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僕が聴いた名演奏家たち(ベルナルト・ハイティンク)

2021 NOV 5 14:14:56 pm by 東 賢太郎

ハイティンクが亡くなった。とうとうこの日が来てしまった。最後に彼をきいたのは1998年5月10日、ロンドンのバービカンホールでロンドン響を振ったマーラー巨人だった。終楽章コーダのアッチェレランドを伴った追い込みは誰からもきいたことのない物凄いもので、彼がこんな演奏をするのかと意外だったのが忘れられない。

ベルナルト・ハイティンク(1929 – 2021)は年齢でいうと我が母の1才下で、同じ時代を生きた指揮者のうちでもっとも敬愛する巨匠のひとりである。我が家の棚に数えきれないほどあるブラームスの交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番(アラウ)、チャイコフスキーの5番、シューマンの3番のレコードで、一番好きなのは彼がアムステルダム・コンセルトヘボウとフィリップスに残した録音だ。

の4枚は何度聴いても飽きることがない。これは物凄く大変なことなのだ。何も変わったことはないし、どこで何が起きるかも知り尽くしているのだが、時々、なぜか決まって欲しくなり、そのたびに裏切られることなく100%満足させてくれる。つまり僕にとって生活の必需品、いやいや人生の伴侶、であり、食事でいってみれば明太子茶漬けやスパゲッティ・ナポリタンのような存在なのである。

僕がクラシックにハマりだした1970年ごろ、彼は40代にさしかかるあたりである。評論家の目には若僧だったのだろう、「スコア通り」「平板」「無個性」の烙印が押されており、最も好意的な形容詞が「中庸」だった(なんだそれは?)。なぜかは不明だが、彼らのドグマティックな価値観は「魂のこもった」「劇的な」「深みのある」演奏に置かれていて、フルトヴェングラーやシゲティやブタペスト弦楽四重奏団などが絶賛されていた。

そういうものかと謙虚になって何度も聴いてみたが、どう妥協しようにもところどころ音が外れて下手だ。スコア通りって、それすら出来てないじゃないかと思った。しかし、そういう指摘は彼らのドグマにおいては「精神性」というメタフィジックなワードの出現によって伊賀の影丸の木の葉隠れみたいに霞の彼方に消されてしまいどこにも見当たらない。カラヤンは貶してフルトヴェングラーは讃える。政治みたいだな、おかみがカラスは白いといえば白い、大物がイカサマはやってませんといえばやってない、王様は誰が見ても裸なのにいえない。なんか日本的だなと高校生風情にして思っていた。

猫の鳴き声であれ田園交響曲であれ、音はフィジカルな現象だ。それをとらえた脳がどう反応するかというのが「精神」であるなら、精神性は彼らの脳が好ましいとしたものにだけ存在する何ものかであって、僕の脳に好ましくなければ存在しない。お化けはいるんだよと言われても、僕に見えなければいない相対的なものだ。同様に僕が好きなハイティンクが皆さんには退屈であってもしかたない。そんなことで人生変わるわけでもないから音楽は単なる一興でしかないわけで、食べ物や犬・猫の好みとおんなじ。クラシックだからかくあらねば、かく聞かねばなんてことはない。お薦めは徹底して自分の好き嫌いで判断することだ。そうすると好きなクラスター、嫌いなクラスターができる。その最大公約数を言語で他人に説明できれば、もう立派なクラシック通である。

フルトヴェングラーは別稿に書いたが、彼は聴衆を虜にする勘所をつかまえる一流の職人であって、持ち技がはまれば余人をもって代えがたい効果をあげる能力がある。作曲家の脳に降ってきた楽想の源にあった情動、心の微かな打ち震えのようなものを本能的に即興的に感知し、大衆に伝わるようエモーショナルな振幅をつけ、あたかもそれが楽曲のエッセンスであったかのように演じきることのできる天才である。スコア通りであることは皆無で、同じ曲でもTPOでテンポも表情も毎回変化する。その例がバイロイトの第九のコーダや48年盤のブラームス4番の第1楽章コーダでの、楽譜にない猛烈なアッチェレランドである。これにいったん心酔してしまえば、ハイティンクの如き「素材の良さ」で勝負する芸に飽き足らなさを覚えるのはもっともだろう。

それを良しとするかどうかは趣味の問題だが、同じ版画を別な色で何種類も擦って良しとするか、オリジナルの色しか許容しないかという問いに近いと僕は考えている。版画家が画家であるなら許容しないと思うし、もしするならば彼はデザイナーだと思う。「精神性」は作曲家をデザイナーに見立てる人だけが理解できるワードであり、僕とは100%人種が異なるようだ。その立場からすると、ハイティンクはフルトヴェングラーとは別世界のアーティストであり、何も足さず何も引かず、オリジナルの配色だけで作品の良さを十全に感知させてくれる。作曲家にもデザイナー型はおり、そちらではやや物足りないという評価もわからないではないが、その一人であるマーラーで冒頭のような演奏をしてのけた彼が晩年に辿り着いた境地をライブで確認できなかったのは残念だ。

最後と書いたが、実は、彼を聴いたのは二度きりしかない。あんなに長いことあちらにいたのに本拠地アムステルダムで聴けなかった事こそ最大の痛恨だ。もう一度は1983年、米国留学中の夏休み1か月を妻とヨーロッパ旅行をした時のことだ。

まずロンドンに飛び、エジンバラ観光してからホーバークラフトでアムスへ渡るが、幸いにロイヤル・アルバートホールで「プロムス」をやっていて、ハイティンク / コンセルトヘボウ管(モーツァルト交響曲第35番、ブルックナー同9番)のチケットが買えた。これが欧州での人生初めてのコンサートであり、震えるほどの感動を味わった。

アムスからベルギーの先輩の家に行って、ケルンからライン川をコブレンツまで船でさかのぼるが、そこで頭の中で聞こえていたシューマンの3番はずっとハイティンクだと思っていた。ところがよく考えると、そのCDはロンドンに赴任して買ったのだから違う。当時米国で聴いていたのはカセット(それしか売ってなかった)のセムコウ / セントルイス響だったからそれに違いないが、後の記憶ではそれがすり替わっていたのだ。それほど3番=ハイティンクという頭ができてしまった理由はわからない。その旅行で見聞したライン川のゆったりした流れや古城やローレライの印象が後にマッチしたのだと思われる。

9年後にそこに住むことになろうとは誰が想像できただろう。ケーニッヒシュタインの家でまずかけようと思ったのはハイティンクの3番だ。石造りの居間に響いたのまぎれもなく、あの音だ。

 

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