夏が来れば思い出す はるかで遠い高校野球
2024 AUG 6 23:23:17 pm by 東 賢太郎
週末にマッサージに行こうと外へ出たら太陽がとても熱い。真夏の香港のゴルフ場にもそれはあった。ティーグラウンドで頭がぼーっとして、空を見上げるといつもそれがあった。そういえば、先週に来社してくれたシンガポール在住のS氏が、「暑いですね、早く帰りたいです」と笑っていた。
その日も、「熱中症、危ないからね、ちゃんと水のむのよ」と家族が心配顔で送り出してくれる。それってなに、病気なの?そんなの昔なかったぞ、デング熱と同じぐらい縁がないなと思ってしまい、「俺、高校球児なんで」と毎度毎度の答えをする。もうトシなんだからねと返されるが、ぜんぜんトシな体感もない。これ、一度も死んでないから死なないと言ってるのだが。
そのたびに、自分の深層心理に突き刺さった棘はそれなんだと悟る。だからこの時期になると、性懲りもなく高校野球のブログになる。たいした戦績もないのに何故かというと、いきなり直球とカーブだけの “草野球のまんま” で通用したからだ。おっかない3年生に夏合宿で自己流が認められた。なんだ、たいしたことないな。以来、すべて独学自己流でやっていくきっかけになったし、大げさにいうなら自我の確立になったとは思うが、実は井の中の蛙で天狗になっていただけだった。
有頂天もつかの間、強豪には通用せず、無理がたたって高2で故障して投手を断念。野球はやむなく10年ご無沙汰となり、27才のときに会社で呼び出されて出たニューヨークの大会でMVPになった。でも高1の自分がそこにいたらMVPは持っていかれた、だってはるかに球は速かったんだから。そんな高1が天狗になったのは仕方ないが、1年であっという間に元の木阿弥だ。こんなみじめな不成功体験を弱冠16才で味わった人はそう多くないだろう。
1年生でエースというのは2年生以上ということで、飛び級なのだ。そんな才能は他には微塵もない。もし勉強で1番になれば、1年でいくら落ちても10番ぐらいだろう。ほかのスポーツだって習い事だって、物事はそう急激にうまくなったり下手になったりということがない。それが激痛で数メートルも投げられず、瞬時にビリになってしまった。鍼や電気治療でも回復しなかった。やむなく痛くない投げ方を見つけたが、何をしても球速は二度と戻らなかった。
そうするうち、恐れていた日がやってきた。背番号1は新エースのN君に渡された。僕は大降格の14である。2番手投手は10だがそれは意味がある。新人で1をもらったとき、それをユニホームの背中に縫いながら母親が喜んだのを思いだした。見せるのが嫌で帰宅がずいぶん遅くなって心配された。それを差し出して「カープの外木場投手の背番号だ」と強がったものだが、母は何も言わず縫ってくれた。14は二桁ならどれでもいいよと言われ自分で選んだのだった。
控え投手として投球練習はしていたが、先発は常にエースだ。嫌な記憶として消されたのだろうかあまり登板した覚えがない。かすかに残っているのは、センターからノーバンのストライクで二塁走者をホームで刺したのと、ライトを守っていてエースが不調であり、監督が肩を温めろとベンチ前でぐるぐる腕を回してリリーフに立たされたぐらいであり、その結果も相手校も忘れてる。快速球左腕に2安打完封された聖学院戦では代打でセンターオーバーの3塁打も打ったが、甲子園常連組の日大一高戦の代打では一ゴロ併殺打だった。
年が明けてだから3月あたりだったか、1年ぶりに長くマウンドに立つ試合があった。墨田工業戦だ。エースが乱調でいきなり3点取られ、1回無死満塁を残したところでリリーフのお呼びがかかった。冬に走りこんで復調の兆しはあり、ピンチは切り抜けて9回までゼロに封じたが、ついに相手がベンチ前で円陣を組み、監督の「いいか、あのピッチャー、コントロールいいからな云々」が聞こえた。確かにこの試合、新企画のセットポジションで投げ、外角低めがビタビタ決まりあまり打たれなかったが、こっちが審判を出しており外角はちょっと甘めだった気がしたから実力かどうかはわからなかった。
ということで試合はそのまんま何も起きずに3-0で負けたが、投手は投手の世界があってとても満足していた。試合終了後に水道で頭を冷やしていると相手チームがナイスピッチングと声をかけてくれた。彼らは打席で僕の球を見ている。物凄く嬉しかった。これがあって数日、何を考え何がどうだったかはすっかり忘れているが、僕はその後の人生にまで影響する重大な決断を下していた。部室で全員の前で「野球部を辞める」と宣言したのだ。東大に入りたいから勉強すると理由を述べたから誰も声はなかったが、1年下のH君だけが墨田工業戦は実質は完封だったという理由で反対した。いまもありがとうと思っている。有終の美にしたかったわけではないが、1年ぶりの好投だったあの試合がなければ高校野球とお別れするふんぎりがついたかどうかわからない。
二度あることは三度あるだ。ニューヨークでまたあった。軟式だが元プロや六大学もいる45チーム参加のトーナメントで全試合投げて準決勝まで行った。3位決定戦で元巨人、早実が主力のチームに完投し4-2で負けたが記録を見ると被安打2だった。3球勝負で早実の4番が見逃した球は米国人の主審が派手なストライクコールをくれ、打者が即ベンチに向かう人生最高の外角低めストレートだった。ああ終わったなとネット裏でひとりぼーっとしていたら、優勝チームの捕手の方がこられ「あの試合(準決勝)、肩痛かったよね?」ときかれ「ああ、はい」とうなづくと、「今日の出来だったらウチも危なかったよ」とだけ言ってたち去られ、涙が出るほど感動した。人生最後のマウンドだった。これができたのも、硬式野球最後の試合の残像が最高だったから自信が残っていたと思っている。みんなに迷惑をかけたが恩返しになったろうか。
墨田工業は今の校名は墨田工科高校だが、あれ以来、毎年夏は気にしている。するとどうだ、今年の東東京大会2回戦でなんと母校・九段中等と対戦になり、127校あるうちでの顔合わせには因縁を感じてしまった。惜しくも7-6で母校は敗退し、墨田工科も3回戦で日体大荏原に8-0で負けた。荏原は淑徳に3-1で負け、淑徳は帝京に10-0で負け、帝京は東京に13-3で勝ったが決勝で関東一に8-5で負けた。そしていよいよ明日から甲子園大会だが、その関東一は友人のご子息がセカンドを守る北陸高校と12日の第4試合で対戦が決まった。これも奇縁だ。
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