。なんだこの若僧はという空気であった。しかもドイツ語ができないときている。興銀のドイッチェ・シューレ(ドイツ派)は有名だが野村も代々ドイツ留学者のポストで、お前は英語派だから1年間は遊ばせてやる、しっかり勉強しろということだったのだ。しかし、現実は遊んだだけだ。社内的にはどうあれ業務上は銀行であるため、それを公に名乗るにはBAK(べーアーカー、ドイツ連邦金融監督庁)のドイツ語による口頭試問をパスする必要があった。要するに、銀行のトップたる者はドイツ語をしゃべれということである。それが6月だったから浮かれている暇はなかった。

ドイツ連邦金融監督庁の紋章

それから1か月、ドイツ人の中年女性の先生がついて特訓はしたが、あっさり「無理ですね」と落第の印を押された。そこで自分の経歴をまず文章にして、それを秘書にドイツ語に翻訳してもらうことにした。自分のことなら詰まっても何か適当に話せるだろう。それを丸暗記してしまい、30分の試験時間をずっとしゃべっていれば質疑応答にならないだろうという作戦をたてた。ヒアリングができないからだ。万一の時の助け舟に後輩を連れ、6月28日、BAKのあるベルリンへ飛んだ。試験官はどんなのが出てくるかと思ったら、にこりともしない無愛想な男と女である。しかも女が上司らしく、上から目線の官僚臭がぷんぷんしている。やおら緊張が走った。女からなんたらかんたらと口上らしき言葉があったが分からない。無視して練習通りに始める。うん、いい感じだ、我ながらドイツ語に聞こえるぞ、なるべくゆっくりだ、しゃべりっぱなしで時間切れに持ちこむんだ。ところが、それを見抜かれたのだろうか、話がロンドン時代の経歴にさしかかったときにハプニングが起きる。「ちょっと待て、その仕事の内容は何だ?」と質問がきてしまったのだ。知ってる単語だけで言えるように適当にごまかすと「ダンケ」ときた。ところがだ。そこでしばし沈黙してしまった。まずい。不意に中断されたので丸暗記の文章をどこまでしゃべったかわからなくなってしまったのだ。

あとで後輩が教えてくれたが、質問が出る少し前の箇所からダブって「読んだ」らしい。僕の丸暗記というのは、頭の中にビジュアルにある紙の文字を読むことなのだ。台本があるのがバレバレになったが、じたばたしても仕方ない、腹をくくってゆっくり時間稼ぎのペースは変えず、なんとか終わりまでたどり着いた。時計を見るとほぼ30分である。あとは追加質問が出ないことを祈るのみだ。出なかった。2人は相変わらず無愛想なまま席を立って隣室へ消えて行った。随分そのまま時間がたったが、出てこない。「おい、何が起こってるんだ、こりゃやばいのかな、落ちた人もいると聞いてるぞ」と後輩の顔を見ながら気が焦るばかりだ。1時間にも感じるほど待ってついにドアが開き、男性だけが戻ってきた。僕に寄ってくると、にっこり手を差しのべ、「Mr. Azuma, you are accepted.」と、合格が “英語で” おごそかに宣告され、僕は「ダンケゼア」といった。

これでもう怖いものはない。大学に受かった時みたいに気が軽くなった。記録を見ると、決算発表を終えた西友、ニチイ、ローム、シャープ、村田製作所、松下、関電、高島屋、荏原製作所、中外製薬、四電、協和発酵の経営陣がたて続けにIRで来独し、社長御一行様との会食のホストから観光まであらゆる接遇をこなしたが、こちとらドイツ国家に公認された銀行頭取なのだから38才の小僧であれいっさい気おくれすることもない。以後、もっと来賓の多いスイス、香港でもびくともしなくなった。口頭試問にはそれなりに苦労した甲斐があったことになる。8月は念願のバイロイトまで車で赴き、音楽祭(7日土曜日)のタンホイザーを聴いて同地に1泊した。自分へのいいご褒美だった。

バイロイト音楽祭(タンホイザー)のプログラム

10月には酒巻社長が来独し、ドイツ連銀のティートマイヤー総裁にお会いする機会もあった。シュレジンガー元総裁とはドイツ野村総研と一緒に会食もした。両氏とも「ドイツ連銀の仕事はインフレ率を2%に抑えることだ」と明言された。「理由は?」と聞いたら「理屈ではない。経験的な知恵だ」と答えられた。これが黒田日銀総裁、自民党が金科玉条とする2%インフレターゲット政策の「もとネタ」なのである。そうこうするうち、11月には大きな試練がやってきた。神戸の上組からドイツマルク建て転換社債400億円の引受マンデート(リードマネージャー)をいただいたことだ。ビジネスとしては有難かったが、かつてない超大型イシューであり、当方にそんな金額を引受けした経験はない。大坂事業法人部はやりたい。条件は交渉するからやってくれと、双方で売れる売れないの激論になった。

もし売れ残ればノムラドイツは巨額の損失を出す可能性がある。しばし考え、チャンスだと思うことにした。「やることにしたよ」というと、売れるもんかと営業部は騒然となった。「殿ご乱心!」状態である。しかし火事場の馬鹿力というが、徐々にやるしかないという空気が出た。よし、やろう。ドイツ国内は信頼する部長たちに任せ、僕は多少のかさ上げが望めるウィーンにいち営業マンとして乗り込んだ。オーストリアの大手機関投資家を回って売り込みを図りつつ逐次フランクフルトに電話して販売状況をチェックし、夜になってもホテルの部屋から指示を飛ばした。馬鹿力は見事なものだった。こいつ仕事せんなと✖をつけていた50才のシンジケーション部長らドイツ人社員たちが目の色を変えて頑張ってくれたのだ。「社長、終わりました。完売です。ご安心ください、ウィーンはもう要りませんよ」。電話の声に驚き、ジーンときた。「凄いなあ、おまえら400億売ったのか」。部下がこんなに誇らしかったことはない。結局、ウィーンで僕のやったことはムジーク・フェラインでウィーン交響楽団を聴いただけだった。

ノムラドイツがエクイティ物で主幹事としてそんな金額を引き受けたなど聞いたこともないし誰も想像すらしたことがない。その10分の1も過去になかったし、大店のニューヨーク、香港ですら、聞いたことがない。ユーロドル(実質ロンドン)でも400億円は半端な金額ではない。これは日本企業のドイツマルク建て起債市場では記録に残るもので、掛値なく、僕はいきなり社長として大仕事をしたと思う。10数人の引受部、営業部に日本人のヘッドが3人いたがあとはドイツ人だ。日本人も営業はドイツ語でやる。現地に根を張ってやるにはそれしかない。だから、そこに英語しかできないナンバー2がのこのこ同伴しても邪魔なだけなので行かなかった。ということで、始めの1年間は何をしたわけでもない。しかし、知らぬまにドイツは一騎当千の精鋭部隊になっていたのだ。フランクフルトに帰還すると部長のプリーベ氏、そして✖だったシュテルター氏がやってきて「有難う。俺たちはこれをやるためにノムラに来たんだ」と、片言の英語で涙を流さんばかりに喜んでいる。彼らはドレスナーだったかドイツ大手銀行の市場部門のたたきあげで高卒の職人だ。嬉しかった。いざという時に頼りになるのは職人なのだ。物凄く大切なことを学んだ。

この大戦果は社内で話題になり、ドイツの収益を未曾有のレベルに押し上げた。全員が大いに気分がよく、関ケ原で勝った東軍みたいだった。もちろんボーナスをはずんだ。12月初めの土曜日にクリスマスパーティをやることにし、家族も呼んでくれというと180人が集まってホテルの大部屋ぎっしりになった。費用は4万マルク(250万円)もかかったがそんなのはどうでもよかった。ところがひとつだけ困ったことがある。社長スピーチだ。大将が敵国語(英語)をしゃべっては洒落にならない。社員はともかくゲストである奥さんやご主人が白けてしまうだろうと思ったのだ。そこでBAKの口頭試問でうまくやった丸暗記方式が役に立った。結果は上々で大喝采だ。決め手は締めのこの文句だった。「スピーチは短く、夜は長く(爆笑)。今日は存分に酔っ払いましょう」。本当に短かった。ボロが出ないうちに切り上げたからだ。

12月27日から家族でストラスブールに旅行し、2度目のバーデン・バーデンにも1泊して魔笛を聴いた。 街を散策していると画廊があり、大き目の一幅の油絵がウィンドーに飾ってあった。馬の絵である。女主人に聞くとロシアの画家ヴォロディンの作品というが知らない。僕の場合そういうことは問題ではない、絵を買うというのは「一生一緒に暮らしたいかどうか」だけで決まるのである。一見するなり大いに気になったが、家内が気乗りでない。買いたい、やめなさいになって、少し頭を冷やしましょうと道の反対側にあったコーヒーハウスで休憩することになった。窓越しに絵が見える席に座りじっと眺めていた。「馬のお尻が買って欲しいといってるよ」とつぶやくと「それなら仕方ないわね」ということになって、以来わが家の家宝になっている。アメリカではビッグマックも買えなかった東家の財政状態はいつの間にか好転していた。

その翌年1月、長男が誕生する。「男の子だってよ」とは東京で母から聞いていた。予定日が近づいていたが、その日はロンドンの社長から欧州経営会議への召集命令が下っていた。ニューヨークで投げろと召集された外村常務である。状況を話すと、わかった、ならば日帰りしろとなった。朝一番のヒースロー8時着で先に要件を済ませ、会議が終わったらすぐ帰る。半日ぐらい大丈夫だろうと思った。会議は錯綜し、面倒な案件を議論している最中のことだった。「生まれそうだ」とメモが入った。焦った。「ヒースローだと間に合わないよ」と近場のロンドン・シティ空港発を秘書が取ってくれたが、空港にすぐ着いたものの出発まではかなり時間があった。気が紛れないのでショップをぶらぶらしていたらCD売り場があり、アンセルメ / スイス・ロマンド管のベートーベン(左)をみつけた。ドイツ音楽だ。それも7番だ。これは縁だ、この曲は男の子の未来にぴったりだと思って買った。機中でずっと名前を考えた。意味も字画も良く、ドイツ的なイメージのものに決めた。フライトが何時だったかは覚えてない。とにかくロンドンはもう暗かった。生まれたのはちょうどフランクフルト空港に着陸したころだったことが後でわかった。どこの病院かも知らない。迎えの車に飛び乗る。疲れて頭がふらふらしたこと、病院の周囲は真っ暗だったこと、医師も看護師もドイツ語しか通じず何がどうなったかわからなかったこと、そして社員の皆さんが献身的に助けて下さって「母子とも健康です」と安心させてくれたことを覚えている。妻には勝手のわからない外国で3人も産んでもらい感謝するしかない。

(つづく)

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