三島の「憂国」と「トリスタン」の関係
2024 JUL 28 0:00:50 am by 東 賢太郎

次女が来たので寿司でも行くかと玉川高島屋に寄った。高校に上がった時にこのデパートができてね、田舎の河原で玉電の操車場だったこのあたりが一気に開けてニコタマになったんだ。鶴川からおばあちゃん運転の車で家族で食事に来てね、おじいちゃんに入学祝いに買ってもらったのがあのギターなんだよ。しっかりした楽器でね、今でもいい音が鳴るだろ。
こういうことはつとめて言っておかないと消えてしまう懸念がある。寿司屋の階にロイズという英国のアンティーク店があり、帰りにふらっと入ってみる。イタリアのランプや書棚など、あれとあれね、いくつかここで衝動買いしてるだろ、でも基本はお父さんはアメリカのドレクセル・ヘリテイジ派なんだ、書斎の革張りの両袖デスクもランプも、どっしりしたの20年も使ってるでしょ。
そう言いながらこのアメリカとイタリアにまたがる根本的に矛盾したテーストが何かというと、生来のものなのか、16年の西洋暮らしの結果なのかはとんと区別がつかなくなっている自分に気づくのである。実際、自覚した答えには今もって至っていないが、おそらく生まれつき両方があり、本来は別々のものだが、長い人生であれこれ見ているうちに互いの対立が解けてこうなったのだろうと想像は及ぶ。それを静的な融合と見るか動的な発展と見るか、はたまたそんなものは言葉の遊びでどっちでもいいじゃないかと思考を停止してしまうかだが、それだとドイツ人の哲学は永遠にわからない。となるとベートーベンの音楽の感動がどこからやってくるかもわからないのである。
さように自分が何かと考えると、三島由紀夫の「詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」を思い出す。この言葉は啓示的だ。そのいずれによっても告白する能力がない僕の場合、告白が表せるのは批評(critic)においてだ。その技巧ではなく精神を言っているが、これは自分を自分たらしめた最も根源的な力であろう。しかも、最も辛辣な批評の対象は常に自分であって情け容赦ないから、学業も運動も趣味も独学(self-teaching)が最も効率的だったのだ。しかしteacherである自分が元来アメリカ派なのかイタリア派なのか迷うといけない。そのteacherを劣悪であると批評する自分が現れるからだ。だから、僕においては、言葉の遊びでどっちでもいいじゃないかと思考を停止することはあり得ず、やむなく弁証法的な人間として生きてくる面倒な羽目に陥っており、そのかわりそれは動的な発展であり進化であると無理やり思っているふしがある。
詩が一番。これは賛同する。40年近く前になるが、高台の上に聳えるアテネのパルテノン神殿に初めて登って、太いエンタシスの柱廊の間をぬって8月の強い陽ざしを浴びた刹那、西脇順三郎が昭和8年に発表したシュルレアリスム詩集「Ambarvalia」冒頭の著名な「天気」という詩、
(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。
がまったく不意に電気のように脳裏を走ったのを思い出す。高校の教科書にあったこれが好きだった。覆された宝石はジョン・キーツの「like an upturn’d gem」からとったと西脇が認めているらしく、それでも()で括ってぎゅっと閉じた空間の鮮烈は眼に焼きつく。ひっくり返された宝石箱、誰かも何語かも知れぬ言葉のざわめき、色と光と音の渾沌と無秩序が「それは神の生誕の日」の句によって “なにやら聖なるもの” に瞬時に一変する万華鏡の如し。回して覗くとオブジェがぴたりと静止し、あたかも何万年も前からそういう造形美が絶対の権威をもってこの世に普遍的に存在していたではないかの如くふるまう、それを言語で成し遂げているのは見事でしかない。神といいながら宗教の陰はまるでない(少なくとも高校時代にはそう読んだ)。それは無宗教とされて誰からも異存の出ない日本という風土の中でのふわふわした神なのだが、キリスト教徒やイスラム教徒はそうは読まないだろう。それでいいのだ、彼らは日本語でこの詩を読まないから。
作者はこれを「ギリシヤ的抒情詩」と呼んだが、確かにアテネのちょっと埃っぽい乾いた空気に似つかわしいのだが、僕にはすぐれて叙事的に思える。であるゆえに、この詩の創造過程に万が一にも多少の噓の要素があったとしても、できあがって独り歩きを始めた詩に噓はないと確信できるのだ。
フルトヴェングラーは語る。バッハは単一主題の作曲家である。悲劇的な主題を創造したがそれは叙事的であり、曲中でシェークスピアの人物の如く変化する主題を初めて使ったのはハイドン、進化させたのはベートーベンとしている(「音楽を語る」52頁)。そこでは二つの主題が互いに感じあい、啓発しあって二項対立の弁証法的発展を遂げ、曲はそうした “部分” から “全体” が形成される。これはドラマティックな方法ではあるが、ドラマ(悲劇)による悲惨な結末がもたらす、即ちアリストテレスのいう「悲劇的浄化」ほどの効果は純音楽からは得られないから悲劇的結末を持つ「トリスタン」「神々の黄昏」のような音楽作品は “楽劇” である必要があると説くのである。
これは音楽は言葉に従属すべきでないと述べたモーツァルトの思想とは正反対であって、長らく彼を至高の存在として信奉してきた僕には些かショッキングな言説であった。だが矛盾はないのだ。なぜならワーグナーの楽劇という思想は彼でなくベートーベンから生まれたからである。単一主題の作曲家といってもバッハの曲ではあらゆる発展の可能性が主題自身に含まれており、フーガの場合のように対旋律を置いているときでさえもすべてが同じ広がりの流れで示され、断固とした徹底さをもって予定された道を進んでいく。ベートーベンにそれはなく、複数ある主題の対立と融合とから初めて曲が発展している、そして、そのように作られた第九交響曲の音楽にふさわしいシラーの詩を後から見つけてきたことで、モーツァルトから遊離もないのである。
明治25年生まれの芥川龍之介はクラシックのレコードを所有しており、それで幼時からストラヴィンスキーの火の鳥やペトルーシュカを聴いて育った三男の也寸志は作曲家になった。三島由紀夫は三代続けて東大法学部という家系でみな役人になったのだから文学者にあまり似つかわしくはない。彼はニューヨーク滞在歴はあるが留学はしておらず、にもかかわらず、録音が残るその英語は非常に達者だ。内外に関わらず言語というものに精通し、図抜けて回転が速く記憶力に秀でた知性の人が、自己の論理回路に子細な神経を通わせてこそ到達できるレベルだ。音楽については「触れてくる芸術」として嫌い、音楽愛好家はマゾヒストであるとまで言ったのでどこまで精通したのかは不明だがそうであって不思議はなく、少なくともトリスタンは愛好したとされている。
なぜだろう。トリスタンとイゾルデは運命においては敵同士という二項対立であり、それが媚薬で惹かれあって生々流転の宿命をたどり、最後は二人ともに死を迎える。ドラマとしてはロメオとジュリエット同様に紛れもない悲劇なのだが、音楽がカルメンやボエームのように短調の悲痛な響きによってこれは悲劇だと告知することは一切ない。それどころか、先に逝ったトリスタンの傍らでイゾルデは長調である「愛の死(Isoldes Libestot)」を朗々と歌い上げ、至高の喜び!(hoechste Lust!)の言葉で全曲を感動的に締めくり、トリスタンに重なるように倒れ、息を引き取るのである。すなわち、生と死という二項対立が愛(Liebe)によって「悲劇的浄化」を遂げ、苦痛が喜びに変容し、二人は永遠の合一を許されたのである。
永遠の合一。この楽劇の揺るぎないテーマはそれである。歌劇場で客席について息をひそめるや、暗闇からうっすらと漏れきこえる前奏曲(Vorspiel)は、まさに艶めかしい ”濡れ場” の描写だ。それはこの楽劇が叙情的(lyrical)なお伽噺ではなく、すぐれて叙事的(narrative)であり、それまでの歌劇のいかなる観念にも属さぬという断固たる宣誓だ。演劇でいうならシラーを唯物論化したブレヒトを予見するものであり、映画なら冒頭の濡れ場が「愛の死」のクライマックスで聴衆の意識下でフラッシュバック (flashback) する現代性すら暗示する。その写実性が作曲時に進行中だったマティルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫に由来するのは言うまでもないが、それを写実にできぬ抑圧から、既存の音楽のいかなる観念にも属さぬ「解決しない和声」という、これまた現代性を纏わせた。
これがヒントになったかどうか、定かなことは知らぬが、三島が二・二六事件を舞台に書いた「憂国」の青年将校武山信二と麗子はトリスタンとイゾルデであり、その含意は「潮騒」の久保新治と宮田初江いう無垢な男女がダフニスとクロエである寓意とは様相が大いに異なる。自身が監督、信二役で映画化した「憂国」はむしろ乃木希典将軍夫妻を思わせるのだが、将軍は明治天皇を追っての殉死、信二夫妻は賊軍にされた友への忠義の自決であり、今の世では不条理に感じるのはどちらも妻が後を追ったことだ。庶民はともかく国を背負う軍人にとって殉死も忠義も夫婦一体が道理の時代だったのだが、それにしても気の毒と思う。まして西洋人女性のイゾルデにそれはあるはずもなかったのに、やはり後を追っている。こちらは殉死でも忠義でもなく「愛」の死が彼女を動かした道理だったのであり、それがトリスタンが苦痛のない顔をして逝ったわけであり、二人が永遠の合一という至高の喜びへ至るプロセスだというドラマなのだ。「潮騒」にもダフニスとクロエにも命をも賭す道理というものはないが、憂国とトリスタンには彼我の差はあれど道理の支配という共通項は認められるのである。
三島は団藤重光教授による刑事訴訟法講義の「徹底した論理の進行」に魅惑されたという。わかる気がする。その文体は一見きらびやかで豊穣に見え、英語と同様に非常にうまいと思うわけだが、根っこに無駄と卑俗を嫌悪する東大法学部生っぽいものを感じる。あの学校の古色蒼然たる法文1号館25番教室は当時も今も同じであり、彼はどうしても等身大の平岡公威(きみたけ)氏と思ってしまう。虚弱でいじめられ、運動は苦手で兵役審査も並以下であり、強いコンプレックスのあった肉体を鍛錬で改造し、あらまほしき屈強の「三島由紀夫」という人物を演じた役者だったのではないかと。彼は蓋しイゾルデよりもっと死ぬ必要はなかったが、名優たりえぬ限界を悟ったことへの切々たる自己批評(critic)精神とノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を原動力とした自負心から、彼だけにとっての道理があったのではないか。そこで渾身の筆で自ら書き下ろした三島由紀夫主演の台本。その最後のページに至って、もはや愛と死は肉体から遊離して快楽も恐怖もなく客体化されており、そこにはただ「切腹」という文字だけが書いてあったのではないかと思えてならない。
もし彼が生きていたら、腐臭漂うと描写してすら陳腐に陥るほど劣化すさまじい、とてつもない場末で上映されている西部劇にも悖る安手の “劇場” と化した現在の暗憺たる世界の様相をどう描いたのだろう。間違いなく何者かの策略で撃ち殺され亡き者になっていたはずのドナルド・トランプ氏が、何の手違いか奇跡のごとく魔の手を逃れ、あれは神のご加護だったのだとされる。そうであって一向に構わないが、西脇順三郎が描いた、あたかも何万年も前からそういう造形美が絶対の権威をもってこの世に普遍的に存在していたと思わせてくれるような神の光臨、それを目のあたりにする奇跡というものを描けて賛美された時代はもう戻ってきそうもない。
いま地球は一神教であるグローバル教によって空が赤く、血の色に染め上げられている。それが昔ながらのブルーだと嘘の布教をする腐敗したメディアが巧妙にヴィジュアルに訴求する画像を撒き散らし、世界のテレビ受像機、スマホ、パソコンの類いを日々覗いている何十億人の者たちはその洗脳戦略によって空はいまだ青いと信じさせられており、その残像に脳を支配されている。誰かが耐えきれず「空は赤いぞ」と言えば「王様の耳はロバの耳」になってその者がyoutube等のオンラインメディアで私的に主催する番組が強制的にバン(閉鎖)されたりするのである。これが顕在化した契機は2020年のアメリカ大統領選におけるトランプ候補の言論封殺であった。政治とメディアがグルになった超法規的な言論統制が公然と行われたことからも、あの選挙がいかに操作されたものだったかが類推されよう。オンラインでの商売をするGAFAが必然とする越境ビジネスで各国の税務当局と徴税権を争った訴訟を想起されたい。これはB29が高射砲の届かぬ高度での飛行能力を得ることで安全に楽々と原爆を投下できたようなものだ。グローバル教の本質は各国の刑法も刑事訴訟法も裁けぬ強姦である。AIが越境洗脳の基幹ツールであり、生成AI半導体を牛耳るエヌビディアがあっという間に3兆ドルと世界一の株式時価総額(日本のGDPの8割)に躍り出たのはそのためだ。団藤重光教授の刑事訴訟法講義に啓発された三島はこれをどう評しただろう。かような指摘が陰謀論でなく確たる事実であると語れるのは、僕がグローバル教の総本山のひとつである米国のビジネススクールで骨の髄まで教育されているからなのだ。だから、経済的なことばかりを言えば、僕はフィラデルフィア、ニューヨークに根を張るその流派の思想に何の違和感もなく唱和、融和でき、現にそれが運用益をあげるという現世享楽的なエピキュリアンな結末を長らく享受している。日本の運命は商売には関係なく、独語でいい言葉があるがザッハリヒ(sachlich、事務的、即物的)に行動すれば食うのに何も困らない。
しかし僕は金もうけのためにこの世に生を受けた人間ではない。そこで「生来のものなのか、16年の西洋暮らしの結果なのかはとんと区別がつかなくなっている自分」という冒頭に提示した批評が内でむくむくと頭をもたげるのだ。渋沢栄一と袂を分かって伊藤ら長州のクーデターに組した先祖、天皇を奉じて陸軍で国を護ろうとした先祖、誰かは知らぬが京都の公卿だった先祖、そうした自分に脈々と流れる血は畢竟だれも争えないものなのであり、家康につながる父方祖母の濃い影響下で幼時をすごした三島の意識下の精神と共鳴はありそうにないと感じる。断固たる反一神教なら徳川時代の鎖国に戻るしかなく、むしろ国を滅ぼす。外務省がやってるふりを装おう賢明な妥協を探る努力は解がないのだから永遠に成就しない「アキレスと亀」であって、いっぽうで、学問習得の履歴からして賢明ですらない現在の政治家がグローバル教の手先になって進める世界同質化は国の滅亡を加速する。異質を堂々と宣言して共存による存在価値を世界に認めてもらうのが唯一の道であり、それを進めるベースは直接にせよ間接にせよ核保有しかない。非核三原則修正で米国の原潜を買うか、少なくとも借りれば必要条件は満たすからトランプとディールに持ち込むべきであり、9月の自民党総裁選はその交渉能力と腹のある人が選ばれないと国の存亡に関わる。くだらない政局でポストを回すなら紛れもない国賊としてまず自民党が潰されるべきである。
これまで何度も、メディアが撒き散す画像が虚偽であり、その戦略の源泉は共産主義に発し、ロシア革命を成功させたがソ連という国を滅ぼし、ギー・ドゥボールが卓越した著書「スペクタクルの社会」に活写したそれそのものであり、米国大統領、日本国首相は紙人形より軽いパペットでよく、むしろ神輿は軽めが好都合でさえあることを書いてきた。バイデンが賞味期限切れだ。「あたしがクビならうちのカミさんでいかがですか」とコロンボ刑事ならジョークを飛ばしそうだが、まじめな顔で “劇場” がバイデン夫人、オバマ夫人が民主党候補と世界に流すともっともらしいスペクタクルに化ける。そうなったかどうかではなく、それを現象として観察すべきなのだ。東京都知事ごときはうちのカミさんどころか “ゆるキャラ” でよく、すでにメディアの祭り上げで知名度だけはポケモン並みである小池氏においては、教養と知性の欠如が露見してしまう選挙期間中の露出や討論など有害無益と判断されたのだろう。いや、ひょっとすると、ワタクシ小池百合子は一神教の教祖様と市区町村長に強く請われて出馬してるんです、あんたら賤民の支持率なんて岸田さんと一緒で0%でよござんす、それより妙なことをおっしゃると「王様の耳はロバの耳」で厳罰に処されますわよ、青い空を赤と言ったりできないのが日本の常識ですわよね2年前の7月8日からオホホ、という新演出のスペクタクルを都民は見せられたやもしれぬ。うむむ、なんという奇っ怪、面妖な。
欧州各国では葦が「王様の耳はロバの耳」とつぶやき出して政権のバランスが激変してきている。イランでは王様が嫌がる政権が誕生した。トランプになれば・・・そう願うが敵もさるものだ。何といっても、4年前、僕も目撃した歴史的放送事故があった。テレビだったかオンライン番組だったか、バイデンが「我々は過去に類のない大規模な投票偽装の仕組みを既に用意している!」と力こぶをこめ、当選に自信のほどをぶちあげてしまったのだ。TPOを誤解してたんだね、気の毒だねと認知症が全米にバレた。そのバイデンを本当に当選させてしまった奇術師の如き連中だ、今回はどんな出し物が登場するか知れたものではない。そうなればなったで一市民は無力である。株も為替も動くから僕は経済的なことに徹してポジションを最適化するだけだ。「王様の耳はロバの耳」。日本の多くの葦たちが唱和するしか日本を救う道はない。かっぱらいと万引きと、どっちが罪が軽いですかというお笑いイベントになってしまった都知事選、本来なら投票率は激減だったはずがアップさせた石丸氏の健闘は一服の清涼剤ではあった(僕も投票した)。
「トリスタンとイゾルデ」に戻ろう。この音楽については既稿に譲るが、ここでは「憂国」に即して前奏曲と愛の死につき、これがセクシャルな観点で女性には申し分けないが想像を逞しくしてもらうしかないものであることにもう一度触れよう。ブラームスやブルックナーのような奥手な男にこういう皮膚感覚とマグマに満ちた音楽は書けないのである。ワーグナーはイケメンでもマッチョでもないが女性にもてた、これがなぜか、これは逆に男には不明だが、くどいほど雄弁で押しが強い大変なフェロモンのある男だったのだろう。
前奏曲のピアノ・リダクションで、音量が1小節目の ff から2小節目のmeno f(あまり強くなく)にふっと落ち、第1,2ヴァイオリンの波打つような上昇音型が交差する部分だ。ここで官能のスイッチが切り替わる。そして徐々に、延々と、フィニッシュの極点(ff)に向けて激していく。
ここの曲想の質的な変化に非常に官能的に反応しているのがカラヤン/BPOだ。こういう感覚的な読みができるのがこの人の強みで、人気は決して伊達ではない。それを5年前にはこんな婉曲な方法で書いた自分もまだまだであった。
menofでホルン(f)をやや抑えて、弦の音色を柔らかく変化させ絶妙の味を醸し出しているのが7か月後に世を去ることになるフルトヴェングラー/BPOの1954年4月27日のDG盤(前奏曲と愛の死)だ。この部分から身も世もないほど激して一直線に昇りつめるのではなく(それは楽譜から明らかに誤りだ)、潮の満ち干のごとく押しては引き、内側から渦を巻いてぐんぐん熱を帯び、秘められた論理構造に添って目くるめく高みに労せずして達していくという大人の音楽が聴ける。コンサートのライブであり愛の死に歌がないのが残念だが、頂点に至っての命がけのテンポ伸縮を聴けばそんな不満は吹っ飛んでしまう。もうフルトヴェングラーの秘芸とでも形容するしか言葉が見つからないトレジャーだ。
クナッパーツブッシュ盤はウィーン・フィルとの王道の横綱相撲で、黄泉の国から立ち上がるようにひっそり始まる曲頭のチェロの a音などぞくぞくものだ。ただ楽譜2小節目のmenofはほぼ無視で音色も変えず、ひたすらぐいぐい高揚してしまうのは大いに欲求不満に陥る。しかしこの演奏、愛の死に至ると様相は一変するからここに書かざるを得ない。一世を風靡したビルギット・二ルソンは贅沢な御託を垂れれば立派すぎて死の暗示に幾分欠ける(その点はライブで聴いたレナータ・スコットとヒルデガルト・ベーレンスが忘れられない)。だが、ないものねだりはよそう。圧倒的な歌唱はもう泣く子も黙るしかなく、指揮と歌が一体となって頂点に血を吹いたように燃えるこれを聴かずしてワーグナーを語らないでくれ、こんな成仏ができるなら「悲劇的浄化」もなにもいらない。音楽は麻薬だ。トリスタンとイゾルデは彼の芸術の最高峰であり、全曲完成後に「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだワーグナーも、これを聴いて自分の中に棲む魔物に気づいたんじゃないか。三島がそれを見てしまった演奏は誰のだったんだろう?
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
Categories:______J.S.バッハ, ______ベートーベン, ______モーツァルト, ______ワーグナー, ______文学書, ______音楽書, 政治に思うこと, 若者に教えたいこと

One comment so far | Leave your own comment
東 賢太郎
7/29/2024 | 10:44 PM Permalink
本稿は7月26日に書き始め28日0時すぎに脱稿した。切腹・斬首した三島由紀夫をテーマに「いま地球は一神教であるグローバル教によって空が赤く、血の色に染め上げられている」と渾身の怒りをこめて書いたわけで、リキのはいりようという意味で本稿は僕のかつて書いたブログの最高峰と思う。そうしたら、翌日になって、台所で猫と遊んでいた次女が「お父さん、マリー・アントワネットの生首でてきたね、流血みたいな煙やテープで空が赤くなったし、あれグロ過ぎだよね」という。「えっ、なんだっけそれ?」と、知らんもんは知らんのでそう答えたら不思議な顔をされた。27日のパリ五輪開会式の話だった。そもそも僕はテレビ見ないし、五輪なんてものは一昨年の醜怪な舞台裏を見てもう関心など微塵もないからそんなものは知る由もない。次女が先んじてブログを読んでいたわけでもない。世の中いろいろ不思議なことがある。